その背中が抱えるもの
それからライナーは、アウレリアの護衛として日々彼女に付き添っていた。
剣技学科と貴族院学科――所属は異なるが、授業の合間や移動の時間には、二人きりになる時には必ず共にいた。
昼下がりの回廊。
陽光が差し込む石畳の上を、アウレリアは軽やかに歩いていた。
その一歩後ろを、ライナーが静かに付き従う。
フィリシアは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
「王女様、午後の講義は貴族法でしたか?」
「ええ。周囲の視線が面白かったわ。皆、私のことをどう扱えばいいか分からないみたい」
「……当然です。王女様は特別な存在ですから」
「でも、あなたといると何だか落ち着くわ」
ライナーは一瞬、アウレリアの方を見たが、すぐに歩調を戻した。
その横顔には、任務に徹する冷静さが宿っていた。
「俺は護衛です。王女様にとって、最も安全な距離を保つのが務めです」
「ふふ、真面目ね。でも、そういうところが嫌いじゃないわ」
ライナーがアウレリアといる時の口調も、表情も、視線も――彼女に向けられていたものとは違っていた。
その姿は、フィリシアの記憶にある“ライナー”とは、まるで別人のようだった。
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ある日の昼休み、フィリシアは中庭の片隅でライナーを見つけた。
アウレリアの姿はなく、珍しく一人だった。
フィリシアは、少し迷ってから声をかけた。
「ねぇ……あなた、これからずっと王女様のところにいるの?」
ライナーは、目も合わせずに短く答えた。
「ああ」
その素っ気なさに、フィリシアの胸がちくりと痛んだ。
言葉を選びながら、彼女は続ける。
「……そう。王女様に変な言葉遣いしたら、ダメよ」
ライナーは、少しだけ眉を動かして言った。
「そんなことするわけないだろ。王女だぞ。お前じゃないんだから」
その一言に、フィリシアの顔がむっと強張った。
「なによそれ……あんた、私だったらいいとか思ってるんじゃないでしょうね」
ライナーは肩をすくめ、やれやれとした顔で答えた。
「さぁな」
そして、少しだけ口調を和らげて続けた。
「まあ俺的には、相手が女性ってのもあってやりづらいことはあるけど。学科は違うから、そんなずっといるわけじゃないしな」
フィリシアは、彼の言葉の裏を探るように見つめた。
でも、ライナーの表情はいつも通りで、何も読み取れなかった。
「……そうね。まあ、頑張って」
そう言った自分の声が、少しだけ震えていたことに、フィリシア自身も気づいていた。
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それからフィリシアは一人で庭にて本を読んでいた。
フィリシアの脳裏に、ふとした拍子で蘇る言葉がある。
「フィリシアさんって、ライナーさんのこと好きなの?」
アウレリアが微笑みながらそう言った時、フィリシアは思わず言葉に詰まった。
すぐに首を振って否定した。そんなわけない。あんな男、好きになるはずがない。
すると、アウレリアは「良かった」と言って、また微笑んだ。
その笑顔が、なぜか胸の奥に引っかかっていた。
「……もしかして、アウレリア様はライナーのことを……?」
そんな考えがよぎった瞬間、フィリシアは自分でも驚くほど強く首を振った。
「いやいやいや! あんな乱暴で、プライドばかり高くて、話すだけでイライラする奴……!」
心の中で叫ぶように否定する。
けれど、否定すればするほど、胸の奥がざわつく。
その時だった。
風に乗って、誰かの声が聞こえた気がした。
フィリシアは反射的に顔を上げる。
視線の先――木陰。
柔らかな光の中に、二人の姿があった。
アウレリア。
ライナー。
「わあ~こんなところあったのね、綺麗だわ」
アウレリアの声が、木漏れ日の中に柔らかく響いた。
ライナーは、フィリシアが見たことのない表情で微笑んだ。
その顔は、どこか穏やかで、紳士的で――まるで別人のようだった。
「ここは森の近くにあるから、鳥の鳴き声や自然の音も聞こえて心地が良いんですよ」
「たしかにそうね!」
二人の笑顔が並ぶ。
その光景に、フィリシアは言葉を失った。
十年以上、共に過ごしてきた。
けれど、あんな顔は一度も見たことがない。
ライナーは、アウレリアに向かって言った。
「王女様、どうぞおかけになってください」
「ええ」
アウレリアがベンチに腰を下ろそうとした、その瞬間――
「きゃっ!」
足をつまずき、バランスを崩す。
フィリシアの心臓が跳ねた。
「アウレリア様!」
ライナーがとっさに動いた。
その腕に、アウレリアの身体がぽすっと収まる。
フィリシアの目が見開かれる。
息が止まった。
「…ごめんなさいライナーさん」
「いえ、俺は大丈夫です。アウレリア様はお怪我はないですか?」
「ええ、私も平気よ」
「そうですか。良かった」
ライナーは、ふっと笑った。
「王女様に何かあったら、只事ではありません。俺がちゃんと、守らないと」
その言葉が、フィリシアの胸に突き刺さった。
何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
ただ、拳を握りしめて、その場を離れた。
背中越しに、二人の笑い声が聞こえた。
その音が、妙に遠く感じられた。
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「ライナーがあんな顔……アウレリア様にだけ見せるなんて……」
震える声が、誰にも届かない空気の中に溶けていった。
フィリシアは立ち止まり、胸の奥に湧き上がる感情に気づく。
その瞬間、はっとして目を見開いた。
(何考えてるのよ私!ライナーは私の婚約者でも恋人でも何でもないじゃない!ただの幼馴染よ!)
自分に言い聞かせるように、心の中で叫ぶ。
言葉にすれば、気持ちが消えてくれる気がした。
(それに……私達はずっと争ってきた身じゃない……!ライナーが誰を好きになろうが、だから何ですか!)
足音を響かせながら、フィリシアはスタスタと歩く。
けれど、数歩の後、ぴたりと足を止めた。
(でも……辛い……心が痛い)
胸の奥が、じんと熱い。
どうしてこんなにも苦しいのか、わからなかった。
やっと打ち解けられたと思った人を、取られたように感じたから?
良きライバルを、誰かに奪われたように思ったから?
フィリシアは、自分の感情に問いかける。
けれど、答えは出てこなかった。
ただ、片手でもう片方の上腕を掴み、ぎゅっと握る。
その力だけが、彼女の揺れる心を支えていた。
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その時だった。
「フィリシア?」
誰かの声が、静かな空気を割った。
フィリシアは反射的に顔を上げる。
声の主は――ルシアンだった。
「どこ行こうとしてたの?」
優しい声。
けれど、フィリシアの足は止まったままだった。
「ルシアン様……」
弱々しい声が、唇からこぼれた。
「……何かあったかな?」
「いえ……何も」
俯いたまま、フィリシアは静かに答える。
その声には、隠しきれない揺れがあった。
ルシアンはゆっくりと歩み寄る。
そして、柔らかく言った。
「嘘だよ。フィリシアが今落ち込んでるのが、すぐに分かる」
その言葉に、フィリシアは目を伏せたまま、何も返せなかった。
ルシアンは彼女の顔を覗き込むように視線を向ける。
その時、風が吹いた。
フィリシアの髪がふわりと舞い、頬にかかる。
「フィリシア、髪が」
ルシアンはそっと手を伸ばし、彼女の顔にかかった髪を指先で払った。
その仕草は、驚くほど丁寧で、優しかった。
フィリシアは、ただ目を見開いていた。
何も言えず、何も動けず――けれど、心の奥で何かが静かに揺れていた。
「ルシアン様……ふふっ、こんな顔、ルシアン様に見せるなんて、私ったら」
フィリシアは、少しだけ笑ってみせた。
けれど、その笑みはどこか力なく、揺れていた。
ルシアンは目を丸くした。
彼女のそんな表情を見るのは、初めてだった。
「ちょっと私、体調が悪いらしくて……ごめんなさい、治癒室に行ってきますね」
「フィリシア、大丈夫?」
心配そうな声が、静かに響いた。
けれど、フィリシアはその言葉に、明るい声で返した。
「ええ! 大丈夫ですわ。それでは、また」
そう言って、足早にその場を離れていく。
スカートの裾が揺れ、髪が風に流れる。
ルシアンは、その背中をじっと見つめていた。
真っすぐな瞳で、何も言わずに。
彼女の笑顔が、ほんの少しだけ痛々しく見えたのは――気のせいではなかった。




