第9話:それでも、僕は君の名前を呼ぶから
冬が来た。
校舎の窓から差し込む光は白く、肌に刺さる風が痛い。
藤原紬は変わらず笑っていた。
けれどその頬の紅は、少しだけ薄くなっていた。
病気のことは、誰にも気づかれぬように隠している。いや、守られていると言った方が正しいのかもしれない。
颯太だけが知っているのだ。
彼女が、春までもたないかもしれないという現実を。
放課後。
人気のない美術室に差し込む陽は、すでに夕暮れ色に染まり始めていた。
紬はスケッチブックを抱えていた。
いつもより少しだけ呼吸が浅いのを、颯太は見逃さなかった。
「大丈夫?」
「うん。描きたいものがあって」
「何を?」
「──君の横顔」
唐突に言われて、颯太は少し頬を赤らめた。
「冗談、じゃないよね?」
「冗談だったら、こんなにドキドキしないよ」
紬はふふっと笑う。けれどその声は、風の音に紛れるほど小さかった。
筆を走らせながら、彼女はぽつりと言う。
「人ってさ、いつか消えるでしょう? でも、何かに残せたら──それだけで生きた意味がある気がするの」
「私にとっては、絵なの。君は?」
「……俺?」
「うん。颯太は、何に生きた証を残したい?」
その問いは、やけに重くて、でもどこか透明だった。
「……君の中に、残りたい」
紬の手が止まる。
視線がゆっくりとこちらに向き、目が合った。
「私がいなくなっても?」
「違う。……君が、生きてくれるなら、俺はそれだけで、もういい」
「でも、君がいなかったら、生きるのが怖くなると思うんだ。だから……名前を呼び続ける。君のいない時間でも。俺が忘れないって、言い続けるから」
紬の目に、涙が浮かんでいた。
彼女は、泣きながら笑った。
その顔が、とても綺麗だった。胸が、ぎゅうと締め付けられるほど。
「ありがとう。颯太のそういうところが、私、大好き」
「だからね──もう、我慢しなくていい?」
彼女はそっと、彼の肩に額を預けた。
「……ほんとは、もう走れないの。階段も、きつい。朝も、つらい。だけど、君と笑っていたかったから、頑張ってたの」
「もう……だめかもしれない」
彼女の震える声に、颯太は優しく、でもしっかりと手を握った。
「いいよ。無理しなくて」
「俺が、隣にいる。これからも、ずっと」
風が鳴っていた。
雪が降り始めていた。
美術室の窓の向こうで、冬が音もなく積もっていく。
あの日、紬が描いていたスケッチブックには、
柔らかい光を背にした、少年の横顔が残されていた。
微笑むでもなく、泣くでもなく──
ただ真っすぐに、前を見つめていた。
それはきっと、彼女にとっての“希望”だったのだろう。
そして颯太は、彼女の“記憶”として、生き続けるのだ。
たとえ、僕には次の春が来なかったとしても。