第8話:君が笑うたび、僕は生きていた
秋が深まるにつれて、空は高く、風は澄んでいった。
藤原紬と北川颯太の距離は、静かに、だが確かに近づいていた。
告白の夕暮れから数日が経っても、ふたりの間にある言葉は少なかった。
けれど、言葉よりも深く、ぬくもりだけが互いの胸を満たしていた。
放課後の図書室、校舎裏のベンチ、誰もいない音楽室。
ふたりの時間は、限られているという現実の中で、濃密に、優しく、積み重ねられていく。
「これ、今日の分」
紬は、小さな紙袋を颯太に手渡す。
中には、手作りのカップケーキ。
飾り気のないけれど素朴な甘さが、颯太の心まで満たす。
「……ありがとう。美味しいよ、ほんとに」
「うん。そう言ってもらえると、また作りたくなる」
紬は微笑んだ。
その笑顔は、何よりも強い薬のように、颯太の弱った心を支えてくれる。
──だけど、季節は確かに進んでいた。
朝、体を起こすのがつらくなる日が増えた。
体育を見学するふりをして、実はふらつく足をごまかしている。
手のひらの震えも、紬には見せないようにしていた。
自分の命の砂時計が、目に見えぬ音を立てて落ちていることに、気づいていないわけではない。
「……あと、どれくらい君といられるんだろうな」
ふとした独り言を、紬は聞き逃さなかった。
ベンチに並んで座っていた彼女は、ぽつりと答える。
「“今”がある限り、私はそこにいるよ」
「未来のことは、まだ誰にもわからない。でも、“いま”、隣にいる。それで十分じゃない?」
その言葉に、颯太は息を呑んだ。
生きるということは、未来を数えることじゃない。
“今日”を、誰と、どんなふうに過ごすか。
彼女は、ずっとそれを教えてくれていたのだ。
「俺、もっと一緒に笑いたい。君と」
「じゃあ、いっぱい笑おう」
紬は言った。
「私、颯太といると、自然と笑えるんだ。……それだけで、生きてるって思える」
沈みかけた夕日が、ふたりの影を長く伸ばしていた。
その影の先に、春があるのかは分からない。
けれど──
それでも、紬が笑ってくれる限り、颯太は生きていけると思った。
たとえ、限られた命でも。
たとえ、明日がこないとしても。
君が笑ってくれる今日があるなら、それは、奇跡のような一日なんだ。
僕はそう静かに思うのだった。