第1話:春が来たのに、僕には時間がなかった
「──余命、半年です」
その言葉を聞いた瞬間、時が止まったように感じた。
医者の声も、時計の針の音も、外の喧騒も、すべて遠くなっていった。まるで深い水の底に沈んでいくように、現実が輪郭を失っていく。
俺の名前は北村颯太、高校二年生。
あまり目立たない、どこにでもいる普通の生徒だった。勉強はそこそこ、運動もそこそこ。友達はいるけど親友と呼べるほど深くもない。そんな“普通”の人生を、あと半年で終えるなんて──。
帰り道、春の風が頬を撫でていった。
公園の桜は満開だった。
その美しさが、痛いほど胸に沁みた。あと何度、春を迎えられるんだろう。いや、もう二度と迎えられないんだ。
それに気づいた途端、ふいに息が詰まった。涙が出そうになるのを、何度も奥歯を噛んでこらえた。
「まだ、誰にも言っちゃいけない」
心のどこかで、そう思っていた。
両親にも、友達にも。言ったところで、何が変わるんだ。気を遣われて、同情されて、それで俺は満足なんかしない。
俺は──静かに死を迎えたかった。
そんなある日だった。
春休みが明けた始業式。教室に入ると、見慣れない女子生徒が窓際に座っていた。長い黒髪と淡い色のカーディガン。目元にはどこか影があって、でも桜のような淡い微笑を浮かべていた。
「今日からこのクラスに転入してきた、藤原紬さんだ。皆さん仲良くしてあげてくれ」
担任が紹介し、彼女は静かに頭を下げた。
「……藤原紬です。よろしくお願いします」
その声は小さくて、でも芯があった。
彼女は静かに教室を見渡した後、また窓の外の桜へと視線を戻す。まるで、そこにしか興味がないように。
──なんとなく、俺は彼女が気になった。
目立たないようにしているのに、妙に存在感がある。不思議な空気をまとった子だった。
昼休み、俺はなぜか彼女の隣の席へと足を運んでいた。
「……藤原さんって、前はどこに通ってたの?」
何でもない会話のつもりだった。
でも彼女は、少しだけ目を細めて、こう答えた。
「……ずっと、家にいたの。病気してて」
「そっか。もう大丈夫なの?」
「……どうだろうね。お医者さんは“大丈夫”って言ってくれたけど」
言葉とは裏腹に、彼女の瞳は遠くを見つめていた。
──どこか、俺と似ていると思った。
心の奥に、誰にも言えないものを抱えてる。そんな人間特有の、乾いた気配。
その日、帰り道。夕暮れの空の下で、俺は彼女の後ろ姿を見つけた。
川沿いの桜並木の中、彼女は立ち止まり、空を見上げていた。
「……綺麗だよね。春って、なんか切なくなる」
そう呟いた彼女の横顔は、泣き出しそうに儚かった。
思わず、声をかけた。
「藤原さん、桜……好きなんだ?」
「うん。好き。でも、ちょっと怖い」
「怖い?」
「綺麗すぎるものって、すぐ散るから。……見てると、置いていかれる気がする」
その言葉に、俺は思わず黙った。
──まるで、自分のことを言われているようだった。
それから俺たちは、少しずつ言葉を交わすようになった。
不思議と彼女のことが気になって、話したくて、気づけば目で追っていた。
彼女の瞳の奥にあるものを、もっと知りたくなった。
──春が始まった。
だけど、俺には終わりが見えていた。
そんな俺が、彼女と出会って、少しずつ変わり始めていた。
死ぬ前に、君に恋していいですか?
そんな問いが、僕の心の奥で静かに芽吹き始めていた。