第三話 それぞれの糧
まだ日も出でぬ頃のこと。提灯を下げた本梅は一人仲間を引き連れ、早くも門の前で出かけ頭の挨拶をしていた。
「この空弾は魔物の合図だ。上がればすぐに駆けつけろ」
彼はそう手榴弾様のものを見せる。関守たちは薄い目で欠伸を噛み殺しながら頷いていた。朝一番の見回りで、毎日やっていることなのだろう。
本梅は締まりない彼らをひと睨み、仏頂面で砂利道を上っていった。そんな彼を、ある男は門番たちに隠れてじっと見送っていた。
それから本梅たちは歩を進め、茅野の曲がり角にさしかかろうとしていた折りだ。
「うわっ」
道端で眠りこけていた駒たちは、突如茅の中から伸びた手に衿をつかまれ後ろにひっくり返った。折れた茎の先でちくちくと頬を刺され、駒も佐丸も飛び起きる。
「痛った!」
「静かにせいっ」
「あ、お侍の……」
茅にまみれ、二人の後ろで身を潜めていたのは能次郎だった。本梅たちは、茅野の方の人影には気づかず、森の方へと通り過ぎてゆく。彼のことを門の奥から窺っていたのは、かの能次郎だったのだ。
駒はきっと言い知らせだとばかり能次郎を一瞥する。
「それで、荷物は取り返せた?」
「まだだ」
「なんでよ!」
隣では佐丸が「なんでよ!」と駒の言葉を真似る。
「まあ落ち着け」能次郎はやけに自信ありげだった。
「本梅どのは今日が見回りの当番でな。一度出かけたらしばらく戻って来ん。つまりここを抜けるには、今が一番好機なのだ」
三人は茅野で息の熱に堪えながら、悪い視界をかき分けた。能次郎を先頭に、まさかこんな燃えやすいところで火を灯すわけにもいかず、日の出の薄明かりに目をこらす。
やがて駒たちは門番の目をくぐり、正門とは離れた勝手口の方にたどり着いた。
「ぼろぼろ」
そう言って佐丸がかぶりを振る。駒もうんざり顔だ。茅を出たはいいが、三人ともささくれだった穂にまみれ酷い恰好だった。
「荷は南手の広間に置いてある。取ったらすぐここを越えるといい」
一方、能次郎だけはぴんぴん張り切っていた。彼は真っ向勝負じゃ本梅に敵うまいと思っていたから、ここに来て見回りの番が回ってくるとは運が良い。
「その代わり、あれだぞ?案内したからには……」
「分かってる分かってる」
遠慮しがちに、しかし何度もさらしを掠めてくる視線に駒は手を払った。正直これだけの仕事なら、能次郎に頼らずとも出来た気がして扱いが雑になる。立場的に少なくとも、名字帯刀の許される武士が偉いものだと知ってはいるのだが。
閂を抜く能次郎に駒たちは続く。その時、佐丸が何かに引かれたようにふり返った。朝ぼらけに細々とちぎれた雲が浮かび、まだほの暗い東の空に緩く流れる。
佐丸の目には何が映ったのだろうか。駒や能次郎は気づいていなかったが———。
「佐丸、行くよ?」「んー」
佐丸は生返事の末、駒に手を引かれ静かに屋敷の中へと連れられていく。彼は勝手口が閉まるその時まで、茅の向こうにある森の方をじっと見つめていた。
青々と茂る下草を踏みしめ、本梅は暗がりを睨む。後ろでは、連れだった髷の短い男が息を上げていた。
「本梅どの、速いです……」
短髷は、本梅の衣に手を掛けるのも馴れ馴れしいかと、自分の刀を鞘から突き立て足を支えた。元々本梅は、外回りでわざと歩を緩め、勤めを怠けるような小賢しいことはしない質だ。だが今日は一段と、短髷が追いつけないほどに早足だった。
本梅ははたと目を上げ、短髷を振り向いた。気づけば二人ともうっすら汗ばんでさえいる。一つ息を吐き、本梅は提灯を腰ほどまで下ろした。
「……む」
ふとうつむき、本梅は唸った。草鞋の緒が細くなっている。本梅はわずかに口を歪め、その足を庇いゆっくりと歩き出した。短髷はいそいそとその後を追う。
彼らが森の坂を上る頃には東の空も白み、木々の間からは荒野にも色がつきだしていた。
「今は見回りだ」
本梅が鷲っ鼻に皺を寄せ、不意に声を上げた。
「刀を左に据えておけ」「はい?」
すっかり刀を旅杖代わりにしていた短髷は、その言葉に目をしばたたかせた。本梅の背中は、前で照らした提灯の灯火が小さくなるに従って衣の寄り具合などが良く見え出す。短髷は、後ろ姿だけでも本梅の険のある顔が察せられ、怯えてすぐ刀を戻した。
この鷲っ鼻は、農民上がりのくせ他の関守なんかよりずっとおっかないのだ。怖い者は父親に続き幼い頃から沢山いたが、本梅は腕っ節というより、考えの読めぬ空恐ろしさのようなものがあった。
刀を左に差すとは即ち、すぐ刀を抜けるということ。
左に据えよという命は、嫌でも短髷の体の芯をぎゅっと締め付けるものがある。その後に待つものは、先の戦の記憶が十分に教えてくれた。
「悪く考えるな」
顔が暗くなる短髷に本梅は口を紡いだ。
「生きたいのだろう、お前も」
意表を突かれたような短髷に、知らぬ顔で本梅はさっさと先を歩く。また何度も森の奥に提灯をかざす様は、何かあった時少なくとも短髷よりは長く生き長らえそうだった。
「そんな顔に出ていましたかね」
短髷は眉を下げた。なんだか悉く、短髷は自分でも武士の性分に合ってないと思う。その心許ない返事に、本梅はより眉間の皺を深めた。
「生きた先のことだけ見つめていろ。今、お前の生きる糧は何だ」
「生きる糧ですか」
それは本梅なりに思慮のつもりだったが、短髷は思いがけず黙ってしまう。武士らしい気性を持たぬ短髷は、関守という役職も何石あるという土地の広さにも関心が無い。だが、もう答える気もないかと本梅が諦めたところで短髷は顔を上げた。
「妻、ですかね」
「……郷里にいるのか」本梅がつまらなそうな顔をした。
「ええ。二つ前の戦が終わった頃貰いました。任期が開けたら家に戻り、共に過ごすと約束しております」
短髷はこの時ばかり穏やかに目を細めた。妻と一つ屋根の下に落ち着くことは、即ち泰平の象徴だ。というのも戦の前、武士には女と交わるなかれという掟がある。平和を愛する短髷にとって、妻との約束はなるほど死線を這ってでも叶えたいことだった。
「くだらん」
本梅は吐き捨て、緒が丈夫な方の草鞋を踏み込んだ。
「そうでしょうか」短髷も続いて粗く削れた地面を上り、本梅にやんわりと返す。
「俺は氏こそありますが、ごく貧しい家の出です。妻と少しでも良い生活をしたいという欲は、十分生きる糧になり得ましょう」
短髷は言葉を重ねる。気づけば足取りも軽くなり、本梅の思惑通り緊張もほぐれているようだった。「本梅どのこそ、妻で無いなら何が糧なのですか?」
普段会話の無い相手だということもあり、興味本位で短髷は尋ねた。あの関所でどことなく浮いた本梅は、仲間内でもその素性はよく分かっていなかったのだ。故郷へ宛てた文も見たことが無い。まあそれは、彼が書いたところで送り先にいる農民の親が読めないからというのもあるかも知れぬ。
それより、彼らがずっと気になっているのは「なぜ本梅ほどの者が関守たる役に収まっているのか」だった。
関守の中には彼の功績自体嘘っぱちだと一蹴する者もいたが———、本梅が農家の出であるにも関わらず武士の位に抜擢されたのは、紛れもなく彼の才能だ。概してそういう奴は、良い暮らしを求め上を目指すのだ。短髷は、本梅がそうしない、あるいは出来ないその由を知りたかった。
だが、結局彼がその答えを聞くことは叶わなかった。
はたと後ろで足音が止んだ。また短髷が息でも切らしたかとこめかみを掻いた本梅は、歩を緩めるやそうでないことに気がついた。
幾層にも積もった枯れ葉の上に落ちるのは、血だまりの音だった。
「あ…………」
勢いよく鯉口を切った本梅が振り向く。だがもう手を施す術もなく、仲間だった短髷の腹には黒々と大穴が空いていた。その足下には助かるまいだけの血が噴き出ている。
取り零した提灯が、本梅のそばで落ちて火を失った。
木漏れ日には毒々しい赤がちらついていた。本梅の目は短髷より後ろ、彼を刺したものの方に目が行き、足がすくんで動けなくなった。
魔物はこれまでも見たことはあった。自分が幸い彼らの標的にならなかっただけで、その恐ろしさは十分覚悟していたはずだった。それでも本梅は、つい一歩退いてしまった。
そいつは長い手でおもむろに短髷の袴から刀の柄を探った。途端、本梅は弾かれたように体が動き、力に任せ相手の腕を斬り落とした。
魔物が呻く間に、本梅は血の伝った鞘を自分の後ろに蹴った。獲物が奴の手に渡れば、武器として使われかねない。魔物は長髪を足下に引きずるまで伸ばし、遠目では万に一つ女に間違えることがあっても、いかんせん体躯が人のそれを超えていた。
本梅は刀を両手に構え、的を睨んだ。もともと剣術など学んでこなかった身、戦い方はほぼ勘だ。刀を手放した短髷は、やがてすぐ髪に隠れて見えなくなった。あの髪がうねり、短髷の体を飲み込んだからだ。
「イ……、タイ………」
その魔物は、確かにそう発した。千切れた腕の根元を押さえるのは三本の手で、大きな草履に欠けた足指は異様なほど赤黒い。魔物に差し向けた刃先が、微かに揺れていた。
きっと武者震いだ。
本梅は刀の柄を握り直した。鬱蒼とした髪で前か後ろかも分からぬ頭部からは、一瞬ちらりと瞳孔がこちらを覗いて見えた。短髷を取り込んだ胸板辺りが、さっきより心もち膨れていた。
「お前は、俺の生きる糧が何かと聞いたな」
本梅は刀を構え、魔物と間合いを計った。その足取りは、農民の出であるにも関わらず並の武士より所作が良かった。剣の道とは本来、人の極限を体現しているもの。今の本梅がそうだからだろう。
草鞋が腐った土に食い込むや、本梅の剣が魔物に斬りかかった。本梅をも取り込もうとしていた髪は手前で切れ、短い悲鳴を上げた魔物の顔に刃先が横断した。すると前髪の下から魔物の顎が現れ、ひどく歪にゆがむ。魔物は髪を切られたことに怒り狂っていた。
人を蝕む、忌まわしき物共だ。
「俺は、貴様らを止めるためここに居る」
本梅は葉をぶすりと魔物の膝に突き立てた。魔物の長身は、本梅が予期したように大きく崩れる。これで動きは封じられたはずだ。彼の脳裏には、かつて目にした魔物が戦場の血なまぐささと共によみがえる。
魔物が跪くのを本梅は冷ややかに見下ろした。あの時、佐丸を見下ろしたのと同じ目だった。
突然、本梅の刀にひびが入った。
魔物の膝がきしみ、嫌な音を立てて刃と擦れだした。本梅ははたと刀を抜こうとしたが、その頃には魔物の膝に埋まった刃が力ではどうにも出来なくなっていた。そうこうしているうち、魔物の伸び出した髪先が木の根を這い、本梅の足下へとすり寄ってくる。
刃の峰に思わぬ力が掛かると同時だった。
ついに刀が二つに折れ、本梅は後ろによろけた。その隙に魔物は詰めより、長い髪が猛威を振るう。本梅はとっさに残った刃で空をえぐり空ぶった。あの枝のような腕も、彼の衿ぐりを掴もうと伸びてくる。
もう奴が立てぬと踏んだのが誤りだ。こいつはもともと、四肢ではなく六肢あったのだ。
本梅の前には、使えぬ片膝を引きずって他の手を地に下ろす、獣のような魔物の姿があった。本梅は舌を打ち、草鞋を大きく踏み込んで体を反らせた。
だがその時だった。ぷつりと音がして、草鞋の緒が切れた。
視界が堪える間もなく傾く。黒々と糸目も見えぬ髪束が斜めっていくのを、本梅は唖然と仰いだ。ほんの一片の空が、本梅の瞳孔にちかちかと瞬く。
違う。
本梅は止めねばならなかった。彼はかの醜悪を目の当たりにし、都へ仕えることを拒んだ。そのために、関守になったのだ。
本梅は無い剣先を魔物にかざす。それを阻むように、頭上ではあの長い腕の先で、細く鈍い光が見えた。先に避けたはずの、短髷の刀だった。
魔物を———。
刀が本梅に振り下ろされる。本梅は、ようやく気づいたように空弾を空に投げ上げた。
その頃駒たちは、関所の座敷で例の風呂敷を前にしていた。ちょこまかとどこかへ飛んでいきそうな佐丸を能次郎が押さえ、その隙に駒が荷の中身を確かめている。
「荷を持ったならすぐ捌けるぞ」
能次郎は駒を急かす。ことに彼は現在関守の禁を犯しているわけで、事が露見すればお咎めだけじゃ済みそうにない。
「聞いてるのかっ?」「はいはい」
能次郎を押しのけ、駒は黙々と頁を繰る。銭の残りも記録していた、日記と彼女が呼ぶあの冊子だ。糸を解かれた形跡は無く、頁もそのままだ。後ろから表紙までめくり終えた駒は眉を上げた。最初に挟んでいたはずのあの絵が無い。
ははあ、と駒は薄ら眼を能次郎に向けた。能次郎はけげんな顔をしていたが、駒が手にしている物を見て察したようだ。
「ち、違うぞ!俺は断じて見てないっ!」
だったら何故そう慌てるのだろう。粟を食って否定し出す様子は、疑ってくださいというようなものだ。余計白けた眼になる駒はただはいはいとくり返す。それを取られただけで、この日記が手つかずのまま返ったのだから実際願ったりだ。
その時、日の出の空がちかりと瞬いた気がした。
門の向こうでぼんと煙が上がった。佐丸が首を傾け、風呂敷の目を絞っていた駒もふり返った。あっちは昨日通った森の方で、祭が催されるような場所でもない。
「なに、今の」気にならない駒はただそう呟くだけだった。が、隣では能次郎が今まで見たこと無い顔をしていた。
「今のは……」
唇がわななくせいで上手く言葉が出ないようだ。ようやく駒がいぶかしんで能次郎に一歩詰めた。
だが、駒が口を開くより早く廊下からはいくつも足音が寄せてくる。
「やば」今度は駒の顔色が変わった。
駒はすぐ、きょとんとした佐丸の手を掴む。床の間、仏壇、掛け軸の裏。隠れる場所を探してみるが、それが武士の誉れなのか極端に物が少ない。やばあ、と佐丸が何ら緊迫感なくぶら下がってくるので駒はじりじりと焦燥が募る。足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
「合図が出た!」
障子が勢いよく開き、髷の男たちがわらわらと座敷に踏み込んだ。広間にはちょっと身構えたように、能次郎が一人たち呆けていた。
「あ、これは皆々方……」
「何をしておられる、魔物が出たんですぞ!」
能次郎の御託はこの時ばかり相手にされず、刀を左手に皆畳を突っ切っていく。
「大友どのはっ」「まだ寝所におられる」「まったくあの方は、飲んだ翌日はすぐこれだ!」
「ああー、そっちは!……」
能次郎がドタドタと先陣切った関守を追いかける。しかし関守たちは一足早く、縁側の方の障子を開けてしまう。
そこにはいつもと同じ、殺風景な塀と低木が並んでいた。
「早く、魔物が門までたどり着く前に追い払うぞ!」
縁側を派手にならし、関守たちは席の方へと駆けていった。誰が寝所をせっついたのか、後から大友も二日酔いで蒼い顔をしながら仲間に引きずられていく。再び取り残された能次郎は、障子にすがったきり目をぱちくりさせた。廊下には粒々と、わずかな干し芋の粉が落ちているばかりだ。
「……魔物がどうかしたの」
「のわっ」
下から声がし、能次郎は勢いで飛びすさった。部屋を飛び出した駒と佐丸は、どうやらこの縁側の下に隠れていたようだ。佐丸は風呂敷に残ってた干し芋をちゃっかり頬張っている。
「聞いてる?」
頭についた蜘蛛の巣を払いながら、駒はゆっくり起き上がった。その剣を帯びた瞳に、能次郎も我に返る。だが能次郎は一度言葉をのみ、かぶりを振った。
「……外は危険だ。お前たちは、番のいないこの機にさっさと関を越えろ」
能次郎は大広間を挟んで向こう、内門より出たあぜ道の方角を指した。だが駒は頑なに引こうとしない。
「魔物が出たの?」
もう十分白みだした空には、未だ鳥の鳴き声ひとつ響かなかった。彼らは本能的に、ここが危ないともう遠くへ逃げてしまっているのだ。
「さっきの空弾は、関守の中の合図だ。魔物と出くわしたらそれを鳴らし、俺たち関守が駆けつけることになっている」
だから早くお前たちもここを去れと、刀を掴む能次郎の手は微かに震えていた。長い前髪をぺったり垂らした佐丸は、狭い視界からその鞘を見つめる。
魔物と戦い、命を賭して民を護ること———それは能次郎たち関守に託された勤めだった。高い年貢を農民から取り立て、良い食と衣と家に恵まれる代わり、彼らは国のために命を落とさねばならない。そして人が農民の家に生まれるか、武士の家に生まれるかは誰も采配を持たぬ。彼が望んで生まれなくとも、堀田能次郎は魔物に剣を抜く持役だった。
森の奥で、どおんとまた一つ音がした。はっと顔を上げる能次郎の前に、何故か駒は越から下げた草鞋を縁側へ放る。佐丸が駒の風呂敷に寄りかかるが、駒はすぐ立ってしまい佐丸が縁側からずり落ちる。
口をすぼめる能次郎に、駒がふり返った。
「あたしも行かせて」
背にした風呂敷の中で、駒の日記がかさりと荷にもまれ音を立てた。
それから森には、男たちの足跡に続き三人がその後を追っていた。
「ど、どうなっても知らんからな」
能次郎が後ろに声をかける。駒は佐丸を背負ったまま、無言で頷いた。
行かせて、と武士でもない駒が頼んだところで、能次郎が許可を出すわけがなかった。だが許されぬとて、駒が着いてきてしまうのだから彼も止めようがない。そして駒もさすがに佐丸は置いていこうとしたのだが、「やだ!ぼくちんも行く」と聞かないのでこれもまた道連れである。だが女子供が来たところで何が出来よう。魔物と会う前に引き離せないものか、と能次郎は足を速める。
まったく、この娘はどんな体力をしているのだろう。佐丸と、最低限とはいえ荷を全てしょった状態で、それでも駒は何とか武士の能次郎に食らいついている。下手に競い合っていると、魔物と会う前にこちらの体力が削れてしまう。
速度を落とすか、と能次郎が歩を緩めたその矢先だった。駒が視界を僅かに遮る黒い影に、いきなり能次郎の衣を引いた。駒側の総重量が大きかったのが幸いして、能次郎はそこから一歩も踏み出すことなく後ろにひっくり返った。
「がっ……貴様、これは遊びじゃないんだぞ!」
「文句なら前見てから言ってよ!」
「なに?」
相手が武士たれど、駒は負けじと言い返す。こんな命の局面では位なぞ構ってられない。現に駒の指す方を見ると、能次郎はその意図を知り息をのんだ。
そこにあったのは、何重にも編んだ麻縄のように太い髪の束だった。その毛量、長さは到底人のものとは思えず、まるで意思を持ったようにうねうねとうごめいていた。そして毛先には能次郎と同じ、関守が腰に携える真剣の一刀が絡まるというよりしっかり握りこまれていた。
担がれた佐丸の目も、吸い入るように見開かれる。
「この、髪の根元にいるのがこいつの本体……」
束の間駒は呟いた後、すぐ方向を映えている方に切り替えた。
「あ、こら!」
三人の前後が逆になり、今度は能次郎が駒を追うことになる。足跡は、なるほどこの髪の方に散らばっていた。しかしだからこそ彼女らを先に行かせては危ないのだ。
おいとか待てとか、能次郎がいくらか呼びかけたが、駒は見返りもしない。ぐぬ、と歯を食いしばり、荒立つ息を吐いてから、能次郎は叫んだ。
「お……お駒!」
木の根の段差に佐丸がおう、と声を上げた。と同時、駒もようやく能次郎に一瞥をくれる。
「あ……」「刀を抜いて」
能次郎が何か言い出すより早く、駒はそう大きく左へ倒れた。つられて進路を左に切った彼がふと後ろをふり返りざま、その鼻先に熱いものがほとばしる。
ぐ、と吐きかけた息を詰まらせ、能次郎は薄めた目の間から鮮血の粒を仰いだ。擦ったのは彼と同じ、関守が使っていただろう刀だ。
「何やってんの、早く刀を抜けって言ってるでしょ!」
背後で駒が怒鳴った。反り返った能次郎は、その声の大きさに思わず手の震えが止まり、そのまま刃を引き出した。すると魔物の髪先は見えているかのように刃先を能次郎へと定める。
あの剣を落とし、髪束を斬る———
のは、きっと相討ちを免れられまい。とっさに刃と刃を十字に交えた能次郎は、迫る剣に汗が噴き出た。刃は魔物の髪の力で能次郎を圧する。単なる力量の差だけではない、あの髪の束に、能次郎が気迫で押されているのだ。そのうち、彼の足下にはほどけていた髪の一部がぬめりと這い出していた。
どん、と音が響く。突然髪の束に穴が空いた。
ぎょっとひきつる能次郎の視界には、空弾が一つ残っていた。駒の手の中だ。いつの間にくすねられたのだろう、気づけば能次郎が腰に下げていた空弾が二つともなくなっている。そしてカランと落ちた音がするや、あの黒々とした魔物の毛先からも、刀が取りこぼされた。
「いま!」
再び駒が怒鳴る。能次郎は反射的にそばにあった魔物の髪を踏みにじり、わった迫る髪の雪崩をくぐった。そして、———
ずんと手応えがあり、能次郎の足下で黒い断面が地に落ちた。髪の束に見えていたものは、芯で繋がっていたのか、断面は一瞬中に赤い芯のようなものが見えた。が、空気に触れるやすぐそれも散り散りばらばらな髪のあまたになってしまった。断たれた毛先の方は千切れた手足のようにもう微動だにしない。魔物も本体から離れてしまった体の一部は、もう自分の一部ではなくなるのだ。
「さっきのは、よく見切ったな」
「出来なきゃこの世の中、すぐ死ぬわよ」
駒は佐丸を背負い直し、ふんと鼻で息を吐いた。能次郎をというか、誰をとかく敬うつもりもないのがありありと汲める。能次郎は言い返そうとしたが、何も間違ったことじゃないので口をつぐんでしまった。
さらに森の奥まったところでは男の悲鳴がした。駒質が顔を上げると、あの残りの毛束はまた声の方に尾を引いていく。そろそろ奴の本体は近い。駒がそう早く魔物の端を追いかけようとした折りだった。
「……なぜ、そんな躍起になる?」
佐丸の編笠がつかまれ、引っぱられるまま駒は止められた。もちろん、能次郎は今すぐにでも仲間を助けに行かねばならない。それは分かっているが———
「これ以上は本当に危ない。そもそもお前たちは、ただの通りすがりだろう。後は野となれ山となれ、ここは俺たちに任せてさっさと関を越えていけ」
震える声の最後には、また野太い叫び声が被さる。能次郎は唾を飲み込み、ゆらぐ目を何とか駒に合わせた。武士らしくはないが自分の嘘は吐かぬ目だ、と駒はそう思った。
「それならお侍さんは、どうして通りすがりのあたしたちにこんな協力したの?」
駒は乾いた目を能次郎に向けた。
それはそれ、これはこれ———人情と一括りにされればそれまでだが、合理的に生きようとしてきた駒にとったら、能次郎はあまりに人が良かった。能次郎が本当にただの通りすがりで切り捨てられたなら、荷を取り返すのが難しいと分かった時点で関わりを断てただろう。
「俺は今の役目の他に、成したいことがある。———都へ上りたいのだ」
能次郎はきりきりと吊った眉の上に汗を溜め、落ちていた誰かの刀を拾った。
「いや……行かねばならん。お前たちのようなのを見ると、妙にその気持ちがせき立てられてな。放っておけなかった」
そう能次郎は音のする草むらへ草履を一歩踏み出した。
武士たるもの、命は潔く手放してなんぼだ。だが少なくとも、駒たちを置き去って行く能次郎の背はまったく、割り切れているようには見えなかった。
魔物は、駒たちを襲った場所からすぐのところにいた。関守の声は近くとも魔物の姿が見通せないと思っていたが、奴は地面に沈んでいた。その一帯の下草は一切外にえぐり取られていた。
髪を長くした魔物は、もうとても人間とは見間違えられなかった。奴は重暗い毛束をうねらせ、関守を捕らえては自分の腹に吸収していた。周りには千切れた髪が散っていて、ここまで関守も為す術がなかった訳じゃないことは窺える。だが関守自体の母数を損なった今、彼らは数で押し切ることが出来なかった。
能次郎の後ろから魔物を覗いた駒は息をのんだ。だがそれと同時、目にはうっすらと落胆の色が浮かんでいた。
「……こいつじゃない」
佐丸は不思議そうに駒を見下ろす。長く垂れた前髪の右で、額に出た小さなこぶがひくついた。
「大友どの!」
能次郎ががなり声を立てた。見ると関守が数人いる中で、例の二日酔いを引きずった大友が魔物に近づき過ぎている。弱り目に祟り目とは正にこのこと、彼は青い顔でふらふらと剣先を定めかねている。
魔物に大友が触った、その途端、一気に伸びた髪先が彼の首を襲った。
反射的に能次郎は飛び出した。自分の足元も取られかねぬ、四方八方に乱れた髪の間をくぐり、能次郎は大友の首にかかった髪を素手で引いた。すると魔物の髪は矛先を代え、朝顔の蔓がごとく能次郎の腕を締めつけた。
「……なるか!」
能次郎はさっき拾った刀を持ち替え、髪の蔓を打ち付けた。だが、流石に利き手でないと刃も上手く通らない。大友は慌てるあまり、鞘を被せたまま刀の先でささくれた細い髪を追い払っている。
どうにか能次郎が髪を裁った後、彼が使った刀はもう研がねば仕えないほどがたついてしまっていた。
「なんという力だ……」
能次郎は間に合わせの刀を捨て、右腕を押さえた。さっき魔物に掴まれたところだ。幸いどうにもなってはいないものの、一時鬱血した分まだ色が白く痺れている。もっとも、腕の震えが収まらないのはそれだけが理由では無かったが。
能次郎たち関守は、森の一角にめり込むその姿を見下ろしほぼ同じことを思った。誰も認めたくはない。ましてやこんな状況で、認めれば負けが決まることくらい誰もが分かっていた。
しかし―――あれは間違いなく、彼らよりも強い。
抗えぬ生物の強きと弱き、人の間で過ごすうち片時忘れていた恐れを、彼らはまざまざと目の前にした。あれに歯向かってはならないと、警笛を鳴らす鼓動が関守たちの息を浅くする。
だがそんな中で、命知らずに声を上げる者が一人だけいた。
「逃げるよ!」
弾かれた心地だった。関守たちは皆一斉に顔を上げ、駒を見た。魔物は聴覚がないのか、髪に埋もれどこにあるのかも分からぬ目を虚にしたままだった。
「早く!勝てない戦に乗ったって意味ないでしょ!」
駒は腕を振り上げ、さっき拾ったものを彼らに投げつけた。それは誰のかも分からぬ鞘だった。見回りに行った者か、はたまたそこに駆けつけていた者のか。誰かが剣を抜き、二度と腰差すことのなかったその抜け殻は、駒に捨てられ土を被った。
「馬鹿が、俺たち関守が止めなくて誰がこいつを止めるんだ!」
「そ、そうだ!国を護るためなら俺あ命を賭けるぞ」
関守たちは口先ばかり威勢よく駒の言葉を退けた。すっかり引け腰になっていたにも関わらず、逃げるという選択が見えた途端むきになるのはやはり武士の性。無駄に命を散らすことに、一体何の美があるというのだろう。駒は見かねて、茶筌髷の立つ後ろ姿を向いた。
「お侍さん———能次郎!」
侍と呼びながら、彼女の目にも能次郎は明らかに、最も侍らしくない男だった。今も彼だけが己の刀を抜かず、ただそこに坐す魔物を睨んでいる。唯一髷を結うためにそり上げた頭に、木漏れた朝日の影がちらつくばかりだった。彼は形を整えただけの、ただの臆病者だ。
だが能次郎は、駒が言葉を継ぐより早く首を振った。
「俺はここに残る」「なんでよっ」
思わず手を伸ばした駒に、後ろでおぶられていた佐丸が支えを無くしてしがみつく。駒の体は反動で少しのけぞったが、それだけじゃ駒の気の昂ぶりは収まらない。
「都に行くって……関を越えたいのはあたしたちと同じなんでしょ?」
再びうねり出した魔物の髪は、また関守を一人捕まえて肚の上にかっぽり裂けた人ならざる口内へと放り込む。あれが、命も惜しくないと宣った者の末路だ。戦わずとも先の腰抜けぶりを見ていた駒には分かる。
このまま流れに任せ剣を振れば―――能次郎は、時を経ずして死ぬ。
「確かに都は目指すところだ」能次郎は柄に力を込め、手汗を段々になった線の模様に絞った。
「だが俺の道は、ここで戦うしか開かんのだ」
鯉口に金属の色が零れ、そうするや彼は前にあった髪の束を一気に斬り落とした。
次の獲物を探していた魔物の動きが止まった。ざらざらと崩れほどけていく魔物の端から黒い蒸気のようなものがじわじわ湧き出していた。
やおら、奴の頭部らしいところがふり返る。能次郎は恐ろしかったが、もう刀は戻せなかった。
「お駒———お前には、お前なりにここを越えたい理由があるのだろう。だから俺はお前たちを同じだとは思わん。この関の向こうに、見ているものがきっと違うからだ」
鋭く尖った刀には黒々と、ただ黒々と伸びる魔物の姿が映っている。奴の髪は、初めに現れた時より随分長くなっていた。
あの中に、何人彼の仲間が取り込まれたのだろう。能次郎たちが対峙しているのは、魔物が餌食にした人間の成れの果てだった。それが餌となっただけで、彼らは人間として屠る事も叶わぬまま戦わねばならなくなる。姿の見えない若い関守たちから、本梅ももう見当たらなかった。
生き延びたい。
今になって、無様な感情が能次郎の頭をよぎった。彼はすぐにかぶりを振った。そんなもののために、能次郎は今まで一度だって刀を濡らしたことはない。
「俺は」
能次郎が震える言葉を吐き出した。
「俺は強くなければならない。そのためにここを生き延びる。人のため国のため———たとえ関守の俺がそう剣を振るえど、俺は今、己の道のために戦う!」
魔物の髪先は彼の腕に絡まり、能次郎はそれを力のままにぶつ切る。魔物はいよいよそそり立ち、能次郎へと髪の向きを変えだした。上空は木の葉が覆いつくし、動くたびに影を縫った朝日が彼らの視界にさざ波を立てた。
駒は唇を固く結ぶ。
「意地っ張りめ」
そう低く呟くのを佐丸は怪訝に覗いた。その、直後だった。
ボンと派手な音がして、森の一片が明るく開けた。
魔物の髪で覆いつくされた背後に、大きな光の穴が出来た。あれは誰かの———否、誰のか確かめなくとも分かる。あれは空弾だ。空弾は音と共に破裂した勢いで周りの軽い枝葉を薙ぎ、森の深層に一縷の光を差した。
暗がりに慣れていた関守たちは眩しさに目をすぼめた。駒の影が一瞬、森の中に黒く浮かんだ。
その時、魔物の目らしきものがこちらに開き、初めて髪に埋もれた瞳が見えた気がした。
空弾はそれっきり、開いた枝々の穴も風圧を失ってすぐに塞がり消えた。駒は、手持ちの空弾を投げきりだらんと腕を下げた。仰向けに振り落とされた佐丸は、目の裏に残る日向の明かりをちかちか瞬かせていた。どうしたことか、魔物の動きも止まっていた。
「あーーっもう!」
急に大声を出すので、周りの関守たちがぎょっと駒を向いた。魔物の髪に足をすくわれていた能次郎も、体をこわばらせ恐る恐るふり返る。
駒はそんな能次郎をぎろりと睨みつけ、叫んだ。
「勝手にすれば?その代わり、死んだらあたしの胸も揉めないからね!」
「……はッ」
能次郎は今しがた正気に戻ったように刀先を揺らした。するとほどよく力が抜けたのか、刃はすんなり通って足に絡まっていた髪を裁つ。だが駒は言い捨てたきり、胸もさらしも能次郎とは反対に向けて来た道を走り去ってしまう。
「はあっ?」他の関守はいぶかしげに駒と能次郎を見比べた。彼らの内どれだけが気づいているだろうか、遠のく背中には取り上げたはずの風呂敷がはずんでおり、能次郎にとったら大分良からぬ状況だった。能次郎は思わず駒を呼び返そうと何か言いかけた。
が、それより早く———速く猛烈な風が、彼らを突き飛ばした。
え、と声を漏らすも虚しく、大友が魔物の髪に捕まり引き込まれた。だが当の魔物の姿は先まで陣取っていた地面のへこみにもういない。奴はあの重く伸ばした髪を引きずり、前へ、駒の逃げる方へと走っていた。
「な、なにが……」
「あれを逃すな!」
戸惑う仲間をよそに、能次郎はいの一番に駆けた。残った関守たちはひるみ、だがすぐ我に返って魔物を追い出した。
普段はというと、能次郎も群を率いる方ではない。いつも誰か、本梅や、能次郎に薄ら笑いを浮かべる他の関守たちにくっついて回っていた。そういう質なのだ、それが楽だから。だが今日ばかり、いやあの魔物を追っている今ばかり、能次郎は何かものすごく妙な感じがした。
だって、いきなり彼奴が駒を追いかけるから。
訳も分からずひたすら走る能次郎の鼓動が跳ね、霧で前が曇るような心地だった。能次郎はその違和感を魔物のせいに、必死に足を動かした。
「ったく、堀田どのは何をあの女と……うわあ!」
後ろでは能次郎に懐疑の目を向け追いかけていた関守の一人が、ひきずった魔物の髪を踏みつけ転ぶ。途端髪の末端は、彼を足からすくい一気に魔物の口まで投げ上げた。宙を舞う仲間に能次郎はほんの一瞬目が合ったが、為す術もない。彼がそのまま嚥下されると同時、千切れていた魔物の髪束はぶわっと一気に生え揃った。
木々の崩れる音が一段と高くなる。
後ろで起こっていることは、駒にも聞こえていよう。魔物が大きくなれば、即ち前の駒たちも捕まりやすくなる。奴の髪を二人に届かせてはならないと能次郎は直感した。だが、ああも肥大化した相手に彼はどう太刀打ちすればいいものか。
魔物を横目に併走していた能次郎の視界の端に、突然黒い影が映った。
「うっ」
とっさに刀を真っ直ぐ断てた能次郎は、急速に足を緩めた。と同時に彼の耳を熱いものが走る。顔の横にされたのは魔物の髪の末端だった。能次郎が左手で耳に触れ、血の出具合を確かめた。その時地を這っていた髪が、能次郎の足をさらった。
直後、彼の体に浮遊感が襲い、気づけば能次郎は魔物と駒たちの上を飛んでいた。
足ごともげるんじゃないか、そう思うほどの力だった。視界の上部に映る前の小さな二人が徐々に近づき、能次郎は自分が先の関守と同じことになっているとやっと気がついた。
———そしてまた、彼の背後に、魔物の肚があるということも。
肚に生温く、待ちわびた魔物の口が開き、息が首筋と背にかかった。能次郎の体がゆらりと回る。後、彼に待っているものは確実な死だった。
突如、その舌が痙攣して息を止めた。魔物が肚ごと大きく揺れ、木々のざわめきもさっきと反対へ流れる。舌体を貫いた能次郎の刀は、落下していく彼の体と共に下へと魔物の口を裂いた。地に落ちた能次郎の頭には、斬った奴の髪だったものが塊になってぼとぼとと降る。その振動は駒たちの足下にも響いた。
「のじろ!」
おぶられていた佐丸が声を上げ、駒はその名にはたと気を奪われてつんのめった。うわっと手を突く二人の後ろで、耳を刺すようなうめき声が森を覆った。
魔物の叫びだ。駒は耳を塞ぐ。道の先には、小高く一度盛り上がった狭い森の入り口に日向の照りが薄く見えた。
駒はうめき声のする方をふり返った。舌を垂れた魔物は、肚を髪で押さえ、中からぐちゃりと毒々しい腋を零していた。魔物の血は全体的にくすんだ色だが、今流れているのはそれより赤が強い。多分、人を取り込んですぐだからだ。身悶えている魔物の間には、ひとり人の姿がうずくまっていた。
能次郎だ。
魔物は己が図体を気にせず右へ左へとのたうち回るので、木はずん、ずんと根から揺れ動かされる。必死にばらけた髪の先を集めようとした一端が能次郎のそばにあった幹に当たり、派手な音を立てて倒れた。
考えるより早く、駒はひとり能次郎の方へ駆け出していた。
「能次郎!」
駒がなんとか能次郎を引きずり出し、その体を何度か揺すった。
幸い、彼の意識はあった。駒が脇から抱えると、能次郎は痛がる様子でそれを拒んだ。耳の上が切れている以外目立った傷もないから、あとは衣で隠れたところの打ち身か、あるいは骨が折れてるのだろう。駒は青髯のある横顔をのぞき、声を落とした。
「お侍さん、まだ戦える?」
「……能次郎でいい」
能次郎は息をひゅうと吐いたきり、頬を歪ませ駒の背を叩いた。
「言っただろう、俺は己の道のために必ずここを生き延びると。その気概だけは誰にも劣らない」
耳を伝う血の感触に、能次郎はまだ生きていると安心さえ覚えた。もう後ろでは、彼自身の足音以外聞こえない。はたして、彼の耳の方がおかしくなってしまったのだろうか。
「そう」
駒は能次郎から腕を離し、束の間振り向いた。が、彼女はすぐ背を向け、佐丸を連れ二人して駆け出した。能次郎はもう追随もできず、手には駒の背を押したときの感触だけが残る。
柔らかい。能次郎はふと、約束を思い出した。
「……それと、荷は返したのだから」
胸は、と能次郎が腕を伸ばした。だがそこには、もう既に駒はいなかった。
あ?とぶれる視界の奥に、駒の後ろ姿が遠くなった。ぶれる視界というか、ぶれているのは自分の体か。能次郎はようやく分かった。彼の体にはもう、幾筋もの魔物の髪が巻き付いていたのだ。
「此奴っ……」
能次郎は懸命に体を前傾した。だが魔物は既に何人もを取り込んだ後、能次郎の数倍はする重量で、彼を引きずり込んだ。
「、じろっ」
駒の背に揺られて佐丸が大きな頭をふり返る。だが彼らの距離はどんどんと遠のいた。能次郎は刀を振り回したが、刃は殻回るばかりでそのうち峰山さえも魔物の髪に押さえられた。
「お…んのれ……!」
胴を締められ、一層浅くなった息と共に能次郎は吐血した。彼は刀をなんとか下ろしたが、毛束の数本が切れたばかり、力を削ぐには無意味だった。
駒はもう能次郎の声にもふり返らなかった。能次郎は愕然と、関所の方に見える先の白々しい日を拝んだ。まだその生きる者への光は見えているのに———どうも能次郎には、光が辿りつけそうになかった。
どうしようもなく、辿りつけなかったのだ。
駒は少し先の道で、風呂敷を首から外すや背負っていた佐丸と共に前へと投げ出した。すると日向になった砂浜には、能次郎に取り返してもらった風呂敷の中身が銭や干し芋、日記と散る。
「この、裏切りもんがあ………」
魔物の黒い髪に覆われ、僅かに残る能次郎の目の縁がぷつりと赤らんだ。所詮彼は、辞世に綺麗事など並べられぬ人間だ。能次郎がどれほど恨んでいようと、駒は一番速くその道を駆けた。
そして、駒の片足は日向に伸びた。
駒の影が砂を象った。
刹那のことだ。
日向に転げた佐丸は、起きたきりその眼を見開いた。駒の足下にできたのは佐丸より少しばかり大きな影———だがそれを影というには、余りにかけ離れていたから。
日向についた駒の踵から流線を描き、上の半身で木の陰に被さった影は一瞬で森を覆った。駒の影はあくまで木々と重なったのではなく、重なった所から全てを侵してしまったのだ。
森の色相全体が、彼女の影に合わせがらりと変わった。あたかも水墨画のように———駒の影は薄付きの墨色で森を染め上げた。それは森の中で藻掻いていた能次郎さえ、口をつぐむほど速かった。
再び耳を刺す悲鳴が森につんざく。
能次郎は目を下ろしてぎょっとした。彼の体、否体に巻き付いた黒い魔物の髪に、気づけばあの墨色の線が流れるように柄を挿していたのだ。
魔物は必死に能次郎を口へ運ぼうとする。だがあの墨の模様ができるたび、伸ばしていた髪は脆く崩れ去った。ついに能次郎を纏っていた髪はすべて朽ち、魔物はひとたび絶叫した後、もろもろの髪と体の墨模様をほとばしらせぱたりと倒れた。
森を浸していた墨色が引いた。
地面に残ったのは、人の子供ほどの大きさだった。
能次郎が来た時にはもう埋もれて見えなかったが、奴は六肢持っていたらしく、内一本は斬られた後だった。多分、これが魔物の正体で、もう奴に息はなかった。
森の入り口には日の出の光が遮られ、うつ伏せだった能次郎は顔を上げた。彼の前には駒が立っていた。気づけば森は元通り、木陰も時折木漏れ日の模様をちらつかせるばかりだった。
駒は日記を片手に、能次郎を見下ろした。能次郎がうつ伏せたまま、呆然とその姿を見上げた。
「……噂に、聞いたことがある」
彼はふと、昔のことを思い出した。あくまでそれは彼が堀田家にいた、それもごく小さい頃に聞いた話だ。日向で落ちた芋を食んでいた佐丸が、頭のこぶをちらりと上げた。
この世は武士の天下だ。質素倹約こそ美徳とされる昨今、泰平の世がごとく華やいだ金箔や鮮やかな色彩は武士に誹られる対象だった。一方、いにしえから伝わった水墨画は、彼らの感性に合うらしくよく床の間に飾られた。
色を含めばその分値も膨れるがゆえ、墨絵が流行るのは経済的側面にも後押しされたが、当然上流武家ほど値打ち品を集めたがるものだ。心ばかり金粉を添えるもの、墨の色に凝るもの、流行や好みによって価値も変わってくるだろう。
だが彼らの間では、いつも名に上がる神話のような墨絵師の存在があった。
その絵師は、自らの影で画を描くのだ。
彼らの画を名乗る水墨画は世にいくつもあったが、果たしてそれがいかほど信用に値したは分からぬ。ただその画は、持てば魔の物を避けるほどの畏れがあると囁かれ、富のある者はこぞって買いたがっていた。
誰も、その正体を知る者はいなかった。知らぬまま、彼らはその画人の一族をこう呼んだ。
影法師、と。