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影法師  作者: 春村書夏
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第二話 関の番人

森を新しい草履の音が踏みしだく。寂れた村の方から出て行く者の姿が珍しいのか、道端の栗鼠が数匹、声のする方にしきりと鼻を鳴らした。二つの人影は、静かな小道で何やら言い合いしているようだった。


「だーかーらあ」


苛立たしげな声が響く。下草が禿げた道の方では、旅姿の女と周りを童が一人、うろちょろと歩き回っていた。


「『お駒』だって言ってんでしょ?あんたより、あたしの方が年上なんだから」

「いや!こまだもん」

あっけらかんと返す佐丸に駒の顔がまたひくつく。まだ言葉つたなく随分幼い感じがするが、佐丸の見た目は語彙の割に大きい。物の分別くらいついてそうだからこそ、小癪なのだ。


「ちがう。確かにあたしは駒だけど、あんたに呼び捨てられる筋合いは」

「こま!」

「ああもう、腹立つっ」


駒は肩にかけていた荷を外すや、佐丸の頭に振り下ろした。だが危険察知力ばかり高いのか、佐丸は飛びすさってその一撃を難なく交わす。体の小ささゆえ、至って俊敏だ。村での追いかけっこもそうだが、駒はかれこれ一度も佐丸に打ち返せたことがない。

「……ったく」

駒はぶすくれ、意地悪に大股で歩いた。


森の木々は鬱蒼とし、かろうじて隣村に続く道を影が覆い被さる。道が敷かれているだけマシな方だが、旅慣れしていない子どもにとったらきついだろう。やがてずっていた足音もしなくなったと思えば、駒よりいくらか後ろで佐丸がへたり込んでしまう。


「何やってんの?」

「………」


駒はうんざり足を返す。だが佐丸はじとっと上目遣いに駒を睨んだきりだった。

「置いてくよ?」


二人旅では無闇に歩速を上げるわけにもいかない。早足の方が一日に進む距離が稼げて、結果的に宿泊回数も減らせるのだが、そんな理屈は今の佐丸に分かるまい。現に、彼は両手を差し出してきた。


「おんぶ」


甘ったれた餓鬼だ。嫌な予感が的中し、駒は頭を抱える。

「やるわけ無いでしょ。あたしだって荷物持ってんのよ?」

「こまぁ……」

「『お駒』だってば!」


駒が何とか佐丸を立たせようとするが、佐丸は意地でも起きないと砂を腹ばいになる。その底意地を歩くことに使ってくれれば有り難いのに、そうしないのが子どもだ。


「ばあちゃんめ、死に際によくもこんな餓鬼んちょ押しつけたな」

両腕ごと佐丸を引っぱり上げ、駒は歯ぎしりする。もちろん最後に誘いを口にしたのは駒なのだが、今は誰かのせいにしたくて仕方ない。


と、今まで散々抗っていた佐丸がぴたりと動きを止めた。訝しんで駒が片目を開けると、佐丸はしょんもり万歳の格好でうなだれていた。一度は枯れた涙が再び目の縁をなぞり出す。


「おばあちゃん……」

そうしてしゃくり上げだす佐丸に、駒は口ごもった。お駒と呼ばれない駒は、ふっかけてもない勝負に負けたような、何とも苦い気分になった。


かくして、駒は佐丸をおぶる羽目になる。

佐丸の体は、食べてないせいか思ったより軽い。佐丸はすっかり上機嫌で、乗馬の真似事か駒がおぶり直すたびしきりと後ろから足で彼女をとんとん叩く。


「こま、荷物邪魔」

「その中身、触ったら伸すよ」


駒は佐丸に釘を差した。彼女の背とおぶった佐丸の間には旅荷の風呂敷が挟んであったが、中には財布やら帳簿をつけた日記やら、旅に必要なものが大体入っている。これを野路に撒かれたらたまったものではない。一瞬垣間見た駒の怖い顔に、佐丸もすんなり足を引っ込める。


やがて木々の合間から平地が見え出したのは、日が南を通り過ぎた頃だった。


「おなか空いた」

「あんたは歩いても無いでしょ」


森の終わりに目を細め、駒はうっすら汗ばんだ腕を佐丸にかけ返した。


「芋ほしい。こま、芋、()()()に渡す!」

「もおお煩っさいなあ!大体、その『あたし』ってやめてよ。あたしと被るじゃん」


道の先には、裸眼にも白飛びしそうな青天のもと、粗末な門が立っていた。あれは関所だ。後ろの検問所の瓦葺屋根こそ立派たるもの、やはり田舎は門の脚が殺伐としている。


「こまはあたし、あたしは……あたし?」

佐丸は駒が何を苛ついてるのかサッパリ解していないようだった。それ以外呼び方も知らないのだろう。女なら駒も妥協したが、佐丸はいたって間違いなく男児だった。さらしを引くと同時に乗っかられた夜、彼女の腹の上にいた佐丸には確かに()()があったのだから。


「佐丸には佐丸に合った呼び方があるの」

そう例えば、と駒は背の方を見返った。佐丸は痣のある右目を髪の下でぱちくりさせる。


毎度のことながら、無垢な餓鬼だ。その時―――何を思いついたか、駒の顔にニヤアっと悪い笑みが浮かんだ。




関所に至ったところでは、関守たちが門前に立っていた。たぶん立ち番は一人なのだが、門の足下には三、四人がたむろしているのが見える。当番らしい関守は、僅かな木枠の影に背を寄せて小難しい顔つきだ。彼は向こうから来る駒たちに気づき、片眉をつり上げた。


「なんだ?手形がなければここは通らせんぞ」


女にしては長身の駒に、その門番はぶしつけな視線を寄越してその手をすげなく払った。昨今では暮らしに困って村を逃げ出すものもいたが、真っ昼間にこうも堂々と国境を渡ろうとする者は珍しい。


「はいはい、ちゃんとあるって」

駒は背中の佐丸を下ろし、風呂敷の中を漁った。実際町に入っては使うことも滅多とないが、それでもこういうことがあるから手形は手放せない。駒は幾分表のすすきれた木簡を手放した。


「このご時世に女がひとり旅か。物騒なことだ」

門番は言わんでもいいことをぐちぐちと、渋い顔で木簡を手に取った。地方に就いたお役人の類いはいつもこう愛想が悪い。他の関守たちの視線は木簡を通り越し、ふと下の子どもに注がれる。

「こいつは誰だ?」


指さされ、駒の脇では大きな編笠から痣のある丸顔が覗いた。さっきまで駒の背に揺られまどろんでいた佐丸だが、村の外で見知らぬ者に囲まれている状況に興味津々らしい。

取り巻きの関守が一人しゃがみ込み、へらっと鼻で笑う。


「なんだ、この坊主。()()()()な顔して」

「へごちゃ!」


佐丸は額のこぶをひくつかせ、「へごちゃ!」と関守の顔を指す。

「なに?俺は()()()()じゃ無い、無礼者め。名を申せ」

「ぼくちん、佐丸!」

「ああっ?」

「何だその馬鹿殿みたいな呼び方は」


関守たちは眉をひそめ、一方駒は悪い顔で噴き出す。『あたし』の代わりにと、彼女が教えたのがそれだ。佐丸には村で随分と世話になったし、これからも世話になるのだからこれくらい仕返ししたって罰は当たるまい。

仁王立ちに構えていた門番が、一度佐丸にうっすら目を落とした。


「それで、此奴はなんだ」

「あたしの小間使いみたいなもんよ」

「手形が無ければ通れないのは知っていよう」

「そう堅いこと言わないでよ。お金は出すからさあ」


駒は慣れた手つきで財布から銭の麻縄を一つ緩めた。長く旅していれば、その時々の打開策なども心得ているものだ。地獄の沙汰も金次第とはよく言ったもの、いずれの身分でも人は金に目がくらむ。


「要らぬ。手形が無いならこの道は通さん」


だが、その門番は頑なに首を振った。どころか、彼は駒の手を無下に打ち払い、土埃舞う道の上に銭がざりざりと転がった。

「あっ……」

駒は呆然と銭を見つめる。だが、それもすぐしかめっ面に変わった。


「何するのよ」

「金であしらえると思ったか。舐められたものだな」

「仕方ないでしょっ、それともタダで通してくれるの?」


当然武士の威信ばかりはいっぱしの彼らが、関を越えようとする平民を見過ごすことはあるまい。それこそ侮られては武士の名折れとか理由をつけ、通行料をがめつく引いていくのが彼らのやり方だ。


「決まりは決まりだ。これ以上食い下がろうものなら、お前もろともの手助けを請け負った罪でしかる処罰を下す」

有無を言わせぬ口調で門番がばっさり断った。杓子定規にしか物を裁けぬ奴だ。駒は上目遣いに睨みつけ、門下に落ちた銭を拾った。もとより関所など、町ではとうに排斥されているのだ。人やモノがよく行き交う今日、こんなのある方が時代錯誤だった。


銭をばらまかれても生意気な駒に、門番は一瞥をくれる。そして、


「なんっ……」


駒は突然腰から宙づりになった。というのも、あの門番が駒の背に負っていた風呂敷包みごと取り上げたのだ。

「それ、あたしの!」


駒の抵抗虚しく、風呂敷は引き剥がされあっという間に門番の手に渡る。にわかに焦りだした駒を、門番はしげしげと見下ろした。


「これが無いと困るのか?」

「当たり前でしょ、必要なもの全部入ってるんだからっ」


駒が取り返そうと躍起になるも、門番は後ろに持ったまま相手にしない。駒がいよいよ立ち上がったところ、門番は腰差していた刀を鞘ごと勢いよく押しだし、詰めよった彼女の腹にずんと柄を突いた。


当たりが悪かったらしい。駒は身を縮こめ、佐丸があんぐりと駒を振り向く。関所の奥からは何人か騒ぎを聞きつけ、遠巻きに駒を気にかけていたがそれだけだった。後ろにいた関守仲間は、零れた銭を拾ってくれたと思いきやそのまま自分の懐に入れてしまう。


「あ、待て……!」

「この荷は屋敷で預かっておこう。怪しい奴が、夜な夜な関をくぐろうなど企んでもいけないからな」


門番は駒の通行手形を手に、ふんと関所にきびすを返す。

その足に、急に重しが掛かった。いつの間にか、駒は門番の袴にしがみついていたのだ。


「へえ。こんな世じゃお武家方も、追い剥ぎなんてするんだ?」


片膝立ちになりながら駒は気の強い目で門番を射抜く。途端、後ろの仲間がざわりと形相を変え、一斉に駒へと白刃を剥いた。刀を向けられた駒はまんじりともせず門番を睨む。

が、戦わずとも勝負はついた。やがて駒はゆっくり袴を手放した。前には白刃の合間に、門番の刀の鞘が揺れていた。


「口の利き方には気をつけることだ」

そう吐き捨て、門番は関所の奥へ遠のいた。脇には駒の銭をかすめ、駄賃を稼いだと小賢しい男がにやついていた。駒はまだ散らばった小銭のそばで砂を掻き、地面に彼女の指の跡が残る。


背に伸びかかった影が、生暖かい地面の熱にゆらいでいた。佐丸は今何が起こったのかも分からぬまま、神妙な顔でそれを見つめた。




「何なのよあれっ」

関所を退いた駒は今日何度目かの地団駄を踏んだ。


駒たちは関所からそう遠くない細道へと姿を隠し、外から検問所の屋敷を窺っていた。門前で座っていると、屋敷の奥からあの関守たちがずっと睨みつけてくるのだ。駒は今歯向かってもろくな目に遭わないと、こうするしか無かった。


細道は森から続く道を横断するように建った関所の壁とほぼ平行に並んでいた。それで駒は、どうにか隙を突いてあの屋敷に潜り込めぬか探っていたのだが、関所の塀の前にはぎっしりと立ち枯れた年越し茅が広がり見通しが悪い。茅は駒の背丈を優に超えており、肩車の上で佐丸が腰を上げてようやく並ぶほどだ。たとえ塀が切れて抜け道があったとしても、この茅をつっきり終わる頃には衣も体もぼろぼろだろう。


「あの荷物、早く取り返さなきゃ」

佐丸を肩から降ろした駒は、くたびれた腰を地面につけた。しかし無い案を探るにも手は限られ、駒は無意識に爪を噛んでしまう。


「大事なの?」

「そりゃそうよ。大きい物はこっちに仕舞ってるけど、よく使うのはあの風呂敷に包んでたし」


駒は背中にかけていた振り分け荷物を解き、無造作に砂の上へ置いた。荷を手放す折りはいつも細心の注意を払っていた駒だが、今ばかりは気力も飛んでしまっていた。大体、その核たる荷を取られてしまったのだ。


「”かね”?」佐丸は俯いた編笠を上げる。

「確かにそれも必要だけど」


はたして彼が金の大事さをどこまで理解しているかはともかく、駒は風呂敷の中身に気をとられていた。もちろん、財布に入っていた銭を失うのは痛い。だが駒には、それよりどうしても気になることがあった。

「あそこには、日記が……」


そう呟くや、駒の眉根がまたぎゅっと寄る。やはり多少の怪我を負ってでも、あそこで取り戻すべきだったか。募る悔いに頭を抱える駒の隣で、佐丸が何かに気づきふり返る。


二人がいるのは、茅野で出来た細い丁路地の一端。その奥、二人が来た森の方から誰か人の気配がした。向こうは茅に隠れた駒たちを気取った様子もなく、無防備な草履の音と、ほんほんと調子外れな鼻唄が聞こえた。駒にはすっかり届いていないようで、佐丸だけが目をぱちくりさせた。


やがて角に肩衣がちらつき、男が姿を現した。

「何奴っ」

突然鼻唄が止み、男が抜刀の構えをとる。おお、と佐丸は感嘆を漏らす。


そこにいたのは、先の関守たちのように袴を履いた男だった。頭には結い上げた茶筌髷が高々と断っている。


「あ?」

とぼけて駒が目をしばたたく。男は駒と佐丸を見比べ、なんだと力を抜いた。


「女子供がこんなところで何をやってる。もしかして迷子か?」

「なわけ無いでしょ。お侍さんも呑気ねえ」

「な、無礼だぞ」

興味を失い、再び茅の方を眺めだした駒に茶筌髷の男は口を曲げる。だが実際、耕すのに剥かず放置されたこの関の外に、単に迷子なだけの人間がさまよっているはず無いのだ。


「二人とも、名は」

「そういうのって、まずは自分から名乗るもんじゃない?」


投げ槍に茶筌髷の言葉を遮り、駒は不貞腐れてだんまりを決めこんだ。彼がここの領主であれ何であれ、今はとかく全てが怠い。今しがた似た恰好の男たちに物を取られたばかりなのだから尚更だ。

駒はもはや茶筌髷を居ぬもののように振り分け荷物から干し芋を出し、もそもそと噛みだした。隣で佐丸も欲しがっているが、食料も取り上げられてしまってこれが最後だ。渋々と干し芋を割る駒に、その武士はしばし考え込むように沈黙した。


「堀田能次郎、だ」


駒はちらりと能次郎なる男を見た。のじろ?と佐丸が首をかしげる。


馬鹿正直な男だ。武士なら駒の戯言など一蹴しても文句をつけられない立場だった。現に、関所の男たちはそうした。わざわざ駒の軽口をまともに取り合うとは———意外だったが、まあそれだけ馬鹿な方が駒にとっても相手が楽である。


「俺はここの関守。今は巡廻していた帰りだ」

巡廻とは、人里に下りてくる魔物の見回りのことだろう。能次郎はそろりと鞘に手を這わせた。佐丸が彼の周りをうろつき、じろじろ刀を物色しているからだ。ご苦労な勤めだと思うが、駒には今ねぎらう気も起こらない。


「いいわねー、帰れば寝食できる場所があって」

「なんだ、お前たち関を越えないのか?」

「あたしは行けるのよ。けど、こいつが持ってないの」


駒は諸手とも差し出す。もっとも風呂敷を取り上げられた時点で、駒の手形も持って行かれてしまったのだが。

思えばこの不運も全て佐丸(こいつ)からから始まったことだった。駒は薄く目を笠の編み目に落とした。


いっそ、佐丸をここに置いていったら———。

そんな考えが一瞬脳裏をよぎるが、それを行動に移すのはどうにも気が向かなかった。長旅ですれきった駒の良心も、まだまだ捨てたものではないらしい。


「しかも荷物まで取り上げられてさあ……」

「荷?」

「こまの風呂敷!」「()()、ね?」


未だ不遜な呼び名に駒が苛立つ。これは正当な八つ当たりだ。八つ当たりに不当も正当も無いだろうが、あの荷を攫われては駒もここから動くことが出来ない。足止めはいたく成功しているのがまた憎いところだ。


話を聞いていた能次郎は眉をうねらせた。

「たかだか一人の関越えにそこまで……か?」


禁を犯そうとしたのは確かに駒たちだ。だが実際、農村から抜ける童一人というのは、おおよそ村にとってそれほど大きな損害ではない。不景気なこの頃、金を渡せば武士も喜んで道を開けるこのご時世だ。駒はそれを試みただけだし、荷まで持って行かれるというのは不憫を通り越し、なんだか妙ですらあった。


「その荷を取った関守というのは、どういう奴なんだ?」

「目がこんな風に意地悪で、鷲っ鼻よ」


駒は自分の顔を引き延ばして見せる。やや誇張気味だが能次郎には思い当たる節があった。ほお、と一度視線を巡らせると、能次郎はひとつ鼻を鳴らした。


「それなら多分顔なじみだ。どれ、俺が持ちかけて、荷を返してやろうか」

「え?」


豆鉄砲を食らったように駒が目を丸くする。思えばあの門番と能次郎は、関守の仕事着なのか衣の感じがよく似通っていた。


「掛け合ってくれるのっ?」

「まあな」

「やったー!」


打って変わって飛び上がる駒に、能次郎はにんまりと片頬を上げる。おなごに頼られて悪い気はしない、という下心がありありと顔に出ている。隣では、貰った芋では物足りなさそうに茅を噛む佐丸がべっと筋を吐きだした。




さて時は程なくして。そんな勇み足で関所に消えて行った能次郎は、やがて肩を落として門から出てきた。


「お侍さん、荷物は?」

「……」


茅野より目を輝かせていた駒に、能次郎はしばし黙る。彼が腕を差し出すので怪訝に受け取ると、そこには駒の荷ではなく、生温く手のひらに収まるほどの握り飯があった。

わあっと佐丸は飛び跳ねる。米なんぞ食ったことないから物珍しいのだろう。だが駒とも鳴るとそう簡単に誤魔化せない。


「……手強くてな」呆ける彼女に能次郎がやりきれず目を伏せた。

「え?じゃあ荷物、無いの?」

「すまん」

「このポンツク!」


能次郎が首をすくめる。口の利き方は忠告されたばかりだが、駒は全く直す兆しがない。隣で佐丸がポンツク!と駒の真似をする。能次郎も、無礼千万と切り捨てればいいものを、眉を下げて駒にすがりつく。


「待て、仕方ないのだ。本梅どのはどうも厳格なお人で……頼む聞いてくれ」

八つ当たりに遭い、能次郎は必死に代弁する。本梅とは恐らく、かの門番をしていた鷲っ鼻の関守だろう。


関所の中でのこと、確かに能次郎は本梅に荷を返してやらぬかと提言した。平生の関わりこそ薄かったが、もとよりどちらもこの関を任された身。話せば通じる相手だと能次郎は踏んでいた。


『なりません』

だが、本梅は頑なにかぶりを振った。


『し、しかし本梅どの、手形がないのはあの童の方だ。娘も金を払いたいと申し出ておる訳だし……』

『堀田殿…——これは規律です。それを破る者がいるならば、我々は裁かねばならぬ。……ここは是非、私に任せて頂きたい』


本梅はそう言って一瞬、冷たく三白眼を細めた。床の間の手前にはすり切れた布で結び目を作った風呂敷がそのままで、あれが駒の荷なのは確かめずとも分かった。が、能次郎は手を伸ばすことも叶わなかった。


「あのねえ、そういう時は相手の目を盗んで取ってくるのよ」

「そう簡単に言うな。本梅どのは、先年の戦でも功績を立てたほど頭が切れるお方だ」


能次郎は弱った様子で茅野の間にかがむ。

本梅がなかなかの知恵者であることは、普段彼を遠巻きに見るだけの能次郎にも十分わかった。近年はなにかと戦が勃発しやすく、名乗りを上げた者が——たとえそれが武家の出で無くとも——大名に成り上がることがままある。本梅もおそらく、本人が望めば都でかなりの地位に上り詰められるはずだ。


「じゃああたしの荷物はどうすればいいの?大切な物も入ってるのよ」

「それは、金か?」

能次郎はごそごそと自分の懐を探った。といっても、持ち歩いているのは茶屋で一服する分くらいだ。


「違うわよ。そんなのじゃ買えないものは世の中たくさんあるの。お侍さんもわかるでしょ?」


駒はその布施をきっぱり断った。例えば命や泰平、……風呂敷一枚の中に詰め込めるものじゃないが、能次郎にも通じる話だ。乱世ではすぐ人が死ぬ。きっと能次郎の同僚にも、金でよみがえらせることが出来たらしてやりたい者くらいいるだろう。ぐっと言葉に詰まった能次郎を、佐丸が不思議そうに見上げた。


「それで、あたしの荷物は取り返せるの、取り返せないの?」


駒は薄く能次郎を睨む。駒を見下ろした能次郎は板挟みになるような心地がして、ごくりと喉を鳴らした。

しばらく考えあぐねる時間があり、能次郎はこの目から視線を落とし、よしと手を打った。

「引き受けよう」

「そう来なくっちゃ」駒がにやりとする。

「ただし!」


事が上手く運ぶとしたり顔の駒に、能次郎は一際大きく遮った。

「これは本来俺の役目に反する行い、故にそれなりの見返りを求める!」


話を進めようとしていた駒が固まる。口を一文字に結ぶ能次郎はどうも本気らしい。互いの狭間に緊張が走った。


「それは?」「それは……」

言い溜めるの次郎を駒はじっと見つめた。強いまなざしを逃げるように、能次郎の視線は駒の鼻先からさらしを伝って下りた。

「む……」「む?」能次郎が大きく吸い込んだ。


「胸を揉ませてくれ!」

「は?」


駒は呆けた。振り分け荷物の肩紐がずり落ちる。髭も青く剃り残るような大の大人が何を言い出すか。茅の根元で座り込んだ佐丸が、ぱあとよく分からぬ歓声を上げる。一方、ろくでもない頼み事をした本人は至極真面目だった。能次郎は仕方ないだろうと嘆く。


「関守たちを見てみろ。みんな男、男、世じゃ武士は偉いなんて言われるが、こんな戦続きでは女にうつつも抜かせん。かと言って、こんな国境に武家の娘が見えるわけが無いのだ!」

頭を抱える様子は、まさに万事休すといったところだ。


「これがどれほど辛いか、分かるだろ?」「さっぱり」


同情を求めても駒には分からない。佐丸がさらしで押さえた彼女の胸を頭上に見上げる。

「ああだがやはりそうか、お前も胸はさすがに駄」

「別に揉むくらいいいけど」

「いいのか、まったく俺の人生ってなあ……っええ!?」


一人肩を落としていた能次郎は、途中で声がひっくり返った。

青天の霹靂、聞き間違いじゃ無かろうかと彼は目をまん丸にする。まだ理解が追いつかないようだ。駒はさらしに手を添え、真っ直ぐの次郎に向いた。


「あの荷物には、それだけ大切な物が入ってるから。取り返してくれるんなら、特別に揉ませてあげる」

「お、おお……」


能次郎の視線は分かりやすく駒の胸に吸い寄せられる。衣服は新調する余裕も無いのか、型崩れも相まって窮屈そうだ。その下にはさらしで押さえつけているものの、隠しきれない膨らみを確かに誇っている。

「それは……」

「ただし、取り返した後でね」


手を伸ばしかけた能次郎に駒が素早く遮った。当たり前だ、ただで触らせるほど駒の体は安くない。む、と止まった能次郎は慌てて手を刀の柄にあてがった。


「よし分かったっ、俺が必ず取り返してやろう!」


能次郎はどんと自分の胸板を叩いた。その安直な気の奮いよう、果たして期待してもいいものか。鼻息荒い能次郎に駒は一抹の不安を覚える。隣で佐丸は腕を万歳し、どさくさに紛れて駒の胸を触ろうとしていた。

「あんたは駄目。芋あげたでしょ」


駒は麻縄で編んだ顎紐から、無理やり佐丸に編笠をかぶせた。まったく、どうして男はいくつになってもこんなに乳離れ出来ないのだろう。笠に額のこぶを押さえ込まれた佐丸は「おっぱい……」と、物欲しげに駒の胸を仰いでいた。




やがて日が落ち、検問所の玄関にも篝が灯った。


瓦葺屋根の下では、例の本梅と取り巻いていた関守たちが集って盃を酌み交わしているところだった。


「いやはや、こんな片田舎じゃやることもありませんなあ。堀田殿」

関守のうち、若くももう小腹がつき出た男が能次郎に声をかけた。彼の眉間に力が入りっぱなしなのを見て、ほぐそうとしているのかも知れない。だが残念ながら、酒が入り鼻こそいくらか赤らんでいるも能次郎はそれどころじゃなかった。行燈の脇———彼の目の先にあるのは、火にほの暗く輪郭ばかり浮くすり切れた風呂敷包みだ。


能次郎は視線を誤魔化すように、酒で唇を湿らせた。あの荷の横には本梅が坐しており、隙をうかがってはいるがどうも人の目があってかっさらうことが出来ない。怪しい動きをすれば、あの切ったかの如く冷たい眼がじろりと能次郎を射抜いてきそうで、今はただ口数少なく盃を傾けるばかりだ。


「こんな暇な夜はほれ……ご開帳じゃ」

寄った関守の一人が、不意に畳を移るや能次郎の視界から風呂敷を奪った。あっと思わず能次郎が固まる中、へべれけな関守は風呂敷の結び目をほどいてしまう。

「あの女が金以外に何を詰めているか、確かめてやろうではないか」


へへっといやらしく眉を下げ、その関守は風呂敷を漁りだした。行燈の近くにいた顎髭の男がその遊びに便乗する。


「なんだあ?あいつ、女のくせに書き物なんか持ってるぞ」


畳の上には財布の他、駒が村で買った干し芋や日記に使う印籠矢立が散らばった。どくりと能次郎の鼓動が大きくなる。あの中には、駒が金で変えられぬと言った大切な物も入っているはずだ。


「あ……あまり引っかき回されるな。それは女人の荷でないか」

「へっ、堀田どのも野暮だなあ。女人の荷だから気になるんですよ」


他の関守も酔いが回って乗り気な者ばかり、彼らの輪の内には、風呂敷の中身が次々と放り出される。そうこうしている内に、荷を漁っていたへべれけな関守がおお、と感嘆を漏らした。


「なんと。……けしからん、これはけしからんぞ」

その関守は駒の日記をめくり、一枚目に開き落ちてきた紙切れを持って叫んだ。それは、むさ苦しいこんな所に押し込められた彼らにとって実に貴重な枕絵だった。

「ほら、堀田どのも見られよ」


色めいた関守がばっとその紙を能次郎にかざす。枕絵は思ってたより際どく、険しかった能次郎の眉根にも思わず血が昇る。


「なかなかの物でしょう?」

「きょ、興味ない!」


にやにやする彼らから目を振り落とし、能次郎は一気に盃を仰いだ。あの娘、何たる物を隠してるんだ。男たちは枕絵に夢中で、挟んであった日記の方には目もくれない。行燈の脇に、本梅はあたかも心ここにあらずと九分目入った盃へとまた徳利を傾けていた。


「皆酔いが回ったようだ!今夜はもう終わりにしよう」

能次郎は悪ふざけの収拾に腰を上げ出す。だがまったくその気がない彼らは枕絵を翻し、風呂敷を跨いで能次郎の手を逃れた。


「こんな物を持ち歩いてるとは、彼奴もけしからん女だ。もしや道中、金を稼ぐために……」

男たちは昼間の駒を思い浮かべ、頬を歪めた。周りが下世話だと言いつつ囃し立てる。言わんとしていることは能次郎にも分かり、さっと頬に赤みが差した。


その時だった。


「控えよ」

ふと座敷が静まった。酒で淀みかけていた空気が凍る。


盃から口を離した本梅は、あの鋭い目で大わらわしていた能次郎たち、もとい荷を崩した輩を睨めつけていた。

「……あ」紙を広げていた関守がひとり呟く。


本梅は、火種となった関守をひと睨み、薄目を能次郎に流した後荷を鼻であしらった。


「下らぬことで騒ぎ立てるな。さっさと仕舞い戻せ」


白けてしまった酒の場に悪びれた様子もなく、本梅はもう一度盃の縁を舐めた。


はたして、関守たちは能次郎が制す時とは打って変わり、皆粛々と荷を端に寄せ出した。能次郎も一瞬落ちた枕絵をかすめ見ながら、畳上の徳利を倒さぬよう散った荷を片付ける。

本梅は相変わらず、進まぬ酒をちびちび舐めていた。傍目には人並呑んでる風に装っているが、その実盃の中身は集いが始まってからほとんど入れ替わってない。最後、風呂敷の結び目を固める能次郎に一目寄越し、本梅は畳間の下手で空になって転がった徳利の幾本を見下ろした。


「どこの馬の骨とも分からぬ女にかくも乱されるとは、郷里に知れれば武家の名折れであろうな」

本梅はぎろりと一同を見渡した。能次郎は直に諫められている訳でもないのに、思わず縮こまってしまう。風呂敷から零れたままの財布には、いくらか緩んだ銭の縄が覗いたままだった。

「ましてや人の荷を荒らし、私腹まで肥やすなど。浪人風情にでも成り下がるつもりか」


本梅が低く舌打ちし、近くの関守たちが身をこわばらせた。特に昼中、拾った駒の銭をそのまま懐に入れた男は酷く目が泳いでいる。風呂敷は基本、本梅が自らの言葉に違わず見張っていたが、目をかいくぐって時折そこからも金をかすめていたのだろう。


能次郎はおずおずと行燈の陰りをうかがった。

本梅は相変わらずとっつきにくい顔で、それ以上うんともすんとも言わない。仕事の上でも浅いつき合いだから、能次郎には彼の心中が計り知れぬ。能次郎は愛想笑いを浮かべながら、また昼間のように、息を潜めていた違和感が顔を出していた。


「まったく本梅どのの言う通りだ。我々は腐っても武士の端くれ、誇り高く生きるべき。のう本梅どの?」

「……」

能次郎は分かりやすくごまをすった。調子の良い能次郎に、本梅はただ目を伏せる。


「より良き世、より良き民の暮らしを導くためにも、我々が率先してその理想を作らねばならん。まして武士たるもの、どんな理由にしても人様の物を取るなんて暴挙は……」

よく分からぬ方向に話の裾を広げていく能次郎に、関守たちは何のことやらと口を半開きにする。


「堀田殿」芝居がかった演説を本梅が遮る。

「お志は立派だが、何か根に持っておられるようですな」


暴挙は、と言い終わらぬ能次郎は口をすぼめた。本梅は、不快気にあの冷え切った眼を能次郎に向けた。

「残念ながら、私にあの女の目論見を助ける気は毛頭ない」


今度は能次郎がぽかんとする。しかし本梅の目には、何かすくむものがあった。


「あ…、はあ……」

包み直した風呂敷には、雑に入れ直したため荷が凸凹と布越しにつき出していた。しおしお肩を落とす能次郎に、噛み殺した笑い声が畳間の影でさざめく。


本梅の物言わせぬ眼力に、能次郎は押し黙った。これ以上どうすがれば心を開けるか皆目見当もつかず、彼はついに昼間のような猫なで声ですり寄るしかなくなる。

「……しかし本梅どの、あの娘は真っ向からやって来た訳だろう?関を越えるのに、ここを盛ることも夜に渡ることもせず」

「だからやましいことが無いとでも?ここを衛るは関守の役目ですぞ。それとも———堀田殿はあれに加担するおつもりか?」


本梅は関守として本当によく出来た人間だった。言い分はまったく彼が正しいから、能次郎は取り付く島もない。はて本梅は、かくも厳格なお人だっただろうか。


「……失礼つかまつる」

能次郎は居心地悪くなって、のそのそ障子の奥に退散した。駒との約束は忘れてないが、今日は余りに風向きが悪かった。

能次郎の失態を見透かすように、彼が消えた座敷では掠れた笑い声が広がった。


「やや、手厳しいですな。本梅どの」

敷いたままだった枕絵を素早く袖の下に隠し、隣の関守が膝をすり寄らせた。本梅はそのへつらいを鼻であしらい、また盃を舐めるようにすすった。

「堀田どのも、人と御家だけは宜しいのだがなあ」「馬鹿」

そんなことを内輪で盛り上がる関守たちは、容器に酒を酌み交わす。やはり酔いが回っているのかも知れない。畳で灯った行燈には、皆頬山がほんのり赤かった。掛け軸にはあせた柿茶色の端で、いつも日陰になる墨の所だけが元の緋色を浮かべていた。


「しかし、どうしてあの娘を追い返したんです?」


右に座っていたへべれけな関守が、盃をゆらゆらさせて尋ねた。そろそろ目も虚になってきた彼に、隣の男が肩を押さえる。その問いはさっきも本梅が答えていたものだが、もう彼の記憶には残ってないのかも知れない。


だが関守も引かない。ろれつの回らない口から涎を垂れつつ、彼は頭を右に左に揺らせた。

「別に何かしでかしそうな女じゃ無かったでしょう?金も払うってんだし、通してやっても良かったろうに」

「大友どの、よされよ」

隣で介抱していた髷の短い男が口を挟む。彼はその大友なる下戸と本梅の間で息も詰まる思いだろう。


本梅の唇に、酒はもう触れていなかった。畳の目に向けた視界の端では蜘蛛が柱沿いに伝っており、ゆっくりと炎の影に消えた。

本梅の後ろでは、ちょうど行燈で伸びた彼の影が掛け軸に斜めかかっていた。


「…――昼方、」

本梅はふと盃を置いた。短髷の男がこわばる。

「お前には、俺が女をせき止めたように見えたか」


本梅は暗がりに溶け込んだ蜘蛛を追うように目を細めた。


「違うんですかい?」

(あれ)は手形を持っていた」


そう俯いた本梅の脇には、風呂敷と一緒に黒ずんだ木簡が転がっていた。彼の前にはやはり進まぬ酒が並々と注がれたままだ。


これで、本梅は極端な下戸ではなかった。人並みに酒の味は分かるし、人並みに飲むくちだ。勤めも人並みに手の抜き方を知っているから、これまでだって袖の下を受け取って見逃したことはあった。能次郎の感じたことは正しかったのだ。

本梅は、そう実直な人間ではない。戦果を上げるほどの知恵者だが、彼は主君への忠誠なんぞより機転の良さで成り上がった男だ。今さら他人の手形ひとつふたつで旅路に横槍を入れるほど暇でもなかった。


だが、そんな本梅にも譲れぬことはあった。


「俺が止めたのは、女が連れていたあの童だ」


関守たちは怪訝に本梅の顔色をうかがう。彼の小難しげに寄った眉間には、いつも以上に深い皺が刻まれていた。


本梅の狙いは言葉通り、駒たちに関を越えさせないことだった。だから、本梅は最初に「手形がなければ」関を通さぬと言い渡したのだ。それは即ち、手形を持つものなら通すということ———関越えを諦めるか、あるいはあの童を捨てるという選択だ。


関所の前で会った彼女の衣は、荷物の麻縄が擦れる位置ばかり薄かった。つまりここまでの旅路は長く、賢く生きる術も心得ているということだ。であれば本梅の言った言葉の意味もよく理解しているだろう。駒が後者を選ぶなら、本梅は素直に荷を返しここを通してやるつもりだった。


()()は、必ずこの国に禍をもたらす」


不安定に揺らめく行燈の炎が、ちりちりと楮紙を通して影を引いた。本梅の背に吊るした掛け軸はくすんだ彩色をこの時ばかり赤々と燃やしていた。そこには雑然と手前に描かれた竹林と、その上をいとも容易く踏みしだいた人ならざる姿が描かれている。身の毛もよだつ盤若の首は緋色に火照り、額には大きな角をかざしていた。

「———あの童は、魔物だ」


掛け軸に踊るは、鬼という名で恐れられた魔の骨頂たる存在だった。


昼中に見たのは、右目の痣とその額に生えた小さなこぶ。あの時、彼は心の臓も凍りつく心地がした。本梅の記憶には、かつて戦で功績を挙げ、都から声が掛かった時のことがよぎった。


あの日———本梅は、申し出を辞退した。だから今こうして冴えない連中と片田舎の関守に収まっている。だがそれは、決して彼が無欲だからでは無い。

本梅は今、その由をはっきりと思い出したのだ。


「ようやく御役らしき株が回ってきた」

本梅は呟き、刀を左に座敷から姿を消した。


やがて人の減った間は、ひとしきりざわめくも世間話は続かず程なくお開きとなった。へべれけな者、それを介抱する者、面々が足取りまばらに寝室へと向かう。一方中には流れを外れ、はなれに足を運ぶ関守もいた。酒でもよおし、憚りに行く者たちだ。


「今日はひと悶着ありましたなあ」

千鳥足の関守がもう一人へと呑気に声をかけた。

「まったく、本梅どのの考えていることは分からん」

「ありゃあ戦で一旗揚げたのに都に上れず、当たり散らしておるんだ」

「平民の出が、そう易く這入れる訳なかろうに」


二人はくすくすと口を叩いて嘲笑う。「それより」男は袖に手をつっこみ、ひとつ鳴らしたその鼻の下を伸ばし振り向いた。

「これを見よ。のう、上手く出来ていよう?」


彼は端の欠けた紙一片を開いてみせる。手にしていたのは、例の枕絵だった。さっきは輪の対角にいて見れなかったその関守も、紙を覗くや「おお」と息を荒くする。

「これは何とも……」

「本梅どのには良さが分からぬようだから、わしが預かっておこうと思ってな」

「待て待て、独り占めはさせませんぞ」

「こら、あまり覗き込む出ないっ」

「飽きたらわしにも回して下さいよ」


そんなことを言い合い、紙を取り合う二人の影が壁つけの灯火に踊る。男たちは夜だから、渡り廊下の床板を鳴らさぬようにと抜き足差し足はしゃいでいた。酉の刻を越え、明日も畑仕事の農民は寝静まっている頃だった。


日の落ちた村には雉も鳴かぬ。

ぎしりと音を立て、不意に関守たちはふり返った。


暗がりに鈍色が浮かぶ。まだ廊下には酒の臭いが漂っていた。彼らはわずかに刀の鯉口を切って立ち止まった。


回廊にはほんのまばらに燈があるだけだ。突き当たりの奥にある植え込みも、殺伐とした垣根も、今は夜に紛れてしまって見えなかった。


二人は色の抜けた顔をじっと背後に向ける。

「気のせい、か」

そこに、彼らが感じとったものは何も無かった。関守たちは徐々に肩を下ろす。戦という名目があれど、一度人を殺めると枯れ尾花ひとつも恐ろしく見えてしまう。傍から体たらくだ何だ言われようと、こうして酒を嗜んでいる折が彼らは一番息がしやすかった。……あとは女がいればもっといいのだが。


と、二人はそこでようやく自分がもよおしていたのを思い出す。

「いかんいかん」「わ、わしもっ」


彼らは前を押さえながらそそくさと回廊を去った。酒が入っていたとはいえ、関守が二人しているはず無い敵に気を取られてしまうとは情けない。まあそれは実際、戦を知る男が、二人も同時に勘違いを起こすなんてことがあり得たらの話だ。


さっきふり返ったところには、いつの間にか黒く煮こごりのようなものが広がっていた。だが、それはもう彼らの知るところでは無い。二人が突き当たりに見えなくなる時、上からはまた一滴、煮こごりがとろりと垂れて下りた。




その夜、佐丸はふとまぶたを開けた。

星の明るい夜だった。疲れ切った駒は道の上にもかかわらず隣ですっかり眠っていた。吹きさらしで寝るには風があり、ちんちくりんの駒は尚のこと寒そうだ。


佐丸は駒に体を寄せ、その目で立ち枯れた茅のように天を仰いだ。

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