第一話 佐丸
ようやく雨が止みかけた折り、旅人がひとり国境にある村を訪ねた。
「女がひとり旅とは、これまた危なっかしいねえ!」
軒下で曇り空を拝んでいた老婆が声を張り上げる。前にいたのはまだ若い、編笠を被ったひとりの女だった。玄関からは老婆を煙たがるように、ここの家主らしき男が鍬と鋤を掲げ通り過ぎる。
「ばあちゃん、この辺にいい飯屋知らない?」女は老婆の忠告のどこ吹く風、さらりと受け流して尋ねる。
「ええっ?」
老婆は威勢よい口調で聞き返した。耳が悪いのか、ひたすら手で聞こえないことを示している。
「飯屋知らないかって」
「ええっ!?」
「飯屋!それと宿も!」
「何だってえ!?大きな声で喋ってくれんと分からんよ!」
村には、聞くだけでも暑苦しい二人の問答がよく響いた。村の者はもうお馴染みなのか、とかく気にする素振りも見せない。こんな片田舎に人が来るのも珍しかろうが、皆また雨が降り出す前にと畑仕事に追われていた。
「だからぁ、め・し・や、だって!」
「飯いぃ?そんなんこの道を真っ直ぐ行ったとこに……」
老婆は道の向こうを指した。女が来た方とは反対だ。ぽつぽつと見える屋根の向こう、数列田畑を挟んだところに、お粗末な丸幟が斜めがかって揺れている。
老婆はそこまで言ったっきり、クハあっと勢いよく咳きこんだ。言葉を継ごうにも痰が絡んでかなわない。老婆は短い杖に腰を折り、聞き苦しいほどに息を荒げた。
「ゴホッ、ク、あっ……」
「ばあちゃん、ゆっくり息吐いて!」
「グホオオッ……何だってええぇ!?」
しゃがれた声はキイインと彼女の耳を貫通する。老衰しているのか否か、女には何とも判別しかねた。老婆は分かったならもう行けと、杖の先でガシガシ女の草鞋を蹴散らした。よそ者に優しくしてやれるほど、この村全体は豊かじゃない。
「分かった、ありがとー!」
女はそんな門前払いにも屈せず、朗らかに手を振った。土地柄か、ここに来てからはあまり目を合わせてくれる人もいなかったくらいだ。取り合ってくれるだけめっけもんだった。
「あんたあー!若けえんだからもっとハキハキ喋り……クハあ!」
家の脇ではまた老婆が自分の大声にむせ返っている。空の西にはもう晴れ間が見えつつあった。
「さあ、これからどうしようかな」
振り分け荷物の麻縄を持ち直し、その旅人、駒は丸幟を仰いだ。藁葺き屋根の先からは、雨の残りが垂れていた。
空には日が南を通り過ぎ、畑を耕す鍬の音ばかりがひたすら土を掘っている。
「ぼったくられちゃったなあ」
民家の脇に座りこみ、駒はぼやいた。
結局飯屋といっても、こんな村の端っこだから農作業の片手間駄賃を稼ぐくらいの細々としたものだ。よそから来た者には、当然値をつり上げてくる。くわえて駒は、歳のわりに背が高く、子どもだからと甘く対応してもらえることがなかった。まあ、それはいつものことだ。これまでの道のりに磨かれた処世術も相まって、今や駒は口つきも大人と遜色ない。町では「こんなことしてちゃ嫁に行き遅れるよ」なんて、よく世話好きな女亭主に声をかけられたものだ。だから駒は、自分の歳を十八ということにしている。
駒は腰に下げた銭入れの巾着を覗いた。銭はあと数枚だ。まあ風呂敷に忍ばせた大きな財布にはまだ余裕があるから、ここを立つまでは持ちそうだが。駒が日陰になった壁にもたれると、土の感触がひんやりと雨の冷気を飛ばすのが分かる。さっき買ったふかし芋をくわえ、彼女はごそごそと巾着を戻した。
畑仕事を小憩する農夫たちは、東屋に寄るついでチラッと駒を盗み見ていく。もの珍しいのだろう。だが触らぬ神に祟りなしとばかり、声をかける者はいない。駒が視線を返すと、皆さも見ていなかったように無視を決めこむ。壁越しにはひととき鍬を立てる振動が家の内側からガラガラ、トトと伝った。それから東屋の方で低い談笑も。
駒は目をつむり、壁に背を沿わす。———そして唐突に、腕を振り上げると鋭い手刀を一発切った。
「んぎゃっ」
潰れた声が駒の手の先でつり下がった。コン、コンと丈夫そうな枝が転がる。枝は、駒の頭上から振ってきたものだ。
「女だから、勝てるって思った?」
駒がひっかけた自分の腕の先を睨む。どうも駒の荷を狙っていたらしい。相手はまだ子どもだった。
子どもは駒に吊り下げられた衣の下であばらを浮かせていた。服もいつから替えてないのか、ぼろぼろな上ちんちくりんだ。とはいえ、駒も盗られていい物なんて何一つない。それにちんちくりんな服は駒も同じだ。
「子どもだからって何でも許されるわけじゃ無いのよ」
駒はふかし芋をひとかじり、鼻を鳴らした。ここは年長者として威厳を示さねばならない。
「大体、あんたみたいのがあたしから物を取れるはずないでしょ?ここまで積んできた経験が違うの。結構苦労してるんだから、あたし」
駒は衿ごと引き上げ子どもと相向かった。さすがに片手だけのつるし上げは腕が痺れる。これに懲りていたら下ろしてやるつもりで、芋食いたさに駒は手を緩めた。
が、その時だ。
「……は?」
駒は突如その口を曲げた。
鬱陶しく伸びた前髪の奥で、真っ直ぐ大きな瞳が駒を捉える。子どもは右目の辺りがちょっと痣っぽく見えた。だがそんな見場はどうでもよい。
今しがた、駒はこの子どもを怒っていたのだ。棒で殴ろうとしていたところを捕まえ、衿首ごと吊り下げられて当人はきっと肝が冷え切っているはずだった。だというのに———
わ、と口を開けたきり、子どもはきらきらと目を輝かせた。
旅人を襲ってくるぐらいだ。そういう子供は概して世間ずれしており、一枚上手の大人に出し抜かれた途端顔をしかめ悪口を叩く。だが今、駒が引っ掴んだ子どもは違った。その見開いた目には苦悶の色もない。むしろあどけなく、駒に無垢な興味を示していた。
「……なに」「きひっ」
子どもは無邪気に衿にかかった駒の腕をとり、反動でぶらりと足を振った。
「あ、ちょっと。やめてよ芋につくって!」
駒がとっさに手を離すと子どもの体は後ろに飛び、日向の方に尻餅をつく。一方で駒の手からもその衝動と一緒に芋がすり抜け落ちた。あああ、と駒は悲鳴を上げる。
「せっかく大枚はたいて買った芋があ」
芋は、雨上がりの湿った土にまみれてしまった。せっかく、折角ぼったくりと知りながら頑張って手に入れた一日ぶりの食料だというのに。
「ほんと、何してくれんの」
駒がぎっと目を下ろした。だが子どもはまた高々と笑い、「ポンツク、ポンツク」とただくり返すばかりだ。まったく以て腹立たしかった。
子どもは駒より早く芋を拾うや、ぱっとそれを手に差し出した。振り落とさせたからといって、自分の食べ物にするつもりでは無いらしい。じゃあ何がしたかったんだ、と駒が手を伸ばすと、しかし子どもはすぐその芋を隠してしまう。
「こいつっ……」
苛立つ駒をよそに、子どもは取ってみろと言わんばかりだ。駒がついに腰を上げた。
「待……」「ちょいと」
だが、そこまでだった。民家の影には二人ほど、さっきまで駒を居ないがごとく扱っていた村人が顔を出していた。
「何よ。言っとくけどあたし、いじめてないわよ?」
この期に及んで駒を咎めるのだろうか。だとしたら受けて立とうと駒は仏頂面を返す。だが二人はただ無言で駒にすり寄ってくる。
「何ってば」
「ちょいと」
「は?やめてよ。まだあたしの芋が」
「ちょいと」
「いいい芋おおおおお!」
後ろめたそうな顔をした男が、駒を取り囲みながら畑の方に引きずっていく。憐れな叫び声と共に消え去る駒を、痣のある目がぱちくりと見返した。日陰に掛かる子どもの腕は骨筋が浮いていて、その上を一匹蟻が這い出した。
芋は泥にまみれたままだった。子どもは、置きっぱなしになったふかし芋を一口かじり
「ざらざら」
と砂を吹きだした。
「何、あんたらも荷物狙い?」
一方、連れて行かれた駒はいらいらと二人を見渡した。声をかけられたと思ったらすだれで仕切っただけの民家の隅に押しやられ、駒は荷を後ろに回し構えをとる。二人は毎日畑を耕すだけあり存外腕周りはありそうだったが、こんなの旅路で相手取ってきた賊と比べれば屁でもない。
だが男が口にしたのは、別のことだった。
「よそ者だから深く立ち入らんようにしてたんだが」男はひとたび間を置いて、言った。
「あの餓鬼には関わるな」
え、と駒は不意を突かれた。いったい関わるなとはどういうことだろう。
通路の明るみでは、連れだったもう一人の男が鷹のような目で畑一帯の百姓たちを見張っていた。裏に見える山脈は黒々と、一寸先すら見通せぬほどに鬱蒼としていた。
「さっきあいつの顔を見ただろ。ありゃあ、魔物の子だ」
男は口にするのも不気味だと、眉をしわくちゃに寄せた。魔物、とその言葉に駒は眉を上げる。彼女が信用してないんだろうと、男はさらに言葉を重ねた。
「あの額、分かんだろ?髪で隠れているが、どう見ても人の形じゃねえ。おまけに、あいつの実の親を知る者はこの村にいないときた」
男はなるべく声を落として、切々と駒に訴えた。
あるいはこの村では、あの子どもの存在を口にすることすら忌まれているのだろうか。駒は再び畑を見張る脇の男を盗み見る。だとしたら、彼らの行動も無理はない。魔物は昔からいう霊や妖と違って、確かに彼らの生活に在る存在だった。だがそれは町村問わず人のいる里に突然出没し、あっという間に人を間引いていく人知を超えた生体。未だ彼らにとったら、魔物は害獣どころか天災の域だった。ことに、こんな狭い村でひとたび魔物の子と噂された者なら、なるべく関わりたくないと怯えるのが普通の反応だ。
しかし、こういう類いの話が億劫な駒はしっしと彼らを追い払った。
「親のいない子なんて、この世の中ごまんといるでしょ」
噂を持ちかけた男たちには何も悪気は無いだろうが、かくいう駒もその一人だ。———親がいれば、娘が単身で旅に出るなど到底許されるはずもない。
「ねえ、それよりあいつの顔が何なの?そもそもあいつ、誰?」
連れ込んだ女の方が逆にぐいぐい詰めよってくるので、男たちは気圧されてしまう。だがそうこうしている内に、畑にいた百姓の目がいくつか、ひやりと民家の隙間へと向き出した。
「……チッ」
二人の男は鋤を取り上げ、素早く駒から退いた。ねえ聞いてる?と食い下がる駒に、彼らの視線はどことなく空振り、もう合うことがない。駒がこの村に入った時と同じ、あの冷ややかな感じだ。色んなところを旅していたから、駒もそれが何かは分かる。この村では多分、よそ者と話すこと自体が御法度なのだ。
「……とにかく、あいつと喋るなよ」
去り際にそう呟いて、男たちは畑へと繰り出していく。なにさ、と駒はすだれの間から舌を出した。
子どもはさっきの民家の日陰でまだ芋を頬張っていた。入れ替わりに休憩に入る百姓たちが段々をのぼって砂道に上がった。子どもはわあっとその脛を追うが、百姓たちは足蹴にするでもなく、本当に見えてないかのように避ける。これ以上子どもがすがりつかぬよう、危なっかしく備中鍬をぶら下げたりもしていた。子どもは相手をしないと追うのをやめ、黒ずんだ皮膚に浮いた右目だけがいつまでも彼らの背中に貼りついている。
誰もがあの子を見えていた。だが救いの手を差し伸べる者はいない。不気味だから、誰も助けようとしないのだ。
駒を退けるのと同じだ。触らぬ神に祟りなし。実にこの村らしいやり方だと、駒は思った。
その夜、駒は民家と何ら変わらぬ宿を借りた。宿の女将はことさら駒に無関心だった。まあむしろ駒としてもそっちの方が都合がよかった。
駒はそこでしばらく寝泊まりをくり返した。こうも打たれ強い旅人は揃って嫌な顔をされるのだが、よくあることなので駒は気に留めない。見てくれから貧しい村は、普段忌むものさえ無いから基本よそ者には厳しいのだ。飢饉と年貢の板挟みに遭い、不満のはけ口として誰かを村八分にすることで内々の団結を高めているだけ。弾かれた者に恩情をかければ、自分もああなると分かっているので誰もが駒を遠巻きにしていた。
さてそんな除け者扱いが効かぬ駒は、村に居座っている内いくつか分かったことがあった。
まず駒が始めに訊いたことだが、あの子どもの名前は佐丸だった。誰も呼ばないからてっきり名前も無いのだと思っていたが、観察しているとただ一人村でしきりと叫んでいる者がいた。
「佐ああ丸ううぅー!」
畑の角に住んでいる、あの耳の遠い老婆だ。
「あのポンツクがあ!勝手にあたしの飯を食ってえぇ!」
具合が悪いのは耳だけで体力は余っているらしく、大声で悪態を吐いては空になった欠け茶碗をカンカン鳴らしている。すると佐丸はやせた顔できひっと玄関を覗くのだ。
「働きもしないくせに!見つけたら家の前に吊るしてやるう!」
「婆さん、飯はさっき自分で食ってただろ」
「クァッハア!」
激しく咳きこむ老婆を脇に、畑仕事に出ようとしていた家主がいやいやとふり返る。佐丸の名を口にされるのも不謹慎だし、何よりこの煩いのをどうにかしないといけない。痴呆なのだと老婆を村人たちは半ばいないものとして扱っていたが、それは村八分というより、単に迷惑で手がつけられないという感じだ。
家主は老婆を藁小屋の庵に戻し、入ってこようとする佐丸など全く見えてない体で鍬をぐるんと回しすだれを下ろした。佐丸はただ、見えない小屋の向こうにぽかんと首を傾けているばかりだった。
基本、佐丸は色んなところでうろちょろするだけで、夜になるとどこかに姿をくらましてしまった。あの調子じゃ屋根の下でも寝られていまい。駒は銭さえ払えば屋根付きの寝床は確保できるので、ありがたいことだ。
幸いこの村で、駒はまだ荷を盗られたことがなかった。だがそんな彼女にもひとつ、困ったことがあった。
「あたしの飯が無いっ!」
老婆と同じような台詞に、宿で奉公している女中がびくりと肩を震わせた。この娘は小胆で、いつもびくびくしている。駒が昼餉を頼むと、娘はやはり肩をこわばらせつつ塩っ気の多い味噌汁と芋のごった煮を持ってきてくれる。そこに置いといて、と駒は板間の箸で寝転がって道中の日記をつけていたのだ。まさかその飯を、目の前からかっさらう奴はいまいと駒も油断していた。
「佐丸!」
果たしてこちらは耄碌ではなかった。すだれの隙間から痣がない綺麗な左頬を膨らせ、佐丸が宿を覗いている。すだれの藁にかけた手は熱いものを手づかみしたから、べたつきながらじんと赤くなっていた。
きひ、と佐丸が笑みを含ませ、颯爽と民家の脇へと姿を消す。
「こんのっ……」
駒はすだれをまくる。日が差し込んだ民家の間に、佐丸の姿はもう無い。
回りこんだのか。駒は編笠をひっつかんで反対側のすだれから宿を飛び出した。二度も飯をかっさらわれたらいよいよ駒も黙ってない。餓鬼だろうと村八分だろうと、絶対懲らしめてやると躍起だった。
空茶椀を下げに来た女中が、駒の跳ねっ返る体を前にひゃっと悲鳴を上げる。一人旅をしているだけあり、身のこなしはあまりに素早い。あれに捕まったら、佐丸もただじゃ済まないだろう。
首をすくめた女中がふと、敷いた藁の上に目をやった。駒の荷物がそのままだ。普段から肌身離さずそばに置く抜け目ない客だったが、今ばかりはそれも頭から飛んでしまったらしい。
じ、と女中はその包みを見る。
ここに駒が泊まる時、女将は仏頂面で高額な値を言いわたしていたが、彼女は幾ばくか値切ったばかりでそんな渋い顔もせず了見をのんだ。つまり彼女の荷にはきっと、それを凌ぐほどの銭が入っているはずだ。
女中が荷紐に手を伸ばす。
「こらああ!佐丸の奴どこ行ったあ!」
外では駒の怒声が響く。女中はつい、自分が怒られたのでもないのにヒッと腕を引っ込めてしまった。
拓いた田畑の奥には、いつもは村人も踏み入れぬ、暗い森が広がっていた。百姓たちはここの畑と、南北に流れる川の間で住み、年貢を納める時期以外、外の世界に足を運ぶこともなかった。まるで森が、村の境を作っているようだ。
「ちっ」
森の麓で立ち止まった駒は、息を切らしてそばの幹に手をついた。
見失った。足は速いはずと自負していた駒も、振りほどかれてしまうほどに佐丸はすばしこかった。そもそもここは幼い子どもが一人で入っていくような場所じゃない。大丈夫なのかと、他人事だが駒は少し気に掛かる。
森に深く入り込む手前には、かろうじて人の道が礫の上に続いていた。駒がここに来たのとは反対だから、ここを立つときはこの道を使うことになるかもしれない。細い道は曲がりくねって先の光も窺えなかったものの、脇には以前通ったものが残した石の標がある。あれはこの先を通っていい、の標だ。
駒が標石に気を取られ、森へと足を進めた時、木の奥に人影が映った。
「佐———」
駒が佐丸の名を吠えかけ、言葉をのんだ。標石からそう遠くない岩礫の上で腰かけていたのは佐丸ではない。あの耳の遠い老婆だった。
「ばあちゃん、そんなとこで何やってんのー?」
小蔭を縫ってかけよる駒に、日の模様が粒々と落ちた。老婆は聞こえていないようで、肩にも垂れかけた杖を掴んだまま砂利に坐している。
「ばあちゃあん、佐丸見なかった?さ、ま、る。この辺に来たと思ったんだけど」
駒は大声で呼ぶが、老婆にはつゆほども届かぬ様子だ。よほど耳が問いらしい。これは近くまでいって叫ばぬと聞こえないと、駒は半ば諦め足を運んだ。
やがて老婆のそばに立ち止まり、上から駒はゆっくりその顔を覗いた。老婆は皺だらけの瞼を閉じたままだ。
「ばあちゃん?」
駒が老婆の、細々と広がった白髪を上げる。
触れた額の温度に駒は体の中がぎゅっと縮む心地がした。老婆は、死んだように眠っていた。いや、あるいは本当に、
「ばあちゃんっ」駒が揺さぶって老婆の耳元に口を寄せた。「ばあちゃん!!」
「うるっさああぁい!!」
突如老婆が腕を突き出し、駒は杖ごと顎を殴り上げられた。そして老婆は例のごとく、吸い込みすぎた空気に激しくむせる。あえなく倒れる駒に、老婆は「これだから最近の若いもんは、口先ばかり威勢がよくて、まったくまったく……」と尻すぼみにモゴモゴ文句を垂れた。そんなにまったくと言うなら、大声を出させたのは一体誰なのだろう。駒は倒れた芝生に鼻をくすぐられ、一つくしゃみをした。
「……佐丸を、見てない?」「知らんね、あんなポンツク」
老婆はすげなく返す。実際、駒が話しかけた時はぐっすり眠っていたらしい。今は受け答えが存外すんなりしている。
「あいつ、もっと先に行ったのかな……」
一つにまとめた髪をかき上げ、駒は首をかしげた。老婆は果たして聞こえていたのか、それとも単なる癖か、微かにかぶりを振っている。もっともあれだけ熟睡しているのだ、老婆が否定したところで信用は出来ないのだが。
「ね、ばあちゃんの家ってあっちでしょ?何でこんなとこいるの?」
駒は老婆をのぞき込んだ。
二人のいる道はちょうど国の境となる森の中だった。老婆が初め駒を出迎えたのはここより離れた、棟の並びだ。老婆は横にあった標の石を撫ぜるばかり、何も言わなかった。やはり声が届いていないのかも知れない。駒は諦めて腰を下ろした。
畑の向こうでは、村の端にある山の木々がなだらかに緑の線を描いていた。
「佐丸ってのはねえ、あたしが付けた名前だよ」
しばらくして、老婆が口を開いた。後ろで胡坐をかく駒にも、ともすれば聞こえないほどしゃがれた声だった。先の咳で喉も枯れたか、今ばかり十分歳に見合った声に駒はむしろ驚いた顔をする。
老婆は呪詛のようにぶつぶつと息を吐き出した。
「ろくでもない餓鬼だってね、乞食のくせに萎らしく施しも乞わず……ここに残っては人の飯をかっさらって、しかも図々しく居座ってんだからさあ。まったく、あたしの作った飯だっていくら食われたことか。皆に嫌われてぇいい気味だい。さっさと出て行ってくれないかねえ……」
老婆は手持ち無沙汰にしきりと石を撫で回しそう呟いた。駒はさらに驚いていたが、その顔が、徐々に渋くなっていくのを止められなかった。
「ばあちゃん、昔はあの子のこと可愛がってたんでしょ」
当然だった、佐丸に名を付けるくらいなのだから。だが駒は、痴呆で人が己の旧友すら忘れてしまうことを知っていた。歳でいつの間にか性根がゆがみ、名まで与えた佐丸をこれほどこき下ろせるようになったと思うと歳月は恐ろしい。それも相手は駒の飯を盗ったとはいえ、まだあんな幼い子どもだった。
老婆はひたすら、嫌々という風に首を振った。駒は苛立ちを越え、腹立たしささえ覚えた。
「何でよ、ばあちゃんまで。この村の人は皆して……なんでそんなに佐丸を除け者にするの?」
下草を握りしめる駒に、老婆は上の空で杖の頭に顎を置いた。
「……知らないよ」
老婆はよっこら、と腰を上げ、杖を支えに枯れ枝のような足を引きずった。まだ食い下がり足りない駒が後を追おうとすると、老婆は杖を振り回して遮る。
「さあ、帰えった帰えった。お前もさっさとここを出てくんだ!」
そうがなり立てて老婆は森を下りていく。出てけと言われたって旅のには宿に置きっぱなしだ。駒は老婆が見えなくなるまで、しばらく佇むほかなかった。道端にはまだ、老婆の撫でた標石が積み重なっていた。
宿では代わり映えしない飯が運ばれ、駒はかぶりつきながら旅路の行程を整理し床に就いた。移る土地土地の有り様は基本、しれっと井戸端会議に交ざって得るようにしているのだが、こういう村ではそれも無理だろう。無駄足踏まず、そろそろ出立がよかろうと横になって駒は思った。ところで今晩記した帳簿には、記録に残していたより銭が減っていたのだがあれはどうしたものだろうか。
村は、その翌朝を静かに迎えた。
人慣れした雀が案山子の頭にとまっていて、早起きの百姓たちが草履で藁を踏みしめる音にようやく飛び立ち短く鳴いた。民家の間を風が細く吹き、日の昇り始めた村にはすだれの擦れる音が響く。
村のはじめにある庵から、いつもなら鍬を掲げて出てくる家主が珍しくもう一人の男と藁を担いでいるのが見えた。隣家の壁の影で備蓄の食料を買い占めていた駒は、ふとその手を止めた。
男は二人して愛想の抜け落ちた顔をしており、間には、人一人分を横たえたくらいの藁包みを抱えていた。
「ようやくだ」「ああ、成仏したさ」
男たちの低い呟きが風になびく。
二人はどこか安堵に似た表情でなだらかに勾配が続く方へと消えた。昨日とは反対に、ちょっと小高くなった見晴らしのいい台地だった。
駒は何も言わず、折角買った備蓄の干し芋を一片歯でつぶした。
その日は村によく高い足音が行き来した。あの佐丸だ。佐丸は棟の間をうろうろして、よく道行く人の間に見えた。駒の宿にもあの不思議そうな顔を覗かせたので、駒はとられまいと昼餉を口いっぱいに詰めこんだ。
陽も落ちかけた頃になって、荷を畔に下ろした駒は川で水浴びをした。
宿には当然風呂なぞない。人目が全くないのも怖いし、駒は村の明かりが落ちきる前に戻ろうと髪の水を切った。
彼女の服は下衣と上張りといった、ごく簡素な恰好だった。脚絆は本来上端が服の裾に隠れるものだが、駒のは数年前から変えてないからちょんちょんで、膝が見えかけている。でもまあ困るほどでもないから、気にするほどでもない。問題は年々増える胸の嵩だが、これもさらしを巻けば多少衣の丈も誤魔化せるし……。
駒がそこで、下衣を被りかけて固まった。
「———ん?」
荷の下をまさぐり、持ち上げ、編笠をひっくり返してをくり返す。ここに置いた記憶は確かにある。だが、……
「無い」
無いのだ。駒がほどいて、ここに置いたはずのさらしが。
いやいやさらしは布なんだから、足が生えてどっかに行くなんてことは無いし。風に吹き飛ばされたのだろうか。衣の下にまとめてあったのに?
やおら焦り出す駒はあたりを見渡した。空はもうぼんやり明かりを残したきりで、森の奥はよく見えない。でも、さらしは絶対近場にあるはずだ。荷物は常に目を配っていたし、だからってさらしだけ盗ってっても何の足しにもならない。あり得るとしたら、駒がさらしに気を取られた隙を見て、荷をかっさらおうとしている連中だ。
駒は風呂敷と振り分け荷物を腕に抱き、鋭く茂みを睨んだ。やがて畔からそう離れてない所で、長い下草の間が不自然に揺れた。
「そこっ!」
駒が持ってた石ころを茂みめがけて撃つ。その瞬間、下草の間から小さな影が飛び上がった。
———そいつは確かに、長い布を持っていた。幼い自分の体に巻きつけ、持つというより絡まっている感じだ。頬を緩めた奴は、短い八重歯を見せきひっと笑った。
駒の顔色がさっと変わる。
「佐丸ッ!!」
そう怒鳴った途端、その影が駆け出した。甲高い子どもみたいな悲鳴を上げ、実際のところ子どもなのだが、駒はこれまでのこともあり容易く怒りの沸点を超える。佐丸がぐるぐるにしているのは、当然駒のさらしだった。
「待て!この色ガキ!」
駒は下衣のまま後を追いかけた。佐丸は小さいから隙あらば茂みに隠れ見逃してしまうのだが、駒が立ち止まると程なく木の後ろや、下草の途切れたところからさらしの先だけをひょっこり覗かせる。
「ああもうっ、明かりが無いから……」
空はほの暗く、灯油を差す暇も無く下の家々は寝静まっていた。視界には黒く森の木々が揺れるばかりで、これでは月明かりも下りてこない。
突然、ぼこっと後頭部を叩かれ駒はつんのめった。
「お……っ前!」
踏ん張りをきかせた足で支え、駒は振り向きざま高く回し蹴りを飛ばした。だが的は微妙にずれる。さっきの衝動は、佐丸がさらしを枝にかけ、そこから伝っておもりのよう体当たりしてきたものらしかった。
「ポンツク、ポンツク」
佐丸は可笑しそうにさらしの先で体を揺らしている。ムキになった駒を見て、尚のこと嬉しそうだ。
「あいつ、絶対潰してやる……!」
駒ははだけた下衣を一度直し、持ちっぱなしだった脚絆をぼとりとその場に置いた。そして長い足で踏み込むと、木の上めがけて銭も入った風呂敷を投げ上げる。うわっと驚いた顔をして、佐丸がさらしの一端を手放した。
だが逃げ足の速い佐丸は、すぐ体勢を立て直したかと思うと茂みに飛び込んでしまった。金目の物も詰まっているというのに、やはりまったく荷にはお構いなしだ。ああもう、と自分で投げておきながら、駒は苛立ちを隠せない。
佐丸を追って根をかき分けるうち、駒は森を抜け畑が見渡せるほど開けた砂利道に出た。でも佐丸はいない。駒のさらしを盗んだまま、忽然と姿をくらましてしまった。
あいつは何処だ。
駒はそれはもう般若の如き形相で辺りを探る。ちょうどその時、目先の枝から包帯のような長布が垂れているのに駒は気づいた。
あれは、さらしだ。
駒は唇を舐めた。ここまで追い詰めたからには、軒下にくくりつけ逆さ吊りにでもせねば気が済まないというものだ。人のさらしで遊んだ落とし前はつけてもらおう。駒がその長布に手をかけた。
「捕ったあーーー!」
そして、駒は布を盛大に引く。
すんと存外軽い感覚がして、さらしが抜けた。引きすぎたか、と手を緩める間もなくさらしの先がするっと宙を舞う。だが、そこに佐丸は付いていなかった。
「え?」
勢い余ってのけぞった駒の頭上にふと影が差した。月を遮り、さらしより一段上の枝から降ってきたのは、右に痣のあるあの童顔だった。
声も上げられず、駒は砂利道に倒れ込む。体の後ろが小石に食い込み痛かった。駒の手には、例のさらしが戻っていた。
駒の腹の上には佐丸が乗っていた。薄目になった彼女を覗き込み、佐丸が目を輝かせる。まったく、癪に障るほど無邪気な笑みだ。
その時、駒は初めて佐丸の顔をまじまじ見ることができた。
彼女の上には、昼間に見逃していた顔の痣が今しがたよく見えた。月の逆光と前髪で、色やその形までは分からなかったが―――その黒々と額を這った髪の隙に、小さく、一箇所だけ犬歯のようなでっぱりが確かにあった。ただの幼子と変わりないのに、そこだけは駒の目から見ても、まるで本当の鬼のような。
駒は一瞬身がこわばった。鬱陶しく伸びた佐丸の髪先が、頬をくすぐる。駒をやり込めたと確信したらしいその幼子は、足をぶらつかせいたくご満悦だ。
「あたしの、勝ちっ」
佐丸は馬乗りできひっと駒に額を近づけた。
「あたし?」
駒は佐丸を睨み返した。幼いから見分けがつきにくいが、てっきり男だと思っていた。だって、あの老婆が『佐丸』と名付けていたから。
あのばあちゃんが。
道の脇には、老婆が撫でていた標石が積んでいた。駒たちは昨日の砂利道に戻っていたらしい。隣で昨日、佐丸をけなしていたのもあの老婆だった。
佐丸は何も知らず、にこにこと駒を見下ろしている。駒は、ふと真顔になった。
こいつが何を考えているのかも分からない。佐丸はいつも、よそ者の駒や、大声で騒ぐ老婆の周りをうろついていた。佐丸と呼ばれるたび嬉しそうに、滅多な暮らしも出来ないくせに、いつまでもここに居座っていた。
ポンツクと罵られ、あたしの飯を食べたなと冤罪をかけられ、それでも佐丸は孫のように老婆を毎日訪れた。
「佐丸」
佐丸は村中を歩き回り、砂だらけになった足を止めた。その日の昼中、村にいた駒は佐丸がひどく目についたのを覚えていた。
「ばあちゃんは死んだ」
駒だってこの村と一緒だ。朝にあの藁包みを見た時、自分は何も思わなかった。握ったさらしが下草と混じり皺を寄せた。
はたして、佐丸は知っていただろうか。駒の上で、痣のある右目がきょとんとしていた。
村は静かだった。いつも叫び散らしていた老婆はいなかった。佐丸が村を走り回ったのは、老婆を看取ることもなかったからだ。駒はただ、仰向けたまま月を睨んだ。
やがて、駒の頬に雫が落ちた。
腹の上で、佐丸は静かに泣いた。幾粒も零れる雫を、駒は顔に受けた。佐丸は声も出なかった。せり上げる嗚咽以外、どう泣くかも老婆に教わらなかった。標石はわずかな月の影に鈍い灰色を輝かせていた。
しばらく二人は声を立てず向き合っていた。しかし、敷かれた駒も背中が石ころでそろそろ痛くなった。佐丸がいつまで経っても動こうとしないので、駒はついそれを下にずらしゆっくり胡坐をかいた。佐丸はまだ泣き止む様子が無い。
ぶっきらぼうに駒がひとりごちた。
「ねえ、行く宛て無いならさ。あたしと一緒に村を出ない?」
駒は聖人でもないのだ、こんなちんちくりんを優しくあやせるほど慈悲深くはない。
震える肩は頷いてるのかかぶりを振ってるのか見分けかねたが、放っとく訳にもいかないので駒は佐丸に編笠を貸した。森は賊や魔物が出ると危ない。ひとまず二人で民家の方まで下りた時、空はもう紺碧色に村を覆っていた。
「今日はもうお休み」そう言って、駒はひとり宿に就いた。
農村の朝は早かった。
まだ空も暗い内に、外ではごそごそと藁をかき分ける音がする。宿の土間を出た駒も、編笠を取り返さねばとくくってない頭を掻いた。彼女の足は宿を出て森と反対の民家へと向かう。
「……まったくさあ」
昨夕川で流した髪をくしゃくしゃと揉み、駒の頭は斬バラの武者みたいになった。老婆の言い置いた言葉が、また鼓膜によみがえった。
駒は一介の旅人だ。別にあいつを連れて行くのは彼女の務めじゃない。
老婆があの道で言っていたのは、ただのひとりごとと思えばよかった。もしあいつが編笠を返しに来なければ、無駄賃にはなるがまた新しいのを買うしかないだろう。
欠伸を一つ、駒は畑の方を見やろうとして立ち止まった。
「ん」
隣家の泥で塗った壁に、もたれかかる影があった。編笠にくるまった影は小さく、右に痣のある瞼には涙の跡が固く残っている。駒は、しばらく東の空を見つめた。
む、とうめいた佐丸は目を開けた。途端、ぱちくりとどんぐり眼が輝き、幼げな唇が何かかたどった。だがそれもすぐ口に何かをつっこまれ、もぐもぐと咀嚼するしかなくなる。駒が佐丸に押し込んだのは、昨日買った干し芋だった。
駒は自分も懐から干し芋を口に放った。
「ほら、行くよ」
そう見下ろす駒に、佐丸は呆けた。彼女がくくる髪の根を見つめ、緩めた口からぽとりと干し芋が落ちる。地面はすっかり乾き、砂が白くなっていた。
まるで昨日の約束を忘れているようだった。駒は颯爽と落ちた芋を拾い、これ見よがしに佐丸へと見せびらかした。ようやく正気に戻ったらしく、額にあったこぶが芋を前にひくつく。佐丸はすぐ編笠を放り出し、駒の腕にかじりついた。
「お……お客さん、これじゃお代が足りませんっ」
出立時昨日の宿代を払う折りになって、あの気弱な女中の娘が声を震わせながら食い下がった。まだ早朝で、女将はいたまで熟睡している。こういう朝方の仕事は、下っ端を使うのが一番だ。
昨晩編んだ少し小さい草履を佐丸に履かせ、駒は宿のすだれをめくった。女中の娘は慌てて追いかけ駒の風呂敷に手を伸ばす。未払い客を追うのは怖いが、代金を踏み倒された後に会う女将の顔の方がよほど怖い。
しかし、駒は容易くそれをかわしてしまう。
「足りるよ。だって、あんたあたしの金盗んでたでしょ」
綺麗に前のめってこけた娘を駒は見下ろした。駒の声は責め立てる圧こそなけれどよく通り、娘はヒュッと喉を鳴らした。
「そ、そんなこと……」
「相手が帳簿付けてるかどうかくらい確認しな。ま、そもそもあたしが筆を執るってのは、見ても予想つかないだろうけど」
駒は意図で閉じた冊子と筆を手に蒼白な娘をふり返る。財布の銭を数えたとき、緩んでいた銭留めの正体はこれだ。そもそも、駒が荷から目を離した時機は限られている訳で、犯人をあてるのも簡単だ。娘の慌てっぷりは自白そのものだが、見ているだけで駒も可哀相になってくるほどだった。
「別にあんたが居にくくなるようなこと、言いふらしゃしないわよ」
ただこの差額は落とし前つけといてってこと、と駒はしたり顔だ。ふと恨めしそうに睨む娘を背に、もう宿の方は見返りもしない。駒は昨夜見た標石の方へと向き直った。道の左右にはうねりが続き、やがて森が村の境を覆う。
彼女の先には、編笠を引っかけた小さな背がひとつ歩いていた。
駒は短い脚絆の足を早め、佐丸と横並びになる。二人は標石のある森へ歩を進めた。あけぼのの空はようよう白み出し、その色は村の傍にある小高い丘にも届いていた。