⑨ アリス、誘拐される 前編
侯爵一家が領地に来て約二ヶ月が過ぎようとしていたとある日。
王子殿下がコンフラン領にやって来た。
それは、婚約者の誕生日を祝う為である。
大きな花束を抱えてやってきた王子殿下を、コンフラン家一同で出迎える。
彼の手には、プリンセス・ドゥ・ヴィルフランシュという名の王家の薔薇が抱えられていた。王家以外で栽培される事を許されていないその薔薇は、中央がパステルカラーの薄いピンクから、外に向かって花びらの色が濃くなっていき、深紅の花びらで囲まれている。
花言葉は、気高い貴婦人。
この時期に咲かないその薔薇を、温室から鉢植えで大量に運んできて、そして一週間の旅の間に生き残った美しい薔薇を使って花束を作る。
手から零れ落ちそうなほどの大きな花束を作るために、どれほどの鉢植えが運ばれたのか。
想像するだけで、我らが姫様が王家に愛されている事を感じ取り、領民たちは王子の訪れを大歓迎した。
その大きな花束を見たアリスは、王子殿下を迎え入れる家族の列から覗き見、そして左眉をくいっと持ち上げた。貴婦人がよくするその表情に、アリスを窺い見ていたラファエルは採点を待つ生徒の様にドギマギと立ち尽くす。
片眉を上げたままアリスがチラッとラファエル王子を横目で見、「ふむふむ」と小さく二度三度頷いた。
口に笑顔は無かったものの、アリスの表情から八十点は貰えたと確信した王子は胸を撫でおろす。
その夜、アデルの十九歳の誕生日パーティが行われた。
家族との楽しいひと時を過ごしたアデルは終始笑顔だった。
王子殿下からのプレゼントは、プラチナの台座から眩い光を発するイエローダイヤモンドの指輪。
その大きさから、天文学的な金額になりそうだ。
またしてもアリスは、口を少し片方に歪ませて、左眉をくいっと持ち上げ、胸の前で組んでいる右手に左手肘を乗せた状態で、左掌を頬に添えさせた。
そして「ふむふむ」と小さく二度三度頷く。
その表情から、及第点ギリギリだった事に気付いた王子は、目を泳がせる。
その様子を見ていた侯爵夫妻は、あの日アリスと王子殿下の間で何があったのかを、早急に確認する必要があると感じた。
その一方で、自分の色で誂えた誕生日プレゼントを渡すほどに、ラファエルがアデルに気持ちを傾けている事に胸を撫でおろし、そしてアデルの嬉しそうな笑顔を見て、ホッとした。
一時はどうなるかと思った二人だったが、アデルが上手くラファエルの手綱を締めているようで。しかもアリスも王子に対して、何やら影響を持っているようで。
アデルの性格からすると、自分に辛酸を舐めさせた人物へ必ず復讐するだろうことを予想した侯爵夫妻は、アデルの行く末を案じながらも、アデルの希望通りにこの婚約を続行することに決めた。
次の日、ラファエルは王都には戻らずに数日侯爵邸で過ごす予定だったため、アデルとアリス、ルイを連れて海の方へ出かける事となった。
要塞から外へは出ることを許されなかったアリスとルイは、初めて海辺へと行けることに興奮しながら、簡素な服装に着替えた。
王宮からラファエルと一緒にやって来た王立騎士団の騎士達と共に、城から徒歩で城下を降りていく。
活気溢れる城下町のお店を見て回る一行。この一ヶ月でアリスとルイも何度もここまで遊びに来ていた為、城下で商いをしている領民達も、アデルやアリス、ルイに気安く声を掛ける。
そうして領民にも分け隔てなく接するアデルを見て、ラファエルは相好を崩した。
「イイ感じだね、アデル姉様とラファエル兄様」
ルイにとってはラファエルは、コンフラン家で過ごすようになってから会うようになったが、従兄である。純粋に二人に上手くいって欲しくて、笑顔でアリスに話し掛ける。
しかしアリスはいつもラファエルを採点するかの様に凝視するのだ。
「今のところは及第点ね。王家の薔薇は良かったけど、あの誕生日プレゼントはいまいちだったわ」
採点は公平な物ではなく、マイナスからのスタートのようだ。
「あの指輪? すごく綺麗だったよ?」
「確かに自分の髪の色と瞳の色で作った指輪は、とても良かったわ。だけどおねぇちゃまにはいまいち似合う色じゃなかった」
「ドレスの色で、いくらでもカバーできるよ」
二人の会話が漏れ聞こえたラファエルは、心のノートにそっと書き記しておいた。
とうとう第一の門を越えると、そこに広がるのは白い砂浜と水平線。
右手に大型船が行きかう港があり、左手には漁業関係者が船を出すときに使う場所がある。
目の前の白浜には、裕福な家族が海遊びをしていたり、城下町で親が働いている子供達も、その海で遊んでいた。
もう十一月なので誰も海には入っていないが、砂浜でそれぞれが楽しんでいた。
ラファエルとアデルが貝殻を拾ったりして楽しんでいる横で、アリスとルイも砂のお城作りに夢中になった。
そうしてそれぞれのカップルが時を過ごしている時、アリスが一人の少女が海の中に入っていくのを見つけた。
アリスは驚いて、ルイと共に少女の元へ向かう。
少女は海の中を覗き込んで、何かを探しているようだった。
「何をしているの?」
アリスが声を掛けると、少女が困ったように二人を見て、母親の形見の指輪を海に落としてしまったと話した。
「ここで落としたのは確実なのに、見当たらないの・・・」
「寄せては返す波に流されてしまったのかもしれないね・・・」
「寄せては返す波?」
「うん。波がこんな風に、寄ってきたかと思えば沖の方へ返って行くだろう? これによって、物が流されて行ってしまうんだ」
「・・・・・・・」
ルイは、手を繋いでいない方の手で、繋いでるアリスの手をポンポンッと優しく笑顔で撫でた。
「困ったね・・・」
そう言って悩んでる三人の元に、少女の父親が現れた。
「エマ」
名前を呼ばれた女の子が振り返る。
現れたエマの父親は、中肉中背のどこにでも居そうな男だった。
ルイはアリスの手を引いた。
「お父さんが戻ってきたね。僕たちもそろそろ家族の元に帰るよ」
そう言ってルイが踵を返そうとしたところ、エマがルイの手を引っ張った。
「え! 一緒に探してくれたお礼に、私たちの船に招待するわ」
エマの笑顔の申し出にアリスの顔が輝く。
「え? 船? 乗りたい!」
「ダメだよ、アリス。兄様と姉様から離れてしまったから、戻ろう」
そう言ってルイはエマの手をほどき、アリスを引っ張る。
「え! 乗りたい乗りたい!」
アリスが足で踏ん張るが、ルイも負けない。今二人に身長差は無い為、お互いの力が拮抗する。ルイの方が力は強いが、ルイはアリスの手を強く引っ張る事が出来ない為、防戦一方だ。
それに気づいた、ルイとアリスに付いていた騎士が近づこうとした時、エマの父親が大きな声を出した。
「アレは何だ!?」
ルイとアリス、そして騎士が差された方を見ると、海の男達がラファエルとアデルの近くで喧嘩をしており、ラファエルの騎士数人が止めに入っていた。
ラファエルもアデルの前に盾となり、その二人を別の二人の騎士が守っている。
人手が足りないように見えた、ルイとアリスに付いていた近衛が振り返ると、そこにはもうアリスとルイの姿は無かった。
アリスとルイは、口を押えて二人の男に担がれて、そのまま小舟に乗せられていた。
そしてあっといいう間もなく二人を乗せた小舟は、多くの船の行きかう港に紛れ込み、一つの大きな船の横に停泊したかと思うと、誰にも気づかれない速さでそのまま大きな船の中に連れ込まれてしまった。
あまりの恐怖に声も出せずに、ただされるがままだった二人の前に現れたのは、顔に大きな傷がいくつもある、今までに見たことが無い程大きな男だった。
砂浜で話をしたエマとその父親と思われる男も仲間だったようだ。
大男はまずアリスを品定めするように、舐めまわす様に見る。
「!」
巨匠レオナルドの天井画に描かれた天使を具現化したような美少女。怯えた表情は、加虐趣味の人間にこれまでにない程の高値で売れるだろう。
まだ見ぬ高額の取引に浮かれた目で、アリスの隣に目をやれば、
「・・・・アハハハハハ!!!」
海賊の統領である彼は、大きな口を開けて大笑いをした。
「これはこれは!」
最上級の天使の横に居ても、その美貌を損なわれる事のない美少年。
線の細いそのか弱い姿は、そっちの趣味の無い海賊の統領ですら倒錯されてしまう。
「最後の最後で大当たりを引いたな、エマ!」
美少女よりも圧倒的に希少なこの手の美少年は、熱狂的マニアが金に糸目を付けずに手に入れたがる。
海賊の統領の目はおぞましく、ルイは自分が死よりも残酷な目に遭うことを容易く想像させた。
真っ青になったルイを見て、アリスは目に涙を浮かべながらも一歩前に出て、ルイの前で仁王立ちになり手を大きく広げた。
海賊の統領はそれを面白い催し物であるかのように、片方の口角をいびつに持ち上げてアリスを睨め付けた。
「ルイは、関係ないから帰してあげて」
振るえる声でそう言ったアリスを、統領が遠慮も無く片手で首を絞めつける。
「ぅうっ・・・!」
「アリス!!!」
苦しさに顔を歪ませるアリスを楽しそうに眺めて、男は笑った。
「その勇気。普段なら買ってやってもかまわないが、こんなに上等なカモはどちらも手放せねーな。
悪いが諦めろ」
苦しさにアリスの手が震える。
首を掴んでいる男の手を放そうと試みるが、アリスの数倍はありそうな大きな手は、無情にもアリスの首をどんどん絞めつけるだけだった。
「やめろ!」
ルイが立ち上がって男に体当たりをするが、空いてる手で首根っこを掴まれて、そのまま壁に放り投げられてしまった。
「あぐっ!!!」
背中を強く打ったルイは、空気をうまく吸い込めずにその場に蹲った。
ぼやける目で見れば、アリスが苦しそうに涙を零す。
その姿をルイが目に焼き付けた事を確認してから、男はそっとアリスから手を離した。
床に蹲って荒い息を繰り返すアリス。
男はわざとルイに見せつけたのだ。圧倒的な力の差を。もう二度と逃げようと企まないように。
「大人しくしてりゃぁ、傷付けはしねーよ。お前らは高額商品だからな」
エマの父親役だった男に、ルイとアリスを船底の隠し部屋に閉じ込めておくように指示を出した。
海賊の統領は懐中時計を開いて時間を確認した。
時刻は15時少し前。彼らの船が出航できるのは15時。
かつてない成功を手中に収めた男は、既に港を出た後のことに気持ちを馳せていた。
「アリス、大丈夫?!」
船底に閉じ込められたルイは、二人になったとたんすぐにアリスに駆け寄った。
アリスは涙でぐちゃぐちゃの顔でルイに抱き着いた。
「ごめん、ごめんね、ルイ! 私のせいで・・・」
うえんうえん泣くアリスをギュッと抱きしめて、ルイは部屋をぐるっと見渡した。
「アリスのせいじゃない。これは巧妙に仕掛けられた罠だったんだ。初めから僕たちを狙っていたんだ。だから、アリスのせいじゃない!」
窓の無い部屋の中に、いくつもある鉄の檻。その中に、何人かの子供が入れられていることにルイは気づいた。
そして扉の前で三角座りをして、無表情でこちらを見ているのはエマ。
「それでも、アリスが船に乗りたいって言わなかったら!」
ルイはそっとアリスの耳に口を近づけて小声で話しかけた。
「僕たちの近くに騎士がいたら、彼を斬って連れられていたよ。それだと今よりもっと悪い状況だ」
ルイの一言に、泣いていたアリスが顔を上げる。
涙で滲むヴァイオレットサファイアの瞳が綺麗に揺れる。ルイは不謹慎にもこの様な状況で、その瞳を綺麗だと思った。
こんな薄汚れた暗い地下室でも、異彩を放つ美しい瞳。
「彼が無傷である事によって、いち早く僕達が居なくなった事を兄様達に伝える事が出来るだろう。
・・・大丈夫。僕達はここで、助けを信じて待っていればいいんだ」
ルイは、アリスの乱れた髪を優しく直してあげながら、自分に言い聞かせるように繰り返す。
「大丈夫・・・」
アリスは、涙を拭って辺りを見渡した。
自分達と同じ様に檻に入れられた少年少女たちは皆、疲れ果てた様に檻の中で空ろな瞳をしていた。
今まで知らなかった、恐ろしい世界。
暴力に支配された場所で、なすすべのない子供の自分。
アリスはまた涙を零して泣き出したが、瞳は開いたままルイを見つめた。
ルイは、昔一度だけ会った公爵夫人と同じ儚げな笑顔で、自分の髪を優しく梳いてくれた。
黄金色の優しい瞳に、自分の情けない泣き顔が映る。
アリスは顔を横に向け、エマを見る。
自分達を見ているようで見ていないエマを・・・。
「エマ、お願い。ルイだけでも帰してあげて。お願い・・・」
アリスはしゃくり上げながら、その後何度もその言葉を繰り返した。
ルイは、泣き続けるアリスをギュッと抱きしめて、睨みつける様にエマを見続けた。