⑦ スーパーハニー予備軍、元祖スーパーハニーに物申す!
それからの日々、婚約を破棄出来るわけもなく、アデルと王子は2歩進んで1.5歩下がるような関係を築いていた。
しかし王子も彼女との関係改善を図る努力を始めた為、傍から見ると、良好な関係を築いているようには見える。
そんな中、アリスとルイの教育も着々と進んで行った。
「コンフラン家の特産品は何ですか?」
「とくさんひんとは何ですか?」
「質問に質問で返してはいけませんよ、アリス嬢」
「でも、質問の意図が分からなければ返事ができませんよ、先生」
五歳から教育を初めて、もう十歳になったアリスがまだ、特産品という言葉を知らずにいた事にルイはちょっと引いてしまった。
「では、ルイ殿」
「コンフラン家の特産品は、海から獲れる魚介類です。あとは、十数年前に見つかった鉱山から取れるダイヤモンドは、他の追随を許さない程透明度が高く、王家からも人気が高いです」
「よくできました!」
ヤル気の無いルイは、最近勉学に励んでいた。
それは数日前に侯爵に呼び出されて、アリスの成績を見せられたからだ。
それは美術の先生からで、アリスへの評価は「壊滅的にセンスが無い」というオブラートにさえ包まれていない酷評だったからだ。
二年程前は、「独創的なセンスの持ち主で、私達とは違う価値観を持っているようだ」という、すっけすけではあるがオブラートには包まれた評価であった。
ルイは、以前の美術の授業を思い出していた。
「アリス、何描いてるの? あ! 庭の木だね!」
「違うわ、お父様よ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「アリス嬢。こちらの絵画は誰の作品でしょうか?」
「これは・・・、ハッ! 巨匠レオナルドの手によるものだわ」
「巨匠レオナルドは宗教画家ですので、フルーツの作品は書きませんよ」
「そんなの、分からないじゃないですか?」
「分かります。あと、巨匠レオナルド以外にもこの世界には多くの巨匠がいます。他の芸術家の名前もそろそろ覚えてください」
「・・・・・・・あい」
侯爵に呼ばれたルイは、自分と目線を合わせる為に跪いた侯爵にガッシリと肩を掴まれて。
「こんなアリスが侯爵家を継いだら、模倣品を買い占めて破産してしまうかも知れない」
侯爵はルイの手を両手で握って、切実に祈った。
「ルイ君・・・。どうか、どうかアリスを野放しにしないで・・・」
ルイが、侯爵家の未来が自分の肩に(のし)かかっていることを、強く実感した瞬間だった。
十歳になったアリスとルイは、侯爵家で開かれるお茶会に参加するようになった。
カップルコーデで手を繋いでお客様をお迎えする二人の姿を見たくて、多くの貴婦人による、侯爵家の招待状争奪戦が行われている。
今日も今日とて、大好きなアデルの真似っこをして、淑女然としたアルカイックスマイルで、お客様をお迎えするアリスがいた。
寒い冬が終わり、爽やかな春の日差しの中、薄い紫色のワンピースとカジュアルスーツを着ているアリスとルイ。
いつもの通り、手を繋いでアリスの手綱を握っているルイは、アリスがアデルの真似をしているのを、微笑みながら盗み見をしていた。
アデルの真似歴十年のアリスは完璧に模倣できていると思い込んでいるが、そこはぽんこつ。詰めが甘い。
容姿を褒められると満更でもなさそうな顔をし、マナーを褒められるとドヤ顔が出てしまう。
しかし、そこは巨匠レオナルドの作品に出て来る天使顔。そんな天使とはほど遠い性格がにじみ出ても許されてしまい、反対に微笑ましい物を見る様に、大人たちは皆が目尻を下げる。
しかしそれも仕方が無い事。アリスはこの国の王侯貴族から"神が作りたもうた最高傑作"と言われており、黙って立っていると後光が差すような美少女になった。そして、自分がこの国で一番の美少女と呼ばれている事も知っている。
その全てをひっくるめて観察しながら楽しそうに微笑むルイは、ふっくらとしていた頬がほんの少しだけシャープになり、女の子の様に愛らしかった姿が、誰もが大人の青年になった姿を想像してしまうような、美少年へと成長した。
気だるげな瞳が微笑みを浮かべると、少したれ気味の瞳がいっそう甘やかに見える。
相変わらず、長く黒々としたまつ毛が黄金色の瞳に影を作ると、アンニュイな雰囲気が醸し出され、おば様方だけでなく、おじ様方も生唾を呑んでしまう。
そうしてお迎えをしていると、前からやってきたのはとあるご婦人。
リボンやレースで彩られた華やかなドレスが主流な今、その貴婦人が着ているのは、まるでガヴァネスが着そうな、少し古臭くそして堅苦しいドレス。
既婚の夫人方は社交場に出る時、必ず髪の毛をアップするのが貴族のルールだ。
しかし多くの夫人方がおしゃれに髪をアップする中、ただ髪をひっ詰めて上の方でお団子にする髪型は、侍女やガヴァネスなどの職業婦人が仕事中にする髪型だ。
つまりほとんどの人がプライベートではしない。
しかし胸を張って威風堂々と歩くその姿は、職業婦人とは比べ物にならない程のオーラが出ていた。
「ロクサーヌ・プロヴァン伯爵だね」
アリスがスーパーハニーを目指していることを知っているルイは、アリスの中で彼女が元祖スーパーハニー認定されている事を知っている。
アリスはアルカイックスマイルを忘れて、こちらに歩いてくる彼女を真顔で見続けた。
正直、憧れの女性を前にしたアリスは、興奮と失望で頭の仲がしっちゃかめっちゃかだったのだ。
(も、もう少しお洒落に興味を持たれてもいいんじゃないかしら??? ・・・あの髪型、おばぁちゃまみたい・・・)
お洒落が大好きなアリスにとって、プロヴァン伯爵の髪型とドレスは容認できないレベルの物だった。憧れていたからこその失望。
アリスの真顔で何かを感じ取ったルイが、アリスの気持ちの軌道修正に試みる。
「流行りに左右されない人なんだね」
「!!!」
(流行りに左右されない! それが本当のスーパーハニー!!!)
ルイは、アリスの洗脳に成功した。
気持ちを改めてアリスはルイと、元祖スーパーハニー(アリス談)のお迎えに集中する。
「コンフラン家へようこそ、プロヴァン伯爵。コンフラン家の次女、アリスでございます。
こちらは婚約者のルイでございます」
「初めまして、プロヴァン伯爵。カイゼルスベルク公爵家の次男、ルイです」
可愛い天使二人に迎えられたプロヴァン伯爵も、他の貴婦人方と同じように相好を崩す。
「お誘い頂きまして誠にありがとうございます。
今話題のお茶会に参加出来ることを、大変楽しみにしておりました」
伯爵の穏やかだが、他の貴婦人方とは違う真っ直ぐな視線が、多くの修羅場を乗り越えてきた人間の物だと、アリスの心が震えた。
お客様のお迎えを終えた二人は、いつもなら侯爵夫人の元へと戻る。
しかし、アリスは一直線にプロヴァン伯爵の元へ。
手を繋いでるルイも引きずられてしまう。二ヶ月年下のルイは、2㎝アリスより身長が低い。なのでアリスが力強くずんどこ歩く時は、手綱をうまく締めることが出来ないのだ。
侯爵夫人の“アリストラブルセンサー”が警鐘を鳴らしているが、あいにく現在対応しているのは身分が上の公爵夫人。おいそれと言い訳をして席を外すことができない。
今侯爵夫人にできることは、
(ルイルイ! 後は任せた!!!) (えええ~~~!!!)
アイコンタクトでルイに、アリスのフォローをお願いする事だけだった。
今回のお茶会は六人掛けの丸テーブルをいくつも庭園に配置し、ビュッフェスタイルを取り入れていた。席順も決めずに、各々が見頃の春の花を楽しめるようにセッティングされている。
一番遅くに来たプロヴァン伯爵は、普段はこの様な婦人方が参加するお茶会には滅多に現れない為、あまり交友が無く、現在テーブルに一人きりだった。
「伯爵様! ご一緒させていただいてよろしいでしょうか!?」
元気いっぱいに挨拶するアリス。
「わたくし、伯爵様とお話してみたかったのです。将来、わたくしもこのコンフラン家の当主となる身ですから!」
「あら。お嬢様が御継ぎになられるのね?」
プロヴァン伯爵が穏やかな微笑みで、小さなカップルを迎え入れる。
「ええ。ここだけの話、ルイはポンコツなので・・・」
「え? その設定まだ生きていたの???」
我が家の恥を晒すようで、とでも言いたげに伏し目がちに、アリスがルイの設定を口に出すが、もちろんルイはその独断と偏見を受け入れることはできない。
驚いた顔でアリスを見ると、アリスは聞き分けの無い弟を見るかのような、慈愛を込めた視線をルイに送ってきた。
しかもこのお茶会が開催されているのは五月の始め。
運悪く、アリスの誕生日が終わってルイの誕生日を待っている間の月なのだ。
その為、いつものアリスのお姉さんぶった態度に納得のいかないルイであったが、この月だけは事実となってしまう為、彼にとっては魔の月でもあった。
そんな二人を微笑ましく見ていたプロヴァン伯爵も、自分にもこんな頃があったと回顧の念を催させる。
アネモネの花が咲く自領の丘で、幼馴染の男の子と過ごしたあの日々は、今も彼女の心の奥底に大事に仕舞われている。
だけど、こんなうららかな春の木漏れ日の中、眩い煌めきが、あの若葉の様な小さな恋を思い出させる。
その思い出があるからこそ、魑魅魍魎が蔓延る政治の世界で、女の身で一人戦う事が出来たのかもしれない。
「伯爵様は再婚は考えられませんでしたの?」
まさに今、初恋の思い出に浸っていた自分に投げかけられた質問。
通常なら許されない不躾な質問だが、その問いを投げかけたのは、天使の様に美しい少女。
それこそ、天上人の天使に質問されたかのように。
伯爵は大きく鼻から息を吸い、春の花の存在を感じる。
目の前の天使の様に愛らしいカップルの持つ雰囲気のせいか。
ノスタルジーに駆られるこのふわふわとした気候のせいか。
それともそれら全ての要因が重なったせいか。
プロヴァン伯爵は、自分の相手が十歳の子供であることも忘れ、自分の胸の中にあった思い出を話し出した。
もしかすると、その美しい思い出を誰かと共有したかったのかもしれない。
たった一人、肩ひじ張って生きてきた自分が今この世を去ったら、誰もが自分を“鉄の女”だと語り継ぐだろう。
だけど、誰かに知っていて欲しかったのかもしれない。
そんな“鉄の女”にも、この目の前の天使の様に、ただ美しい物を見て、自分の未来に恐ろしい影など差さないと信じ切っていた頃もあったのだと・・・。
「・・・私の領地は、王都から南にある穏やかな気候が特徴でした」
一人っ子だった彼女は、王都から領地が比較的近くにあったこともあり、一年を通してよく領地に戻っていた。
そこでよく遊んでいたのは、執事の息子で、乳兄妹でもある同い年の少年。
領地に帰ったら毎日彼と遊んでいた。
彼の穏やかな話し方が大好きだった。
手を繋いでいつも一緒に居てくれた。
十二歳になる頃には、お互いに既に恋心が芽生えていた。
彼は父親の後は継がずに王都の学校に通い出し、文官への道を目指し始めた。
その時に、思い出の花が咲くあの丘で将来を誓い合った。
『いつか。あなたを迎えに行ってもいいですか?』
許されないことは分かっていた。
名門伯爵家の一人娘。
彼女の婿が伯爵家の当主になるのだ。
方や彼の場合、祖父が男爵位を持ち伯爵家の執事長ではあるが、貴族の末端にかろうじて縋りついている一門だ。
天変地異が起きても許されない関係である。
しかし彼は一縷の望みをかけて、少女に自分の気持ちを打ち明けたのだ。
『はい。・・・待ってます、いつまでも』
彼女は涙を溜めた瞳で、彼の姿を心の奥に焼き付ける様に見つめ続けた。
アネモネの花が咲き誇る丘で、彼らは初めての口づけをした。
「素敵!!!」
興奮したアリスが、テーブルに頬杖をついてうっとりと伯爵を見上げる。
ついつい乗せられて子供に話してしまった伯爵は、自分の顔が熱くなるのを感じる。
その様子があまりにも可愛くて、アリスは彼女の恋を応援したくなった。
「それで、どうなったのですか?」
天使が無邪気に聞いてくる。この恋の結末を、皆が知っているというのに。
王都に戻った彼女に、婚約者が出来たのだ。
父親である伯爵が選んだのはとある侯爵家の次男で、既に学園に通っており優秀な成績を修めていた。
未来の伯爵に相応しい男。
娘の幸せのために選んだ男によって娘が地獄へと突き落とされるとは、当時の伯爵も思いもしなかっただろう。
泣いて縋って父親に愛する人が居ると伝えたが、許されることはなかった。
貴族の娘として、父親の指示通りに政略結婚をするのが当たり前の時代だ。
愛の代わりに手に入れる筈の安寧も、両親の早い事故死により、あっけなく掌から零れ落ちて行った。
プロヴァン伯爵が浮かべた沈痛な笑顔を、アリスは黙って見つめ続けた。
アリスの瞳には、彼女の心はここに無いように見えたのだ。
「その方は、今どうしてるかご存じですか?」
プロヴァン伯爵の瞳が少し揺れる。
春の柔らかな風がお茶会会場を駆け抜ける。
彼女の思い出と共に。
知っている。
「王宮で文官になって働いているそうです」
――— 結婚もせず、ずっと一人で・・・———
「今からでも彼の手を取るべきだわ!」
若さゆえの情熱に押された伯爵は苦笑をもらす。
「私は伯爵家の当主ですよ?」
「それが?」
「それがって・・・。私には領地を守り発展させる責任があります」
「それと彼と結ばれる事は、全く関係ないじゃないですか。 欲しい物は全て手にしないと」
真っ直ぐに見つめてくるヴァイオレットサファイアの瞳。
この世の全てが自分の手の中にあり、愛される事が当たり前であるという傲慢さ。
だけど、確かに、自分にもそんな時があった。
父に愛され、母に愛され、愛する少年から愛を返されていたあの頃。
だから許せなかった。
結婚から二年。
父が死んだとたん豹変し、愛人と子供を連れて帰り自分を離れへとやった夫に。
愛の代わりに安寧を手にする為の結婚だった筈なのに・・・。
怒りのままに逃げ出し、証拠と共に夫を訴えた。
しかし裁判では、夫婦のベッド事情まで赤裸々に告白せねばならず、多くの卑しい視線を浴び続けた。
そうして少しずつ欠けていく魂。
裁判が終わる頃には、尊大な思い上がりなど一欠けらも残っておらず、誰からも愛されない“鉄の女”が出来上がっていた。
いまさら、手に入れられるものか・・・。
あの思い出があったからこそ、恥を晒した今でも生き続けていられるのだ。
あの思い出の丘を、共に過ごした領地を守る為に・・・。
でも知っている。
本当は怖いのだ。
彼が愛した、ひたすらに前向きで、愛されることを恐れない少女が、もうこの世にいないことを。
知られたくないのだ。
会わなければ、彼の中の少女は、何も知らず愛だけを胸に笑っていた少女は、彼の中で生き続けている筈だから・・・。
寂寥の思いに、胸が疼く。
彼の中でだけでも・・・。
「今更、愛だ恋だとみっともなく騒ぐことは出来ないわ」
つい零した一言に、伯爵はハッとなる。
自分の目の前にいるのは、十歳の子供だった事を今更にして思い出したのだ。
そして窺うようにアリスを見た瞬間、自分の目を疑った。
そこには、蔑む様に自分を見る十歳児・・・。 そして ———・・・。
「はぁ~あ! がっかり!」
侯爵夫人が見たらお尻ぺんぺんされる事間違いなし。
アリスは肩ひじを付いた手に頬杖をついて、視線で失望を露わにしたのだ。
「スパハニなら、二兎も三兎も追うべきじゃない?」
「す・・・すぱはに???」
「元祖スーパーハニーに会えるのを楽しみにしていたのに。期待外れだわ・・・」
「あ、・・・アリスちゃん?」
「大体、恋愛に歳とか関係無いと思いませんか?」
「・・・え?」
「女はいつまでも女の子。私なら死の間際まで、恋愛をして心をときめかせていたいわ」
アリスは真っすぐと伯爵を見据える。
「尊敬していたのに。理不尽な事に立ち向かって、自分の権利を主張したあなたを・・・。
それが、ただ単に恋に臆病な普通の人だったなんて・・・」
何が分かるっていうのか。こんな子供に、自分の何が。
伯爵は心でそう思いながらも、何も言えずアリスの瞳を見つめ続けた。
「今の伯爵様には、政略結婚は必要ないのでしょう?
だったら、身分の差があっても問題無いんじゃないでしょうか?」
アリスは真っすぐに伯爵を見つめた。
彼女の瞳が語っている。『本当に?』『でも彼が独身の理由が私の為とは限らない』『怖い』
揺れる瞳の中に、恋する少女の様に悩む姿が見えた気がして。
目を合わせた伯爵に、アリスは優しく微笑んだ。
その瞳にはもう蔑む色は無く、ただ、優しく背中を押すようなそんな慈愛の籠った瞳に、伯爵には見えた。
「失恋したら、泣いたらいいのです。
失恋したって死なないし、明日は昨日と変わらず同じように来ます。
伯爵は立派に女伯爵として、領地と領民を守ってるんですから。
そんな伯爵を振るようなら、その男には見る目が無かっただけの事。
泣いて怒って発散して、また明日から今までと同じように生きていけばいいのです」
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領地の書類を提出する為に登城したプロヴァン伯爵は、薔薇が見頃だと聞き、ついでに王宮自慢の薔薇園へと足を運んだ。
あのお茶会から一ヶ月が経とうとしていた。
自分の日常は何も変わらず、相変わらず当主として肩ひじを張って生きている。
誰からも愛されていた少女が、愛されたいと心の奥底で泣いていても、自分は目を瞑って生きて行く。今までと同じように・・・。
薔薇園にまで足を運んだくせに、ただ目を閉じてベンチに腰を掛けていた。瞑っていた瞳を開いて辺りを見渡してみれば。
思い出の少年が遠くからこちらを見ているのに気付いた。
込み上げてくる涙をこらえる様に、口を一文字にきつく締めて眉を顰めれば、
彼は一歩、こちらに近づいた。
いつも登城した時に、遠くから自分を見つめていた瞳を、知らないふりをしていた瞳を見つめ返せば、
二人を隔てていた距離や時間は、一瞬で消えて無くなった。
きつく閉じた瞳から、涙が次から次へと零れて落ちていく。
あの日から、泣けなくなっていた。
いつも涙を拭いてくれた愛する人々は、誰もいなくなっていたから。
周りを気にすることも無く、子供の様に涙を零しだした伯爵の元に駆け寄って、優しくその涙をぬぐい続けた人の姿を、少なくない人が見ていた。
それをアデルから聞いたアリスは、「やっぱりスパハニは全てを手に入れないとね」と満足そうな笑みを浮かべたという。
アデルの中でスパダリとは、愛する人の為に自分の権力や持っている全てで守ってくれる人だと認識していた。なので女版のスパハニもその筈なのに、アリスの中では欲しい物は全てを手に入れる女性という認識になっているようだと、アデルはこの時に気付いた。
(何かちょっとずれてるけど、アリスが楽しそうだから、まぁ、いいか)
アデルは、伯爵からのお礼の手紙を嬉しそうに机に仕舞ったアリスを見て、微笑んだ。