⑥ 思い込みが激しいのね・・・
アリスとルイが一緒に教育を受けだして早三ヶ月。
侯爵は悲しい現実に打ちのめされていた。
今日は土曜日の為、教育はお休みの日。だけどルイは月曜日から金曜日と同じように朝から侯爵家にやってきて、アリスと子供らしい一日を過ごす。
朝から広大な裏庭でかくれんぼをして、興奮したアリスが遭難するという(珍)事件が起きたが、アリスの専属メイドのキキ(年齢非公開)が根性でお嬢様を見つけ出し、アフタヌーンティの頃には、邸は何時もと変わらぬ落ち着きを取り戻していた。
侯爵邸の一階にある執務室の窓の外から、子供らしい笑い声が聞こえる。
いつもはルイの笑い声が聞こえると安堵する侯爵だが、今日は手元の報告書のせいで、そんな余裕もない。
ふと愛らしい愛娘の一言が、侯爵の耳朶を打つ。
「ルイはフィナンシェ好きよね?」
「フィナンシェが好きなのはアリスでしょ? 僕が好きなのはカヌレだよ」
「そっか! えへへ」
「昨日、侯爵領で取れるロブスターがディナーに出てきたんだ。すごく美味しかったよ」
「え? いいなぁ~・・・」
「お嬢様。お嬢様の昨晩のディナーもそのロブスターでございましたよ」
「・・・」
「・・・そうだった??? えへへ」
(・・・・・・・・・・・・・・・・)
侯爵は報告書をくしゃくしゃにして顔を埋めた。
報告書は家庭教師の先生からで、アリスの脳みそには授業の内容を覚えるスペースが無いと書かれていた。
アリスはお馬鹿だったのだ。
姉が読み聞かせた下らない小説の内容は覚えているのに、我が国の言葉の綴りが覚えられないのだ。
おしゃまで口上手な子供だったから利発だと思いきや。
頭の回転は悪く無いようだが、勉強は出来なかった。
家庭教師の報告書にはルイの事も書かれており、「あまりやる気は無いが、地頭が良いようで、もっとやる気が出れば優秀な成績が取れるだろう」と書かれていた。
侯爵はルイに跡を継がせる方向で計画を立て、その報告書をそっと引き出しにしまい込んだ。
そんな話を食後に妻とアデルに話して聞かせた侯爵。
「アデルがお腹の中にいた時に、頭脳を全て吸い取っちゃったのねぇ・・・」
「一番要らないやつ吸い取っちゃったのね、・・・私」
二人の辛辣な会話に、何だか切ない空気が漂った。
そんなこんなで二年の月日が経ち、アリスとルイが七歳になった年の九月に、十五歳となったアデルは、その翌年にデビュタントを迎え、そして学園に通うこととなった。
ヴィルフランシュ王国ではほとんどの子供が貴族平民問わず、十二歳からの三年間と十五歳からの三年間、学園に通う。しかし義務ではないので、家庭教師を付けられている高位貴族の子供たちは、ほとんどが十五歳からの三年間しか通わない。もちろん平民と貴族は別の学校に通い、平民の学校は無料で、貴族の学園は下位貴族の支払能力に合わせられた学費が設定されており、高位貴族はそれに寄付金として色付けをして学費を払う。
入学式の日、家族全員でアデルの入学式に参加することとなった。
イベント大好きコンフラン家。娘の入学式も一大イベントである。
ルイも家族だからと朝からアリスと一緒に準備をさせた侯爵夫人は、カップルコーデでおめかしした二人に大興奮だ。
ペアで作らせたと分かるグレーのワンピースとカジュアルスーツ。アリスの胸元のリボンはルイの瞳の色の金色で、ルイの胸元のリボンはアリスの瞳の色の紫色。
夏が終わり、少し空気が涼やかになってきたこの季節。青々と茂っていた草花も、少しだけ赤く色づき始めた。
そんな季節に合わせて作られたその衣装は、二人がおそろいのベレー帽をシンメトリーに被ることで、一層秋が来たことを思わせる。
カップルコーデで手を繋いでエントランスで待つ二人は、巨匠レオナルドが生きていれば、鼻息荒く写生を始めるであろう愛らしさだった。
その二人が見上げた先に、学園の制服を着たアデルが現れた。
栗色の髪はハーフアップにされ、下に流れている少し癖のあるふわふわの髪は、毛先をカールさせることでアデルを妖精の様に軽やかに見せた。
紺色のワンピースにアクセントとなっているボルドーの細いベルト。そしてそれと同色のベレー帽が何とも愛らしい。
そして階段から降りてくるその姿は、完璧な淑女の鏡である。
アリスは大興奮して、目を大きく見開いて麗しい姉の姿を眼に焼き付ける。口は奇声を発しない様に真一文字に閉じたまま。
それを目にした侯爵夫妻はお互いの拳を合わせてグータッチ。
実はアリスとルイが手を繋いでいるのは、興奮したアリスが突飛な行動をするのを防ぐためだったのだ。
とある日の午後、アリスは侯爵夫人に言われた。
「ルイはちょっとぽやっとしてるから、いつもアリスが手を繋いでいてあげてね。
ルイと手を繋いでいる時は、急に動き出したり、大声を出したらだめよ」
ルイをポンコツだと思い込んでいるアリスは、キリッとした顔で、重大ミッションを与えられた兵士の如く、「はい!」と返事をした。
とある日の午後、ルイは侯爵に言われた。
「うちのアリスはちょっと好奇心旺盛で、注意力散漫で、猪突猛進だから、ルイ君。いつもアリスと手を繋いであげてくれないか?」
侯爵の言い分はもっともだと思ったルイは、神妙な顔で、重大な政策を任された官僚の如く、「はい」と返事をした。
こうして侯爵夫妻によって、ルイの手でアリスの手綱が締められた。
アデルも少し興奮しているようで、自分の制服をモチーフにしたお揃いのコーデをしている天使のような二人に「かわいい、かわいい!」と言って、交互にギュッと抱きしめた。
そのハイテンションが、新しい環境への期待や不安ではない事に気付いた侯爵夫妻。そしてアリスも姉のテンションが気になって、窺うようにアデルの行動を凝視した。
「アデルお嬢様・・・」
執事長が大きな花束を抱えてアデルに声を掛ける。
その声に身を震わせたアデルは、覚悟を決めてゆっくりと執事長に振り返る。
「王子殿下からのお祝いのカードと花束でございます」
「ありがとう・・・」
アデルはそれを受け取り、そして少し寂しそうに、しかし何事も無かったかのように、花束とカードを自分の侍女に渡した。
侯爵夫妻はチラッとお互いを見あい、そして何事も無かったかのようにアデルに声を掛ける。
「さぁさぁ、もう行きましょう。入学式に遅れるわ」
そう言って家族が外へ向かう姿を、アリスはじっと凝視し続けた。
「アリス、どうしたの? 行こう?」
「・・・・・・あい」
ルイはそんなアリスに不思議に思いながらも、アリスの手を引っ張って、夫妻の後をついて行った。
新入生代表として壇上にあがったアデルは、その美貌と知性ですでにお茶会でも一目を置かれていた為に、多くの生徒たちが憧憬の眼差しでアデルをうっとりと見上げる。
侯爵夫妻はそんな娘の雄姿が誇らしく、立派に育ってくれた事に視界が滲む。侯爵は涙を零しそうなほどで、それは流石に、卒業式ならともかく入学式だからと、夫人にささっと零れる涙をハンカチで回収されてしまった。
アリスはホールの二階の、保護者席の一番前から、姉の雄姿を食い入るように見つめ続けた。
「アデル姉様、かっこいいね」
「うん! 理想の“スパハニ”だわ!!!」
子供たちが手すりの間から食い入るようにアデルを見つめる姿も、保護者達からほんわかと見つめられていた。
そうしてアデルの学園生活が始まったのだった。
アデルが学園に通い出して一ヶ月が過ぎたとある日曜日、今日はルイが来ない日なのでアデルに遊んでもらおうと考えていたアリスだったが、メイドに今日は王子殿下がいらっしゃる日だと言われた。
「そっか。今日だったっけ・・・」
全く王子に興味のないアリス。予定を忘れていたようだ。
朝から準備に追われる夫人とアデルに追いやられて、侯爵とアリスは庭の片隅でお茶をする。
もう紅葉がほとんど落ちてしまい、草木が冬仕舞いを始めたそんな庭を眺めながら、侯爵がアリスを相手に不満を漏らす。
どうやら王子の態度に不満があるようだった。
王家特有の白金色の髪に黄金色の瞳を持つ王子は、現在の王太子の長男である。
その容姿は建国の王にとても似ていて、父王太子よりも国民からの人気が高い。
その事実が彼を驕らせているのか。婚約者に対する態度が横柄なのだ。
そもそもこの婚約は王命なのだ。
そこに侯爵家の意思は無い。
アデルに至っては、婚約者候補に選ばれた時には「イヤだ、イヤだ」と言って涙を零し、婚約者に確定した時は、青い顔をして帰ってきたのだ。
それならばもう少し手を抜けば良かったのに、と侯爵がアデルに言うと、自分が筆頭であることを良く思っていない令嬢から嫌がらせをされた為に、やり返している間に選ばれてしまったのだと、この世の終わりの様な顔で力なく答えた。
しかし王子からすれば、王子妃になりたくて、競争して勝ち取ったように見えたのだろう。
「いつでも熨斗つけて婚約者の立場を返上してやるのに!!!」
可愛い娘にあんな顔をさせやがって!と、鼻息荒く語る父の顔をじっと見つめていたアリスは、ふと入学式の姉の様子を思い出した。
「あの時のおねぇちゃまは、何だかきんちょうしているみたいだった」
馬鹿のくせに(失礼)意外に周りを見ているアリスに感心した侯爵は、口が軽くなってしまった。
「歴代の王子殿下は、婚約者の入学式には家まで迎えに来て、エスコートをしていたんだ。それは、婚約者と自分の仲に問題が無い事のアピールになり、そして婚約者の立場を守る意味もある。
アデルは分かっていたんだろう、殿下が迎えに来ない事を・・・。
まぁ、二人に関して言えば、殿下は既に学園を卒業されているからね。迎えに来なかった事で、アデルの立場が危うくなる事はそうそう無いだろう。
入学式を見ても、同学年の生徒の中で不満を感じている者は居なさそうだった」
そう言ってため息をつき、侯爵は一口紅茶を飲んだ。
「もし殿下がまだ学生の身で、アデルを迎えに来なかったらと思うとぞっとするよ」
父の呟いた独り言が、やたらとアリスの心に引っかかった。
ランチの時間になって、王子殿下が侯爵邸にやってきた。
白馬の四頭立ての豪華な馬車から降りてきたこの国の王子、ラファエル・ヴィルフランシュは、誰からも見惚れられそうな美しいアルカイックスマイルで、侯爵邸の扉をくぐった。
侯爵の愚痴を聞いていなければ、王子に興味のないアリスでも、少しはときめいたかも知れない。
・・・いや、どうだろう。それは無いか・・・。
教育で教わったアルカイックスマイルで武装したアリスの秘めたる内側は、それはもう轟轟と燃え滾っていた。
そんなアリスの内側の敵意など感じず、王子はアリスの美貌に目を留めた。
彼の周りには、アデルを筆頭に美しい少女がひしめき合っている。そんな美しいものに慣れている王子であっても、アリスの光り輝く黄金色のふわふわの髪と、薄い紫水晶の様な瞳は、この世に二つと無い程に美しかった。
「ほう・・・。君が噂の妹ちゃんだね? これはこれは・・・」
自分を見定めるように見つめてくる王子に心の中で蹴りを入れて、アルカイックスマイルで武装したアリスは、同じように王子を見定めるように、頭のてっぺんからつま先まで舐めまわす様に見つめ、そして武装を解いてスンッと無表情になる。
まさしく「え? 期待外れ。興味ない~」の顔だ。
王子は今までされた事の無い表情に、驚き固まってしまう。
侯爵家の面々は笑いを堪えながら、心の中でアリスにサムズアップしながら、王子を食堂へと誘導する。
王子は侯爵に促されながらも、アリスのスン顔を凝視し続けた。
それが見間違いであることを願いながら・・・。
アリスは侯爵達の後を、アデルの横に並んで食堂に向かう。
姉の様子が気になって見上げた先には、いつも通りに優しい笑顔で自分に手を差し出すアデルが居た。
アリスは嬉しくって、アデルと手を繋いで、飛び切りの笑顔で足を一歩踏み出そうとした時に、
「スキップの成れの果ては、今は封印しておいて」
アデルに笑顔で注意を受けた。
「・・・・・・・あい」
少し不満そうにしたアリスだったが、繋いだ姉の手が温かくて、少しホッとした。
王子を含めたランチ会は、浅い会話がアリスの頭上で繰り広げられていた。初めて侯爵邸を訪れた王子は、自分が受け入れられていないことに薄々と気づいた。そもそも婚約をして四年が経とうとしているのに、初めて婚約者の家に来たことが非常識なのだ。なのに彼の中では、侯爵家の希望の縁談だと思っていた為に、来ただけでも有難く思うはずだと誤認していたのだ。
そして食後のお茶は、アデルと王子の二人っきりで、侯爵家自慢のティールームで行われた。
アデルはこの結婚は避けられないことを知っていたから、何とか王子との関係を改善するようにいつも努力をしていた。王子からすれば、それは自分への媚びへつらう姿に見えたのだろう。
そんな姉の健気な姿を、少し開いた扉越しに覗き見をするアリス。
「むぎぎぎぎ・・・」と、声が出そうになるたびに、メイドのキキが手でアリスの口を塞ぐ。
そうして室内の空気が澱みだし、アリスが歯がゆさによって歯が折れてしまう前に、王子がサニタリールームへ行くために席を立った。
キキは大急ぎでアリスを小脇に抱えてドアの前から退散する。
しかし猛ダッシュしたにも関わらず、キキが向かった先はサニタリールームと同じ方角で。
アリスを下して息を整えているうちに、王子と出くわしてしまった。
それでもドアの外で盗み聞きをしていたのがばれるよりはましである。
「や、やあ!」
アリスとばったり出くわした王子は、先ほどのアリスのスン顔を思い出してどもってしまった。
アリスは、表情を取り繕うこともせずに、ただ王子の声掛けに無言で応答する。
「コホン・・・。 アリスちゃんだったっけ? きみ・・・」
「どうしてお姉様にいじわるをするの?」
王子の会話をぶった切った上にストレートな質問に王子もたじたじとなる。他の者なら不敬罪で罰せられそうだが、相手が八歳でありさらに天使の様に美しい少女の為、目くじらを立てる方が大人げなく見えてしまう。
「お姉様は致し方なく王子との関係を改善しようと努力しているのに、もう大人になった王子がそれを拒否するなんて・・・」
その先の言葉が聞こえてきそうなアリスの表情に、王子は大人げなくムッとした。
「こっちは好きであんな子供と婚約したわけではないんだ」
「それは、お姉様も一緒でしょ?」
「・・・え?」
「王命で致し方なく婚約者になったのに、どうしてあなただけがつらい立場に立って被害者ヅラするの?」
「い、いや・・・。これは侯爵家の希望の婚約でしょ?」
「そんなはずないわ。だってお姉様も泣いて嫌がってたし、お父様とお母様も、何とか回避できるように動いていたもの」
「え?・・・嫌だったの?」
「そうよ。王命だもの。ただの貴族の私達には断れないわ。そんなの少し考えればわかるじゃない。王子のあなたですら、嫌がっても回避出来なかったのでしょう? 我が家が出来るわけないじゃない。
子供の私だって少し考えればわかるわ。
なのにずうずうしくも、自分だけ被害者振るだなんて・・・」
アリスは蔑む様に王子を一瞥する。
「王子の自分と結婚する事を誰もが望むと勘違いするだなんて、・・・思い込みが激しいのね」
王子は怒りのせいか恥辱のせいか、カッと顔を赤く染めた。
きっと怒りが強いのだろう。しかし自分より一回り以上も下の子供に声を荒げることも出来ずに、手を握り締めて拳を作った。
「お姉様は、回避できずに結婚するしかないなら仲良くなった方がいいと。
好きでもないあなたと仲良くしようと努力したのに、そんなお姉様の努力を、大人のあなたが踏み躙るなんて・・・」
胸の前で組んだ手の上に肘をつき、手の平を頬に添えて、軽く小首をかしげてアリスはため息を吐いた。
困った子を前に、途方に暮れる大人の様に・・・。
「今までお姉様に誕生日プレゼントを贈っていたようだけど、お父様曰く、侍従が選んでるようだったって。お姉様の好みでもないし、お姉様の色や王子殿下の色でも無い・・・。
そんな物を贈るくらいなら、来月のお姉様の誕生日プレゼントは、婚約解消が一番喜ばれますよ」
そうして、王子をその場に残したまま横を通り、自分の部屋へと戻って行ってしまった。
その場に取り残された王子はその場所に佇み、アリスの言葉を反芻していた。
(え? 本当に彼女が望んだ婚約で無いとしたら、俺の行動って、滅茶苦茶感じ悪くない???)
自分より年下の女の子が、円満な人間関係を築くためにしていた努力を尻目に、その努力を無に帰すかのように尊大な態度であしらった自分。
その場で固まって動けなくなった王子を、そっと後ろから窺っていた彼の侍従は、終始ハラハラとしていた。
呆然としたまま、王子は踵を返してティールームへと戻って行った。
軽くノックをして中に入ると、アデルが笑顔で出迎えてくれた。しかし先ほどのアリスの言葉が心に引っかかり、よくよくアデルを観察してみると、アデルの笑顔が違って見えたのだ。
確かにそこに自分に対する熱や媚は無い。
綺麗なアルカイックスマイルの下に見え隠れするのは、うまくいかない人間関係への気疲れ。
王子がポツリと零す。
「君が望むなら、国王にこの婚約を無かった事にしてもらおうか?」
(しまった!)
王子は自分の口から出てしまった言葉に動揺し、我に返ってアデルの顔を窺い見る。
そこで見たのは、まさに希望に縋る人間の目だった。
「ほ、本当ですか・・・?」
その瞳を見て、王子は心の底から後悔した。
(本当だったんだ・・・。アリスちゃんが言っていた事。何て事! 俺は何てひどい事をしていたんだ!!!)
王子は、これはもう婚約を解消するしか、アデルに顔向けできないと感じた。
「出来るかは、分からないけど・・・。
出来なかった時、私達は結婚しなければ、ならない。なのに、歩み寄る努力もせずに、君一人につらい思いをさせて、申し訳なかった・・・」
王子はそう言って、アデルに頭を下げた。
彼は先ほど、結婚しなければならないと言った時に、アルカイックスマイルで武装する前にアデルが見せた、絶望の表情が眼にこびりついてしまった。
「もう、私の事なんか、心の底で軽蔑しているかもしれないが、私も努力させて欲しい」
王子が帰って行く背中を、アデルはじっと見ていた。
彼の最後の言葉に、返事は出来なかった。
アデルは気づいていた。王子が誰かに何かを吹き込まれて、自分を嫌っていた事を。
それが誰なのかは不明だが、その者の思惑通りに、王子はアデルを「権力を望む者」として忌み嫌ったのだ。
それはとても危うい事だった。
彼が、甘言だけを言う者を信じてしまう無能な人間なのか。
それとも、自分の敵が、彼が無条件で信じてしまう程近しい者なのか。
アデルはどちらにしても、王子との結婚は自分にとっては茨の道であることに、深いため息を零すことしかできなかった。
愛娘のそんな様子を横で見ていた侯爵は、久しぶりに長女の頭を撫でた。
父親の大きな手に撫でられて、アデルは横に居る父親に微笑み返す。
「お父様が言ってくれたの?」
「何を?」
「王子殿下に。今までの態度について謝られたわ」
「!? ・・・そうか。
ならもしかすると・・・」
「?」
アデルはそっとアリスの部屋のベッドルームを覗き込んだ。
キキによると、アデルも遊んでくれないし、王子殿下に不満タラタラで現在ふて寝をしているそうだ。
アリスは入り口のドアに背を向けて、横向きで眠っていた。
そちらの方に歩み寄ったアデルは、そっとアリスの髪の毛を耳の横にかきあげる様に撫でながら、小声でアリスに声を掛けた。
「ありがとね、・・・アリス」
アリスは、ベッドと反対側の片目だけを開けて呟いた。
「おねぇちゃまが、王子とお股ゆるゆるのせいで婚約破棄されたら、アリスがこの侯爵家を継いで、おねぇちゃまを養ってあげるからだいじょーぶだよ」
その設定がまだ生きていたことにアデルは大笑いして、淑女らしくなく、ドレスのままアリスに抱き着きながらベッドに寝転んだ。
布団と一緒にアデルにきつく抱きしめられたアリスは、「キャー」と言いながら、アデルをきつく抱きしめ返した。
それから少しして、侯爵夫妻が部屋を覗くと、二人は動物の子供の様に丸まって抱き合いながら眠ってしまっていた。
「あらあら、まぁまぁ」と言いながら、夫人が二人に布団を被せようとした時、アデルが王子を迎える為の、一番高額だったドレスを着たまま眠っていることに気付いた。
夫人の雷がピカッと光ったが、雷鳴がゴロゴロと鳴る前に、侯爵がサッと夫人にキスを落とした。
そして、アデルにも布団を被せて、ドレスが夫人から見えない様に隠してしまう。
「今日はね、もういいじゃないか、ダーリン。アデルにも大変な一日だったんだから。ね?」
そう言って、再度夫人の唇にキスを落とす。
「もう!」
そう言いながら、夫人が公爵の胸元をポカポカと軽く殴る。
「行こう。天使たちが起きてしまうから」
「もうっ」
「どうだい? もう一人ぐらい」
「もうっ♡」
二人がイチャイチャしながら部屋から出た後、姉妹はそっと瞳を開けて・・・
「どうする? アリスのライバルが生まれてくるかもよ?」
「相手が弟でもコテンパンにやっつけてやる! アリスはスパハニになるんだから!!!」
天蓋ベッドの天井に描かれている、巨匠の手によらない天使に向けて、アリスは握り拳を掲げた。
アデルは意味もなく涙が込み上げてきて、そっとアリスの方へと体を横向きにして瞼を閉じる。
アリスは、アデルが涙を拭かなくてもいいように、少し体を上にずらして、姉の顔を自分の胸に押し付けるように、ギュッと抱きしめた。
「スーパーハニーは愛する人を守るのよ。
アリスはおねぇちゃまを絶対に守るからね」
アデルは、これから歩む自分の道がたとえ茨の道であったとしても、アリスが側にいてくれれば、家族が味方でいてくれれば大丈夫だと、心から思った。