⑦ セリアという人
お茶会の準備がおおよそ終わったアリスは、宿題②孤児院と修道院の今後の対策と寄付金の仕訳票作成、に取り掛かる。
「領地にある教会や修道院、そして孤児院にかかる費用については、現場を見て帳簿の確認をした方が良いわね。
パウロが夏休みに入ったら領地に戻る予定だから、一緒に戻ったらいいわ。
後は、王都で寄付をしているのはこの病院だけよ」
そう言って侯爵夫人が差し出したのは、王都の端にある病院の説明書だった。
「病院に寄付をしているの?」
「ええ。私達に関わった事がある人間を収容しているからね」
侯爵夫人の話を聞きながら、アリスがペラペラと説明書を見る。
そこは心に問題のある人間が専門医の看護の元で過ごせる施設であるが、貴族が外に出したく無い様な問題行動を起こす人間も受け入れている様で、依頼者が希望すれば、収容者は二度と日の目を見ることは無いらしい。
「誰が収容されているの?」
無邪気に尋ねて来る愛娘に、侯爵夫人は哀しみの目で力無く微笑んだ。
アリスは母親のこの表情を一度だけ見た事がある。一度というか、一時期はよくこの表情をしていた。
母親のこの表情を見ると、アリスは昔の自分をぶん殴りたい衝動にかられ、後悔と、それをどうすことも出来ない感情が入り混じって心がざわざわとする。
「エマね・・・」
アリスの小さな呟きに、侯爵夫人は小さく頷いた。
アリスが誘拐された時に海賊達の仲間だった少女、エマ。
彼女が海賊と共に捕まった後、その少女がアリスに傷をつけたと知った侯爵は、彼女を海賊と同じコンフラン家の城の地下にある牢獄に閉じ込めた。
内に怒りを秘めた侯爵は、何の躊躇いもなくエマも海賊達と同じ様に尋問して、有用な情報を引き出したら処刑すると決めた。
しかしそれに待ったをかけたのは侯爵夫人。
二児の母である彼女には、娘と同じ年頃の少女にその様な事は出来なかった。たとえ自分の娘を傷つけた犯人であったとしても。
夫妻の意見が分かれたまま決断を下せない間も、熱で魘されたアリスは口癖のように、「エマ」「エマ」と彼女の名を呼んだ。
「エマは悪く無い」
そんな娘の一言に折れて、侯爵はエマの処刑は取りやめた。
そうやって助かったエマだが、黙りこくったまま一言も言葉を発しなかった為、早々に牢屋から出して王都のこの病院に収容したのだ。
侯爵も前侯爵も、アリスが居るコンフラン領の城に、牢屋だとしても彼女を収容していたくなかったのだ。
目覚めたアリスは何度か母親にエマの事を尋ねた。
しかしその度に、夫人が哀しみの目を伏せて自分と目を合わせてくれない為、アリスはもうエマの事を聞けなくなってしまったのだ。
「彼女は母親に売られて海賊にこき使われていたようなの。母親に捨てられた事がトラウマとなって、心の病気になってしまっていたみたい」
侯爵夫人はソファで隣り合わせに座ったアリスの手を、自分の膝の上で両手で握り締める。
あの日々を思い出すのが辛い。
お腹を痛めて産んだ愛しい我が子が、血まみれで自分の前に戻って来た時の絶望は、今でも忘れられない。
夫人は、今はアリスは元気に自分の横に座っていると、その事実を見失わない様に、ずっとアリスの手をギュッと握り締める。
アリスは、自分の浅はかな行動が人々の心に暗い影を落としているのを目にすると、心がギュッと苦しくなる。
自分が傷付けられるよりももっと、それは恐ろしい事なのだなと、アリスは思った。
アリスは母親に握られている手を引き抜くと、そのまま両腕で横から抱き着いた。
母親の肩が震えている事に気付いたが、何も言わなかった。
「お母様としては、あなたにエマと会っては欲しくない。だけど、あなたにならエマは何かを喋るかもしれないわね」
ため息をつきながら、夫人は自分の首に絡まっているアリスの腕を優しく摩った。
「あの時捕まった男達の話では、ルーアン子爵からエマを使う様に渡されたらしいの。子供を誘拐するのに子供を囮に使った方がやりやすいだろうからって。
そこから察するに、エマの母親がエマを売ったのは子爵だと思われるわ。 元王太子妃であるサタネラの実家を潰せたら、あの女は二度と表舞台には出てこられない」
母親の肩に凭れかけていた頭を起こして、アリスは母親に「病院の状況を見て来る」とだけ伝えて部屋を出て行った。
早速病院に訪問の希望を出したところ、大口の支援者であるコンフラン家である為、いつでも構わないとすぐに返事が来た。
アリスはお茶会の前に行ってしまおうと、問いあわせた次の日に馬車に乗って病院にやって来た。
王都の端にあるその病院は、鬱蒼とした大きな林の中にあった。広い林の中を馬車で走る事三十分、大きな壁に覆われた敷地が現れた。鉄格子のついた丈夫な門を潜るとまた林が広がり、少しすると何の変哲もない三階建ての白い建物が見えた。
扉の前には院長と思われる男性と、メイド服に似た作業着を着た年配の女性が立っていた。院長は男爵位を持つ医者で、ここは王立の病院で王家から管理を任されているらしい。女性は男性の妻でセリアだと名乗った。ふくよかな女性で笑顔がとても優しそうだと、アリスは思った。
二人の説明を受けながら、アリスとキキは扉を潜って中に入る。建物の中も無機質で、余計な装飾も何もない簡素な作りだった。
「エマさんは、喜怒哀楽の感情が全く無く、収容されてから七年が経ちますがほとんど話しません」
時々すれ違う人がいるが、ほとんどがセリアと同じ制服を身に着けた職員であった。
心の病気で収容されている患者は自由に過ごしており、本人が望めば外の林を散歩する事も出来る。
しかし必ず職員と一緒で無いといけない為、どうしても毎日は難しいようだ。
「人手が足りていないのですか?」
「いえ。侯爵様のおかげで資金はありますから人手は足りております。平民に取っては高額の仕事ですから。しかし患者と二人で外に出るには、やはり専門の知識のある職員と一緒でないといけません。
そうすると、平民の職員はほとんどが医療の知識がありませんから」
「では平民の職員は何をしているのですか?」
「食事の準備や部屋の掃除などの雑用の他は、その・・・。患者では無い方のお世話です・・・」
少し言葉を濁す院長に、アリスは苦笑する。
「聞いております。心を病んでいない問題児ですね」
「そうです」
院長も若いアリスが実情を知っている事に驚いて、それを隠そうとしていた事を恥じた。
「正直、心の病を持っていても、貴族家の出身であり親に愛されている子は家族が面倒を見ます。
なのでここに居るのは、重度の患者か家族に見捨てられた人だけです。
年々患者の数が減って運営が厳しくなった頃、とある高位貴族のお嬢様を受け入れる事となりまして。そこからなし崩し的に・・・」
「なるほど」
一昔前だとそう言った女性は戒律の厳しい修道院へと送られていたが、時代の影響で修道女となる人間が減り、修道院がどんどん閉鎖されていった。
残った修道院としても、神に仕える為に修道女となったのに、問題児を収容する様に言われても迷惑だろう。
そうして何代か前の国王が、罪には問えないが貴族令嬢として表に出してはいけない令嬢を、ここに閉じ込めておく措置を取ったのだそうだ。
院長と別れて、収容されている女性の部屋がある棟へと向かう。
「私は昔伯爵令嬢だったのですよ」
窓の外の花壇の所に、小さな女の子とセリアと同じ制服を着た職員がいる。
遠くからでは少女が心を病んでいるとは見えなかった。
セリアと並んで歩いていたアリスは、先を促すようにセリアに顔を向けた。
陽だまりが差し込む回路を歩きながら、セリアの優しい声音がアリスの心に沁み込む。
「私の父と母は政略結婚で、冷え切った仲でございました。
だから私も結婚には期待をしていなかったのですが、婚約者の男性はとても穏やかな方で、本の虫で令嬢らしくない私をとても大事にしてくれました。私達の関係は緩やかに信愛から愛情へと移っていったのです」
それがさっきの院長だったのかと、アリスは心軽やかに相槌を打っていた。
「だけど、彼が病気であっけなく亡くなってしまって。悲しみに暮れる私に、父はもっといい縁談を持って来たと、私の涙が乾かぬ間に次の婚約者を見つけてきたのです」
穏やかでない流れにアリスの心臓が早鐘を打つ。
(その人が、あの院長???)
相槌も打てなくなったアリスを置いて、セリアの話は続いていく。
「次の婚約者の方も愛する人を亡くしたばかりで。私達は戸惑いの中、婚約者となりました。
だけどある女性に目を付けられていた彼の婚約者になってしまった私は、彼女の攻撃を受ける事となりました」
この話がどこに繋がるのか。
不穏な流れとは反対に、窓から差し込む優しく暖かな陽だまりが、アリスの思考を鈍らせる。
絡まった糸がなかなか解けずにもどかしさの中で、アリスは隣を歩くセリアの優しい笑顔を見つめた。
「彼女の罠に嵌った私は、男性から暴力を受けて、恐怖で心を病んでしまったのです。
大事な縁談を前に対人恐怖症になってしまった私に失望して、父は私をこの病院に閉じ込めました。
だけどここで、私は今の夫に会い、少しずつ病を克服したのです」
セリアが一つの扉の前で立ち止まる。
扉に体を向けるセリアに、アリスは体を向けて話の続きを催促する。
糸が解けていくのを感じながら・・・。
「元々内気だった私にはあの縁談は荷が重かったし、私と王太子様は急な流れについていけず、迷子の子供の様に立ち尽くして、自分の不幸に目の前が真っ暗で、お互いに向き合うことなどできませんでした」
セリアが優しくアリスに目をむければ、アリスの美しい紫色の瞳が涙の膜でキラキラと輝いていた。
「あの女のせいで不幸になる人を、もうこれ以上見たくありません。
だからアリス様、エマをよろしくお願いいたします。
あの子の心の闇は、きっと言葉にすることで昇華出来る筈ですから・・・」
「あなたは今幸せですか?」
震える声でアリスが聞くと、セリアは貴族令嬢だったとは思えない程の満面の笑みで答えた。
「はい。私はとっても、幸せです」
それを聞いて、アリスは大きく頷いて涙をごしごしと拭く。
そんな貴族令嬢らしくない行動に、セリアはうふふと、笑ってしまった。陽だまりの様な笑顔だった。
「あなたは彼女の行動で幸せを手に入れたけど、多くの人が不幸になった。
だから私達は彼女と彼女の家を許さない。絶対に」
決意を新たにしたアリスは、扉をノックして部屋に入って行った。
その後姿を見つめてセリアは、侯爵と初めて会った日を思い出していた。
トラウマを克服したセリアは、そのまま病院に残り、職員として働きだした。
会いにも来ない家族は、セリアが働いている事に気付きもせずに入院費を払い続けた。
経営が行き詰っていた先代の医院長だったが、セリアに家族に真実を伝える様に何度も説得をしたが、セリアは首を縦には振らずに、そのまま入院費は病院の経営に使われた。
自分を救ってくれた医院長に恩返しがしたかったセリアは独学で医学を勉強し、心のケアが必要な精神病患者の看病に携わるようになった。
そんな日々を送っている間に、医院長と一緒に自分に寄り添ってくれた、医院長の息子と恋人同士になった。
彼と結ばれても、法律的に結婚できないまま、時が過ぎて行った。
そんなある日、コンフラン侯爵が一人の少女を連れて病院にやって来た。
侯爵にお茶を出す為に応接室に入った時の、侯爵の顔がセリアは忘れられない。
「セリア・リヨン伯爵令嬢ですよね?」
歳が離れており学園に通う年が違ったため、セリアはコンフラン侯爵がまさか自分をリヨン伯爵令嬢と認識できるとは思っていなかったのだ。
驚いて言葉が出ないセリアだったが、同じように驚愕の表情を作る侯爵を目にして、少し落ち着きを取り戻した。
侯爵の希望で、医院長と侯爵の話し合いに同席する事となったセリアは、現在副医院長である恋人の診察を受けている少女について知る事となった。
「最低限の世話でいいです。お世話になるのですから寄付金は弾ませていただきます。だけどあれに良い暮らしは与えないで頂きたい」
侯爵のあまりにも冷たい言い方が、彼の美貌と相まって、セリアは得体の知れない恐怖を感じた。
「それでも、あの子は被害者なのですよね?」
「あの女とその実家を対象にしたら、そうですね。あれは被害者かもしれません。
しかしそんな事はどうだっていい。
私の視点からみたら、あれは私の娘を傷つけた加害者だ」
セリアはその時、侯爵の目が笑っていない事に気付いた。
この病院に来てから、ずっと笑顔を絶やさなかった侯爵だが、彼がずっと怒っていた事に、今更ながらに気付いたのだ。
「絶対にこの病院から外には出さないで下さい」
そう言って彼は、大量の寄付金と少女を置いて帰ろうとした際に、ふとセリアに尋ねた。
「あなたは同級生だったサタネラ・グルノーブル侯爵令嬢が、その後どうなったかご存じですか?」
「え? ええ。二年生の時にあの方に冤罪をかけられたのですよね? 彼女は領地に引きこもってしまわれましたが、その後三年生から隣国へ留学に行かれたと聞きましたわ」
それがどうしたのかとセリアが問うと、侯爵は心底楽しそうな笑顔で答えた。
「あなたが幸せになっているなら、グルノーブル侯爵令嬢も幸せになっている可能性がありますよね。
そう考えると楽しいですね。
あの女が不幸のどん底に落ちた時に、自分が陥れた人が幸せになっていると聞かされた時のあの女の顔が楽しみです。調べてみる価値はありそうですね」
美しい笑顔でふふふと無邪気に笑う侯爵を見て、なかなかすごい性格をしているなと思ったセリアは、ふと思った事を口にしてしまった。
「そんな侯爵様が、殺さずにエマをここに連れて来た事に驚きです」
侯爵のキョトンとした顔を見て「しまった」と思ったセリアだったが、侯爵は気分を害することなく、反対に子供がするような忌々しそうな表情で真実を吐露した。
「出来るなら私もそうしたかったのですが、そうすると妻と娘に嫌われてしまいそうでね。
私は完璧に人を騙せるほど嘘が上手ですが、残念ながら愛する人には嘘がつけないのです。
娘相手なら、嘘をつけなくてもごまかす事が出来るでしょうが、妻は騙されないでしょう。
だから苦渋の決断です」
麗しい笑顔の下にあるサイコの気質。
侯爵が人としての良心や愛を持ち続ける為に、侯爵家の面々にはいつまでも彼のストッパーになって欲しいと、心からそう思った医院長とセリアであった。
それから少しして、王宮からの使者がやって来た。
セリアの希望を聞いた彼は、一ヶ月後に再度やってきていくつかの書類と手紙を置いていった。
書類は、セリア・リヨン伯爵令嬢の死亡届とセリアと言う平民女性の出生証明書。
手紙は国王からで、本当に申し訳なかったと謝罪の手紙だった。
セリアが当時の事を思い出している間に、アリスの姿は扉の向こうに消えた。
(紫水晶の様に美しい瞳だったわ)
セリアは今来た道を戻りながら、意思の強さを秘めたアリスの瞳を思い出していた。
そして、昔一度だけ見た事がある希少な宝石を思い出した。
この大陸では採れないその希少な宝石は、採掘される帝国でもほとんど出回らない程に希少で高価であった。
確か王太子との婚約式を祝ってやって来た帝国の第一皇子が着けていた、胸元のブローチがその宝石で作られていたはずだ。
セリアはその宝石の名前を思い出そうと窓から見える空を眺める。
貴族令嬢としての生活から長らく離れていた為に、不要な情報を忘れて行ってしまっていることに、セリアは苦笑した。
(あぁ、そうだ。ヴァイオレットサファイア・・・)
あの子の瞳はあの希少な宝石の色だわ・・・。
キラキラと輝いて、見る者を吸い寄せる様な魅力を持った瞳の少女。
セリアはそっと微笑んで、愛する夫がいる医院長室へと戻って行った。




