③ 天使降臨!
「ええ、そうよ。ストレスMAXなの」
微笑みは美しいが青筋が見えそうな表情でそう言って、アデルは優雅に紅茶を一口飲んだ。
とある日曜日の王宮での事である。
アリスがアデルに会いたいと手紙を出すと、その日の内に、次の日曜日の王宮への招待状が届いたのだ。
王太子妃個人のサロンで、甥っ子のフィリップを抱っこしながらべろべろば~としていたアリスは、その顔のままアデルを凝視した。
「さすがのアリスも、その顔は不細工なのね」
アデルの毒舌がアリスにも襲い掛かる。
アリスがアデルの後ろに控えている、アデルの腹心である侍女に視線を送ると、必死の形相で(何とかしてくれ)と表情だけで泣きつかれた。
アリスが、“心底心配している。フィリップに会うのはついでで、姉のアデルを一番心配してやって来た”とでも言いたげな表情で「どうしたの? お姉ちゃま」と昔の呼び方で話しかけると、アデルは一気に機嫌を良くした。
後ろに控えていた侍女一同は、アデルに見えない様にアリスに感謝の土下座をしている。
「あのクソ女が余計な事をしだしたのよ」
「元王太子妃様? あれ? 離宮で軟禁じゃなかった?」
「元に様なんかつけなくていいわ。クソ女で十分よ」
アリスはそっとフィリップの耳をふさいだ。それに気づいた侍女の一人がフィリップを連れて部屋を出る。
「職務を放棄したという罪に対して、王太子妃の位を取り上げたのが罰なの。
王族である事は変わりが無いから、宮殿には住めないけど王城内にある離宮には住めるし、少なくとも予算は出される。その中で遣り繰りをするのは許されているのよ。外出に制限はあるけど、神殿に行ってお祈りを捧げたり奉仕に行くのには誰も止められないわ」
アデルはそこまで言うと、忌々しそうに窓の外に目を向ける。
窓の外に広がるのは、王太子妃を癒すために丹精された美しい庭園。
だけどアデルが見ているのは、その方角の奥にあるのであろう、見えない神殿。
「何があったの?」
「この前、教皇様が王宮にいらっしゃって。念のために情報を共有しておきたいって」
「情報って?」
「今、神殿に通っている平民の間では、あのクソ女が“聖女様”と拝められているらしいわ」
アデルの一言にアリスは驚いた。
「聖女様って、・・・・・何?」
「聖女様って言うのは、東にある大陸で信じられている神話に出て来る存在ね。
私達の大陸で言う天使様と同じ様な感じで、東の大陸で信仰されている神の使いだと言われているわ。
天使様は女神様のお声を私達に伝えてくれると信じられているように、聖女様は神様の癒しの術を使って信者達を救ってくれると言われているわ。
だけど天使様と一緒で、過去に存在していたという歴史は無い。
ただ、そういう言い伝えがあるというだけの存在よ。一種のフェアリーテールね」
アリスは初めて聖女という言葉を聞いたから、不思議で仕方が無かった。
何故ならば・・・。
「あなたの考えている事は分かるわ。
貴族ですら知らない、遠い大陸のフェアリーテールを、何故我が国の平民が知っているのかと言う事よね。
それこそが、誰かの陰謀に思えるじゃない?
お父様が調べてくれたところによると、誰かが言い出したそうよ。『聖女様の様だ』と一人が言い出し、それは何かと周りが尋ねれば、わざわざ聖女とは何かを説明してくれる」
そうしてこの国の民は、遠い異国の聖女という存在を知り、胡散臭い女をそれと信じ拝め奉る。
これが陰謀ならば、恐ろしい計画である。
この国で一番多い平民を味方につければ、たとえ貴族が力を持ち国を動かしていても数の力で負けてしまう。
いくら貴族が彼らを教え諭しても、彼らにとっては小さな声であろう。
「何でそんなに簡単に信じてしまうのかしら・・・」
アリスは不思議で仕方が無かった。
アリスが小さな頃も、信者達がアリスを天使様だと思い、アリスの歩く道の端で多くの平民が頭を下げて拝んでいた。
それがあまりにも奇異で面白くって、幼いアリスも手を前に掲げ、王族の様な手の振り方で、『くるしゅうないぞ』と天使の振りをして遊んだものだ。
それに気付いた侯爵夫人にお尻ぺんぺんされて怒られたのだが。
「聖女の見た目に関しての記載は、どの文献にも残っていなくて、ただ“清廉な空気を持つ美しさ”とだけあった筈だわ。確かにあの女は、見た目だけは清廉な感じよね。
そして、色合いが女神様の色に近いのも、民達が信じる理由の一つかもしれないわね。
特に今は、女神様と同じ白金の髪に黄金色の瞳を持つ女性がいないから・・・」
アデルの言葉で、アリスはルイの母親の事を思い出していた。
現国王の末姫でカイゼルスベルク公爵夫人であったルイの母親が教会に行けば、元王太子妃の色が全く女神様とは違う事が分かるだろう。
しかし白金の髪に黄金色の瞳を見た事が無い民衆にとって、白髪に薄い乳白の様な瞳の元王太子妃は、少し薄暗い教会の中では女神の色にも見えたのかもしれない。
どちらにしても、残酷なまでに自分の欲望に忠実なあの女に、信奉者が増えるのは良くない。
アデルが疲れている理由が分かったアリスだが、それなら直ぐに解決できるかもしれないと考えた。
(この前の、ジュリエット様の時と同じように・・・)
アリスが考えた事が分かったのか、アデルが優しくアリスに釘を差す。
「あの女はとても手強いの。だからアリスも迂闊に手を出さない方がいいわ」
「でも・・・」
「アリスが出来る子だって、皆分かってるわ。リクヴィール男爵令嬢の時はうまく行ったのでしょう?」
姉の一言に、アリスは自分が大人達から認められた様な気がして、スーパーハニーに一歩近づいた様な気がして、自分でも知らずに得意げな顔をしてしまっている。
アデルはそんな妹が可愛くて仕方がなくて。
席を立ってアリスの隣のソファに座った。
「たとえイザベラちゃんに『小物臭プンプン』って言われてもね」
「むぅ!」
アリスはまたその話を蒸し返されて、頬を膨らませて抗議をする。アデルは笑いながら、アリスの頬を指でつついて潰す。
「ルイルイも、アリスの鮮やかな手法よりも膝小僧が気になって仕方が無かったみたいよ」
「もう!」
アリスは誰もあの撃退法を褒めてくれなくて、背中にあったクッションを引っ張ってきて胸の前でギュウギュウと潰すように抱きしめた。
アデルは声を上げて笑ってしまった。
そうして横から優しくアリスを抱きしめる。
「アリスのお手伝いが必要になったら必ず言うから。でもそれまでは、アリスには少しあの女と距離を取って欲しいのよ」
アリスはアデルの顔を見つめて、そして姉に甘えるように、抱きしめてくれるアデルに軽くもたれかかる。
アリスが誘拐されかけた件が、元王太子妃とその実家が関わっている可能性があると、既にアリスも聞かされていたのだ。
あの事件は、アリスやルイだけでなく、家族やコンフラン領にも影を落としている。
アリスのメイドのキキも、その時に自分が側に居なかった事が心に大きな影を落としており、アリスが自分の居ない場所へ一人で行く事を嫌がる。
そうしてアリスは、皆が自分の事で不安を感じると、馬鹿で子供だった自分のお尻をぺんぺんしたくなるのだった。
「そもそもあの女は一言も自分が“聖女”だなんて言ってないのよ。
『あなたは聖女様なのですね』って言われても『いえいえ』とか『私なんか』って返すの。
そう言われたら、あの女の罪を探しているこちらからすると、あの女は否定していた事になる。だけどその質問をした人からすると、聖女では無いと否定した様には聞こえない。
だから多くの民衆が彼女を聖女と信じるのに対して、こちらからしたら彼女は肯定していないから罪には問えない」
だから難しいのだと、アデルはため息と共に零した。
アデルと別れてアリスは馬車に乗って侯爵邸へと帰る。
しかしふと思い立って、アリスは目の前に座るキキに中央教会に向かう様にお願いをした。
「いけません! さっきアデル様に言われたことを忘れたのですか!?」
「もちろん覚えているわ。だからちょっと見るだけよ。敵の姿をちゃんと見ておかないと」
「ダメです」
「陰から見るだけよ。声もかけない。それにキキがいるから平気でしょ?」
アリスに上目遣いでお願いをされてキキも逡巡する。
「お願い!!!」
顔の前で手を組み合わせてお願いのポーズをされたら、もうキキにはNOとは言えない。
「ちょっとだけですよ? 陰からチラッと見るだけですからね?」
キキに釘を刺されて、アリスは満面の笑みで頷いた。
キキは、「全くもう」と不満を零しながらも、御者に行き先変更を告げる。
アリスは窓の外を見て、移り変わる景色を見るでもなく眺めていた。
そんなアリスをキキは不安そうに見る。
今日のアリスは真っ白なドレスを着ている。
ストレスMAXのアデルの為に王宮に訪れていたアリスは、アデルが大好きなコーディネートを選んだのだ。
真っ白なドレスは華美ではないけれども、レースと刺繍がふんだんに取り入れられていて、アリスの、見る者を圧倒させる華やかな美貌に静謐な印象を添える。
つまり天使感が最大限に増すのだ。
更にいつもはしない化粧を、王宮に行くためにしている。
つまりアリスの美貌が最大限に増し増しなのだ。
キキは思った。
(これ、陰からこっそり見るって、無理じゃね???)
嫌な予感に胃がキリキリするキキなのであった。
そんなキキの心情など知らずに、アリスは流れゆく景色を見ていた。
馬車は貴族街から平民の住むエリアへと進んでいく。
王都の中央にある王宮。その王宮を囲むように広がるのが貴族が住むエリア。そこを取り囲む様に平民が住むエリアがある。その王宮の前から反対の、王都の端っこに中央教会は建っている。
この国の建国神話は、女神に祝福を受けた兄弟が国を興したとされている。そして建国当初から、その女神を信じる女神教を国教としている。
平民は毎日その中央教会にお祈りに行く。
それに対し、貴族は中央教会には一年に一回、建国記念日にしか行かない。
その理由は、王城内や貴族街にも女神教の教会があり、そちらの方が断然近いからだ。
今回、元王太子妃が聖女と言われて拝め奉られている事に気付いたのが遅かったのは、そんな理由からだった。
教皇が情報共有に来てくれなければ、国王達は今でも知らずにいた可能性がある。
窓の外の景色を見ていたアリスが、ふと空を見上げた。
もうすぐやってくる春に向けて、弱かった日差しが日に日に強くなりだした今日この頃。空気がまだ少し冷たいせいか、強い太陽の輝きが、王都の街並みをキラキラと輝かせていた。
王宮から一時間以上馬車を走らせて、やっと中央教会に辿り着いた頃には、もう空が夕暮れ色をしていた。
アリスは馬車の中から教会に出入りする人々を見つめる。
商売人はまだ仕事があるから、この時間に教会に来るのはお店以外で働いている平民であろう。
日曜日の夕方だから、夕飯の準備がある女性より、やはり男性の方が多い。
そして今日は元王太子妃が教会で炊き出しをしていた為に、平民の中でも貧困に喘ぐ人々が多くいるようだ。
アリスは後継者教育の授業で教わったこの国の現状を思い出しながら、教会を出入りする人々を見つめた。
そしてそっと馬車を出て、目立たぬようにと教会の入口へと向かう。
教会の前、馬車止めから広場を横切り、入り口の前にある五段の階段を、少し俯き加減に歩く。
荘厳な中央教会は、建国時代から残る歴史ある建物で、その華やかな様式は誰もが目を奪われる。贅を尽くしたステンドグラスに覆われた高く大きな窓で覆われているため、陽の光が差し込む教会内は、とても厳かである。さらに言わずと知れた天井画は、巨匠レオナルドによって描かれた女神と建国の父の物語。
そんな教会に向かって、静々と歩いていく美しい少女。その顔がはっきりと見えなくても、その存在だけですれ違う人に絵画の様に見せる。
夕暮れの明かりが、アリスの黄金色の髪を輝かし、アリスとすれ違った人々は、伏し目がちの瞳が宝石の様に紫色に輝いているのを目にし、振り返ってアリスの後姿を呆然と見つめ続けた。
誰かの声が聞こえる。
「天使様だ・・・」
現在この国に、天使と同じ色合いを持つ人間は、アリス以外にいない。
アリスがコンフラン侯爵家の令嬢であると知らない平民達にとって、アリスは見た事も無い程美しい真っ白なドレスを着た天使様にしか見えないのだ。
キキが臍を噛んで何かを堪える。そして人生何度目かもう覚えていないが、心の中で家族にお別れを告げた。
貴族のアリスにとってのこっそりは、平民にとってはこっそりでも何でも無かったのだ。
アリスが階段を登り終え、教会と階段の間にある少し広い空間から、そっと教会の上を仰ぎ見た。
その姿はまるで、女神様の声を今まさに聞いている天使にしか見えなかった。
アリスがふと視線に気づいて後ろを振り向くと、その場に居た人々が全員アリスに跪く。
(やべ~。大事になっちゃった)
そんな事を考えている事を微塵も感じさせずに、アリスはさっと前を向いて教会の入り口をくぐる。
前廊にも数人の信者が居て、アリスが多くの民衆を携えて教会に入って来たことに驚いた。そして前廊から中を覗くと、そこには元王太子妃と数人の付き人、そして教皇が居た。
周りにいる人々が彼らの会話を聞いていることから、特に聞かれて困るような話をしているわけではないようだ。
しかしどんな会話がなされているのかを確認したくて、アリスは前廊から中を盗み見る。
しかし自分の周りから「天使」「天使」と言う声が煩くて話が聞こえないので、アリスはそっと後ろを振り返って極上の笑みで口元に人差し指を添えた。
それだけで周りの人々は頬を染めながらこくこくと頷く。
さらにアリスの側に居た人々が、アリスの動向が見えない遠くの人々に、「天使様が静かにするように望んでらっしゃる」と小声で伝言ゲームの様に次々と伝えていくと、皆がアリスの望み通りに黙ってこくこくと頷く。
キキはそれを、奇異の目で見ていた。
アリスはキキをも含めたみんなの行動をマルッと無視して再度会話の盗み聞きに挑戦する。
「あなたが貧しい者達に施しを与える事は、とても素晴らしい事です。しかし、だからと言って“聖女”だと誤認させたままで居るのは大変遺憾である」
「わたくしは一度も自分が“聖女”であるとは言っておりません」
少し眉根を寄せて、か弱く声を発したのは、確かに何度か見た元王太子妃だった。
しかしアリスは少し違和感を覚えた。
彼女の髪色が白金に見えて、そして瞳は黄金とは言い方いが、薄い琥珀色にも見えた。
(あんな色味だっけ?)
全体的にボヤッとした色合いではあったが、この教会で見ると彼女の色は女神様の色にとても近かった。
アリスは、人々が彼女を“聖女”だと感じたのは、彼女の色合いが影響を及ぼしている事に気付いた。
(全然ルイのお母さまの色とは違うのに、ここでは女神様の色に見えるのは何でなんだろう)
光の加減?
アリスは側廊にあるステンドグラスをチラッと見る。
今は夕方で西日が差していて、西側にあるステンドグラスから光が降り注がれている。
そしてアリスは、光が織りなすマジックに気付いたのだ。
元王太子妃が立っているのは東側で、ステンドグラスからの光を浴びている。そしてそのステンドグラスは、黄色味が多く使われていたのだ。
髪や瞳に色味の少ない彼女がその色を浴びると、瞳に黄色味が足されるのだ。
そして光によって艶が輝く白髪は、白金色に見せていた。
(あばばばば! あれが計算なら、なんちゅう恐ろしい!!!)
アリスは、ジュリエットなど足元にも及ばない彼女の計算尽くされた行動に恐れ慄いた。
だけどそれ以上に、この世紀の大発見を家族に伝えたくて仕方が無かった。
駄目だと言われたのに教会に行った事を怒られるよりも、この世紀の大発見をした業績を褒めて貰いたかったのだ。
興奮したせいで少し体を乗り出してしまっていたアリスは、バッチリと元王太子妃と目が合った。
「あ・・・」
顔を真っ青にしたアリスだったが、踵を返す前に元王太子妃も「ヤバい」という顔をした事に敏感に気づいた。
彼女はそそくさとアリス達がいる側と反対の、さらに側廊を通って帰ろうしている事にアリスは気付く。
(え~~~い! 一か八かだ!!!)
アリスは教会の身廊のど真ん中の通路から教皇に声を掛けた。
「教皇様!」
急に自分に背を向けた元王太子妃を訝し気に見ていた教皇は、呼ばれた方に顔を向けた。
そこに立っていたのは、十五年近く前、教皇になりたての自分の前で、平気で天使の振りごっこをして信者からお菓子をせしめて、侯爵夫人に怒られてギャン泣きをしていた少女だった。
そしてその少女が、天使ごっこをしていた頃によくしていた、手を前に少し上げて軽く手を振る仕草。
十八歳になり、大陸中にその美貌を轟かすアリスの、その懐かしい仕草と、目の前の元王太子妃。
教皇はアリスのしたい事に気付き、教会内に居た人すべてに聞こえるほどの大きな声で言った。
「コンフラン家の天使様ではないですか!」
もちろん“コンフラン家の”という台詞は、目の前にいる前王太子妃にしか聞こえない程の大きさだ。
つまり教会に居る人には、
「天使様ではないですか!」
しか聞こえなかった。
そうして厳かに、そして親しみを込めた微笑を浮かべながらゆっくりと中央を歩くアリスは、白のドレスと教会内という相乗効果によって、誰の目にも天使にしか見えなかった。教皇ですらもそう錯覚してしまう程に。
「元王太子妃様、お久しぶりですね! 元王太子妃と呼ぶのもおかしいですかね? 何と呼べばよいのでしょうか?」
アリスに大声で呼び止められた元王太子妃は、冷え冷えとする瞳でアリスをねめつけたが、すぐに多くの瞳が自分を追いかけた事に気付き、アリスに微笑み返した。
しかし彼女がアリスの問いかけに返事をする前に、アリスがまた言葉を発する。
「確か、仕事をせずに遊び暮らしていたせいで王太子妃の位を廃位されたのに、教会で何をされていたのですか?」
「そんな事、アリ」「それよりも、こちらに来てくださいませんか? それともそのステンドグラスの下でないといけないのかしら?」
「!」
歩みを止めたアリスが傲慢な物言いで元王太子妃を煽る。
教皇もその一言で何かに気付き、元王太子妃の側から離れてアリスに近づく。
その状況は、誰の目から見ても、女神の僕である教皇が、女神の代弁者である天使に敬意を払った姿に見えた。
教会に居る全ての人の目が、アリスに注がれている。
元王太子妃は、視線で人を殺せるのなら百回はアリスを殺しそうな勢いで睨みつけ、そして踵を返して側廊を通って帰る。
しかし教会の奥に居た彼女が外に出るまで、アリスと教皇による小芝居を黙って聞きながら敵前逃亡するしかない。それは彼女にとっては地獄でしかなかった。
「教皇様も大変ですわね。迷える子羊を惑わす悪魔はどこにでも居ます」(一般論)
「はい。隣人の振りをした悪魔程恐ろしいモノはありません」(一般論)
「本当ですわね。か弱い乙女の振りをした悪魔・・・」(持論)
「でも、私達には天使様がいらっしゃいます。女神様のお言葉を私達に届けてくださるでしょう」(希望論)
「そうですね。(私のお姉様は女神の様に美しいのですが、その)女神様は言っておられます。民を正しく導くことが出来れば、悪魔を封じ込めることが出来るでしょう」
「女神様のお導きのままに」
教皇は聖壇に向かって十字を切った。
しかし人々の目には、立ち位置的にアリスに十字を切ったように見えた。
正確には、アリスは少し横にずれていたのだが、教皇が頭を下げている間、アリスが全てを受け入れる様な泰然とした微笑みで、教皇を満足そうに見ていたからだ。
「どういう事だ?」
「あの人が悪魔だったってこと?」
「さっきあの人の事を天使様が元王太子妃って言ってた」
「元王太子妃って、俺達の血税で遊んで暮らして仕事をしなかったから、国王様が王宮から追い出したんだろう?」
「そうだ。俺のばぁちゃんが言ってた。元王太子妃は魔女だって!」
「私達に近づいたのも、何か裏があったんだわ!」
民衆の声が聞こえて、教皇とアリスは心の中でハイタッチをした。笑顔で見つめ合いながら。
「さぁ皆さん、家に帰る時間ですよ。家族と共に今の幸せに感謝を」
教皇が民衆を促して帰途へと帰す。
教会に居た人々は教皇とアリスに深々とお辞儀をして出て行った。
「恐れていたシナリオは回避できたんでは無いでしょうか」
教皇は好々爺と言われる人好きのする笑顔でアリスに微笑みかけた。
「それにしても、この年になってアリス嬢の“ごっこ”遊びに参加する事になるとは思いませんでしたよ」
アリスは昔に天使ごっこをした時に、母に怒られて教会の個室で母にお尻ぺんぺんされ、ギャン泣きした全てを見ていた教皇からそっと目を逸らした。
教皇と別れて馬車に乗り込むと、今日も生き延びる事が出来た事を女神様に感謝していたキキに向かってアリスは笑顔で言った。
「さぁ、おうちに帰ろう!」
陽が沈み、青紫の薄暗い黄昏の時間。
明かりの無い少し暗い馬車の中でも、アリスのキラキラと光る薄い紫色の瞳を見て、
たとえ暗闇であっても、この瞳が進むべき道しるべなのだと、
キキは思った。




