⑩ ラファエル
「あなたが、あの女を切り捨てられなかった時は、
その時は、わたくしは生き残る事は出来ないでしょう」
私は 王国の王太子と王太子妃の間に生まれた嫡男だ。
物心がついた頃から、私は一人だった。
それでも優しい乳母や、こまめに面倒を見てくれる侍女、心寄り添ってくれる侍従のおかげで恙無く過ごせた。
それでも、寂しい気持ちは無くならない。
父は私の顔を見ると、少し困ったような顔をして、そのまま立ち去って行く。
話しかける事も、触れて来る事も無い。
幼心に母は美しい人だった。
誰にでも優雅に微笑み、多くの人に囲まれていた。
そんな時は、聖母の様な笑顔で自分を抱き上げてくれた。
しかし誰も側に居ない時は、興味の無い顔で私に一瞥をくれて、声を掛けてくる事もなかった。
今なら分かる。
あの人には母性が無いのだと。
あの人が愛しているのは自分自身だけで、息子である私でさえ、彼女を彩るアクセサリーの一つでしか無いのだと。
頭では理解していても、感情が追い付かない私は、この広大な王宮でいつも孤独を抱えていた。
今はもうあの人達に愛を乞うことは無い。
そう思っていたのに。
それでも、私の中には子供の私がいて、いつまで経っても母親の愛を探してしまうのだ。
私が十五歳になった年に、婚約者の選定が行われた。
祖父である国王は、コンフラン家の長女に目を付けていた。
私の婚約者選定が遅くなったのも、アデルを諦めきれない国王がコンフラン家に次子が生れるのを待っていたからだと、王宮では噂されている。
この国随一の資産家であるコンフラン家。アデルは、傍目から見ると大人しそうで可憐な少女だった。
華やかな大輪の花の様な美貌で社交界を牽引する侯爵夫人とは違い、どちらかと言えば侯爵に似ていて、人好きのする笑顔が愛らしかった。
私は彼女であれば、良い関係が築けるのではないかと期待していた。
そんな時、あの人が私に会いに来た。
十五歳にもなって、まだ母の愛を求めていたのかと、今なら自分の幼稚さ、愚かさに気付けるのに・・・。
その時の私は、人はいつだって変われる生き物だと信じていたのだ。
「見なさい。コンフラン家は王家を乗っ取り、裏からこの国を操る気ですよ」
儚げな美貌の母が私の腕に寄り掛かり、そっと扇子で指した方を見てみれば。
そこにはアデルが、同じ婚約者候補の子女達と言い争いをしていた。
アデルは終始落ち着いた態度で、他の候補者を諫めていたが、私はそれでも彼女に失望をした。
女とは、見た目通りの生き物ではない。
儚げな風貌をしていても、中身もそうとは限らない。
この母の様に・・・。
「ほら、あの言いかた。侯爵夫人にそっくりだわ。もう自分がこの王宮の主にでもなったかのよう」
母の顔が、憎々し気に歪む。
王太子妃でありながら、自分よりも影響力のある侯爵夫人が憎いのだ。
何だか疲れた。
私が婚約者と上手くいっていないことは、私の側近達や侍女たちは気づいていた。
私を諫め、導こうとしてくれたが、私は何もかもを諦めたかのように、彼女と良い関係を築く努力をしなかった。
しかし誰もが私の為に口を噤んでいたため、国王には私の愚行は届かなかったようだ。
あの日、アリスに諫められて気づいた。
あの時は本当に腹が立った。
だけどあの子は、あの子だけは私に忖度せず、頭を殴ってくれたのだ。
目を覚ませと。
・・・でも、本当に腹が立った。
後でアデルに言ったら、大笑いしていた。
それも含めて、いい思い出になった。
私は自分の愚かな行動を祖父に話し、アデルを何とか自由にしてやりたいと、婚約を破棄してやりたいと訴えた。
祖父は顔を顰めて眉間を押えた。
失望させてしまった事に、胸が痛くなる。
ただでさえ、祖父は国王と王妃の仕事に追われて毎日忙しいのに・・・。
だけど顔を上げた祖父の顔にあったのは、憐憫の表情だった。
そして話し出したのは、私が生まれた時の事。
父の恋人の話。母の話。私ができた時の話。
父がいつも、悲しみの表情で私を見ていた理由が分かった。
私は、父の愛する人を殺したかもしれない女の子供なのだ。
だけど解らない。
私は、あなたの息子でもあるというのに・・・。
なんだか疲れた。
アデルに婚約解消出来なかった事を伝え頭を下げると、彼女は「しょうがない事です。分かっていました」と、儚げに笑った。
それからの日々は贖罪に費やした。
学園生の時から王太子妃の職務をこなしていたが、卒業と同時に王太子妃の職務を父が受け取り、私が父の代わりに王太子の職務を始めた。
学園生の時から一緒にいてくれた同級生がそのまま側近となり、私の手伝いをしてくれた。
忙しい日々を送っていたが、アデルの為の時間は、寝る時間を削っても作り出した。
彼女が王宮に来た時には、帰りはいつも送って行った。
その為、彼女がすでに王子妃教育も、王太子妃教育も終わっている事に、今更ながらに気付いた。
アデルは王妃教育を受けに、学園から毎日王宮にやって来ていたのだ。
その時に、祖父と父は、祖父の次の後継者を私にする予定である事に気付いた。
だから、アデルは逃れられないのだ。この王家から・・・。
それを知った日、私はアデルを送る馬車の中で泣いてしまった。
母のせいで、犠牲にならなければならないアデルに、言葉が出ずに涙が出る。
アデルは真っ直ぐに前を、私を見たままに言った。
「わたくしは貴族の、筆頭侯爵家の娘です。貴族の務めを果たすのみです」
その静謐な、凛とした眼差しを、私は美しいと思った。
私はいつだって、誰かに愛を乞うている。
彼女も、母と同じ様に、私に愛を返してはくれないだろう。
だけど私は、彼女を愛する事を止める事はないだろう。
アリスが傷つけられたあの事件の裏に、母や母の実家が絡んでいるのかは判らないままだった。
だけど、完全に王太子の職務を私に渡してしまった父は、取り付かれたかのように何かを調べる様になった。
私は王太子の職務をこなしながら、国王の職務を少しずつ祖父から教わるようになった。
父との間にはまだ壁があるけれど。
常にこの世の不幸全てを背負ったような、何も見ていないガラス玉の様な目をして、淡々と職務をこなしていた父が、少し変わった様に見えた。
アデルと結婚をして、私達が王宮の一角に住み始めてからはとても幸せな日々を送っていたが、アデルはピリピリとしていた。
理由を聞くと、母の息がかかった人間がこちらに送り込まれているという。
私はアデルが落ち着いて生活を出来るように、王太子妃の職務をこなしていない母から王宮の管理の権限を取り上げる事を祖父に進言したが、聞き入れられなかった。
父が次の国王にならない事に気付かれないよう、母を油断させる為だという。
それは、アデルと私の命を守る意味でもあるのだ。
私は、夫婦の寝室ではアデルが落ち着いて過ごせるように、メイドも侍女も、私の息がかかった者を揃えた。
アデルではなく、私の希望として。
そのかいあって、ときどきリビングでもピリピリしているアデルであったが、寝室に来ると素の表情を見せてくれるようになった。
私はとても幸せを感じていたが、何も解決できていない。
アデルが幸せを感じないといけないのだ。
そんな時、アデルの妊娠が発覚した。
少し貧血を起こしたアデルを侍医が調べたところ、もう妊娠三ヶ月に入る頃だという。
私は文字通り飛び上がって、喜びでアデルを抱き締めた。
まだつわりが来ておらず実感が持てないのか、アデルは茫然としていた。
そして呟いた。「こんな悪魔の巣窟で産めない・・・」と。
私は急いで祖父の元に行き、アデルの妊娠を伝え、そしてすぐにでもコンフラン家に戻ってそちらで出産をさせたいと願った。
アデルが恙無く過ごせるように。
そうしてアデルは実家で、何の憂いも無く過ごせるようになった。
私が仕事で王宮に来ると、母はどんな手を使っても会おうとするので、私は深夜や早朝に隠れて戻るようになった。
コンフラン家での日々は、幸せそのものだった。
アデルは終始落ち着いていて笑顔だった。
私が大量のベビー用品を買って帰ってくると、呆れた様に笑った。
私は生まれて初めて、一人じゃないと感じた。
外出から戻ってきたら、侯爵家の使用人達が慌ただしく動いていた。
執事のセバスチャンが、アデルの陣痛が始まったと教えてくれたので、急いで分娩室が用意されている客間に走った。
お産に立ち会ってもいいと言われたので、ずっとアデルの手を握って、アデルの汗を拭いて、一緒に出産時の呼吸をする。
いきむ時に、あまりの痛みからかアデルは私の手を払って、反対側にいた侯爵夫人にしがみ付いていた。
「もう! あっちに行って!!!」
そうアデルから怒鳴られたけど、ずっと横にいて、アデルの呼吸に合わせて呼吸をし、何度も彼女の汗を拭い、そして、「頑張れ」と声を掛けた。
自分の無力さに涙が出そうだったが、何度もアデルを励ました。
そして空が白み始めた頃、息子が生れた。
ボロボロの顔で、髪がおでこに張り付いて、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、アデルが息子を抱き締めて笑った。
その姿は、本当に美しかった。
疲れ切ったアデルの代わりに、息子が私の元に連れてこられた。
ベッドサイドに立って、息子をこわごわと抱っこする。
力いっぱい泣く息子は、まだしわくちゃで肌が真っ赤で、猿みたいだったけど。
私は感動に声が出ず。
だけど心で誓った。
この子とアデルを守る為なら、私は何でもするだろう。
この子とアデルに何かをするなら、私はあの人を、切り捨てることが出来るだろう・・・。
自分を産んでくれた母親を・・・。
「ラフィ・・・」
アデルが愛称で私を呼ぶ。
そちらに目をやると、疲れ切った顔でアデルが一言つぶやいた。
「愛しているわ」
私は子供の様に、その場で息子を抱いたまま、声を上げて泣いた。
私も愛しているよ。
私の中の、愛を乞うていた少年が、昇華したのを感じた。




