④ アリス、不治の病になる
「おはよう、アリス」
今日も朝から爽やかな笑顔で迎えに来たルイに、アリスは上手く返事が出来なかった。
昨日母親に言われたことを反芻する。
「?」
アリスの違和感を怪訝に思ったルイが口を開く前に、侯爵夫人がルイの背中をポンポンと軽く叩いた。
「ゆっくり、ゆっくりね。アリスが今の感情に名前を付けるまで、アリスの歩幅に合わせてね」
夫人はルイににっこりと微笑んで、小声で、
「方向性はあってるから。ルイルイはそのままで、ね」
とだけ言って、玄関ホールから食堂へと向かってしまった。
ルイはしっかりとメッセージを受け取ったようで、アリスににっこりと微笑んだ。
そして手を差し出す。
「行こう、アリス」
アリスがおずおずと手を差し出すと、昨日と同じ様に手を繋いだルイだったが、一つだけ違うのは・・・。
(こ、これは!!! 私知ってる!!! これは恋愛小説で出て来る、"恋人繋ぎ"だ!!!)
指と指を絡めて繋ぐ、恋人繋ぎ。
数多の恋愛小説に出てきて、少女達の心を鷲掴みにする手の繋ぎ方の一種。愛し合う二人だけが許された繋ぎ方。
アリスはルイに引っ張られながら、繋がった手を真っ赤な顔で見つめ続けた。
(こ、こここここれは、恋人同士がする手の繋ぎ方なのに! ルイは知らないのかな?)
アリスはドギマギしながら馬車に乗り込んで、そして気づいたらルイが横に座ったことにさらに驚きで声が飛び出そうになった。
振れる肩が熱い。
振れる膝が熱い。
アリスはその日、一言もルイと会話をせずに、学園に辿り着いた。
(心臓が痛い・・・)
今日から通常の授業が始まる。
学園のクラスは爵位で分けられている。
公爵・侯爵家のクラス、伯爵家のクラス、そして子爵・男爵家のクラス。爵位によって必要とされるマナーが違うし、家庭教師の質が違えば教わった範囲も変わって来る。その為、この様な分け方となったのだ。
今年はあまり高位貴族の子女はおらず、令息は三人、女子は四人だけだった。
今年首席で入学したルイと、次席で入学したイザベラは、共に生徒会メンバーに選ばれた。
担任の先生から教室の前の教壇の所で、説明を受けている。
先生が去った後も、二人でそのまま何かを話していた。
頬を赤く染めながらルイに話しかけるイザベラと、それに優しく微笑みかけながら返事をするルイ。
アリスはそれを遠目に見て、今日も胸がモヤモヤするのを感じた。
何故こんな気持ちになるのか。
十五年間一度も無かったのに。
ルイがイザベラと話している時だけ・・・。
(これってどういう意味だろう・・・)
いつまでも答えが分からず、モヤモヤする心にイライラとして、アリスは席を立ってルイ達の所まで行った。
「アリス、どうしたの?」
いきなり自分の所に来たけど何も言わないアリスに、ルイが目線を合わせて優しく問いかける。
アリスと対峙したルイの笑顔には、今までに無い甘やかさが足される。
アリスは気づかないが、クラスの全員が気づく事実。それは自分達に向けられる笑顔がただのアルカイックスマイルで、そこにルイの感情は一欠けらも無いという事に。
見ている方がキュンキュンしてしまうような甘い笑顔を向けられた張本人アリスは、少し不貞腐れた感じで口を軽く尖らせて、ルイと目線を合わせなかった。
「何か、ルイのその顔・・・やだ」
「!? ど、どういう意味?」
衝撃の、まさかの自分の顔が嫌と言われるとは思わなかったルイも、ちょっと動揺する。
「なんか・・・、笑ってて、嫌だ」
ルイは目敏く、アリスの感情に嫉妬が含まれていることに気付いた。ニヨニヨする口を力業で押さえて、平常心を心掛けてアリスに問いかける。
「俺が笑ってるのが嫌だったの? いつもアリスに笑いかけるのも嫌だった?」
「違う。・・・イザベラに笑いかけるのが嫌だったの」
「じゃぁ、アリスに笑いかけるのはいいの?」
「・・・うん」
「他の女の子に笑いかけるのが、嫌なんだね」
「うん。・・・たぶん」
アリスが目線も合わせず、少し俯き気味にモジモジしだした。
ルイは理性を総動員して、心の中で特大の深呼吸をした。
「じゃぁ、止めるよ」
「え?」
「他の女の子と笑顔で話したりしない。もともと、アリスがそういう王子様が好きだったからしてただけだから」
「私が?」
「うん。昔言ってたよ」
「いつ?」
「六歳の時」
「ルイに?」
「アデル姉様に。皆に優しい王子様が好きって」
「私がそう言ったから、ルイは人に優しくしていたの?」
「そうだよ」
「何で?」
「アリスが好きなタイプの男になりたかったから」
アリスがルイと目を合わせると、ルイが信じられない程優しい瞳で自分を見つめている事に気付いた。
(ドキドキドキドキドキドキ)
「だから、よく考えて欲しい」
ルイがアリスの両手を繋ぎ、真っ直ぐに見つめる。
「何で、嫌だって思ったのか。
あと、何で俺がそうしていたのか・・・」
アリスはルイの真剣な瞳に見つめられて、心臓が痛いほどに締め付けられるのを感じた。
そうして、傍から見ればどう見ても恋する乙女の風貌で、アリスが小さく頷くと、ルイは甘く蕩ける笑顔で頷き返した。
そうやって二人で見つめ合っていた。
教室のど真ん前で。
「え? わたくし、何見せられてますの???」
さっきまでルイと会話をしていたイザベラは、特等席でカップルのイチャイチャを見せつけられて、不満をぶつけようと周りを見たら、クラスの全員がウットリと目の前の寸劇を見つめていた。
「え? 何ですの? コレ・・・」
(ドキドキドキドキドキドキ)
アリスは帰りの馬車で、言葉少なかった。
ルイはアリスが考え事に集中できるように、同じ様に黙っていた。
だけどその目はずっとアリスを追いかける。
この時になってアリスは、ルイがずっと自分を見ている事に気付いた。
ルイはいつだって自分を見ている。そして、少しでも自分に何かがあれば、いつだってすぐに手を差し伸べて助けてくれる。
(心臓が痛い・・・)
アリスはルイとまともに会話も出来ず、馬車を降りて一目散に母親の部屋へ向かった。
侯爵夫人としての執務を終えたところだった夫人は、自室のソファーテーブルで午後のティータイムを楽しもうとしていたところだった。
血相を変えて帰って来た娘に、夫人の笑顔が深まる。
小説が大好きなアデルの英才教育で、アリスは小さな頃から多くの恋愛小説を読んだり(読み聞かされたり)していたのだ。
昨日の今日で気づいたのだろう。
今自分の中に芽生えた感情に・・・。
(まさか自分の娘が恋を知った瞬間を、この目で見る事ができるとは・・・!)
歓喜に震え瞼を閉じた侯爵夫人の脳裏には、走馬灯の様に小さな頃からの愛娘の姿が浮かんでは消える。
自分の足許に縋りついてきたアリスの頭を優しく撫でてあげながら侯爵夫人は、小躍りしたくなる感情を必死に抑え込んで、愛娘に優しく声を掛ける。
一連の流れを知っている侯爵夫人の腹心である侍女長も、部屋の隅で固唾を呑んでこの時を待っている。
「アリス、どうしたの?」
侯爵夫人のドレスに顔を埋めて、腰に抱き着いていたアリスが顔を上げる。
「お母様、私・・・、わたし・・・」
「一体どうしたの?」
娘の表情が、想像していたのと違っている事に夫人は驚いた。
「私、今日ずっと、胸が痛くて、苦しくて・・・」
震える体を夫人がずっとさすり続ける。
「私、気づいたの」
「何に気付いたの?」
「わたし、病気なんだわ! 死んじゃうんだわ!!!」
号泣し出した娘に、夫人はもう何も声を掛けられなかった。
アリスは結局そのまま泣きつかれて、座った母の足の上で寝てしまった。
侯爵夫人は、泣き続けるアリスの頭を、悟りを開いた神の僕の様な表情で撫で続けていたが、アリスが眠ってしまった事に気付くと心底落胆した表情で、眠る娘の頭を、そっと打った。