① ルイ
血が出る描写があります。
苦手な方はご注意ください。
「ルイ! もう帰るのか?」
同室のジャンが部屋に戻って来た。
俺は荷物を詰めたカバンを持って、ジャンに振り返る。
「ああ。今日で卒業だ」
ジャンと別れの挨拶をして寮を出ると、目の前には海が広がっている。
アリスとの出会いは、とてもよく覚えている。
明るくてくるくると表情を変えるアリスは、初めて会った時から、可愛い女の子だと思っていた。
守ってあげないといけない、大切な婚約者。
なのに泣かされて。
すごく悲しかった事を覚えている。
何故かアリスの中では俺に謝った事になっているようだけど、それは絶対に無い。
だけど、泣きながら公爵邸に帰ったことは、ちょっといい思い出になっている。
母親の膝に乗って、首に抱き着いて泣き続ける俺を、母様はくすくすと笑いながら、ずっと背中を優しくポンポンと叩いてくれた。
「ルイはわたくしのせいで、ちょっとおっとりした子になってしまったから、あの子がルイを守ってくれるわ。
だけどルイは男の子だから、あの子が怖い思いをしたりしないように、守ってあげるのよ」
母様の声はとても柔らかく耳に響いて。
その声を聴きながら、母の温もりの中で、眠ってしまったんだ。
あの頃はまだ兄とも険悪でなくて、一年に一度会うだけだった弟に少しの壁を感じてはいたが、母様が「相手の女の子に泣かされた」と話すと、父も含めて笑った。
母様が「中央教会の天井画の天使様にそっくりな、美しい女の子だった」というと、兄と俺は見たことが無かったから、次の日に家族みんなで教会に行った。
巨匠レオナルドの手によるその宗教画は、この国の始まりの物語が描かれていて、真ん中に信仰対象の女神様と、その足元に建国の王が描かれている。
そしてその女神様の傍に描かれている天使様が、アリスにそっくりだった。
だけど俺には、俺と兄には、真ん中の女神様が敬愛する母親にそっくりに見えたんだ。
白金の髪に黄金色の瞳は、女神様の色で、そして母様の色。
幸せな家族の時間。
俺は、兄と笑い合い、温かい時間を確かに過ごしていた。
同年代の女子は、アリスが人々から愛される理由は、その美貌ゆえだと陰で話す。
だけど、違う。
彼女がどれだけ傍若無人に振舞っても、多くの人から愛されるのは、彼女が人を良く見て、その人に優しく寄り添うことが出来る人間だからだ。
俺が泣きたいとき、いつも彼女は陰になるように立ってくれる。零した涙を見られないように、抱きしめてくれる。
誰が愛さずにいれるだろうか。
尊大で傲慢な彼女は、面と向かって言ってくる。“あなたのものはわたしのもの。わたしのものは、わたしのもの”
だけど、怖がりのくせにいつも敵に立ち向かう。
仁王立ちになり両手を一杯に広げて、自分と敵の間に盾となって立つ彼女。
いつもその腕や足が、恐怖で震えている事を、後ろで守られた自分だけは知っている。
いつも「大丈夫?」と言う声が、震えている事を。
“あたちがまもってあげりゅ!”
あの日の彼女の声が、甘く自分の耳を震えさせる。
誰が愛さずにいれるだろうか。
自分が泣いた時、いつも陰になるように立ってくれる彼女を。
涙を拭わなくてもいいように、そっと服で拭き取れるように抱きしめてくれる彼女を。
彼女が手を差し出してくれた瞬間。
微笑んでくれた瞬間。
全てが色鮮やかに自分の核に残っている。
だから、あの日の事は忘れられない。
誰にでもすぐに手を差し伸べる彼女が、理不尽にも傷つけられたあの日。
世界の全てを憎いと思った。
何故、母様が死ななければいけなかったのか。
何故、アリスが傷つけられなければならなかったのか。
何故、こんな奴らが生きているのか。
アリスの敵を全て排除できる力を、どんな事からも守れる力を手に入れる為に、俺はコンフランの騎士団に入った。
ここでは候補生達が寮に入って、毎日体を鍛えられる。剣だけに拘らず、いろいろな事を覚えさせられる。騎士団と言っても、実際に騎士になれるわけではない。卒業できれば、コンフラン港で船乗りになるか、鉱山で山の男になる。そして有事には剣士にもなり戦士にもなる。この国を守るために。
候補生達は朝から漁に出て、昼から夜遅くまで剣術や柔術を習う。時々鉱山に連れていかれて、山の男達にしごかれる。
日曜日は休みだが、要塞城に行って前侯爵から後継者教育を受ける。
毎日くたくたになって、眠る。
アリスの顔が見たかったけど。
そうすると甘えてしまうから。
でもやっぱり我慢出来なくて、毎年の誕生日プレゼントにはアリスの肖像画を送ってもらった。
いつでも持ち歩けるように、小さな肖像画を頼み、ロケットペンダントに入れていつも首からぶら下げていた。
どんどん美しくなっていくアリス。
早く、会いたい。
十四歳の冬、コンフラン領に一人帰ってきた侯爵に呼ばれた。
来年のデビュタントはどうするのかと。
特に何も考えていなかった。
学園に間に合う様に戻る事だけしか考えていなかった。
団のリーダーからも、九月までには卒業出来るだろうと言われていたから安心していたが、デビュタントに参加するなら、もう少し早く卒業しなければいけない。
アリスの婚約者としてエスコートをしないと、誰かに盗られる。そう思って、出席すると侯爵に返事をした。
その時に侯爵から、アリスの脇腹に傷が残った事を聞いた。
だから、侯爵にはデビュタントには間に合わないかもしれないと伝えて、寮に戻った。
それからも地獄の様なしごきに耐えた。
そして与えられた年末の休みに、自領には戻らずに、俺は自分の腹を切った。
もうほとんど消えた傷を探して、その上から。
アリスと同じ様に、痕が残る様に。
噛んだタオルから、声が漏れる。
ああ、これが。
あの時アリスは、こんなにも痛かったんだな・・・。
ごめん。
ごめんね、ちゃんと守ってあげられなくて。
いつだってアリスは俺を守ってくれていたのに・・・。
部屋で大量の血を流していると同室のジャンが戻って来て、驚いて医務室まで運んでくれた。驚きすぎてしどろもどろになり、奇怪な動きをするジャンを見ていると、何だか冷静になれた。
怪我人となった俺の元に侯爵と前侯爵がやって来て、怪我の理由を聞くと呆れた顔をしていた。
そして傷が塞がるまでの一ヶ月間は、二人による後継者教育が始まった。
傷が塞がっても、すぐには今までのハードなスケジュールでは体を動かせないから。
やっぱりデビュタントには間に合わなかった。
アリスがデビュタントの衣装を着た姿を、見たかったな。
前侯爵から呼ばれて城に行くと、今年の誕生日プレゼントが城の方に届いたと言われた。
俺の誕生日から二ヶ月遅れで届いたアリスの肖像画は、いつものロケットペンダントの為の物ではなく、立派な額縁に入った大きな物で、アリスはデビュタントの衣装を着ていた。
肖像画の前に前侯爵と座り込んで、酒を酌み交わした。
少し泣いてしまった事は、誰にも内緒だ。
九月に入って何とか卒業出来た俺は、急いで公爵家のタウンハウスに戻った。貴族学園の入学式まであと二日。ギリギリだった。
父は仕事で邸にはおらず、兄と四年ぶりに顔を合わせた。
「あの生意気な、お前の婚約者が、デビュタントで評判だったぞ」
すれ違い様に、久々に声を掛けて来た兄は、四年ぶりに顔を合わせた弟に言った第一声がそれだった。
階段の数段上と下で。
「いろんな男が狙ってたけど、お爺様が牽制してた。・・・お前の婚約者だからって」
「うん」
俺は、俺の十歳の誕生日にコンフラン家がお祝いに来てくれていた日、アリスが兄と二人で話していたのを思い出していた。
その時もまだギスギスしていた兄と俺。
アリスの姿が見えなくて探していたら、廊下で兄と話していた。
何を話しているのか気になって、つい隠れて聞き耳を立ててしまった。
「別にいいけど、早く声掛けないと、どんどん話せなくなっちゃうよ?」
「何で俺から話しかけなきゃいけないんだよ」
「お兄ちゃんでしょ?」
「何でもかんでも、お兄ちゃんなんだからって、こっちにやらせるなよ」
「一言、『ひどいこと言ってごめんね。本気じゃなかったんだよ』って言うだけじゃない。私でもできたのに」
「ルイに、謝ったの?」
「そうよ。泣かせてごめんねって。そして一緒に花冠を作って遊んで仲直りしたわ。私からちゃんと謝ったわ。だって、私ルイよりお姉ちゃんだもん」
ドヤ顔でそう言ったアリスの顔を凝視したのを覚えてる。
だって、謝ってないよね?
でも嘘ついてるようには見えないし・・・。
だけど兄は信じたようだ。納得出来ない顔をしていても、アリスに出来た事が自分に出来ないわけ無いと、自分で自分を納得させているみたいだった。
「分かったよ」
「もしもプライドが邪魔して謝れないなら、普通に『お早う』とか、くだらない会話から始めればいいのよ。それで気持ちが乗ってきたら、それから謝ってもいいよ」
「気持ちが乗るってなんだよ」
「もう。うるさいな~。ルイが待ってるから。私もう行くから」
アリスが心底面倒臭そうな顔をして、兄から離れて行った。
それから、兄が俺に話し掛けようと何度か口をパクパクさせているのを見た事がある。
だけど、それが成功する前に、俺はコンフラン領へと向かい、あの事件が起きたのだ。
あれから五年の歳月が過ぎて、兄としゃべった。
本当にくだらない話をして、「じゃぁ」と言って兄が階段を降りて行ってしまった。
「ありがとう」
俺が声を掛けると、兄が驚いた顔で振り返った。
「教えてくれて、ありがとう」
今、俺、笑えてるかな?
早くアリスに会いたい。
ご心配をお掛けしておりますが、次回より元気いっぱいのアリスが出て参りますので、楽しみにしていてください!