ほんの少しの変化だけど
イベリスが滞在するようになったが、生活の変化はほとんどなかった。
唯一の変化は、お茶の時間になると一緒にテーブルに着くぐらい。しかもイベリスは兜を被っているので、お茶もお菓子も口にしない。始めは息が詰まるような気持ちになるのでは、と身構えていたが、不思議なことにイベリスが目の前にいても気にならなかった。
イベリスはおしゃべりではなく、デイジーがあれこれと話をして、頷いたりちょっと質問したりするだけ。でも、ゆったりとした雰囲気があってデイジーには心地がいい。一人では味わうことのできない空気に、お茶の時間が知らないうちに楽しみになっていた。
庭を一望できるバルコニーでお茶を飲みながら、デイジーは不思議な気持ちで男の鉄仮面のような兜をつけた横顔を眺めた。銀色の兜はよく磨かれて、細い線で描かれている蔓の模様もはっきりと見える。
「なんだか、変だわ」
「何が?」
「こうして一緒にいても、居心地がいいの」
デイジーは人との交流が苦にならない性格ではあったが、ここは自分のテリトリーだ。そのテリトリーに突然現れたイベリスは彼女にとって邪魔になっても、そこにいて当たり前の人ではない。
「それは良かった。きっとこの兜が置物のように感じさせるのだろう」
「……置物」
「そうだとも。この兜は由緒正しいもので芸術品としても価値ある逸品なんだ。手入れも――」
「それ以上の説明は結構よ。どんなに美しかろうと兜は兜、それ以上でもそれ以下でもないもの」
話が長くなることを警戒して、ぴしゃりと打ち切った。ここ数日の経験から、歴史について聞いてはいけないと知っていた。彼はとても歴史に造詣が深く、とにかく話し始めたら止まらない。普段口数の多くない彼と接していると驚くほどだ。
デイジーも淑女として恥ずかしくない程度に一般的な知識を持っていたが、やれどこぞの戦で勇敢な騎士が、とか、愛しい騎士を助けるために城壁を素手で登った姫の話とか、とにかく披露されるエピソードが偏り過ぎてついていけない。しかも嫌に生々しくて、ロマンスとしてもときめきがない。
デイジーの考えていることを察したのか、イベリスは仕方がないというように肩を竦めた。兜で表情が見えないのに、その仕草だけで彼の気持ちがありありと伝わってくる。
「デイジー嬢ははっきり言うなぁ」
「ちゃんと初日は話を聞いたわ」
「そうだったね」
軽く頷いてから、イベリスは部屋に控えていたエリに荷物を持ってきてもらうようにと言葉をかけた。エリは頷くと、静かにバルコニーを後にする。
「今日は何を用意してくれたの?」
好奇心いっぱいに尋ねれば、イベリスはくぐもった声で笑った。
「見てからのお楽しみだ」
「お菓子は初日にもらったわね。その後はガラスペンにリボン、ユリの花、小物入れ……今日は人形かしら?」
「さあ、なんだろうな」
イベリスは事前に家族にデイジーの好きなものを聞いてきたのか、彼女の好みのプレゼントを一日一つ、贈ってくれる。受け取るつもりはなかったが、百合の花も、緑のグラデーションが美しいガラスのペンも、贈られるすべてがデイジーの好み過ぎて断れなかった。
好きだったものなのに、いつの間に触れなくなってしまったそれらはデイジーに温かな気持ちを思い出させた。少女だったころは確かに毎日のように目にしていたのに。懐かしさと、改めて感じるその美しさに本当に好きだったんだなとしみじみと思う。
ワクワクしながら待っていれば、エリが小さな箱を持って戻ってきた。イベリスはそれを受け取ると、デイジーの前にそっと置いた。
手のひらに載るほどの箱に入っていて、中身がわからない。でも、その箱は以前よく利用していた商会のもので、上品なリボンが飾られていた。
「開けてもいい?」
「どうぞ」
リボンを崩さないように箱を開ければ、中には手のひらサイズの香水瓶が入っていた。丸いフォルムの瓶には小さな宝石をちりばめた銀細工の百合が飾られている。懐かしいデザインに、デイジーは目を細めた。
「気に入らなかっただろうか?」
「いいえ。この香水瓶、とても好きだったことを思い出して」
「もしかして違うデザインの方が良かっただろうか」
イベリスは自信なさげな声を出した。デイジーはにこりとほほ笑む。
「手に取ってもいいかしら?」
「もちろん」
デイジーはゆっくりと箱から香水瓶を取り出し、蓋を開ける。
ふわりと漂う、濃厚な百合と仄かなグリーンの香り。
この香りはデイジーにとって特別であったし、特別であるがゆえにその入手方法も知っていた。
瓶だけだったらまだ無視できた。でも、中に入っていたのはデイジーのためだけに調合された香水だ。
かつてはメイナードが贈ってくれた香水だ。確かに家族に、特に母親に聞けば知り得る香水だけども。この香水を贈られる意味を探ってしまう。
「……懐かしい香りだわ」
「気に入ってもらえたのならよかった」
イベリスは満足そうに頷いた。
「どうしてこの香りを?」
「百合の花が好きだと母君に聞いて」
「お母さまが教えたのね?」
「ああ。領地に引きこもっているから、手に入らないだろうと」
イベリスは軽く頷いた。
メイナードと結婚をする日を待ち望んでいたデイジーが好きだったもの。それを贈る彼が誰であるのかを伝えたくて、メイナードしか用意できない特別な香水を贈り物にするようにデイジーの母は誘導したのではないか。
そう考えれば、やや強引すぎる今回の顔合わせは納得できてしまう。そうあってほしいという気持ちもあって、デイジーの心はひどくざわめいた。
記憶の中にあるメイナードとの共通点を見出そうとした。だけどイベリスは兜を被り、顔が全くわからない。
だから記憶の中にあるメイナードとイベリスを比べた。
メイナードは成人前は女の子のように細い体をしていて、結婚間際になっても筋肉はほとんどついていなかった。体つきだけを考えれば同じ人とは思えない。
では、声は?
顔以外で何か共通なものを見つけたかった。声を聞きたくて、質問をしてみた。
「でもこれを手に入れるのは大変だったでしょう?」
「そうでもないかな。伯爵夫人が教えてくれた商会は私の家とも取引があったから」
兜の下から聞こえる声はくぐもっていて、似ているような気もするし似ていないような気もする。
メイナードに繋がる何かがないか、考えを巡らせるが、結局は兜が邪魔をして判断できない。ついにはイラっとして、直接要求した。
「イベリス様、そろそろ兜を脱いでほしいのだけど」
イベリスがはっきりとわかるぐらい体を揺らした。
「いや、しかし……この顔は」
「傷が醜くても、これだけ親しくなったイベリス様ですもの。嫌悪感はないと思うの」
にっこりと圧を込めてほほ笑む。イベリスはやや体を後ろに引いた。何かを言おうとしているが、言い訳が思いつかないのか、言葉が出てこない。
「お菓子、お花、ガラスペン。贈られた物はどれもこれもわたしの好みの物ですわ」
「そ、そうか。それは良かった」
「ですけど、この香水は失敗でしたわね」
イベリスはわからなかったのか、首を傾げた。デイジーはテーブルの上に置いてある香水瓶を手に取る。
「この香水、簡単に手に入らないものよ。お母さまの紹介があったとしても、違う百合の香水が用意されるはず。だってこの香りはわたしのために調合されたのだから。勝手に使用できないわ。ねえ、覚えている? 二人で一緒に香りを作りに行ったでしょう?」
「そんなはずは……」
イベリスの口から言葉が漏れた。デイジーは混乱しているイベリスを逃がすまいと、言葉を重ねる。
「香水を作りに行ったことを覚えていなくとも、占いの館は覚えているでしょう? とても特徴のある占い師の主人がいて」
「確か男性なのに、女性のような化粧をしていて、驚い、た」
そこまで口を滑らせて、イベリスは固まった。