急: 人を呪わば
刃は肉を裂き、体の奥深くをえぐった。内蔵を突き破る弾力が、汗に濡れた手に伝わる。鉈を葉月から引き抜くと、鮮血とともにずるりと中身が溢れ出た。
致命傷。
葉月は信じられないという表情をしながら膝をついた。息は荒く、苦痛の声を漏らしながら倒れ込む。放っておけば、そのまま死ぬだろう。
熱に浮かされたような脳で、思考が渦巻いた。
殺した。
殺したんだ。
この手で――友達を。
手が震え、鉈が滑り落ちた。
覆面を脱ぎ捨て、美香は壁に身を預けた。震えは全身に回っていた。
次第に腹の奥から熱いものがこみ上げてきた。熱波はまたたく間に全身に伝わり、美香は自分を抱きしめるように体を折った。
これは、歓びなのか、恐怖なのか。
得体のしれない感情は、あふれるように顔に現れた。
殺した! 殺した! 殺したんだ!
これで――ようやく! 仇をとった……。
己の口から凍るような笑い声が漏れるのを、美香はどこか遠くで聞いていた。
*
健人と美香は幼馴染だった。幼稚園も一緒、小学校中学校も一緒。家も近所で、小さい頃からよく遊んでいた。
幼稚園の時の健人は、明るく、よく笑う子だった。しかし、彼には変な――奇怪といってもいい――癖があった。そのため、当時の健人のことを、美香はよく覚えている。
何もない空間を指差しては、「あそこの人だあれ?」と幼稚園の先生や親に聞いて困らせたり、交通事故の現場などを通るときに、電柱やガードレールに話しかけたりしていたのだ。大人たちは困惑し、諭そうとし、次第に健人の行動を叱るようになった。周りの子供も気味悪がって近寄らないようになった。そうして、健人と遊ぶ子は美香だけになった。美香は健人の行動は気にならなかったし、それよりも、一緒に楽しく遊んでいられることのほうが大切だった。
成長するにつれて、健人の奇行も影をひそめるようになった。なぜかはわからない。振り返ってみると、自分の行為が周囲に軋轢しか産まないことを感じていたのではないかと思う。健人は周囲に対して、反発も否定もすることはなくなっていた。そして、以前持っていた活発さや快活さも失われ、おとなしく、人と関わらないようになっていった。
反対に美香の交友関係は広がっていった。次第に、健人とは疎遠になっていた。
中学生の頃、仲良いグループで、不良じみた子がいた。仲間には気前よく、お菓子やジュースをおごる子だった。影でタバコを吸っていることなどは知っていたが、友達を売るような真似はしたくなかったし、注意はしたが、美香は基本的に見て見ぬ振りをしていた。
あるとき、その子から万引を進められた。
美香は誘いを断り、彼女の行いを非難した。彼女はその場は引き下がったものの、それから美香を露骨に無視するようになった。無視はまたたく間に、グループへ、そしてクラス単位に拡大した。その子はクラスの不良男子とも付き合いがあったため、皆がいじめの標的になるのを恐れたのだ。教科書を破かれたり、靴を隠されたりすることが続いた。完全なやつあたりだったが、しかし、彼女がやったという証拠もなく、声を上げても黙殺された。
健人とはクラスが違った。彼に助けを求めるのは都合が良いときだけ利用しているようで気が引けた。
「あれえっー、美香ったらどうしたのっ、このジャージ。臭いんだけど―」
ある昼休み、彼女が美香のジャージを掲げた。まるで敵将を討ち取ったかのように誇らしげに、満面の笑みを顔に張り付かせていた。まわりの輩は期待したような目線を二人に注いでいて、こらえきれず下卑た笑いを漏らす者もいた。
「え……?」
「臭えって言ってんだよ、このビッチ!」
ジャージを顔に投げつけられる。べちゃりと、粘着質のものが頬についた。気持ち悪さにジャージを振り払って頬についたものをすくいとると、指には白く粘ついたものが付着していた。
嗅いだことのない、生臭さ。
一斉にいじめグループの奴らが笑い出す。
頭がかっと熱くなり、脳の血管が何本か切れたような感覚が巻き起こった。
経験はなくとも、知識として、これがどういうものか分った。
だけど、だけど。ここまでするなんて。こんなことってあるのか。
悔しくて、情けなくて、涙がこぼれた。
嘲笑がひときわ大きくなる。すべての人間から笑われているような感覚に陥り、自分は世界一不幸な人間だと美香は泣きながら思った。
その時、教室の中に健人が入ってきた。つかつかと一直線に健人は進み、彼女の前に立った。彼女はいきなりの闖入者に戸惑ったようだったが、いつものように威勢よく叫んだ。
「ああん? なんだよ、なんか文句でも――」
バチンッ! と健人が彼女の頬を張った。そして、
「こんなこと、もう二度とするな」
と言い放った。教室が一瞬にして静まり返る。
健人は無言で美香の手を引いて、教室を出た。手洗い場で顔と手を洗い、そのまま校長室へ行き、校長へ直訴した。
それから美香へのいじめはなくなり、代わりに健人がその標的になった。しかし健人は淡々と、教師にやられたことを事細かに報告し、対処を求めていった。そしてそのうち、嫌がらせはすべてなくなった。
その事件の後、美香は健人とまた遊ぶようになった。
それが恋心に育つまで、時間はかからなかった。
高校に入って、葉月に出会った。なにか、健人と似たところがある子だと思った。
それゆえ、健人と葉月が付き合い始めたときは驚いた。葉月に嫉妬したし、憎しみを抱いた。そして、友人をそんなふうにしか思えない自分を嫌いになった。
それでも、それが健人の幸せになるならと自分を無理やり納得させた。
いつか健人は、自分に振り向いてくれる。今はたまたま、葉月に気持ちが向いているだけだ。そんな思いも、どこかであったのかもしれない。
あのときまでは。
「響子と結婚しようと思うんだ」
就職が決まった、大学四回生の秋。健人がはにかみながら言ったその言葉は、死刑宣告のように美香の心に響き渡った。
*
本人同士が好きあっている。そして、葉月も美香にとって大切な友人だった。
そう思うしかなかった。
それでも、二人の幸せをそばで見ていると、素直に祝福できない自分を発見せざるを得なかった。己が惨めで卑小な存在に思え、美香は地元を離れ、就職することに決めた。
離れても二人を忘れることはなかったが、しかし、日々の忙しい生活を過ごすに連れ、心は平穏を取り戻していった。帰郷はしなかった。
健人の事故死の知らせを知ったのはそんな折だった。
飛んで帰った先には、呆然とした葉月がいた。
葉月は美香の胸の中で泣き崩れ、事情を語った。
「私が……! 私がいけないのっ」
自責の念に駆られる葉月を抱きしめながら、美香は何かが満ちたのを感じていた。一滴ずつ溜まっていった穢れとも言うべき心の淀みが、これ以上ないほどに満ち満ちて、触れれば弾けてしまう危うい均衡が、奇跡のように成立していた。
事故後の葉月は憔悴していた。美香の中に彼女を責める気持ちはもちろんあった。客観的に見て彼女が加害者でないことは明らかであったが、しかし、美香以上に、葉月は己を責め、悩み、傷ついていた。そんな彼女だったからこそ、美香はそれまでと同様に、友人として接することができた。
しかし、時がたつにつれ、葉月は少しずつ元気を取り戻していった。笑顔も増えた。
まるで、健人のことなど忘れてしまったかのように。
そうして、美香は気づいた。
健人の愛を奪った上に、命も失わせた彼女が、幸せに生きるのを許すことはできないということに。
均衡が破れ、淀みが溢れた瞬間であった。
*
ひとしきり笑い終えると、美香は激しい疲労感に襲われた。汗と涙を拭う。そのまま倒れてしまいそうなほど、体が重かった。
引きずるような音がした。
目を向けると、葉月が四階へ向かってはいずって進んでいた。
何かをつぶやこうとするように必死に息を吸い込み、顔をあげている。目は焦点を結んでおらず、美香を見てはいない。放っておけば、死ぬだろう。
葉月の口から呼吸音とともに音が漏れる。
「…う、……よ……」
声はとぎれとぎれでよく聞こえなかった。
最後の言葉ぐらい、聞いてやろう。
そんな気持ちで美香は顔を寄せた。
「……もう、いいよ」
そう言うと葉月は咳き込みながら血を吐いた。
「何を……?」
どういう意味だろう?
美香の問いに答えることなく、葉月は力なく首を垂れる。
首筋に手を当てる。脈はない。
絶命した。
「なんだったの? 一体……」
友人の遺体を見ながら考えたが、しかし答えは出なかった。
美香は無駄な思考をやめた。これからやるべきことは山ほどある。まずは、死体の片付けをしなければならない。
押谷がいたのは予想外だった。推定するに、彼は葉月のストーカーだったのだろう。
しかし、まさかこんなところについて来て、身を挺して葉月を庇うとは。ねじ曲がっているとはいえ、見上げた愛情である。
「愛がなければ、死ぬこともなかったろうに……」
美香は吐き捨てるようにつぶやいた。
おかげで、片付けの手間が二倍に増えてしまった。
返り血を拭くため一度三階へ戻った。発煙筒や鉈など、事前に道具を準備していた小部屋で、返り血のついた服を脱ぎ捨て、水分補給をして一息つく。そして、再度屋上の階段へ向かった。
その時。
こつり、という音共に、ずるり、と。
何かを引きずるような音が、暗闇に響いた。
*
己の口から漏れる荒々しい呼吸音を聞きながら、美香は足を動かした。
嘘だ。嘘だ。そんなわけがない。
『なんでも、現世に未練のある魂が己の体を探してさまよってるんだって』
葉月に言った言葉を思い出す。冗談交じりに言った、怪談の噂。
『で、人間の体を見つけると乗っ取っちゃうらしいよ』
でも――まさか、そんな。
死体が動き回るなんて――そんなこと、あるわけ、ない!
しかし、耳を澄ますと嫌でも聞こえてくる。
こつり。
ようやっとたどり着いた物陰に隠れ、息を整える。
にわかにまとわりつく空気の温度が上がり、あるにおいが鼻孔を刺激する。生々しく、それでいて錆びたような刺激臭を含むにおい。血だ。
見つかりたくない。
こつり。
足音は着実に近づいてくる。
強烈な喉の渇きにえづきそうになる。口内に鉄粉が詰め込まれたような気分だ。胃液がせり上がってくるのを必死でこらえる。
あまりの混乱に、ここが何階なのかもわからなかった。ただ必死で隠れられる部屋に逃げ込んだ。
見つかりたくない。
こつり。
ああ。だめだ。やつにはこの場所がばれている。逃げなければ。
全身に力を入れる。全身に力を入れる。恐怖か疲労が原因か、体は思うように動かない。
嫌だ。何で。
ある予感が美香の全身を支配していた。
見つかったら――殺される。
――こつり。
足音が、止まった。
「み―つけた」
振り向くと、そこには腹から内蔵を引きずりながら、笑顔を向けるかつての友人の姿があった。どう見ても絶命しているはずなのに、その笑顔は――無垢な清らかさを宿していた。
まるで、子供のような。
「あ、ああっ、寄るなっ! 寄るなあぁああ!」
飛び上がるように立ち上がり、手を突き出しながら、後退った。
足が空を切る。
「え」
崩落した床の穴から、美香は闇の底へ落ちていった。