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破: 怨霊と殺人鬼

 父の死が葉月に与えた影響は大きかった。

 人を殺す存在。

 怨霊。

 そんな存在が身近にあることが恐ろしかった。それが、祖父であったことも。証拠はないとは言え、父が祖父を殺したということも、祖父を父が殺したということも恐ろしかった。

 自分の行動次第で、もしかしたら父は死なずに済んだのではないか。

 幽霊が見えることが、周りの人を傷つけるかもしれないという意識が芽生えたのは、それからだった。

 しばらくの間ふさぎ込み、学校を休んだ。ようやっと学校に通えるようになってからも、クラスメートの話に混ざることもなく、ひっそりと過ごすようになった。最初は気を使ってくれていた友達も、一人離れ、二人離れ、いつしか葉月は一人ぼっちになっていた。

 寂しい気持ちはあった。しかし、孤独に慣れようと努力したし、そうしたほうが良いと思った。


 そうして中学校を卒業し、高校で、美香と健人に出会った。

 美香は明るく気さくな人柄で、葉月はそれを少し鬱陶しいと思っていたが、次第に打ち解けるようになった。

 健人はどちらかと言うと寡黙で、よく考えてから口を開く人だった。繊細さを持ちながらも、相手を思いやるような優しい雰囲気を帯びていた。

 そして、彼も霊を見ることができる人間だった。葉月と健人はお互いの秘密を知ってから、急速に仲良くなっていった。心の底から悩みを打ち解ける相手になった。

 ある時、葉月は健人に尋ねたことがある。


 幽霊が見えても、得だったことなんてない。そればかりか、人が持つ、本当に恐ろしく、汚らしい心が、怨霊という形で見えるようになっただけだ。人間というものが信じられなくなった。自分はこんな意味のない、役に立たない能力なんていらない。

 あなたは――健人は、どうなの? と。


 葉月の問いに、健人はしばし黙り込んだ。真剣に考えていることがら分った。しばらくしてから健人は澄んだ目を葉月に向けた。

「僕も、断言できるような明確な答えを持ってるわけじゃないけど……きっと、僕や葉月に幽霊が見えることに、意味はあると、思う。今はわからなくても、苦しいだけでも、それでも、いつかきっと、意味はあったと思える日が、来るって、そう……信じてる」

「でも、苦しいことがずっと続いたら? もうやだって、諦めたくなっちゃったら? 投げ出したくなっちゃったら、どうするの?」

「そんなときは、何よりも休むことが、きっと必要なんだ。それに、人は、本当の意味で一人で生きているなんてこと、ない……んじゃ、ないかな。だから、どこかに寄り添ってくれる、助けてくれる人はいる。そう思いたいだけかもしれないけど……」

 健人は、語ると言うよりも、祈るように、そんな言葉を紡いだ。

「それに、少なくとも、僕はこうして葉月と仲良くなれた」

 葉月の手が、柔らかく、温かいものに包まれた。

 そうして、二人はいつしか恋人になった。


 *


 土曜日の朝、いちごジャムとトーストで朝食を済まし、葉月は家を出た。

 電車とバスを乗り継ぎ、閑散としたバス停からしばらく歩く。道は次第に上り坂になり、人はいなくなっていった。

 太陽に負けじと木々が茂る丘の頂上に、目的地がある。熱をためこんだアスファルトの道を登ると、黒ずんだコンクリートで構成された建物が見えてきた。蝉の鳴き声が響く中、熱気の向こうに佇んでいる。

「外観は異常なし、か」

 外壁はところどころ剥げ、窓ガラスは割れているものもある。しかし、見える範囲で霊はいなかった。立入禁止と書かれた柵の前で、葉月はにじみ出た汗をタオルで拭う。


「あ、れ……?」


 急にめまいに襲われ、思わずしゃがみ込む。蝉の喧騒が遠くに聞こえ、視界は陽炎のように揺らめいた。額に手をあてながらあたりを見回すと、鬱蒼と茂る雑木林とアスファルトに囲まれて、廃病院は現実感のない、異様な存在を主張していた。

 スポーツ飲料で喉を潤し、一息つくとめまいは収まった。夏場の移動で思った以上に疲れがたまっていたのかもしれない、と自分を納得させ、葉月は立ち上がった。


 病院を取り囲む鉄線製の柵は二メートル近くあり、乗り越えて入るには少し大変そうだった。しかし、柵はところどころにほつれており、探すと人が通り抜けられる穴が空いている箇所が見つかった。

 亡くなった子供もこの穴から中に入ったのだろうか。

 胸にのしかかる鈍い痛みを振り払うように、葉月は柵をくぐり、敷地内に入った。

 スマートフォンを確認すると、電波は零本であった。建物の屋上に出ないと、電話がつながらなかったことを思い出す。

 正面玄関のガラスドアは割られており、たやすく廃病院の中に入ることができた。

 建物内はかび臭く、陰気な印象を与えた。廊下には土が入り込み、雑草が好き放題に伸びている。

 人がいないと二年でこんなにも荒れ果ててしまうのかと驚かされる。

 子供が巻き込まれたという崩落現場に葉月は足を向けた。四階の奥にある手術室である。

 記憶の中の病院との違いを見つけるたびに、かつて起きた出来事が鮮明に思い起こされる。

 葉月は唇を噛み締めながら階段を登った。未だ癒えない傷の痛みを胸に覚えながら。


 健人が命を落としたのは、二年前のことだった。

 就職して初めてボーナスをもらい、二人で海に遊びに行った。たくさん遊び、海鮮物を食べ、お酒を飲み、愛し合った。次の日は温泉にゆっくりと浸かり、疲れを癒やした。

 午後からは雨が振り始め、帰る頃には土砂降りになっていた。運転は交代で行った。渋滞する道を車がのろのろと進むなか、葉月は近道をした。舗装されておらず、道幅も狭い道だったが、車も少なく早く帰れると思っての選択だった。そして、トンネルを進んでいる最中に地震が起き、天井が崩落した。車は岩へ突っ込み、葉月は意識を失った。

 目が冷めたときは久御山病院だった。そしてその場で、健人が息を引き取ったことを知らされたのだった。

 もしも、自分があのとき近道をしなければ。もしも、もっとゆっくりと走っていたならば。

 事故が起きてから、そんな思いにずっと苦しんだ。悩んでもしょうがないと分っていても、ふとしたはずみに思い出し、胸を締め付けた。何度泣いても、涙が枯れることはなかった。

 支えになってくれたのは美香だった。彼女は東京へ就職していたが、帰郷のたびに葉月を元気づけ、そして今年には葉月の会社に転職してきたのだった。理由を聞いてみても、「離れてみると故郷の大切さがわかったんだよー」と美香は軽く笑うだけだった。その気遣いも、ありがたかった。美香の励ましや周りの支えもあり、前を向くことができるようになった。

 そして、健人の死を、ただ辛く、悲しいだけにしたくない、という意識が葉月の中に芽生え始めた。彼が残してくれたものを、少しでも意味のあるものにしたいと、そう、思うようになった。


 そんな中聞いたのが、久御山病院跡の幽霊の噂だった。

 子供が、床の崩落によって亡くなった。その後現れた幽霊の噂。おそらく、亡くなった子供の霊だろう。

 そして、崩落。

 もしも。もしかしたら。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ありえないことだが、そんな疑念が、葉月の足をここへ向けたのだった。

「――ち……」

 三階から四階に登っていく最中、聞こえてきた声に、足を止めた。

 周りを見渡す。動くものはいない。

「――い……」

 進行方向、四階から聞こえてくる。

 子供の声、だった。

 息を整え、葉月は再び階段へ足をかけた。

 登る間にも声は聞こえてくる。

「――よーん、……」

 はっきりと聞こえるにつれ、あることに気づく。

「数を、知らせてる……?」

 四階へたどり着いた。

 声は崩落があった部屋の方向から聞こえてくる。

 今なら引き返せる、そんな思いがちらりとよぎる。

 引き返すか、進むか。

 一瞬の逡巡の上、葉月は足を進めた。

 もしも恋人が怨霊になっているのなら――。それを確かめるために来たはずだ。このまま帰ることは、できない。

 四階の奥のドアの前にたどり着く。ここは、健人が息を引き取った場所。そして、崩落が起き子供が死んだ場所。

「きゅーう」


 葉月は扉を開いた。


「じゅう!」

 薄暗い部屋に声が響いた。しかし中に()()いなかった。

「もーいいかいっ」

 はずむような声が問いかける。

 無邪気に遊んでいるような子供の声。

 そこには、黒く、靄のような塊が蹲っていた。

「ぁ、っ……!」

 叫びだそうとする口を必死に抑える。


 怨霊だ。


 背をこちらに向けて、手で目を隠すような姿勢をしている。

 部屋を見渡す。崩落した床、倒れた棚があるばかりで、子供の怨霊があるだけだった。

 安堵と緊張の波にもまれながら、葉月はじりじりと後退した。

「もーいいかいっ」

 声が繰り返される。

 直感的に葉月は理解した。

 この怨霊は遊んでいるのだ。おそらく、()()()()()を。

 ()()()()()()()()()()()()()()――美香の言葉が脳裏をよぎった。

 これが合図なのか。だとしたら対応は――

「……まーだだよ」

 ゆっくりと後退しながら、葉月はつぶやいた。

 すると、声はカウントを最初からやり始めた。その隙に葉月は身を翻し、出口へ駆け出した。


 *


 息を切らして外に出て、何度も後ろを振り返りながら走った。バス停にたどり着いてからも、耳には未だに不気味な声がこびりついていた。

 動悸を抑えながら、ベンチに座り込む。

 少なくとも、収穫はあった。あそこにいたのは、子供の怨霊だけだ。

 健人の霊は、いなかった。

 息を整えふと横を見ると、そこには見知った顔があった。

「あれっ、押谷くん?」

 押谷がベンチに座っていた。びくりと異様なまでに身を反らし、葉月に目を剥いた。

「あっ、……ど、どうも」

 どもり気味に言葉を発し、そのまま目を逸らす。押谷の額は汗に濡れ、息も乱れていた。

「どうしたの? こんなところで」

 葉月は自分のことを棚において尋ねた。

「いや、ちょっと……」

 押谷が言いよどんでいると、ちょうどバスが来た。押谷は逃げるようにバスに乗り込む。

 彼は前の席で葉月を避けるようにじっとうつむいていた。葉月は最後部に座った。特に会話はなく、そのまま目的の駅で別れた。

「一体、何だったんだろ」

 押谷も廃病院へ来ていたのだろうか? なんのために?


 *



 よし。ひとまず今日はこれくらいでいいだろう。

 一仕事を終え、滴る汗を拭った。自然と笑みが零れそうになる。 

 これでようやく、あの女を……。

 暗闇の中でほくそ笑む。

 さて。後は実行のタイミングだ……。

 どう恐怖し、逃げ惑い、そして、死んでいくか。楽しみでならなかった。

 廃病院の一室で、乾いた笑いが響いた。



 *


「葉月、なんか元気なくない?」

 コーヒー牛乳を飲み干してから、美香は眉を寄せて言った。

 廃病院へ行ってから一週間が経っていた。いつものように空き会議室でお昼ごはんを食べた後のことだった。

 葉月は曖昧に笑った。

「そう?」

「そーだよっ。今日だって朝遅かったし露骨にあくびしてたしさー。眠れてないんじゃない?大丈夫?」

 美香の言う通り、最近葉月は睡眠不足だった。廃病院の怨霊と、そしてもう一つ、気になることがあったからだ。

「うーん、実は最近さ、ストーカーされているような気がして……」

「うそーっ。え、まじで?」

「まあ、証拠はないんだけど」

 まだ、危害にあっているわけではなかった。しかし、誰かにつけられているような感覚があったり、振り返ったときに、逃げるように駆けていく人物を何度か見たりしていた。そういったことが続くに連れ、ストーキング行為をしている人物がいる、という確信を葉月は深めていった。

「気持ち悪ぅ。ケーサツに言ったら? ケーサツ」

「うーん」

 被害を明確に説明できない以上、あまり意味がないように思えた。

 しばらくその話題に終止したが、結局結論は出ず、話題は別のものに移っていった。美香が楽しそうに休みの予定を話しているのを、葉月はなんとなく聞いていた。

「でね、行ってみようと思うんだよねー」

「え」

「あーっ、聞いてなかったでしょ? だからさー、廃病院! 今度行ってみようと思って」

「……」

 一瞬、思考が止まった。

「ちょ、ちょっとまって。廃病院って久御山病院のこと? やめたほうがいいよ!」

「えー、なんで? 今度友達と肝試しすることになってー。丁度いいじゃん? あそこ。だから下調べを兼ねてさ、今度の土曜日にね。でも一人だとちょっと怖いし、葉月も一緒に行ってくれない?」

「いや、でも、人が亡くなってる場所だし……」

「まあ、そこはちょっと気がひけるけど。一度引き受けちゃった以上、行くったら行く」

 美香は胸を張った。

 葉月としては、自分も行った手前、強く言いにくかった。

「危ないところはもちろん行かないしさ、だから葉月も、一緒に行こうよ」

 美香が手をすり合わせる。

 こうなったら葉月が断っても美香は一人で行くだろう。

「わかったよ……。私も行く」

 渋々ながら葉月はうなずいた。何も知らない美香一人より、葉月も同行したほうが、まだ安全だと思ったのだ。怨霊を刺激するようなことをしないように気をつけて、適当な理由をつけて早めに帰るのが良いだろう。

 葉月は、軽い考えでそう決めた。


 *


 この地域のかくれんぼには、()()()()()()()()()()()()()というルールが有る。

 廃病院で亡くなった子供は、怨霊となった。おそらく、亡くなる直前に行っていた遊びが、あの怨霊のルールになっているのだろう。つまり、あの声はかくれんぼをする合図であり、廃病院に来たものに反応して始まる遊びに違いない。


 美香の車で廃病院へ向かう道中、ハンドルを握る美香はどこか高揚としながらも落ち着かない様子だった。

「いやー、こうしてみると、結構雰囲気あるねっ」

 廃病院前で車を停めると、興奮した様子で美香は葉月に振り返った。

 午後七時を回り、空は茜色に染まりつつあった。周りの雑木林が濃い影を落とすなか、これから来る闇を待ち遠しそうに廃墟は屹立している。

 美香は進んで柵をくぐり、中へ入っていく。葉月も後に続いた。

「やっぱり肝試しにはぴったりだねー」

 美香が懐中電灯をつけた。

 しばらく二人で階下を周り、次に二階、そして三階へ移った。美香は好き勝手にいろんな部屋を覗いている。葉月は適当に付き合いながら廊下から外をぼんやりと眺めていた。

 まだ怨霊の声は聞こえない。

 安全なうちに、帰ることを提案しよう。

「美香―っ。そろそろ帰ろう」

 返事はなかった。

 不審に思い、美香が入った部屋のドアを開ける。

 そこには誰もいなかった。

「え」

 美香がいない。

 中は個室になっていて、破れたシーツや足の折れた椅子が佇んでいた。

 部屋を間違えたのだろうか。隣の部屋を覗いてみる。

 いない。

 嫌な予感が背筋を這いずり回る。

「美香っ。どこにいるの! 返事をして!」

 まさか。()()()()()()()()のだろうか? しかし、なんの声も聞こえず、合図もなかった。あの怨霊ではないはずだ。では、他にも何かがいるのだろうか?

 いくつかの疑問が湧いて出たが、しかし答えは出なかった。

 棚の影やベッドの下も確認したが、この部屋に美香はいないようだ。

 ひょっとしたらここにいると思ったのは勘違いで、他の部屋にいるのかもしれない。美香のことだ、案外、びっくりさせるためのいたずらで、息を潜めてどこかで笑っているのかもしれない、そう思って、部屋を出た。

 そのとき、何かが動く気配を感じた。

 とっさに後ろに避けようとしたところ足がもつれ、葉月はそのまま床に倒れ込む。

 一瞬前まで葉月がいた空間を、何かが閃いた。

「え……⁉」

 黒い服で全身を包み、鉈を手にした人物がそこに立っていた。覆面をかぶり、表情は見えない。

 覆面の人物は、鉈を両手で持ち、振りかぶった。

「あ……」

 体が硬直する。

 刃は葉月をまっすぐ向いていて。

 頭の中は危険信号でいっぱい。

 なのに、筋肉は言うことを聞かず――

 鉈が、振り下ろされる。


 *


「あぶないっ」

 廊下から飛び出してきた何者かが覆面の人物にタックルした。覆面はそのまま床を転がる。

 現れたのは――。

「押谷くんっ⁉」

 葉月の混乱をよそに、押谷は葉月の手を取って引き起こした。

「どうしてここにっ」

「いいから! 今は逃げないと!」

 何が起きているのかも理解できぬまま、手を引かれるままに葉月は必死に駆け出した。

 ひび割れた廊下を力いっぱい蹴る。音と気配から覆面の人物も追ってきているのが分った。

「追いつかれるっ」

 すんでのところで、近くの部屋に飛び込んだ。鉄製のドアを閉めると同時に、外からガンガンと叩かれる。

「これ!」

 室内にあった棚を倒し、ドアを塞いだ。しばらくすると、扉を叩く音はなくなり、辺りは静かになった。なんとか、覆面の侵入は防げたようだった。

 葉月は押谷と顔を見合わせ、二人で大きく息を吐いた。

「早く外へ逃げないと……」

 押谷が立ち上がった。室内にはシーツや布団が散乱している。どうやら寝具を保管していた部屋のようだ。窓もある。

 しかしここは三階だ。窓から顔を出すと、所々に雑草が生えたコンクリートが直下に広がっていた。飛び降りたらただではすまないだろう。

 電波を確認したが、圏外であった。ここから脱出をしなければ、助けを呼ぶこともできない。

「シーツを使って窓から外に逃げよっ」

 押谷の腕を引っ張って囁くと、押谷は荒々しい息を吐きながら頷いた。二人でシーツの端と端を結びつけにかかる。

 作業をしながら、ドアの向こうへ耳をすましたが、人が動いている気配はない。

 諦めたのだろうか?

 いや、と葉月は刃を振るわれたときを思い返した。首筋が凍るような殺意。そう簡単に諦めるとは思えない。

 美香のことも心配だった。もしかしたらすでに――。

 葉月は頭を振って最悪な想像を追い払った。

 とにかく、早くここから出なくては。

 黙々と作業をすすめる押谷を見る。

 だが、その前に確かめておきたいことがあった。

「押谷くん、もし勘違いだったらごめんね。最近、私のこと、ストーキングしてた?」

「えっ、い、いや、その……」

 押谷がシーツを取り落とす。わかりやすい反応だった。葉月はため息を付いた。

「……いや、ごめん。今聞くことじゃなかった。今は、外に出ることだけ考えよ」

「ちっ、いや、こっちこそ……ごめん。ごめんなさい。僕がストーキングしてたのは事実で……」

「だとしても、押谷くんが私を救ってくれたのも事実でしょ」

 そう。押谷が飛び出てこなかったら、葉月は今頃死んでいただろう。その意味で、彼は命の恩人と言える。

 しかし気になることはまだあった。手を動かしながら、葉月は尋ねる。

「でも、なんでこんなところに来てたの?」

「……昼休みに話してたのを聞いて。人が死んでるような危ないところだから、いても立ってもいられなくって……」

 前にバス停で鉢合わせしたときも、葉月をつけていたのだろう。得心がいった。

 ストーキングが事実だとしても、危害を加えるつもりでしていたわけではなさそうだった。ならばそんなことにかまっている時間はない。

「美香と私がここに入る前からいたの?」

「うん。早めに来て茂みに隠れてたんだ。二人が入ってから僕も中に入った」

()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 押谷は一瞬手を止めた。

「いや、()()()()()

 すると、あの覆面は、押谷や葉月たちが来るよりも前にこの廃墟に潜み、待ち伏せをしていたことになる。

 突発的な通り魔ではない、のか?

 計画的な犯行だとすれば、一体なぜ?

 しかし何にせよ、今は生き残ることを考えなければならない。

 しばらくの間、黙々と二人で作業をしていたが、あることに気づき葉月は顔を上げた。

「……押谷くん」

「え、な、なに?」

 押谷は驚いたように目をギョロつかせた。

「何か、変な匂いがしない?」

「え、そう?」

 押谷は自分の手を嗅いだ。

「いや、違くて。何か、こう……焦げたような……」

 何かが、燃えているような――。

「っあ、早く降りなきゃ!」

 押谷も気づいたようで、手を早めた。

 匂いが一段と濃くなり、ドアの隙間から煙が這い出ていた。

 シーツの端を棚の足に結びつける。ぐっと力を込めても破れる気配はなかった。

「よし。ぼ、僕がまず行くよ」

 すでに煙は目に見えて濃くなっていた。窓から紐状にしたシーツを垂らすと、地上から数十センチのところで先端が揺れた。

「気をつけてね……!」

「う、うん」

 押谷は唾を飲み込み、一瞬ためらった後、意を決したように葉月へ向いた。

「葉月、さん。僕、葉月さんに、仕事を手伝ってもらえたとき、本当に嬉しかったんだ。だから、その……守りたいって思って……でも……ほんとに、ごめん」

「ううん、いいよ、もう。……ありがとうね」

 葉月は手を差し出した。押谷はおずおずと手を出し、二人は堅く握手した。

 押谷の手は思ったよりも大きく、温かかった。


 名残惜しそうに押谷は手を離すと、窓を乗り越え、シーツを掴みながら足を外壁にかけた。ピンと張ったシーツは、しっかりと押谷の体重を支えている。

 恐る恐るといったふうに足をずり下げ、続いて手を緩めて体を下げていく。足を外壁にかけていないと、くるくると回ってしまいそうになるようで、全身に力が入っているのが分った。シーツは紐というにはあまりにまとまりがなく、掴みづらいのだろう。油断すると一気に落ちてしまいそうになる中、必死でしがみつき、ずるずると下がっていく。

 しかしながら、四苦八苦したのち、何とか押谷は地面にたどり着いた。

 下から手を降って葉月に合図を送る。

 葉月が窓から身を乗り出しそうとした瞬間、建物の影から、覆面が飛び出してきた。

「危ない!」

 葉月が叫ぶと同時に、刃が振るわれる。

「あ……」

 押谷の喉から血が吹き出した。体を痙攣させながら地面に倒れ込む。

 遠くからでもわかる――致命傷。

 血はみるみるうちにコンクリートを染め上げ、血溜まりを作っていく。痙攣を繰り返した後、押谷の体は、もはや呼吸をしているのかも判別できなくなった。

「嘘っ……」

 口から悲鳴とも判断できない言葉が漏れた。

 足から力が抜け、その場にへたり込む。

「……うぅ」

 押谷が、殺された。

 さっきまで生きていたのに。まだ手のひらには彼の熱が残っていた。

 強烈な吐き気がこみ上げてくる。

 粘つく唾液を飲み込む。それでも思考を巡らせた。

 窓から逃げることは、もうできない。しかし、建物内の火の手をくぐり抜けて、安全な場所まで逃げ切れるだろうか? あの覆面の、殺人鬼の狂気に捕まることなく? 

 混乱と恐怖で発狂しそうになる頭を抱えこむ。煙は部屋の中に満ちて来ており、思考を曖昧にする。

 確実なのは、ここにいても死を待つのみということだった。

 力の入らない足を叩いて、葉月は立ち上がる。気を抜くと卒倒してしまいそうだったが、皮膚が破けるほど唇を噛んで、耐えた。

 痛みは余計な不安を押しのけ、思考を少しだけクリアにしてくれた。

 このままじゃだめだ。

 殺人鬼は明確な殺意を持って行動している。押谷を殺害した以上、次の標的は葉月だ。

 ならば、行動は早ければ早いほどよい。

「行くしかない、行くしかないっ、行くしかない……!」

 己を鼓舞し、ドアの前に立つ。

 ドアを塞いでいた棚をどかす。

 覚悟が決まったとは言い難いが、しかし、もう迷っている暇はなかった。

 ドアを開け、一気に飛び出した。しかし、予想外に火の熱は感じなかった。辺りを見回すと、発煙筒が何本か転がっている。葉月は舌打ちした。

「まんまと、はめられたってわけね……」

 だとすれば、あの殺人鬼はすぐにここに来るだろう。

 だが、まだ、力は残っている。死んでたまるか。

 ドアを閉め、葉月は()()()()向かった。懐中電灯はつけない。

 四階に向かう途中で、またしても怨霊の声が聞こえてくる。

「さあーん……、よぉーん……」

 かまわず葉月は登る。今は怨霊の相手をしているときではなかった。相手は血肉を持った人間、巧妙な殺人鬼なのだ。


 突如太ももに激痛が走る。


 たまらず葉月は倒れ込む。肉が裂け、血が溢れ出る感触。悲鳴を何とか飲み込んだが、体にあたった小石が階段を転げながら落ちていく音が建物内に響いた。

 壁に手を付きながら立ち上がり、目を凝らすと、ピアノ線のようなものがはられていた。これに引っかかり、転んだのだ。足の具合を見る。焼きごてをあてられたように傷口が熱く、血はどくどくと流れている。恐る恐る体重をかけてみると、鋭い痛みが走った。

「……いっ……痛ぅ……!」

 ハンカチを巻いて最低限の応急処置をする。こんなところにもトラップが仕掛けられているとは予想外だった。今の音は殺人鬼にも聞こえたに違いない。

 下の階から足音が聞こえてくる。

 ここから早く離れなくては。


 葉月は足をかばいながら進む。なんとか四階へたどり着く。廊下に転がっていたモップを広い、杖代わりにして、さらに上を目指す。

 外へ出ようと一階へ行けば、殺人鬼と鉢合わせする可能性が高い。しかし、屋上ならば、電波が届いている。屋上に逃げ込み、助けを呼んだ上で籠城する。それが葉月の作戦だった。

 しかし……。

 足は痛みを増すばかりで、頭が朦朧としてきた。

 不安と恐怖が喉元までせり上がってくる。口を開けば、嘔吐するか悲鳴を上げてしまいそうだった。

「もーいいかいっ」

 怨霊の声が頭に響く。

 死にたくない。

 殺されたくない。

 そうだ。と、葉月は歯を食いしばる。

 辛かったとき周りの人に支えられてきた。どれだけ心の励ましになったかわからない。

 その恩を――まだ誰にも、返せていない。

 死んでたまるか。殺されてたまるか。生きて、帰るんだ。

 屋上へと向かう。

 その時――()()()()()()、と。ひときわ大きく、足音が響いた。

 殺人鬼が、追って来ている。葉月は音がでないように慎重に、しかし、全速力で駆け上がった。音から目算するに、殺人鬼はもう四階に来ている。

 屋上のドアへたどり着く。スマートフォンを確認すると、電波が一本立っていた。

 ドアノブに手をかける。昔と同じく、鍵はかかっていない。

 後はここに立てこもり、警察へ連絡をすれば――。

 ――()()()

 熱のこもった大気に、氷のような音が響いた。

「みーつけた」

 振り向くと、そこには覆面の人物が鉈を構えて立っていた。

 刃は葉月へ向けらている。

「さよなら」

 覆面の言葉に葉月は戦慄した。

 ()()()()()()()()()、気づいた。

 ああ。それならば、()()()()()()()()()()()()()()()()

 ただ、どうして、こんなことをするのかがわからなかった。

 なぜ――?

 あまりの衝撃で動けない葉月の疑問に答えるように、鉈が振り下ろされる。

「もーいいかいっ」

 怨霊の声が、再度頭に響いた。

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