序: 怨霊
追われている。
焦燥感の高まりに反比例して、体は思うように動かなくなっていた。視界は黒い靄に包まれ、空気は鉛のように重たい。
必死で手足を動かし、這いつくばりながら進んだ。自分の呼吸音と心臓の音が頭の中で反響し、がんがんと痛む。
そんな中、やつの足音だけが鮮明に響く。
こつり。
ようやっとたどり着いた物陰に隠れ、息を整える。
にわかにまとわりつく空気の温度が上がった気がした。あるにおいが鼻孔を刺激する。生々しく、それでいて錆びたような刺激臭を含むにおい。血だ。
見つかりたくない。
こつり。
足音は着実に近づいてくる。
強烈な喉の渇きにえづきそうになる。口内に鉄粉が詰め込まれたような気分だ。胃液がせり上がってくるのを必死でこらえる。
見つかりたくない。
こつり。
ああ。だめだ。やつにはこの場所がばれている。逃げなければ。
全身に力を入れる。恐怖か疲労が原因か、体は思うように動かない。
嫌だ。何で。
こんな、こんなところで、死にたくなんてない。
これまでずっと真面目に生きてきた。中学のとき万引に誘われても断ったし、大学の講義も一度も休まず卒業した。社会人になっても、報連相を怠ったことはなく、仕事もできる方だと自負している。誰かに恨まれるようなことはしていない。それなのに、なんで。
脳裏に、ある出来事がフラッシュバックする。胸にナイフを差し込まれたような痛みが走った。
あのことだって。
当然のことをしたまでだ。そう――悪くない。
体が重くなるにつれて、ある予感が全身を支配していた。
見つかったら――殺される。
――こつり。
足音が、止まった。
*
目覚ましの音が鳴り響く中、手探りでスマホの画面をタップしてアラームを止め、葉月響子は目を開いた。
嫌な夢を見たような気がする。
頭を振って思い出そうとしてみたが、靄の向こう側に隠れ、何も浮かんでは来なかった。
カーテンの隙間から陽差しが差し始めていた。
シャワーを浴びてじっとりとした汗を洗い流し、栄養ゼリーとヨーグルトで朝食をとる。歯磨きをして、簡単に化粧すまし、スーツに着替えて外へ出ると、途端に強烈な日光と熱気に包まれた。葉月は心のなかで舌打ちをする。
夏は嫌いだ。早く過ぎればいい。
改札を通り、三駅先まで電車で揺られる。席に座りながら、流れていく風景を眺めて過ごした。田んぼと雑木林が次々と窓の外を通り過ぎていく。朝七時でもまだ空いているのは、田舎の唯一と言っていい長所だろう。目的の駅につき、駅前のコンビニでお昼ごはん用のサンドイッチとお茶を買う。歩くこと六分で、グレー色の立方体の建物が見えてきた。建物内に入り社員証で出社時間を打刻して自席につく。葉月は大きく伸びをしてからノートPCを開いた。
集中して仕事に取り組んでいるうちに、キーボードを叩く音や、周りの雑音も快くなってきた。
進みはいい。
この分だと早く終わりそうだと思いながら、一息入れようと腰を上げたとき、「おい、今月になって三度めだぞ」といういらだちを隠さない声が飛んできた。見ると、上司が同僚の押谷に説教をしているようだ。
怒声だけでは収まらないようで、上司は時折つばを飛ばしつつ、ネチネチとした口調で押谷を責め立てていた。周りの人はいささか緊張した面持ちで、自分のPC画面を見つめている。
葉月は一旦浮かした腰を椅子に戻して聞き入った。
あんなふうに言われちゃ、やる気なくなっちゃうよ。と、同情をこめて押谷を見る。
押谷はうつむき気味で、時折うなずいたり、生返事を繰り返していた。その姿勢が、上司の怒りをさらに買ったらしい。
「いいから、この資料は昼までに直しとけよっ」
吐き捨てるような言葉とともに、押谷に資料を押し付けた。
「……はい」
戻ってきた押谷は、小さく舌打ちをして葉月の隣の席についた。薄っすらと涙目に見えるのは気のせいだろうか。押谷は乱暴に書類を机に放り出し、ノートPCを開けた。
報告書の修正を命じられたのだろう。横目で見ると、結構修正箇所は多そうだった。時計は十一時を回っている。一人で間に合うだろうか。
「手伝おっか?」
葉月の提案に押谷はびくりと顔を上げ、目を見開いてを葉月へ向いた。
「昼まででしょ? 私ちょっと余裕あるよ」
「……あ、ありがとう」
押谷はもごもごと礼を言った。半ば強引に資料を受け取って見ると、上司の字で修正の指示がされている。大筋はあっていて、細かい表現や図表の見せ方を直せば良さそうだった。
量は多いが、二人なら何とかなりそうだ。
「よしっ。こんどお昼でもおごってね」
冗談を言ってから、気合を入れてPCへ向かう。
あっという間に昼になった。なんとか修正は間に合い、礼を言う押谷に手をひらひらと振って応え、葉月は美香と連れ立って空き会議室へ向かった。
「葉月もよくやるねー。わざわざ手伝わなくたって別にいいじゃん」
机にお弁当を広げ、手を合わせながら美香が口を尖らせて言った。やや明るく染めたセミロングの髪がふわりと揺れる。
「まあ同じチームだから。助け合いが大事だよ、困ったときは」
葉月はサンドイッチのビニールをぺりぺりと剥がし、たまごサンドにかぶりついた。美香は軽く口笛を吹いて、からかうように小指を立てる。
「かっこいー、押谷くん、葉月に惚れちゃうんじゃない?」
「もう、やめてよ」
「いや、なんか女耐性なさそうだし、実はもう惚れてるかもよー? 葉月はどうよ? 押谷くん」
「どうって……」
嫌いでも好きでもなかった。
「恋人になりたいとは思わない、かな。別に押谷くんだからってわけじゃないけど」
かつての恋人を思い起こしながらつぶやいた。別れてからもう二年経つが、いまだ傷は癒えていない。誰であろうと、恋愛という気持ちにはなれない。
「そっかー。でも気をつけたほうがいいよ。葉月にその気がなくても向こうにあったらさー、ストーカーになるかもっ。ほら、押谷くんってー、ちょっと陰湿そうじゃん?」
満面の笑みだった。ひどいことを嬉しそうに言うなあ、と思いつつ葉月はハムサンドにかみつく。パンとハムの間から飛び出たマヨネーズと唾液が絡まる。美香は卵焼きを食べながら続ける。
「最近増えてるらしいからねー、通り魔とかストーカーとか。怖い怖い。あ、そうだ、怖いといえばさ」
一転して、美香は笑顔を引っ込めて真面目な表情になった。
「葉月、久御山病院跡の怪談、知ってる?」
「久御山病院?」
サンドイッチを飲み込みながら葉月は美香の言葉を繰り返した。
記憶を探る。確か、町のはずれにある病院で、二年前に潰れてしまったはずだ。
そうだ。あの事故が起きた後も、あそこで治療を受けた。そして、確か少し前に、久御山病院跡でニュースが有ったような。
「そ。今廃墟になってるじゃん? 出るらしいんだよね」
「出るって、何が?」
「これ」
美香は手の甲を顔の横でだらんと揺らし、舌を出した。
「どろどろー、おばけだよーん」
「小学生?」
子供っぽいしぐさに葉月は吹き出した。いや、今どき小学生でもそんなことは言わないのではないか。
「あ、ひどい。でも、ほんとに出るんだって。おばけ」
「へー。すごい」
「うわ、興味なさそう。目が大仏さんみたいになってる」
「御利益ありそう」
大仏さんって言い方かわいいな、と思いながら葉月は手を降って続きを促した。
「なんでも、現世に未練のある魂が己の体を探してさまよってるんだって。で、人間の体を見つけると乗っ取っちゃうらしいよ」
「乗っ取って、どうするの?」
「……うーん? 第二の人生を謳歌するとか?」
適当な返事だった。葉月は平静を装いながら、友人の話の瑕疵を指摘する。
「その理屈だと、おばけを見たって話を広めてる人、すでに乗っ取られてるんじゃない?」
「あ、たしかに」
「さては、美香も……?」
「ふふふ……ばれてしまっては仕方がないっ。お前の体も乗っ取ってやるーっ」
きゃいのきゃいのと談笑しているうちに昼休みの時間は少なくなっていた。昼食をいそいでかっこみ、席に戻ろうと会議室をでる。その時、葉月の視界に足早に遠ざかっていく人の姿がちらりと映った。
「あれ、押谷くん?」
この会議室は廊下の突き当りにある。用事がない限り来ることはないのだが、葉月たちと同様に空き会議室でお昼を食べていたのだろうか。それにしては、手ぶらに見えた。
「ま、いいか。仕事仕事」
引っかかりを覚えつつも、葉月は思い切り伸びをした後、席に戻った。
*
人が死ぬには理由がある。老い、病気、事故。自殺、他殺。愛、嫉妬、憎悪。
日本において、不審死や死因が不明な異状死の数は年間十万人以上だ。その殆どは事件性のないものとして処理される。
しかし――葉月はそうではない死があることも、知ってしまっていた。
帰宅してからスマートフォンを使い、久御山病院跡で起きた事件について調べてみた。美香との会話の中では興味がないように装ったが、気になることがあったのだ。すぐに記事がヒットする。
三ヶ月ほど前に人が死んでいた。子供一名が床の崩落に巻き込まれ、転落死。
複数人の子供が廃墟に忍び込んでいたらしい。興味半分で来たのか、何度も来ていたのかはわからないが、子供にとっては絶好の遊び場だったのだろう。四階の床が崩落し、巻き添えを食らって亡くなっている。廃墟となっていた病院跡はこの事故を受けて正式に取り壊しが決まったとのことだった。
美香の話によると、怪談の噂が立ったのはつい先月――七月のことだった。
「幽霊、ね……」
葉月はソファーに寝転んで天井を見上げた。すでにスーツは脱ぎ、Tシャツとショートパンツに着替えている。スマートフォンを机に放り投げ、目を閉じる。
幽霊が見えることに気づいたのは小学生の時だった。事故が起きた交差点にいたり、古い家にいたり、様々なところに霊はいた。見え方も様々で、ぼんやりとした靄のようであったり、あるいは人の姿の霊もいた。幼い頃から見えていたそれが、周りの人は認識せず、自分だけが見えるという事実に、最初は戸惑った。
しかし葉月は、騒ぎ立てるようなことも、不安がるようなこともせず、黙っていることを選択した。そうするのが利口だと思ったのだ。特に霊から害を受けたこともなかったのも大きかった。
だが、自分だけに見える、周りの人は見えない、という事実は、『自分は特別だ』という意識を葉月に植え付けていった。物語の主人公のように、自分は選ばれた人間なのだと、無邪気に喜んだ。霊を危険なものだと思わなかったのだ。
あの時までは。
小学校五年生になった春、祖父が死んだ。実家の階段で転び、頭を打ったとのことだった。
祖父は葉月を「きょうこちゃんはいつも元気だねえ。優しい子だねえ」と言ってかわいがってくれた。抱きしめられると、白く伸びたひげが、頬や首筋にあたってくすぐったかった。
初めて体験する身近な人の死は、葉月にいいようのない恐怖を与えた。いつまでも続くと思っていた世界に、別れを言い渡されたような気持ちになったのをよく覚えている。
お通夜で見た祖父のひげはきれいに剃られていた。祖父の亡骸は、どこか現実感のない、マネキンのように思えた。
父が焼香をしているとき、それが起きた。焼香の煙が黒く大きく広がり、人の形をなした。葉月はそれが祖父だとすぐにわかった。髭の形がそっくりだったからだ。息を殺して辺りをうかがうと、周りの大人に気づいている様子はない。葉月は席に座ってじっとしていた。今まで見た幽霊は輪郭がぼやけていて、白っぽい色をしていたのに、その霊は息苦しいほど黒く淀んでいた。異様な気配に背筋が寒くなったのに、汗がどっと吹き出してきた。どす黒い影は父の前に立ち、睨んでいた。父は影に気づくことなく、焼香を終え、席に戻った。その後も祖父は父の前にずっとそびえていた。燃え盛るように揺らめき、拳を固め、父に向かって叫んだ。
「お前が儂にしたように、お前も同じ目に合わせてやるぞ……!」
怨嗟の声を聞き、祖父は死んだのではなく、殺されたのではないか、という疑念が湧いた。
祖父と父の仲が悪いのは子供ながらにわかっていた。祖父がかなりの財産を持っているだろうことも。
しかし、葉月は父が祖父を殺すような人間だと思いたくなかった。湧いた疑念は振り払い、父に付き纏う祖父の霊も見て見ぬ振りをした。
父が体調不良を訴えるようになったのはそれからすぐのことだった。診察から帰った父は軽い夏バテだと笑っていたが、その二週間後に死んだ。会社の階段で足を踏み外して、頭を打ったのだ。当たりどころが悪かったらしい。
死んだ父の枕元にたった黒い影は高らかに笑いながら消えていった。
それが――葉月が初めてみた怨霊だった。
「思い出したの、久しぶりだな……」
目を開けて、葉月は起き上がった。
床の崩落によって命を落とした子供。
崩落――その言葉は葉月にとって、古傷をえぐられる痛みを与えるものだった。
もしかしたら、彼が?
葉月は首を振った。
そんなはずはない。そんなことはありえない。
溢れ出る感情に蓋をするように、葉月はつぶやいた。
「調べてみるか」