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タエ 第一夜 4

 千佳子が去ってしまった後、何だか会話のタイミングを逸してしまい、食後に出されたコーヒーを黙ったまま飲む結果になった。

 ユウヤは、時折、視線をこちらに向けて何か言いたげだったようだが、実際に話し掛けてくることは「楽しかった?」とか「美味しかった?」とか、どうでも良いことばかりで、その後に続く会話も無く、変な雰囲気を作り出してしまっていた。

「そろそろ、出ようか?」

 時計をチラリと見て、ユウヤが立ち上がった。

 意識して見ていたわけではないが、タエの視線は窓外に向けられていた。かなり呆けていたのかも知れない。

 引き攣ったような表情にならなかっただけマシだったろう。というより、自然な笑顔が作れたかどうかの方が心配だった。

「千佳子。お愛想、お願い。美味しかったよん」

「ほ〜い。二人で二千円でございます〜」

 ユウヤがカウンターへと歩いて行くのを、回らないような頭で見送りながら、フワフワした感覚に身体が浮いているようだった。

 どうやら昨夜の寝不足が、満腹と同時に効力を発揮してきたようだ。少しでも油断する数分があると、容赦無く瞼を押し下げようとしてくる。それを我慢しても、焦点が合わない視界では、何も見ていないのと同じことだ。

 ユウヤの背中を見ているつもりでいたが、もしかすると声のする方を見ていただけかもしれない。

 ハッと気付いたのは、ユウヤが財布を取り出しているのを確認した時だった。

 これはいけない。先程のタワーでの入場料もボウっとしている間に支払いをさせてしまった。今ここで、またもボウっとして昼食代まで支払わせてしまったら申し訳ない。

「あっ、待って下さい。あたし、出します。さっき、入場料も払ってないし」

 急いで立ち上がって、鞄を引っ掴んだものの、財布を出すまでには時間が掛かる。中身を探っているうちに、足元が疎かになり縺れたようによろめいてしまった。

 気が付けばユウヤの背中が眼の前に迫っていた。

 そこまで迫っているものに、バランスを崩しているものだから、止まるに止まれない。顔から突っ込むのを頭を下げてしまったために、ほとんど頭突きのような感じでユウヤの背中に突っ込んでしまった。

「とととっ。びっくり〜」

 カウンターに張り付いたユウヤの姿は、少し滑稽だったが、今はそんなことで笑っては気の毒だ。

「ごめんなさい。前、見てなかった」

 それでもニヤけた顔は元に戻せない。舌をだして謝ってみたのだが、果たして誤魔化しきれただろうか。

「いいよ。食事くらいおごらせてくれ。誘ったは、俺なんだから」

 柔らかく、それでいて優しい感じに笑うユウヤに、タエは暫し見惚れた。

 そして思う。『この人は、どうしてそんなに優しく笑えるんだろう』と。

 男の人の笑顔は、何十人、何百人と見てきたけれど、こんなに雰囲気の優しい笑顔に出会ったことが無い。大概は、二人きりだと格好を付けたようにニヒルに笑うか、こちらの反応を窺うように曖昧に笑って見せるくらいだ。

 笑い話のときように可笑しい笑顔なら自然なものだろうが、こうして場や相手を和ませるような笑顔となると、記憶の中には無かった。

 などと感慨深い考察などしている場合ではない。ユウヤは、既に財布を開けてしまっている。手を入れれば、それまでだ。

「いいえ。連れて来てもらってるんですから、食事くらい出させてください」

 やっと鞄から財布を探り出して、ユウヤを押し退けるように千佳子との間に割って入った。身体に触れてしまうことにも抵抗は無かった。自然な行動だったといえる。

「……。近い近い!」

 財布を開けようとしたところで、思わぬ事が起こった。

 急激に頭が締め付けられるように痛んだかと思うと、後ろに引きずられるように離されてしまった。一瞬、何が起こったのかも理解しかねたが、突き出た腕が自分の頭を鷲掴みにしていると知って驚きと痛さに

「痛い!痛い! ヒドイ!!」

と叫んでいた。

「今日は、いいよ。今度、おごってくれ」

 ヒリヒリする頭を擦りながらユウヤを睨んだ。薄く笑ったユウヤの顔が何とも恨めしい。

 男の人にこんな扱いを受けたのも初めてだ。屈辱的な扱いだろう。

「いいえ! 出します。これくらい、いいじゃないですか〜」

 本来なら文句のひとつも言いたいが、ユウヤの表情からは意地悪なところが見て取れない。語頭を少し強めに主張するくらいが関の山だった。

「おじょうさん」

 むうっとしてにじり寄ってやろうかと考えているところに、冷めた、というか気の抜けた千佳子の声が投げ掛けられた。

 見れば片肘に顔を乗せて呆れ顔だ。

「男ってね、変なプライドってのがあんのよ。んで、年上の男って、それが一層、高いわけよ」

「え?」

 何だか的外れな話をされ始めたようで、タエは不思議顔になってしまった。眉が寄ってしまっているかもしれない。

「あなたの気持ちは痛いほど解るんだけどね。そのプライドを守ってやるってのも大事なんよ。だから、二度、断られたら、三度目は、引き下がって嬉しい顔してあげるってのも、これまた、大事な女の務めでもあんのよ」

「そんなぁ」

 やっと最後になって言われている意味が理解できた。

 つまりは、ユウヤにおごってもらえと言われているのだ。タエの中では、男性からおごってもらうということはデートの時くらいだし、それも五分の確率でワリカンになったりもする。

 まぁ、今までが、歳の近い学生達とくらいしか付き合った経験が無いせいでもあるのだが。

 千佳子の言うことが、年上の男性とお付き合いする心得なんだとしたら、それはそれで貴重な意見だし、ユウヤも少し焦れたような感じで笑顔が先程より薄い。

「…わかりました。じゃあ、今度、食事した時は、絶対にあたしが払います!」

 自分の中では、かなりの譲歩なのだが仕方ない。それに、ユウヤとの食事を次にも約束したようなものなのだから、それはそれで何故か嬉しいことのようにも思えた。

「あたしゃ、お化けと『今度』ってのには、会ったこと無いけどね」

 千佳子が冷や水を掛けて、タエのウキウキの気分を消してしまった。

「そんなぁ〜」

 ユウヤの顔を覗き込もうとしたが、ユウヤはタエにワザと背を向けて千佳子にお金を押し付けて支払ってしまった。

「はいはい。お粗末様でした。近くに来たら、また寄ってよ。違うメニューもアドバイスして欲しいし」

「俺は評論家じゃないし、料理家でもないっちゅうの。自分達の料理は、自分達で完成させろよ」

「あ〜ら、冷たいお言葉。そんなんじゃ、モテないよ〜」

 二人のやり取りが、実に仲良く聞こえるのは、溜め息がでるほど面白くなかった。千佳子に比べるとタエの扱いは、やはりよそよそしく感じる。付き合いの長さと言われてしまえばそれまでだろうが、タエだってこの一ヶ月以上をユウヤと週二回は必ず会っていた。といっても、やっと二桁になった程度なのだが、ユウヤのことは大概に知っているつもりでいた自分が、何だか騙されたような気がしてきた。

「ありがとうございました」

 千佳子が、不意に大きな声を出した。

 財布を鞄に戻していたタエには、見えなかったが、気付いてみればユウヤは既にドアに向かって歩いているところだった。

 走って追いかけるつもりだったが、やっぱりと思い直して千佳子に向き直った。そのまま、傍まで近寄って顔を寄せた。

「ん? 何?」

 千佳子に不信顔をされるかと思ったが、頬杖を付いたまま意外と静かな感じで微笑んでくれた。ちょっと口端の歪み程度だが、それが千佳子の微笑なんだと先程に理解している。

「あの……お聞きしたいことが……」

 おずおずとした潜めた声で言ったのを、千佳子は眼を細めて頷いた。と

「ど、どうしたの?」

ユウヤの声が背中に投げられた。

 そりゃ、付いてくるはずの連れが付いて来ず、旧知の人とコソコソ話をしているとなれば、不信に思わないわけがない。が、タエは意を決して振り向いた。

 ここは譲れない。

「ああ〜、ちょっと来ないで下さい。外で待っていてくれます? すぐに行きますから」

 言ったは良いが、そんなことが普通は押し通せるものだろうか?

 自分だったらと考えると、何だか馬鹿にされたようで腹が立つし、自分の話をしていることくらい分かる。……決して、良い気分なわけがない。

 ユウヤは、ちょっと困ったような顔をしたが、それでも黙って背を向けた。一応は大袈裟にドアの前で肩を落とし背中を丸めて、大きく溜め息を吐いて出て行ったのには、さすがに真面目には捉えられなかった。

「ユウちゃんは、変わんないねぇ」

 ユウヤの姿がドアの向こうに消えてから、千佳子が言った。

 改めて向き直ってみれば、未だに頬杖のままだ。

「んで? 何が聞きたいの? ユウちゃんのことだろうけど、おじょうさんが知らなくても良い事ってのもあると思うんだけど」

 先に釘を刺されたような言い方にちょっと腹が立ったが、気になったままで帰るのも癪に障る。

「あの…ユウちゃんに捨てられたんですか?」

 あんまりにもストレートな質問だったかな? っと思ってみても、言ってしまった後ではどうにもならない。

 とりあえずは、眼に力を込めてグッと千佳子を見た。

 千佳子はといえば、一度、眼を大きく見開いたかと思ったら、すぐさま仰け反るほどの爆笑に変わった。タエの方が、その反応に驚いたほどだ。

「あ、あ、あたしが…ひ〜…ユウちゃんに…‥捨てられ…ぶぶっ…捨てられた〜はははぁ」

 ひとしきり笑ってから、涙を拭き拭き千佳子は、もう一度、頬杖を付き直してタエを見た。

「ああ〜、笑えた。ありがとう。笑いって胎教に良いらしいから、この子も笑ってると思うわ」

「…答えてくれないんですか?」

 こんな反応なのだ。もしかすると反対にユウヤが振られた可能性もある。とはいえ、先程までの千佳子の態度からは、どう見てもユウヤに好意を持っているとしか思えない。

「んん〜。答えないわけじゃないんだけどさ。少なくてもユウちゃんと居るからには、あの人がどんな人かも知ってるわけでしょ? とすると、答えなんかいらなくない?」

「どういう意味ですか?」

「おじょうさんも夜の仕事してんでしょ? じゃなきゃユウちゃんが連れて歩かないだろうし。夜の酔った感じとは、また少し違うけど、基本的に同じなのよ。あの人……」

 ユウヤの幻でも見ているのか、千佳子の視線はドアに向けられていた。ちょっと遠い眼をしている。

「優しくてクールでスマートな大人を自分のものにしちゃってるっていうか。誰にでも優しくて、誰のことも心配して……。決して怒らないし、イライラしても微笑んでるだけで表情に出さないし、ふざけることはするけど、他人を馬鹿にしたりしない。そんな人」

「はぁ?」

 千佳子の遠い眼に、タエは多少なりとも違和感があった。

「確かに優しいと思います。今日が無かったら、きっとそう思ってました。でも、クールなところはクールですけど、スマートっていうのはどうでしょう? しどろもどろになるし、突然に場違いなこと言うし、優しく人込みから庇ってくれるけど、その後はよそよそしくなったり……。イライラしてもちゃんと顔に出てましたよ。すぐに押さえていたようですけど、ちょっと間は、話掛けるのもためらうくらい不機嫌そうでした」

 今日のことを思い返しながら、ユウヤの印象を語った。

「一貫性が無いっていうか、掴み所が無いっていうか、変な人です」

 深い溜め息で千佳子を見た。

 その眼が大きく見開かれて、不思議そうに首を傾げているのが分かる。

「……君。誰のこと言ってるの?」

「ユウちゃんですよ。もちろん」

 頬杖をゆっくりと外して身体を起こし、マジマジとタエを見る千佳子は、う〜んと唸って腕を組んだ。

「な、何ですか?」

「あたしもね、ユウちゃんとはそれなりに長いし、行ってる店の女の子や店外デートした女の子も知ってるけど………そんな話、聞いたの初めてだわ」

「は?」

 疑問というよりは、無意識に出た疑問符というだけのものだったろう。

 そんな話と言われても、何処がそんななのかも分からない。かと言って、千佳子が嘘を言う必要性があるだろうか?

「そんな話って、どんな話です?」

 千佳子は、しばらく上を向いたまま眼を閉じた。考え事というよりは、首を傾げて迷っているような感じだ。

 タエもそんな千佳子を見詰めながら眉をしかめて難しい顔で答えを待った。

「君、幾つ?」

 眼を開けた千佳子は、口元を笑いの形に歪めて前に乗り出してきた。左手を軽く口元に持っていって、またも頬杖かと思ったが、人差し指を唇に当てた。

 表情は悪戯顔なのだけれど、目元が笑っていない。少し恐いかもとタエは思った。

「二十歳ですけど。何か?」

「ふ〜ん。珍しくはないわね」

「どういう意味ですか?」

 面白くないと言いたげな千佳子の言葉に、少しカチンときた。何だか誤魔化されてしまいそうだ。聞きたいことから離れている。

「もしかして、昼間に何か違う仕事してるとか?」

「違う仕事って、あたし学生ですし」

「は? 学生? 看護学校とか?」

「いえ、大学生です」

「ああぁ、あの数年前に新設されたとかいう大学だぁ。ってことは、もしかして地元も違うとか?」

 芝居掛かってポンと手を叩く仕草が、タエにはまたもカチンとくる。一々、タエに対する仕草が子供を相手にしているように大袈裟で幼稚に感じてならない。

「千葉ですけど。それが何か?」

「千葉かぁ。でも、都会派って感じじゃないよね? 地味っていうか、素朴っていうか」

 ムカァとする気分を必死に押さえた。けれど口元辺りがヒクヒクしているのを感じる。

「すいませんね。そういうことに疎いもので!」

 語尾が強くなったが、これでも必死に我慢した結果なのだから仕方ない。しかし、千佳子は一向に気にした様子も無く、タエの下から頭までをゆっくりと眺めている。

「ねぇ」

 気だるそうに、頬杖を改めて付いて千佳子が呼びかけた。

「何です?」

 ぶっきら棒な言い方だったろうか? 視線も千佳子から外してそっぽを向いてしまっているが、それでも敬語を止めないくらいの節度はあった。

「君。今度、一人で来なさいよ。その時にユウちゃんのこと、あたしが知ってることで良ければ教えてあげるわ」

「え!? 今じゃないんですか?」

 予想もしてない誘いに戸惑っていることもあるが、教えてくれると言うなら、今でも構わないような気がするし、今、知りたいというのが本音だ。

「今は、ユウちゃん、待たせてるでしょ。それに、そんな簡単に説明できるような人じゃないしね。君が言うユウちゃんの印象ってのも詳しく聞きたいしさ。ゆっくりと来なよ。って言っても、この子が生まれる前までに来てくれないと困るけど」

 自分のお腹をポンと叩いてガハハと笑う千佳子を呆れて見ながら、タエは大きく息を吐いた。

 どうやらこの人も掴み所に無い人なのかもしれない。

「分かりました。出直して来ます。でも、その時は正直に答えて下さいよ」

「え? ああぁ、答えね。それくらいなら、今でも構わないわ。あたしとユウちゃんは付き合ってたことなんてないの。だから、捨てた捨てられたなんて有り得ないってこと」

 ヒラヒラと片手を振って笑う千佳子は、そのまま両肘をカウンターに付けて、今度は両手の頬杖になってしまった。

「付き合って無かったって……でも、ユウちゃんのこと‥‥」

 最後まで言えずに言い澱んでしまったが、千佳子は察したようだった。

「うん。好き。でも、そんだけ。別に、ユウちゃんに何か求めてるわけでもないしね」

「告白したんですか?」

「したかもねぇ。ねぇ、もう行ったら? ユウちゃん、待たせるなんて、あたしには許せないんだけどなぁ」

 半分トロンとした眼になって、眠そうな感じの千佳子。もしかしたら、身体が辛いのかもしれない。妊娠中は体質そのものも変わるというし、これ以上は察してやれない失礼な人になってしまうかもしれない。

「すいませんでした。でも、今度、ちゃんと教えてくれますよね?」

「いいよ。さ、行った行った」

 ペコリと一礼して、もう一度、千佳子の眠そうな表情を確かめてから背を向けた。

 その背に千佳子の声が掛けられたのには、タエも驚いて振り返った。

「アドバイスってわけでもないんだけど、ユウちゃんが寝た女って、あたしが知ってるのは『枕営業』してた二人だけだわ」

「まくらえいぎょう?」

 タエには、初めて聞く言葉だった。

「ベッドを共にしてお客を店に呼ぶ営業。簡単にお客、呼べるけど、飽きられたら二度と寄って来ないし、夜の店じゃ反則って呼ばれてるし、禁止してるとこも多いわ。ただ、客を呼べないような女の子は、簡単に客を呼べる技でもあるわけよね」

 つまりは、自分の身体を餌にして、客を釣るってことなんだろう。しかし、そんな行為にユウヤが乗ってしまうとは、今のユウヤを知ってるタエには信じられなかった。

 でも、ユウヤとて男なのだから、そんな行為を求めていたとしても不思議じゃないし、その方が自然とも言えるかもしれない。でも、信じたくない気持ちの自分も存在している。

「……そうですか」

 不信。いや、不安なのだろうか。モヤっとしたものが胸の中に生まれたようだ。

「もうひとつ。もし、君がユウちゃんに興味があるんだったら、君が言ってたシドロモドロなユウちゃんをじっくり見てくんないかな? ユウちゃんが、もし、そうなったら。うふっ」

 最後の笑いは、いささか挑戦的にも感じられた。

 出来るものならしてみなさいって言われたような気がする。

 けれど、今日だって自分が自分の思う行動と言動をしただけだ。ユウヤが変になる要素なんて思い付かない。

 タエは、一礼して小走りでガラスのドアまで行くと、ガラスに映る千佳子を注意深く見た。

 笑っているように見えるが、どことなく寂しそうな陰も見える。千佳子の中の心境など量ることなど出来はしないが、寂しいって気持ちだけは、端っこのところかもしれないが、感じることは出来る気がした。



 タエが店を出ると、ユウヤの車がアイドリング状態で待っていた。

 時節柄、駐車中のエンジンストップは常識なのに、と思う反面、時計ではユウヤと別れてから三十分以上経過していた。

 退屈しのぎにカーラジオくらい聞きたくなっても仕方ない時間だったろう。

 まだ遠い車の運転席に眼を凝らしてみたものの人影らきものは無い。

 車に乗っていないのだろうか? と周りを見渡して驚いた。確かにユウヤは、車外に居たのだ。

 だが、その有り様はどうだろう。まるでアクション俳優のようにピョンピョンと跳ねるように足を蹴り出したかと思うと、次にはクルクルと回って左右の足を高々と上げる。回し蹴りというものなのかも知れない。

 まるで母親を待っている子供が、退屈しのぎに遊んでいるようで、タエは笑いが込み上げてきた。

 吹き出しそうになるのを、幾らなんでも失礼だろうと堪えたが、うふっと笑いが漏れたのは仕方ない。そこにユウヤと眼が合ってしまった。

 見られたくない行動だったんじゃないかな? と思い、小走りで車まで行って、

「行きましょう。何処、行きます?」

とだけ言って、ドアを開けてそそくさと乗り込んだ。

 クスクスと声を殺して笑っってしまったが、ユウヤが乗り込んでくるまでは、その笑いが止まらなかった。

 走り出した車の車窓から、店のドアを振り向いて見れば、千佳子がにこやかに手を振っているのが見えた。急いで手を挙げたが、千佳子に見えたかどうかまでは妖しいものだった。

「さて、何処、行きましょうか?」

 街中も過ぎた辺りでユウヤに声を掛けた。

 まだ日は高いし、これから何処かに寄ったとしても、それほど遅くなることもない。

「え? これから? まだ、行きたいところがあるの?」

 こちらを見もせずにユウヤが答えてきた。これには、何だか腹が立った。

 『行きたい場所』ではなく『連れて行きたい場所』ってのはないんだろうか?

「行きたいところは、もう無いです。でも、ユウちゃんが行きたいところがあるかな?って」

 ああぁ、そうなんだ。と思わずにはいられない。

 千佳子が言った『クールでスマートな大人』な対応をされているんだと感じずにはいられない。

 普通ならば『何処に行きたい?』とか『近くに〇〇があるよ』とか、返答は一緒に居たいってメッセージになる。

 けれど、ユウヤの返答は『まだ、行きたいところがあるの?』だ。

 相手に行きたい場所を選択させて、後は一緒に付き合ってあげたという心理を植え付けられる。

 相手が行きたいと言ったからという大義名分がある。譲ってあげた、譲歩してあげた。そんな臭いがする言い方だ。

「………。帰ろう。君もレポート仕上げなくちゃならないんだろ? それに寝不足なんだから、少し休んでレポートに向かった方が身の為なんじゃないか?」

「………」

 返事をする気にもならなかった。

 窓外を流れる景色を、ただぼんやりと流していくだけで、眼に映りこむことなどない。

 ユウヤの中では、結局は、他の誰とも違わない存在としてタエを見ていることが、今日を振り返っても良く分かる。

 千佳子が言ったことは、つまらない憶測だったに違いないのだ。

 何も話したくない。

 ただ、窓外を眺めている。ユウヤもそんな空気を察したのか、話しかけて来る事も無い。

 ぼやっとした視界に、タエは危なさを覚えた。

 寝不足というより貫徹に近い後遺症が、食事の満腹感と沈黙の車内に促進されて眠気が襲ってきている。

 何とか抵抗しようと試みたが、気分的にユウヤと話す気には、今はなれない。

 そのまま、ゆっくりと視界が暗くなるのを感じながら、『ユウちゃんのせいだからね!』と心の中で毒付いた。


 タエの中では、これが夢だってことは分かっていた。

 それは、そうだろう。眼の前にいるのは、高校時代に自分が処女を奉げた男だ。

 好きとかいう感情も、今となっては真実だったかと問われると疑わしい。

 周りのみんなが焦ったように付き合い始めて、次々に処女喪失して行く中、自分だけが取り残されたような錯覚をして、友達の紹介で付き合った男だった。

 嫌いじゃない。それだけが初印象だっただけで、付き合ってしまい身体まで奉げてしまった。

 後悔してるなんてことはないが、未だにその時の気持ちなど、いささかに本気だったなどと思ったことは無かった。

 手を伸ばして触れてみようかと思ったが、伸ばし掛けた手を途中で止めた。

 傍らに人の気配がする。

 顔を向けてみれば、ユウヤがにこやかに笑っていた。微笑というのではなく、満面の笑みに近い。

 手を伸ばして身体に触れようとしてきた。

 嫌という気持ちは無い。むしろ触って欲しいとさえ思う。けれど、それ以上に、言葉が欲しい。何でも良いから話して欲しい。

 そんな気持ちを無視して、ユウヤはタエの右肩に手を置いて、力強く握ってきた。

 押さえ付けられるような力強さに、身体が反応するかのように宙に投げ出された感覚があった。

 途端に眼が覚める。

 けれど状況が把握できない。眠っていたことは確かだろう。身体が妙にダルイし、視界もぼんやりと定まらない。

 辛うじてユウヤの横顔が眼に入った。

「…もしかして、あたし、寝てました?」

 自分の声だろうかと思えるほど掠れた声に恥ずかしくなった。

「ちょっとね。ごめん。起こしちゃったね」

 起こした? 夢の中での話しかな? そんなはず無いよね。

 自分の考えに苦笑いしながら、どの辺を走ってるのかを確かめたくて窓外に眼を移した。

「ああぁあ!」

 思わず声が出た。

 見たことがある景色なんてものじゃない。後、数分も走ればタエのアパートに着いてしまう。

「な、なに? どうかした?」

 ユウヤが驚いたようにチラチラとこっちを窺いながら聞いてきた。

 もう街中に近い。車の数も多いし、運転を疎かにできるわけはない。

「もう地元じゃないですか!? 帰って来ちゃったんですか?」

 言ってから思い出した。眠りに入る前にユウヤは言っていなかったか? 『帰ろう』と。

「君、レポート、途中だって言ってたろ? 明日までに仕上げなきゃならないんじゃないの? それに、今朝方まで徹夜でやってたんなら、少し寝てレポートに向かう方が利巧じゃないですかって言わなかったかな?」

 眠る前に言われた言葉が、そのまま返って来たようで、多少のデジャヴのように思えた。

「ああ…考え事してて、つい眠っちゃったんだ。何してんだろ?」

 後悔というより、油断だったと思える。前の晩に眠れないほどの課題を抱えていたことも確かだが、それよりも初対面でないとはいえ二人きりの車内で眠り込んでしまうなんていう失態が恥ずかしい。

「まだ、日は高いですよ。帰るには早いです。ショッピングしましょう。ってか、付き合って下さい」

 図々しい申し出なのは百も承知で言ってみた。

 こんな半分、記憶の無い別れ方など納得できない。今、車から降ろされてしまえば、半分は夢現の世界に溺れそうだ。

「もちろん、よろしいですよ。お嬢様。何処にお連れしましょう?」

 変に芝居がかった言葉に、ユウヤを振り向いて見れば、薄く笑った大人顔だった。

 鼻に付くという表現が妥当かどうかは分からないが、面白くないことは確かだ。ほとほと子供扱いされているようで腹が立つ。

 それに、先程ユウヤは『君』と言わなかったか? 

 千佳子に『君』と言われたのが思い出される。小馬鹿にしたような、それでいて子ども扱いも忘れず混ぜてくるような挑発的な笑いが脳裏に蘇って、イライラとした焦燥感が湧き上がってくる。

「ユウちゃん。あたしのこと『君』って言いました?」

「は?」

 惚けたというより、完全に疑問符だったのかもしれない。それほどユウヤの発した声は、意外なほど高かった。

「今更なんだすけど『君』って呼ばれたくないです。それに夜に会ってる時は『タエちゃん』って言ってるのに、どうして昼間だと『君』になるんですか? あっ、そこ、右です」

 文句も言いたい。けど、このまま別れるというのも避けたい。

 本心かどうかなんて判断できなかった。もしかしたら、まだ寝惚けているのかもしれないけれど、どうせならもう少し、ユウヤとの時間を楽しみたかった。

 それに『君』という呼び名に嫌悪感があることは、本当のことだ。

「え? 右? ここ? ってか、『君』って、そんなに気になる事なの?」

 そのことに疑問を持たないユウヤの方が疑問に思う。

 今までに男の人に『お前』呼ばわりされて腹が立ったことはあった。でも、親しみがこもっていればこその『お前』なんだと思えば、それほど怒ることでも無いと思えもした。

 けれど『君』は違う。どう好意的に考えてみても、他人行儀すぎるし、何より親しみがこもってない。「ねぇ、君」とか「君ってさぁ」とか、名前も知らない相手や知り合ったばかりの相手にこそ使うものだろう。

「『君』って特定の、個人を指す名前じゃ無いじゃないですか。あたしには『タエ』って名前があって、『君』っていう不特定多数の呼び名は、名前を知らない人に使うべきじゃないですか? あっ、そこ、右です」

「右ね。って、それって、重要なこと? 主観的なものが介在するんだから、それって個人の意思に左右されることだよね?」

 どうしてユウヤは、素直にハンドルを切るくせに、この『君』という言葉の問題には難色を示すのだろう。

 ただの呼び方だけである。タエの名前を呼んで欲しいだけなのに。そう難しいことでもないのに。

「呼ばれる相手が居るんですから、個人のってわけにはいきませんよ。呼ばれた相手が不快に思う呼び名ってあだ名と一緒で、嫌な気持ちになるものも有りますもん。そこ、左です」

 どうして寝起きでこんな議論をしなきゃなんないんだろう。

 タエ自身にも疑問が生まれるが、タエが『ユウちゃん』と呼んでいるのに、その相手が『君』では、なんとなく納得がいかない。

「左っと。じゃぁ、何て呼べば良いのかな?」

「シンプルに『タエ』で良いです。友達もみんな、そう呼びますし」

「じゃ、タエちゃんかな?」

「ええ!? 『ちゃん』ですか? 子供みたいです」

「んじゃ、タエさん?」

「『さん』って歳でもないですけど」

「韓国みたいに、タエ氏かい?」

「馬鹿にしてます?」

 絶対に小馬鹿にしてるに決まってる。その証拠に口元が緩んでいる。

 こちらを見ようともしないが、この議論を面白がっていることは確かだ。

 イラっとするよりムカっとした。わざとらしく上目遣いで睨み付けたとしても、それが正直なタエの心の表現だった。

「呼び名で関係が決まるわけじゃないでしょ? 大事に思う事で『君』って呼ぶこともあると思わない?」

 息が詰まった。ユウヤの今の言葉で完全に頭に血が上った。

 ほとほとタエを子供扱いしたいらしい。今までのタエとの議論を完全に無視した論理だし、同意を求めるような言い方は、タエの『呼んで欲しい名前』すらも無視してる。

 それでいて言い含めるような言葉。

 この男って……。

「千佳子さんは『千佳子』って呼び捨てで、あたしには『君』って格差があるから、あたしの方が上級なんだって…まさか、言うつもりなんですか?」

 声が震えている。まぁ、怒鳴らなかっただけマシだろう。

 本音が出てしまったと感じていたのも、僅かにタエを抑えた。

 ユウヤが『千佳子』と『タエ』との間に、どれだけの差を作っているのかは分からない。それでも、あからさまに差を付けられていると感じるようなことはして欲しくない。

「ああぁ、なんというか……そうだな…えっと、千佳子と君は、違う人であってね。それを比較されても、その対象ってのは……なんていうか、同じなんだけれど、違うっていうか…」

 ちらりとタエを見て、ユウヤはしどろもどろになってしまった。

 溜め息と同時に笑いも出そうになる。

 こんなものなのかも知れないと思ったからだ。

 きっと、ユウヤの中では、それほどこのことを真剣に考えていなかったってことだ。

 つまり、ユウヤ自身でも区分とか区別とかいうものではなく、ただ単に、タエに気を遣った結果が『君』という表現だったってことだろう。

 そこでハタと思い当たる。

 千佳子もタエを『君』と呼んでいた。もしかしたら、それはユウヤの影響かもしれない。タエも昔、好きな人の口癖が、いつの間にか自分に移っていたことを思い出した。

「……タエ〜。計ったな。こいつは、隣町に続く国道じゃねぇか」

 そんなことを考えているところに、ユウヤが低く唸るように言ってこちらを見た。

 そういえば、そんなことを指示したんだったと気付く自分も、かなりなボケだと笑いが出た。

「はっはぁ。やっと気付きましたね。引き返すのなんて無しですよ。それに、やっと『タエ』って呼んでくれましたね」

 それよりも『タエ』と呼んでもらえたことの方が嬉しい。

「引き返さないけど、こっちの要求も呑んでもらおうか」

 なんとなく横柄な口調になっているユウヤが、少し雰囲気が違う。酔った時でも、滅多にそんな口調にはならないユウヤは、呑み方の綺麗な客としても有名なのに。

「何です?」

「です、ます調の言葉は止めようや。年上ですって思い知らされる」

 そんなつもりは、更々ないのだけれど、言われてみればそうなっていた。

 もしかすると、タエが『君』と呼ばれるのが嫌な気分だったように、ユウヤにとってタエの敬語は、同じくらいに不愉快な気分にさせていたのかもしれない。それに、元から敬語を使っていたのはタエの方だ。

 他人行儀なのは自分だったかも? と感じて、ちょっと先程の怒りが的外れのような気がしてきた。

「んん〜」

 考えるフリだけしてみた。

 タエと呼ばれることと気さくに話せること。同一線上のことなのに、今まで気が付かない自分が悪いことをしてきたようなものだ。

「いいよ。ユウちゃんも、ちゃんと『タエ』って呼んでよね」

「はいはい」

「『はい』は一回! って言われなかった?」

 爆笑。

 なんだか、やっとユウヤとの距離が詰まったような気がして、自然と笑えていた。

 ユウヤ……。この人を、もっと知りたい。

 自然と湧き上がってきた心情を、タエは不思議だとは思わなかった。




              つづく


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