タエ 第一夜 3
横で一緒にガラスにオデコを付けて外を覗き込んでいたユウヤの気配が、急に消えた。
振り返って見れば、辺りをキョロキョロと見渡しながら、ちょっと困ったような顔付きだ。タエも同じように視線を走らせたが、肩や腰を抱くカップルが多いくらいで、これといった妙なところはない。
どうしたのだろう? と考えているところでユウヤと視線が合った。
「あ〜、何かお土産でも買う?」
はぁ? って言いそうになるのを必死で堪えた。
確かに観光の目玉みたいな施設に来ているのだから、お土産くらい買ったにしても不思議は無いのだろうが、今、この場面で出る言葉だろうか?
溜め息を吐きたい気分を、小首をちょっと傾げることで誤魔化した。
「い、いや。なんていうか、そのぅ、ご飯でも食べて帰ろうか?」
ここに来てタエの中に、ちょっとしたユウヤへの不信感めいたものが芽生えてきていた。
というのも、ユウヤの態度や言葉には、何だか一貫性が無いような感じがするのだ。
時折見せるプレイボーイのような女性の扱いの旨さ。かと思うと、今のようにシドロモドロになって場違いな言葉を言ってみたりする。聞き上手な会話で話を盛り上げたかと思うと、一定の距離を置いて手も触れないような他人行儀さ。
どれが本当のユウヤなのか、タエの中でも判断付かないような変わりようだ。
「…そうですね」
それだけ言えたのが、今のタエの精一杯だった。
その返事にユウヤが何を感じたかは分からないが、ぎこちない笑顔を見せたところを見ると、それなりに自分でも何かを感じているのかも知れない。
一度、展望フロアをぐるりと見渡して、レストランのあるフロアを一瞥したが、ユウヤはすぐに向き直って
「何処か外で食事しよう。ここで見るものがあるんなら、付き合うけど?」
これだ。
さっきまでぎこちない感じだったのに、すぐさまこうして変わり身をする。ちょっと笑いを交えるような、それでいて誘いをしっかりと載せてくる。
捉えようのないユウヤを、どうして理解したら良いものか悩んだ末に
「見るものも見たし、驚いたし、がっかりもしたし。これ以上は、怒るくらいしかないから……行きましょうか?」
と笑顔で言えた自分が不思議だった。
ユウヤは、眼を丸くしたが、すぐに笑い出した。それが、本当に楽しそうで、タエもクスクスと笑えてきた。
一階に下りた二人が出たのは、入ってきた入り口の通路。渡り廊下のような堤防の下だった。
大きく港の湾になっている一画に、このタワーが設けられていることが、この場所ではっきりと分かる。ただ、昼間は、建物や堤防が太陽の光りを遮ってしまって、暗い日陰になってしまっている。それが駐車場まで続いているのだ。
通路の途中に柵が張られて、大人とは言い難いアザラシが一頭、入れられていた。あちこちに擦り傷が見て取れる。
学校の海洋学で、教授が言っていたことが思い出された。
アザラシは、好奇心大盛な生き物で、漁師の網やロープなどに近づき過ぎて怪我をすることも珍しくない。漁船のスクリューに触れて、大怪我や死亡することも毎年のように起こっている事実なんだそうだ。
そんなアザラシを保護していると聞いてもいた。このアザラシも、そんな一頭なのかもしれない。
「人道的保護ってやつの見本だな」
眼を細めて見詰めていたユウヤが、不意に口に出した。
表情が、とても先程まで笑っていた優しい感じとは違い、恐いくらいの目付きだった。
「…放っておけば死んじゃうんだから、仕方ないって言えば仕方ないんじゃないのかな?」
人道的保護って言葉は、タエも好きじゃない。ユウヤが、何に対して怒っているのかも分からないわけではないが、手を差し出さなければ亡くしてしまう命が眼の前にあったとするなら、間違いなくタエも保護という名の手助けをすることだろう。
ただ、タエにとっては、新たなユウヤの一面を感じて、嬉しいというか優しいというか、複雑な気分だが、悪い気にはならなかった。
普通の男の子ならば、珍しがってはしゃぐ位が関の山だろう。動物園感覚くらいにしか思わないからだ。
けど、ユウヤは違う。人間の傲慢さに怒りを覚えるし、それを自分の中で自分の行為としても受け止めているんだろう。
基本的に優しい。
それがユウヤなのかも知れない。
「…どうかしました?」
ユウヤの中では、きっと答えの出ない自問自答が続いているのかもしれないが、そんなことをしていても解決策など有りはしない。人類は、大きな勘違いをしながら、ここまできてしまっているのだから、それを一人が悲しんだり怒ったりしたところで、明日何かが変わることなど有り得ないのだから。
ユウヤの思考を遮ってしまうことが、タエにとって今出来る優しさだった。
「いや、なんでもないよ。行こう」
不満げな表情だったが、ユウヤは薄く笑って見せた。
駐車場までの長い防波堤を歩きながら、タエはユウヤの足元を追いかけつつ、時折、思い出したかのように振り向くユウヤを笑って迎えて、黙ったままで付いて行った。寄せては返す小波が、心地いいリズムで繰り返される。
駐車場に着くと無言のままユウヤは、車のドアを開けた。まだ、心のどこかにわだかまりがあるのかも知れない。
タエも続いて助手席のドアを開けようとしたところで、ユウヤが声を掛けてきた。
「ちょっと待って。車内、凄い事になってるから、少し待って」
穏やかな声だった。というより、気遣うような優しい声。
少しは、気分が晴れたのかも知れない。とはいえ『待って』の意味が分からなかった。
ユウヤが、後部座席のドアを開けて、クルリと背を向けた。その時になって、車内の温度が暑いのだと察して、助手席側のドアも開けて通気を良くした。
ユウヤはと見れば、車にもたれて海を眺めるような仕草だった。どこという訳ではないが、その背中が寂しそうに見える。
小走りでユウヤの隣に並んだのは、はっきり言って無意識だった。真昼の太陽を受けた海原は、薄い水色に黄緑色を僅かに溶かし込んだような複雑な色合いだったが、水平線の辺りは銀色の波頭を小さく見せながら穏やかな風を運んで来ていた。
こんな風景をどんな顔で見ているのか知りたくなったタエは、クルリと身体を反転させてユウヤの顔を覗き込んだ。
驚いたような顔がタエを迎えたが、その前にちょっと眩しそうに眼を細めて水平線の彼方を望む顔を見逃すことは無かった。
「ご機嫌は、直りましたか?」
聞く気は、本音を言えば無かった。ただ、眼が合ってしまったために、何も言わずに視線を外すのも変な気がしたし、驚いた顔も、アライグマのようで可愛く思えてもいたのだ。
「不機嫌じゃないよ。どうして、そう思うの?」
ちょっと、予想していた答えとは違って、タエの方が答えに困った。
ユウヤの憂いは、同じ事を思う自分には想像するに難しいことは無い。知恵の実を口にした人類は、恥ずかしさと傲慢さを手に入れ、謙虚と慈悲を置き忘れた生き物なのだと倫理の授業で教師が言っていた。そんな良い見本のようなことだったろう。
けれど、それに胸を痛めたところで、ここまで来てしまったシステムを壊してしまうことは、生き延びられない者達を見殺しにすることにもなるのだ。
「…わたしも、同じことを思うことがあります。人間の勝手すぎる環境破壊が、本来の生態系を壊して、逃げ場の無い生き物が死んでゆく。加えて、保護なんて名前で見世物にしたり閉じ込めたり。エゴイズムの象徴みたいなことなのに、誰もそのことに違和感をもったりしない。そのことに腹が立ったりもするし、悲しくなったりもするけど……」
旨く表現しようとしたが、言葉が綺麗に繋がってくれない。言いたいことは、確かに入っているのだけれど、それが全てじゃなくて、もっと違う表現があったんじゃないだろうかと思えてしまう。
先刻のアザラシが思い浮かんで、どうすることも出来ない自分が、無力な奴に思えてきた。
ユウヤはと見れば、いつの間にかタエから視線を外して、先程のように遠い水平線に想いを馳せているようだ。
「まだ、考えちゃいます? 遠い眼、してますよ」
気の利いたことが言えないんじゃしょうがない。ここは、ユウヤの思考を遮断することにした。
折角、ここまで連れて来てもらって、気まずい雰囲気でこれからを過ごすことなど、それこそユウヤに失礼だとタエは結論付けた。
「…君の声が心地好くてね。聞き惚れちゃった」
「ああぁ! 誤魔化しましたね? ズルイです!」
ユウヤの惚けたような返答に、勢い身体が前に出た。一歩のつもりが、意外に距離が近かったためにバランスを保てなくてユウヤに寄りかかるような感じになってしまったが、ユウヤが両肩を押さえて軽く突いてくれたお蔭で、抱きつくようなことは無かった。
「おいおい。あんまり迫ってくるなよ。チューしちゃうぞ」
言われてタエの胸がドキンとひとつ、大きく跳ねた。予想すらしていなかった言葉だったということもあるが、何だか遠い昔に感じたことがあるようで、それでいて思い出せないようなもどかしい痛みだった。
「……べつに……いいですけど……」
自分の言葉だったろうか? そう思えるほど意識せずに口から出た。
「ん? なに?」
ユウヤからの言葉で、聞こえていなかったらしいことに胸を撫で下ろしたが、恐らくは真っ赤になっているであろう顔が恥ずかしくて視線を上げられない。眼の下辺りが熱いし、耳まで痛い。
「ご飯、食べよう! さっきの鴨、どっかで食べられないかな?」
さっさと背を向けて、後部座席のドアを閉める音が響いて、やっと顔を上げられた。と、ユウヤの言葉があんまりなことに気が付いた。
え!? あの鴨ですか? 何てこと言うんですか!? ペンギンに間違えたけど、とっても可愛かったじゃない! 世界残酷物語ですか!」
と言ってみたが、既にユウヤの身体は運転席に乗り込んでいて、軽い笑い声だけが車外の漏れた。
まったくもって読めない男。
走るように助手席側に廻りながら、ユウヤの笑い声がわざとらしくないことをタエは感じて嬉しく思えた。
乗り込んで、ちょっとした意地悪をされたが、それもユウヤの機嫌が上向いた証拠でもあったし、タエには却って嬉しいエピソードだった。何より、ちゃんとした楽しい会話になっていることが嬉しい。
そんな自分が不思議に思う。それでも、デートという意識はあまり無い。その辺に違和感があるのかも知れないと考えて、そこで思考を止めた。
考えても仕方ない。
慎重に道を探るようなユウヤの邪魔をしないように、タエは窓外を眺めながら「ご飯、ご飯」とはしゃいで見せた。
なんとなく子供っぽいかな? と思わなかったこともないが、嬉しい気持ちが抑えられないのも事実だから、至って自然な仕草でもあった。
「ここに間違いないかな?」
程無く、ログハウス風な家の脇に車は乗り入れた。
しかし、その様相は、とてもレストランというようなものではない。どちらかと言えば、一般家庭の家と言われそうでなほどだ。入り口も国道側ではなく、それに背を向けるような位置にある。
「これってレストランなんですか? 道から見えないじゃん。成り立つの?」
ガラスのドアが見える辺りに来てから、申し訳程度に掲げられた看板が眼に入ったが、それがレストランの看板だとは、実際に見ても頷けなかった。
ユウヤが車を降りるのを追いかけるようにタエもガラス戸を潜った。
店内は、小じんまりとした広さで、テーブルなど四人掛けが四つ程しかない。カウンターもあるが、そこにしても三人も座れば肩をぶつけそうなほどだ。
「いらっさい」
急にカウンター脇から声がして、タエは驚きで少し固まった。
声からして女性だろうと首を廻らせば、ダルそうにカウンターにもたれた中年という感じの女性店員が眠そうにしていた。
「二人? ああぁ、好きに座っていいよ。カップルなんだろ?」
とても客を眼の前にしての歓迎の言葉では無い。少なくともタエだって接客の仕事に就いているが、こんな不遜な態度はとった事が無いし、客として入った店でも、ここまで酷い態度で出迎えられたことは無かった。
ユウヤに勧められて座りはしたものの、ちょっと不機嫌になったのは仕方ないことだろう。
「はい、水。で? 何にする?」
ここまで来て、こんな待遇の店に入るとは思ってなかった。
イラつく気持ちを抑えながら、タエは中年女をチラリと観察した。
生活に疲れた中年女…そんな感じだろうと思っていたが、中年女と思ったのは間違いかもしれない。
見ればそれほどの歳には見えない。20代後半かも知れないが、三十路という感じではない。整った顔立ちは、品があるとは言えないが、粗雑な態度には似つかわしく無い。軽いウェーブをかけた肩までの髪も清潔感があるほどサラサラだ。
ちょっとした美人と言っても通るだろう。
それがこんな態度。外見とまるで違う気だるいような動きに違和感があった。が、彼女の腹部を見て頷けた。
彼女は太っている体型ではない。スレンダーに近い体付きなのに、下腹部が少し盛り上がっている。女性特有の下っ腹という感じでは無く、全体を押し上げるような盛り上がり方。
『この女性。妊娠してるんだ』
気だるそうな態度、物に寄り掛かるような立ち方。自分で体験したことなどあるはずはないが、聞いた話では、そうなってしまうものだと知っている。
何だか腹を立てた自分が恥ずかしく思えてしまった。
と、彼女と眼が合った。
「え、え? ええと」
急いでメニューを手にとって見たが、焦ってしまって文字までは追えなかった。
「相変わらずだなぁ。愛想が無いのは致命的だって言わなかったか?」
焦るタエの耳にクツクツと笑うユウヤの声は聞こえた。
「ユウちゃん! 久し振り! って、どうして、ここに居るの?」
言われた彼女の声が、気だるい時とは1オクターブ跳ね上がった。驚きと歓喜の感情がありありと溢れている。身体ごとユウヤに飛び付きそうで、タエはドキッとして眼を丸くした。
「佐知子から聞いてね。近くに行ったら寄って顔くらい見せてやれって。ついでに美味しい食事もあるからって」
「佐知子、まだ現役なんだ。しかし、お節介だね。おまけに失礼だし。ついでって何さ。美味しい食事がメインだっちゅうの」
鼻息も荒く腰に手を当てる彼女は、それでも笑顔を崩さなかった。
「すぐに気付けよ。俺だって」
「だって、夜じゃないし、あたしと会ってた頃なんて、そんなカジュアルじゃなかったじゃない」
「千佳子だって、化粧は薄いし、服だって普段着みたいじゃないか」
「ったりまえでしょ! これでも主婦なんですからね。夜の女の時と一緒なわけないでしょ」
「主婦ねぇ」
「あ? 疑ってる? これでも立派にやってんのよ。子供もできるし、より一層、頑張んなきゃ」
「え? うそ? いつ?」
「今、五ヶ月。秋には母親なんだから」
「そいつは、おめでとうだな」
ユウヤと千佳子と呼ばれた女性の会話や表情から、どうやら親しい関係らしいことは理解できるし、彼女の反応からしてユウヤに対して友人以上の感情があるらしいことも想像できる。
ただ、タエにとって、この二人のやり取りを見ながら、どんな表情をして良いものか迷ってしまっていた。
ユウヤは別にタエの彼氏という訳ではないし、客とホステスという関係だが、今、こうして言うなれば店外デートみたいなことになっている。だからと言って、嫉妬するっていうのも変な話だし、事実、それほど苛立ちを感じている訳でもない。
多少、面白くない気持ちはあるが、単に話しに入れない事に対しての疎外感みたいなものだと考えていた。
「ああ、この人、千佳子っていってね。去年の夏まで通ってたスナックに居たんだ。結婚してレストランしてるって聞いたからさ」
それを聞いたとして、一体、どうしたら良いのだろう? と考えながら、一応はペコリと頭を下げてみた。
その仕草にユウヤが軽い溜め息を吐いたのを感じて、何だか変な気分になった。イラっとしたわけじゃなく、何だか面白くない。
「やだ。ユウちゃん。食事にきたんでしょ? ご免なさいね、気が利かなくて。何にする?」
千佳子が気を利かせてペコリと会釈を返して微笑んできた。
タエの方が恐縮してしまうような雰囲気だ。自分なら友人以上の感情を持った相手が、異性を伴って現われたりしたら、内心、平常心で微笑むなんて出来そうも無い。
大人な対応と言えばそうだろうけれど、タエ自身をそういう相手として見ていないって可能性もある。
人妻で妊婦で大人でタエの知らないユウヤを知っていて……。
どういうわけか、面白くない。
「あの…お薦めってあります?」
言ってから口調が強すぎることに後悔した。不機嫌そうな声音が、自分の口から出たのも信じられないが、眼の前のユウヤが、ちょっと驚いたように眉を上げた。
「お薦めねぇ。有るわよ。ちょっと、待っててね」
ニコっと愛想笑いなのか営業スマイルなのかは定かでないが、千佳子はそう言って背中を向けた。が、返す手でユウヤの後頭部を引っ叩くというオマケが付いた。
「いって! なんだ!?」
文句を言うユウヤに舌を見せて、タエに軽く手を振る千佳子が奥へと消えていった。
余裕と感じない方が可笑しいと言える。
タエを敵対視しないだけの何かが、二人の間にあるんだと納得させられてしまう。
そんなことを感じていないのか、ユウヤは涼しい顔でこちらを振り向いた。
その顔を睨むような眼つきになったとしても、それはそれで仕方ない結果だったろう。自分の昔の女に会いに来る口実に自分を使われたような気がする。
「ど、どうしたの?」
不思議顔でユウヤが聞いて来た。その質問にも腹が立つ。
「…昔の女ってとこですか?」
本当に自分の声かと思うほど低い声が出た。ムカムカする気持ちの現われのような感じで、自分ですら少し恐い感じがした。
言われたユウヤはといえば、やや眉を顰めて視線を外した。
チラリと千佳子が消えた方向に視線を飛ばして、そのままゆっくりと円を描くように眼を動かし、最終的にタエを真正面から見詰めてきた。
「……ちょっと、心配事が彼女にはあってね。一度、ちゃんと見ておきたかったのは、正直な気持ちだよ」
囁くような声だったが、ちゃんと聞き取れる位の音量だ。恐らくは、千佳子への配慮なのだろう。
「心配?」
反射的な聞き返しだった。聞いて良い事かどうか、ユウヤの反応を見れば分かる。
困ったような表情は、迷っている証拠だし、千佳子を気遣っているなら、尚更、過去は言いたくないだろう。
「聞きたいなら話すけど、その代わり、言葉の裏を読まないで、素直に理解して欲しいな。彼女は、誤解され易いから」
『彼女は、誤解され易い』という言葉がタエには信じられなかった。それほど陰があるような人には見えないし、大人な余裕さえ漂う彼女に『誤解され易い』ことなどあるんだろうか?
けれど、ユウヤの真剣な表情は、嘘や誤魔化しを言う態度じゃない。
「聞きたい。ユウちゃんが心配してること」
真剣な態度には、真剣な態度でタエは答えた。
彼女のことを知りたいというよりは、彼女とユウヤの間に何があったのかを知りたいという方が正確な表現なのだろうが、それを認める気持ちは無かった。
「…わかった。話すよ…」
視線を落として力無く頷くユウヤを見て、タエは少し不安になった。
言い辛いことを無理に聞き出そうとしているんじゃないだろうか?
「千佳子は、昔、栄養士をしてた。学校給食の栄養士だったんだ。当時の千佳子を知ってるわけじゃないけど、聞いた話じゃ、結構明るい性格だったらしい。元来、人懐っこいしな。人見知りはあるけど、懐に入れば暖かい奴だったんだろう」
ユウヤは、そこで言葉を切って胸ポケットから煙草を一本取り出して火を付けた。白い煙が窓から差し込む光りに晒されて薄紫色になりながら消えていく。
大きく吐き出した煙は、上に向けたものであったが、深い溜め息のように感じられた。
「人間関係に躓いた。そう言えば簡単かもしれないけど、そんな安易なものだったかは、想像でしかない。僅か一年で千佳子は心身症になった。俗に言う『うつ病』ってやつさ。二ヶ月の入院と半年の休業。人間不信になっていたかは定かじゃないけど、職場は精神を病んだ人間に容赦なんかしてくれないよな。辞職って形で辞めさせられ、就活にもその病気が障害になる。結果、千佳子は、生活費を稼ぐために夜の街に就職することになった」
煙草の火を見詰めながら、時折、立ち昇る煙の後を追うように視線を動かしながら、ユウヤは話し続けた。
タエの方を見ることも無かったが、タエはユウヤを見詰めたままで聞いていた。
不意に煙草を灰皿に押し付けて、ユウヤがこちらを向いた。
「そんな顔すんな。千佳子に失礼だ」
そう言われて自分がどんな表情をしているかを認識させられた。自分では分からないが、きっと同情しているような顔付きに違いない。
とはいえ、千佳子の苦しみは理解出来ないものではない。
女同士の陰口や陰湿な嫌がらせなどは、今まで育ってきた過程でも嫌ってほど体験してきたし、やり返してもきた。ただ、それは学生生活の中での話しだ。
それが職場となれば、狭い人間関係の中で苦しみも倍増だろうことは想像できる。結果、弱い心の持ち主ならば、千佳子のようなことになってしまっても不思議じゃないだろう。
「…千佳子に会ったのは、勤め始めて一ヶ月も経った頃だったんじゃないかな。無愛想で、サービスも知らない。会話も出来ない。カラオケひとつ歌うわけでもなく、客から勧められても呑むことも無く、まるで、そこに居るだけの人形みたいだった」
本当なら昼間の世界で活き活きと仕事してたであろう千佳子が、無表情で俯いたまま接客している姿を想像して、タエはちょっと切なくなった。
「でも、お店の人は知ってたんじゃないの?」
気の合う友人でも居れば、少しは仕事にも明るく接することが出来たかもしれない。
けれど、ユウヤは軽く首を振って答えた。
「知っていても、それに触れる人ってのは、気付けないことより始末に悪いものさ。大概は『可哀想』とか『気の毒』なんて言葉に摩り替わるし、長引けば疎ましく思う。後は孤立していく千佳子を辞めさせるか、自分で辞めるように仕向けるか。そうなって、不思議じゃない。客を呼べないホステスなんて、赤字の生みの親だからね」
ちょっとふざけたように笑って見せたユウヤだったが、タエはとても笑う気にはならなかった。幾ら何でも話しの内容が重過ぎる。
「…辛かったでしょうね…」
思わず出た感想だった。というより、それしか言えなかった。
「そうでも無かったかな?」
想いの他、明るい声が店の奥から響いた。見れば千佳子がカウンターから出てくるところだった。
「お待ちどう様。当店自慢の煮込みハンバーグ。んで、ユウちゃんには、これ」
タエの前に置かれたのは、グツグツと泡も消えない熱々の陶器に、大きめのハンバーグが沈んだビーフシチューのようだ。反対にユウヤのは、鉄のプレートに載ったハンバーグで、デミグラスソースがかけられた普通のハンバーグステーキに見える。
途端にデミグラスソースの良い香りが立ち昇って、タエのお腹をグ〜と鳴らしたが、どうやらユウヤには聞こえてなかったらしい。
千佳子の顔と自分の前に置かれたプレートを交互に見ながら、ちょっと苦々しい顔付きだ。
「…盗み聞きしてたかと思ったら、メニューにも差別か?」
ユウヤの言葉ににっこりと笑って見せる千佳子だったが、タエには千佳子の笑顔はかなりぎこちなく、不自然な感じがした。
「辛くなかったって言うと嘘だけど、ユウちゃんと知り合ってからは、嘘みたいに楽になったし、今の旦那とも知り合えたし。感謝してんだから」
口元を歪めているのは笑顔を作ろうとでもしているようだが、千佳子の表情は旨く形を作っていなかった。目元が笑いの形になっていない。
多分、それが千佳子の心に負った傷の後遺症なのかもしれなかった。
ちらりとユウヤを盗み見た。僅かに軽く息を吐いたのが分かった。ユウヤも同じことに気が付いたのかもしれない。直ぐに視線を外して見ないふりはしたのだが。
「…あの…千佳子さんと…ユウちゃんって……」
『まただ?』 口が勝手に動いてしまう。
そりゃ、気になっていなかったわけではないし、ユウヤの話も途中で遮られてしまった。
それだけに余計に二人の過去が気になった。
二人の視線が自分に向いているのを感じて、タエの心臓が高鳴った。余計なことを聞いてしまっていると分かっているだけに居たたまれない。
「あ〜ら、おしゃべりしてたら折角の料理が冷めちゃう。さぁ、食べて食べて! サービスで飲み物もつけちゃうわ。今、持ってくるから」
千佳子が明るい声で打ち消して背を向ける気配。
答えを期待していたわけでは無かったタエは、軽くホッと胸を撫で下ろした。
カウンターに消えて行く千佳子を眼で追ってから、ユウヤを見た。
ちょっとオドオドしたユウヤの態度は面白かったが、千佳子のそんな過去を知っていながら、こうして友人のように振舞っているところをみると、千佳子の片思いだったのかもしれない。そうすると、少なくともユウヤは、千佳子と男女の関係にはなっていなかったとも考えられる。
けれど、先程までの二人のやり取りは、そんな軽い関係で出来上がったようにも見えない。かと言って、深い関係なら、こんな風に会いに来たりするだろうか?
何だか分からない。そんな気持ちが、またもイライラした気持ちに摩り替わって、ユウヤを睨むような形になった。
「た、食べよう。折角のお薦めなんだしね?」
「…………。」
ご機嫌を伺うような口調が、更に気に障った。
こんな態度をとるってことは、さすがに何も無かったとは言えそうも無い。
けれど、それを追求する権利などタエには無いし、そんな関係でもない。
消えないモヤモヤが、イライラを倍増させるような気がして、無言のままナイフとフォークを手にして料理に向かった。
「んん!? おいしい!!」
一口目を運んでの素直な感想が、思わず口に出た。
風味も味わいも、今までタエが食してきたものが、偽物であったかのような印象だ。
味が濃い煮込みハンバーグだが、ワインの風味が適度に効いているし、何より口の中で溶け出すような肉汁が、玉ネギの甘味と交わって実に味わい深い。
イライラした気持ちが、一瞬で至福の瞬間になった。
ユウヤの反応が無いのが気になって、チラリと上目で確かめてみた。
ちょうど自分のハンバーグを口に入れるところだった。
自分と同じような反応をするのかと思ったが、嚥下する手前辺りで眉を寄せた。どう見ても不満顔に見える。
「あれ? やっぱりユウちゃんには合わなかった?」
ユウヤの表情を見て、トレイにウーロン茶を二つ乗せてやってきた千佳子が聞いてきた。
タエが見る感じ、一般のハンバーグと大差は無いように思える。
「美味しくなかった?」
千佳子がウーロン茶を二人の前に置きながら聞いた。
「いや…美味しいと思うが……」
「思うが…何? 新メニューなんだよね。ユウちゃんに試食してもらって、感想聞かせてもらえるんなら、誰に批評されるより確かだからさ。ちゃんと欠点を言ってよね」
「買いかぶり過ぎだろ?」
ユウヤと千佳子のやり取りを聞きながら、タエはユウヤのハンバーグを良く観察した。
何処という変なところは無い。透明な玉ネギも見えるし、肉汁も溢れるほどに豊満だ。上に掛けられたデミグラスソースも、タエの煮込みに使っているものと同等だとするなら、絶品の一言だろうに。
その視線に気付かれたのか
「……。食べてみる?」
とユウヤが皿を押し出してきた。
どうしようかと迷ってみたが、やはり美味しいものの誘惑には勝てない。
「失礼」
小さく言って、一口切り分けて口に運んだ。
「んん! おいしい!!」
はっきりと美味しいと言える。ユウヤの不満顔の意味が分からない。
「そう? 美味しい? …で? ユウちゃんの感想は?」
タエの反応に気を良くした千佳子は、勝ち誇ったような表情で見下ろしてくる。
咀嚼して喉の奥に飲み込むまで、タエは美味しいという気持ちに変わりが無かった。
それが変化したのは、飲み込んだ後だった。
何だろう? 確かに美味しいのに、それが後に残らない。というより、青臭いような水っぽさが舌の上に残って違和感を置いて行ったような気がする。
「まぁ、待てよ。美味しいのは、間違いないよ。問題はそこじゃない。さて、もう一度、彼女に聞こう。どうよ?」
聞かれて迷う。どう、答えて良いものか、表現がし辛い。
「んん? おいしいよ…。でも…なんか…後味かな?」
「その通り。後味に、入れたものの臭みが残る。強烈なカレーや塩コショウなんかの時とは違って、こいつの青臭いのが消し切れないんだ」
「やっぱ、そうかぁ。でも、カレーソースだと、完全に消えちゃうでしょ? モロに全面に出してもいいんだけど、水っぽさも気になるしさぁ。どうしたらいい?」
「どうして俺に聞く?」
二口、三口と口に運びながら、ユウヤは千佳子を見ることも無く、鉄皿の上を片付けていく。
「彼女の煮込みハンバーグ。レシピの基本はユウちゃんのを使ってるのよ。少しアクセントはつけたけど、基本は変えてない。新しい試みも、ユウちゃんの指摘で改善されると思ってね」
千佳子の言葉で、ユウヤの料理の腕が知れた。どうやら只者では無いらしい。
ちょっと手料理を食べてみたいと興味をそそられたが、機会が有るだろうか? とも思った。
それよりも、この後味の正体だ。
水っぽさに青臭いとくれば、想像するものは野菜。
「これって、キュウリ?」
タエの言葉に、無理に笑いを堪えたような表情でユウヤが首を振った。
どうせ違うなら、大笑いしてくれた方が気持ちよかったのに、そんな気遣いされてもタエには嬉しくなかった。
「違う。ズッキーニだな。細かくみじん切りして、尚且つ水分も切ってあるけど、熱で出てくる水分に臭みがあるんだ」
「ズッキーニ? こんな料理にも使えるんだ? 新発見! 美味しいもの」
タエは、既に大半がユウヤの腹の中に消えてしまった残りを、手を伸ばして奪い取った。
変な気遣いをしたユウヤに意地悪したくなった行動だったが、当のユウヤは優しく微笑んで、タエの心の内など察していないようだった。
「で? どうしたらいいの?」
「いたた。わかった。アドバイスくらいならしてやる」
千佳子がタエを見詰めるユウヤの耳を引っ張っていた。
『ヤキモチ焼いてる?』 ちょっと、そんな疑問が頭をかすめた。そうだとすると、少し気持ち良い感じかもしれない。
「少し酸味が欲しい。後に残る臭みを僅かな酸味で消せると思う。そうだなぁ。トマトソースを二割くらいでソースに混ぜる。後は、ズッキーニを千切りにしてワインビネガーで和えてサラダ感覚にして付け合わせで添えれば、中身が…キュウリと間違われずに済むんじゃないか?」
ユウヤの作るズッキーニハンバーグに想いを馳せていたタエだったが、最後の言葉が嫌味だと知れた。
見れば眼を細めてニヤニヤしてる。
「ちょっと! 間違えたのは確かですけど、そんな嫌味ったらしく言わなくてもいいじゃないですか!!」
「ごめん、ごめん。冗談だよ」
素直に頭を下げるユウヤは、いつもタエが見ているユウヤに戻ったようだった。
つづく