ユウヤ 第一夜 3
何だか、予定していた進行より、かなりの遅延で話が進んでいます。
こんな予定では無かったのですが、どうもかなりの延長を強いられる展開になりそうです。
お付き合いして頂けると幸せですが。
こんなペースだったら、すいません(泣)
昼食の頃合なのだが、ユウヤは迷っていた。
当初の目的であるタワーは、今の時点で果たされたことになる。これで帰宅の路に着いたとて、何の不思議もありはしないのだ。
だが、そうは言っても、当人達からすれば単なる観光ドライブだとしても、傍から見ればデートを楽しむカップルに見えることは、当然と言えば当然の結論だろう。
「あ〜、何かお土産でも買う?」
普段のユウヤなら『お腹空いたね? 食事でも行く?』ってのが通常の言葉であったろう。
どういうわけか、タエに対しては、いつもの女性に対する扱いのマニュアルが出てこない。出そうとしても、先に身体や口が反応してしまい、まるで脳みそを通過しない対応が先走る。
言った後に『中学生か!?』と驚いてみても、後の祭りである。
案の定、驚いたような表情のタエが、小首を傾げていた。
「い、いや。なんていうか、そのぅ、ご飯でも食べて帰ろうか?」
やっと、出た言葉にしては、自分でも情けないものだった。
「…そうですね」
タエも笑顔で答えはしたが、変に堅苦しい言葉の表現は隠しようがない。
何だか、初めてデートに出かけた少年時代をなぞらえているようで、ユウヤは心の底から落ち込んでしまいそうだった。
だが、そんなことを考えていても仕方ないし、この現状を好転させなければ、これから先の時間が地獄になる。
『落ち着け。飲み屋の女子との単なるデートだ。今までと、何処が違う?』
自分に言い聞かせるように反芻しながら、平静の自分を取り戻すことに勤めながら、普段の自分がどうしてるかを思い出していた。
とりあえずは昼食である。そう思うと判断は早かった。
展望台フロアに設けられたレストランは、それこそ申し訳程度に設置された喫茶店の軽食よりタチが悪いと知れた。レンジでチンする食事など自宅のアパートでも今はしないくらいのお粗末だろう。
ユウヤは、一瞥しただけでここでの食事を諦めた。
「何処か外で食事しよう。ここで見るものがあるんなら、付き合うけど?」
タエもユウヤの視線を追いながら、ふぅっと溜め息を漏らして困った笑みを浮かべていた。
「見るものも見たし、驚いたし、がっかりもしたし。これ以上は、怒るくらいしかないから……行きましょうか?」
その返事にユウヤは声を出して笑った。遅れてタエもクスクスと鼻を鳴らして笑った。
一階に下りた二人が出たのは、入ってきた入り口の通路。渡り廊下のような堤防の下だった。
入るのは煌びやかな光りの中を歩かせるが、帰り道はその足元を影と共に、暗い雰囲気を醸し出していた。
驚いたことに、その道すがらに溜め池のような掘りがあって、その中にアザラシが一匹、見世物のように入れられていた。日陰の暗い中でのストレスだろうか、身体に数箇所の擦過傷が見て取れる。
「人道的保護ってやつの見本だな」
嫌悪という感情が入り切った口調で表現だったろう。
「…放っておけば死んじゃうんだから、仕方ないって言えば仕方ないんじゃないのかな?」
タエの言葉に、ユウヤとて頷く気持ちは持ち合わせている。
確かに、保護しなければ失われる命であったことは確かだろう。だが、ユウヤの中では、それが納得のいくものでは決してない。
人間が手を貸すことで生き延びることが出来たとしても、それは自然の中での生活をしてきた野生の生物とは、確実に掛け離れた存在であることなのだった。
ジレンマ。そう言えば、それまでなのだろうが、どこまで行っても答えが正当化されない典型なのかもしれない。
ちょっとセンチメンタルな気分になってしまったのが、変に男女の仲を意識していた気分をユウヤの中から払拭していた。
確かに色恋も大事な日常かもしれないのだが、こんな日常の中にも人間って言う傲慢さが蔓延しているんだと再確認して、デートという気分ではなくなってしまっていた。
「…どうかしました?」
不安そうなタエの顔が覗き込んで来た。
「いや、なんでもないよ。行こう」
一度覚えた気持ちに、早々は方向転換など出来ないが、それでもタエの笑顔以外は、ユウヤの心をザワつかせた。
楽しくない気持ちに、尚のこと拍車が掛かる。
寄せてくる波音を聞きながら、ゆっくりとした足取りで駐車場に入った頃には、幾らかさっぱりとした気分になった。その間、タエとは一言も話さなかったが、潮風に眼を細めて、流されそうな髪を片手で押さえながら後を付いてくるタエを見ている内に、何だか和んだといってもいいだろう。
何度か振り返る度に、タエは不思議そうに小首を傾げる。軽く首を振ると、にっこりと微笑んで、遠くに視線を投げては、ちょこちょこと歩みを進める様は、変に言葉を交わすより心地好かったのかもしれない。
「ああ、ちょっと待って。車内、凄い事になってるから、少し待って」
ドアを開けた途端に、昼間の太陽に照らされた車内から、春とは言えムッとした熱気が這い出してきた。
タエも助手席のドアを開けようとしたところだったのを、自分でも驚いたほど穏やかな声で静止させた。キョトンとした顔付きが、リスのようで可愛い。
エンジンを始動して、エアコンをつければ済む話ではあるものの、それでも数分は熱い中にさらされる。
後部のドアも開けて、中の熱気を追い出しながら、車体にもたれて水平線を眺めた。
察したタエも助手席のドアを開けて、ユウヤの隣で水平線を眺めるような仕草をしたが、クルッとユウヤに振り返ると
「ご機嫌は、直りましたか?」
と聞いてきた。
ユウヤにしてみれば、機嫌が悪いということでは無かった。強いて言うなれば『いつものこと』に他ならない。その度にイラ立つ気分にはなるのだが、だからと言って八つ当たりした事は無いし、他人に愚痴を言ったことも無い。自分の中で消化不良になってはいるが、それだけのことだった。
「不機嫌じゃないよ。どうして、そう思うの?」
態度に出ることまで制御できているとは言えないが、そんなことを言う人も居なかったし、素直な感想だった。
「…わたしも、同じことを思うことがあります。人間の勝手すぎる環境破壊が、本来の生態系を壊して、逃げ場の無い生き物が死んでゆく。加えて、保護なんて名前で見世物にしたり閉じ込めたり。エゴイズムの象徴みたいなことなのに、誰もそのことに違和感をもったりしない。そのことに腹が立ったりもするし、悲しくなったりもするけど……」
ちょっと遠い眼をしてタエが言った。
確かにユウヤの心の内を表現しているはずなのだが、ユウヤは頷くでも無し、反論するでも無く、ただ水平線を見詰めていた。
「まだ、考えちゃいます? 遠い眼、してますよ」
「…君の声が心地好くてね。聞き惚れちゃった」
背伸びして顔を近づけてくるタエに、そう言って笑って見せた。ぎこちないかなと思わなかったこともないが、今は生物学や環境科学などと論議する気にならない。
「ああぁ! 誤魔化しましたね? ズルイです!」
まるで背伸びでもするように顔を尚も近づけてくるのを、一歩下がってかわしながら、華奢な両肩を抑えた。
「おいおい。あんまり迫ってくるなよ。チューしちゃうぞ」
冗談に聞こえるように笑って言って、軽くタエを突いた。
「……べつに……いいですけど……」
「ん? なに?」
下がったタエが、驚いたような表情をしたかと思ったら、強気な今までの調子とはうって変わって、視線を外して呟くように何か言った。
ユウヤ自身も聞こえなかったわけではないが、聞き間違いだったら恐いと思っての返す質問だった。けれど、タエは俯いて、それ以上は口を開かなかった。
タエの心遣いが、ユウヤの中で痛いほど響いていた。
動物園や水族館などに滅多に行くことはないが、連れて行かれることも無くはない。そんな時には、少なからず同じ気持ちになってしまい、早々にその場を後にすることが多かった。
楽しめない同行者は不平を言っても、タエのように心配顔などしたことがなかった。
そのことが新鮮だったし、連れて来たのがユウヤだというのに、不安な顔にさせてしまったことが、自分の馬鹿さ加減の象徴のようで痛苦しい心境にさせていたのだ。
元気付けようと努力した結果が「べつに、いいですけど」と言わせてしまったのなら、これほど情けないことは無いだろう。
「ご飯、食べよう! さっきの鴨、どっかで食べられないかな?」
「え!? あの鴨ですか? 何てこと言うんですか!? ペンギンに間違えたけど、とっても可愛かったじゃない! 世界残酷物語ですか!」
さっさと背を向けて車に乗り込むユウヤを追いかけるように助手席に飛び込んで、笑うユウヤに抗議するタエの顔に、俯いた時の陰は無かった。
エンジンを始動させて、シートベルトを引っ張るタエを横目で見ながら急発進した。
「うっわぁ!!」
タエがグッとシートに押し付けられて、シートベルトにしがみ付いた。とても悲鳴には聞こえないが、恐らくは素のタエの驚きの声だったろう。
「そういう意地悪なことするんですね? ちょっと減滅しましたよ!」
言葉は強い調子だが、柳眉を吊り上げるような表情ではない。半分、笑っているような感じが見える。
「何、食べたい?」
抗議の声など聞こえなかったように、ユウヤはニヤニヤ顔で聞いた。
「知りません!!」
プイっと前を向くタエの表情に、ちょっと不安は覚えたが、それでも頬を膨らませるわざとらしさにユウヤは内心、笑いを堪えるのに必死だった。
「ごめんって謝った方が良い? それとも、何かプレゼントでもして御機嫌とった方が良いかな?」
笑顔で言った半分は本気の言葉だった。大概の女の子なら、プレゼントと言われて悪い気をする事は無かった。
高額な物を要求されることもあったが、それも女の子と付き合う必要経費みたいなものだと割り切れたから、それほど意識したこともなかった。
けれど、タエの反応は、そんな女の子達とは違った。
「え? 何、言ってるんです? 別に謝ることなんてされてないですし、プレゼントなんてされる覚えもないですよ。誕生日でもないし」
キョトンとした表情での即答だ。言ったユウヤの方が的外れな事を考えていたと思わされてしまう。
「それより、ご飯です! 何にします? ラーメン? うどんとか蕎麦ってのも有りですかね? パスタでも良いかな?」
「麺類ばっかりかい!」
タエの無邪気な提案に、思わず突っ込まずにいられない。
「ナイス!!」
と、親指を立てて軽くウインクするところを見ると、タエ自身もボケていたのだろう。
そんな表情もユウヤには新鮮で、可愛く思えてしまう。
いかんいかんと軽く頭を振って、変に浮きかけた心を消し去った。
『この娘は、まだ学生で、気軽な遊び感覚で付いて来ただけだ。なんたって、まだ二十歳の小娘じゃないか』
ユウヤといえば、もうすぐ三十に手が届く年齢だ。確かに、二十歳の女の子に食手が伸びないわけではないが、この歳になると遊びという感覚より、将来を考えた相手を望みたくなる。
その相手が大学に通う社会も知らない娘であろうはずはない。少なくとも社会人として、自分の立場や未熟さを知った娘でなくては、お互いを尊重し合えないと感じている。
「ラーメンは、やめとこう。この前、来た時に寄ったところは最低だったんだ。教えてもらったところがあるから、そこに行こう」
視線をタエから外して、窓外に向けた。
変な違和感が胸のあたりにあるが、気にしても仕方ない。ユウヤは、隣で「ご飯、ご飯」とはしゃぐ子供のようなタエを、敢えて無視して車を進めた。
教えてもらった道を思い出す作業に邪魔だったこともあるが、相手をしていると別の方向に思考が移って行きそうな不安があった。
程無くして、国道の脇にログハウス風の創りが見えてきた。看板などは見当たらないが、教えてもらった通りの構えだ。
「ここに間違いないかな?」
車を建物の前に乗り込ませて、国道とは反対側に向いた入り口に廻る。
そこで、やっとこの建物がレストランであることが知れた。
申し訳程度に、ガラスのドアの上に看板が掲げられていた。
「これってレストランなんですか? 道から見えないじゃん。成り立つの?」
眼を丸くするタエを薄い笑顔で見ながら、ユウヤはエンジンを止めて車外に出た。追い掛ける様にタエも続いてガラスのドアを押し開けた。
店内は、小じんまりとした広さで、テーブルなど四人掛けが四つ程しかない。カウンターもあるが、そこにしても三人も座れば肩をぶつけそうなほどだ。
「いらっさい」
ダルそうな中年女が、カウンターの脇から声を掛けてきた。歓迎の言葉も投げやりに聞こえる。
「二人? ああぁ、好きに座っていいよ。カップルなんだろ?」
とても客を迎えた店員の言葉とは思えないが、ユウヤもタエも苦笑いをして、入り口から右手のテーブルに向かい合って座った。
「はい、水。で? 何にする?」
まだ、メニューすら手に取っていない二人に、中年女は水を置いて腰に手を当てて聞いてきた。
「え、え? ええと」
タエはアタフタとテーブルに置かれたメニューを手に取って、中年女と交互に見ながら忙しそうだった。
「相変わらずだなぁ。愛想が無いのは致命的だって言わなかったか?」
吹き出しそうな口調でユウヤが中年女を見上げた。
「ああぁ?」
と、中年女は眉を寄せて不信顔になったが、ユウヤの顔を認めると、両目を大きく開いて満面の笑みを浮かべた。
「ユウちゃん! 久し振り! って、どうして、ここに居るの?」
ぐっと顔を寄せてくる仕草にユウヤは、身体ごと下がった。まるでキスでもされそうな勢いだ。
「佐知子から聞いてね。近くに行ったら寄って顔くらい見せてやれって。ついでに美味しい食事もあるからって」
「佐知子、まだ現役なんだ。しかし、お節介だね。おまけに失礼だし。ついでって何さ。美味しい食事がメインだっちゅうの」
鼻息も荒く腰に手を当てる中年女は、それでも笑顔を崩さなかった。
「すぐに気付けよ。俺だって」
「だって、夜じゃないし、あたしと会ってた頃なんて、そんなカジュアルじゃなかったじゃない」
「千佳子だって、化粧は薄いし、服だって普段着みたいじゃないか」
「ったりまえでしょ! これでも主婦なんですからね。夜の女の時と一緒なわけないでしょ」
「主婦ねぇ」
「あ? 疑ってる? これでも立派にやってんのよ。子供もできるし、より一層、頑張んなきゃ」
「え? うそ? いつ?」
「今、五ヶ月。秋には母親なんだから」
「そいつは、おめでとうだな」
お互いに笑い合って、ユウヤの眼にキョトン顔のタエが映った。
「ああ、この人、千佳子っていってね。去年の夏まで通ってたスナックに居たんだ。結婚してレストランしてるって聞いたからさ」
ユウヤと千佳子とを交互に見て、タエはペコンと頭を下げた。キョトンとした表情に変化は無いようだが、ニコリともしない。
ユウヤには、ちょっと変な気分だったが、気にしても仕方ないと軽く溜め息を吐いた。
「やだ。ユウちゃん。食事にきたんでしょ? ご免なさいね、気が利かなくて。何にする?」
千佳子の方がタエに頭を下げて、ユウヤを軽く睨んだ。睨まれたユウヤとしては、心当たりがさほどあるわけではない。涼しい顔で千佳子に首を振った。
「あの…お薦めってあります?」
メニューを置いてタエが千佳子に聞いた。気のせいか、言葉が少し不機嫌のように感じた。
「お薦めねぇ。有るわよ。ちょっと、待っててね」
ニコっと愛想笑いなのか営業スマイルなのかは定かでないが、千佳子はそう言って背中を向けた。が、返す手でユウヤの後頭部を引っ叩くというオマケが付いた。
「いって! なんだ!?」
文句を言うユウヤに舌を見せて、タエに軽く手を振る千佳子が奥へと消えていった。
後頭部を擦りながら、消えた千佳子を視線で追っていたユウヤだったが、タエに笑いかけようとして、その仕草までが止まった。
先程のキョトンとした表情などタエには無く、険しいような眉間の皺と上目遣いな視線は、好意的に判断できるようなものではない。
怒っていると言えない表情ではないが、ユウヤ自身、そんな感情をぶつけられるような覚えが無い。
「ど、どうしたの?」
聞いた自分も間抜けに思えなくも無い。ただ、それ以外の言葉が見つからなかった。
「…昔の女ってとこですか?」
棘がある言い方だな? っと思ったが言葉にはしなかった。そんなことを言い合う間柄じゃないし、そうだったにしろ、それを咎められるいわれが無い。
意地悪をして誤魔化してやろうかと思ったが、そんな気分にもなれなかった。
千佳子。
ユウヤにとって、心残りが無かったことは無い女性でもあるのだ。
「……ちょっと、心配事が彼女にはあってね。一度、ちゃんと見ておきたかったのは、正直な気持ちだよ」
穏やかに言えただろうか? それが心配だった。言葉の端にでも悲哀の陰が見えなければ良いのだが。
「心配?」
眉間の皺を緩めてタエが聞く。もしかすると、ユウヤの杞憂に気付いたのかも知れない。
ユウヤは、それ以上を語ることを迷っていた。言葉にすることは簡単かもしれない。しかし、その言葉を言った本人の真意を汲み取って理解することは難しい。単語一つ足りなくても他人は歪曲した理解を容易くしてしまう。
それが、デリケートな話なら、尚のこと言葉は足りず、理解もされ難い。
「聞きたいなら話すけど、その代わり、言葉の裏を読まないで、素直に理解して欲しいな。彼女は、誤解され易いから」
真正面からタエを見据えて言った。僅かに視線をずらしてタエは唇に右手の人差し指を持っていって考えているようだったが、永い瞬きの後、ユウヤの両目をしっかりと見て答えた。
「聞きたい。ユウちゃんが心配してること」
決して逸らしたりしない視線が、タエの気持ちを表しているようだ。
「…わかった。話すよ…」
それ以上はタエの眼を見つめていられないユウヤは、視線を眼の前のグラスに落として肩を落とした。
聞かれなければ決して語ることなど無いし、聞かれても滅多な事では答えない。そう決めていた。そうすることが、ユウヤの中での正義だったはずである。なのに、タエの眼を見てしまうと、それすら教えてあげなければならない必定と感じてしまうのは、ユウヤの勘違いだったろうか。
「千佳子は、昔、栄養士をしてた。学校給食の栄養士だったんだ。当時の千佳子を知ってるわけじゃないけど、聞いた話じゃ、結構明るい性格だったらしい。元来、人懐っこいしな。人見知りはあるけど、懐に入れば暖かい奴だったんだろう」
ユウヤは、そこで言葉を切って胸ポケットから煙草を一本取り出して火を付けた。深い溜め息を誤魔化すために大きく吸い込んで煙を吐いた。
「人間関係に躓いた。そう言えば簡単かもしれないけど、そんな安易なものだったかは、想像でしかない。僅か一年で千佳子は心身症になった。俗に言う『うつ病』ってやつさ」
煙草の火を見詰めながら、ユウヤは小声で話した。千佳子に聞こえてしまうのは、良心が咎める。
タエの顔を見ることすら出来ない。ただ、タエは、この間も言葉を発することなく、黙ったままだった。
「二ヶ月の入院と半年の休業。人間不信になっていたかは定かじゃないけど、職場は精神を病んだ人間に容赦なんかしてくれないよな。辞職って形で辞めさせられ、就活にもその病気が障害になる。結果、千佳子は、生活費を稼ぐために夜の街に就職することになった」
煙草の火を灰皿でもみ消して、ユウヤは初めてタエの顔を見た。
悲痛という顔付きなんだろうか。涙が浮かんでいれば泣き顔と思ったかも知れない。
「そんな顔すんな。千佳子に失礼だ。…千佳子に会ったのは、勤め始めて一ヶ月も経った頃だったんじゃないかな。無愛想で、サービスも知らない。会話も出来ない。カラオケひとつ歌うわけでもなく、客から勧められても呑むことも無く、まるで、そこに居るだけの人形みたいだった」
「でも、お店の人は知ってたんじゃないの?」
タエの沈んだ重い声。
こんな話をするために、今日、ここに居るわけじゃないんだけどな。
そう思ってみても、話をここで終わらせるには、ユウヤの心も昔に戻り過ぎていた。
「知っていても、それに触れる人ってのは、気付けないことより始末に悪いものさ。大概は『可哀想』とか『気の毒』なんて言葉に摩り替わるし、長引けば疎ましく思う。後は孤立していく千佳子を辞めさせるか、自分で辞めるように仕向けるか。そうなって、不思議じゃない。客を呼べないホステスなんて、赤字の生みの親だからね」
笑ってみせたものの、話の内容自体が重いのでは、気休めにもならないだろう。
事実、向かい合うタエの顔は、ユウヤに合わせて笑うことなど無かった。
「…辛かったでしょうね…」
それだけ呟くように言って、タエは眼を伏せた。
「そうでも無かったかな?」
店の奥から女の声が響いた。
カウンターの奥から、湯気の立つトレイを両手に千佳子が歩いてくるところだった。
「お待ちどう様。当店自慢の煮込みハンバーグ。んで、ユウちゃんには、これ」
タエの前に置かれたのは、グツグツと泡も消えない熱々の陶器に、大きめのハンバーグが沈んだビーフシチューのようだ。反対にユウヤのは、鉄のプレートに載ったハンバーグで、デミグラスソースがかけられた普通のハンバーグステーキに見える。
「…盗み聞きしてたかと思ったら、メニューにも差別か?」
横目で見上げるユウヤに、千佳子は腰に手を当ててにっこりと笑ってみせた。
わざとらしく見えないこともないが、千佳子の笑顔は昔からこんなものだった。無理に作る笑顔が、何時しか本当の笑顔を凌駕して、この笑顔が本当の千佳子の笑顔に成り代わってしまったのだ。
そのことを知っているユウヤには、この笑顔が変えられなかった。本来の笑顔に戻してやれなかったことに、今でも胸が痛む。
「辛くなかったって言うと嘘だけど、ユウちゃんと知り合ってからは、嘘みたいに楽になったし、今の旦那とも知り合えたし。感謝してんだから」
真顔に近い苦笑い。それが千佳子のいたずらな顔なのだが、それを理解してるのは、ユウヤと恐らくは千佳子の旦那だけだろう。タエになど判断できるわけがない。
ちょっとした、軽い溜め息がユウヤから漏れたが、きっとタエには分からなかったろう。
眼の端に千佳子が認めたのか、僅かに眼を細めたが、それも一瞬で作り笑顔の中に消えてしまっていた。
「…あの…千佳子さんと…ユウちゃんって……」
おずおずと伏せ目がちにタエが口にした。次に続くであろう言葉は、ユウヤにも想像はつく。きっと千佳子であっても予想するには容易いことだったろう。
「あ〜ら、おしゃべりしてたら折角の料理が冷めちゃう。さぁ、食べて食べて! サービスで飲み物もつけちゃうわ。今、持ってくるから」
タエが皆まで言う前に、千佳子はあらあらという感じで背を向けてしまった。
「………。」
言葉の途中で折られてしまったタエは、しばらく千佳子の背中を視線で追っていたが、ふっと軽く息を吐いて、小首を傾げるようにしてユウヤに視線を向けた。
ドキッとするような冷ややかな眼に、ユウヤは大きく眉を上げて答えるしかなかった。
言いたいことは分かる気もするが、それを説明したところで、結局はユウヤ個人の言い訳に聞こえるだろうし、千佳子のことが気にはなっていたことも確かだが、所詮は昔のことだ。どんなに懐かしがっても当時の気持ちまでは思い出せないし、後悔していたとしても取り戻せることも無い。
「た、食べよう。折角のお薦めなんだしね?」
何だか媚びたような言い方になったと思った。それでも、ユウヤ自身、重苦しい息の詰まりが、千佳子の姿を見られたことで軽くなったようにも感じられた。
「…………。」
そんなユウヤの思いを理解しているかどうか、タエは無言のままにナイフとフォークを手にとって湯気立つハンバーグに取り掛かった。
「んん!? おいしい!!」
一口目での賛辞だった。両目が驚きなのか感動なのか、大きく見開かれて満足気な表情に変わるのは、見ているユウヤにも心地良いものだった。
「おいしい? 良かった。連れて来た甲斐があったね」と言おうかと思ったが、口を開けた程度で思い止まった。声を掛けて、先刻のような冷ややかな視線を向けられてしまったら、おいしいと言ったタエに水を差しそうだ。
ユウヤも自分のハンバーグに手を付けて口に運んだ。が、僅かに眉が寄った。
「あれ? やっぱりユウちゃんには合わなかった?」
ユウヤの表情を見て、トレイにウーロン茶を二つ乗せてやってきた千佳子が聞いてきた。
タエもその声に顔を向けて、ユウヤのハンバーグにも視線を向けた。
「美味しくなかった?」
千佳子がウーロン茶を二人の前に置きながら聞いた。
「いや…美味しいと思うが……」
「思うが…何? 新メニューなんだよね。ユウちゃんに試食してもらって、感想聞かせてもらえるんなら、誰に批評されるより確かだからさ。ちゃんと欠点を言ってよね」
「買いかぶり過ぎだろ?」
「ママの言葉を信じてるから言うの! ユウちゃんの味覚は誤魔化せないってね」
溜め息を吐くのも今日何度目だったかも忘れてしまった。無言でユウヤは、もう一口、口に運んで味わった。
興味深そうに見詰めるのは、千佳子だけではなかった。タエもユウヤの表情にジッと見入っている。
「……。食べてみる?」
タエの前に皿を押し出して、試食を勧めてみた。実際、ユウヤの食べかけなどをタエが口にすることなどありえないだろうと予想してのことだったが、タエは「失礼」と小さく言って小さく切り取り口に運んだ。
「んん! おいしい!!」
無邪気な感想に、ユウヤは軽く笑いが込み上げた。
「そう? 美味しい? …で? ユウちゃんの感想は?」
タエの反応に気を良くした千佳子は、勝ち誇ったような表情で見下ろしてくる。
「まぁ、待てよ。美味しいのは、間違いないよ。問題はそこじゃない。さて、もう一度、彼女に聞こう。どうよ?」
そう言われて、千佳子もタエをもう一度見た。
ちょっと小首を傾げるような感じだが、不思議な表情でもある。
「んん? おいしいよ…。でも…なんか…後味かな?」
「その通り。後味に、入れたものの臭みが残る。強烈なカレーや塩コショウなんかの時とは違って、こいつの青臭いのが消し切れないんだ」
「やっぱ、そうかぁ。でも、カレーソースだと、完全に消えちゃうでしょ? モロに全面に出してもいいんだけど、水っぽさも気になるしさぁ。どうしたらいい?」
「どうして俺に聞く?」
二口、三口と口に運びながら、ユウヤは千佳子を見ることも無く、鉄皿の上を片付けていく。
「彼女の煮込みハンバーグ。レシピの基本はユウちゃんのを使ってるのよ。少しアクセントはつけたけど、基本は変えてない。新しい試みも、ユウちゃんの指摘で改善されると思ってね」
そう言われてみれば、以前に千佳子に手作りしてあげたことが記憶にある。
気に入ってくれたようだったが、それ以来、何故か距離を置くようになったことも事実だったような。
「これって、キュウリ?」
タエが口に残る香りを推測して言葉にしたんだろう。ちょっと可笑しくなったが、ユウヤは出来るだけ優しく微笑んで首を振った。
確かに似ているかもしれないが、食感が違うし、臭みもそれほど強い主張はしていない。
「違う。ズッキーニだな。細かくみじん切りして、尚且つ水分も切ってあるけど、熱で出てくる水分に臭みがあるんだ」
「ズッキーニ? こんな料理にも使えるんだ? 新発見! 美味しいもの」
タエは、既に大半がユウヤの腹の中に消えてしまった残りを、手を伸ばして奪い取った。
ユウヤも、そんなタエを子供っぽいと思いながらも、笑って見詰めた。
何だか娘を連れて食事をしにきた親の気持ちが、少し理解できたような気分だった。
「で? どうしたらいいの?」
美味しそうに頬張るタエに見惚れていたのを、千佳子が左耳を引っ張って戻した。
少しの間、千佳子の存在を忘れていたのかもしれない。
「いたた。わかった。アドバイスくらいならしてやる。少し、酸味が欲しい。後に残る臭みを僅かな酸味で消せると思う。そうだなぁ。トマトソースを二割くらいでソースに混ぜる。後は、ズッキーニを千切りにしてワインビネガーで和えてサラダ感覚にして付け合わせで添えれば、中身が…キュウリと間違われずに済むんじゃないか?」
最後の辺りが含み笑いになった。
タエが空かさず眼を剥いた。
「ちょっと! 間違えたのは確かですけど、そんな嫌味ったらしく言わなくてもいいじゃないですか!!」
「ごめん、ごめん。冗談だよ」
膨れたタエは、子供のように可愛かった。
そんな二人を、千佳子が薄い笑いで見詰めているのが眼の端に映ったが、ユウヤの中では、既に気にする事柄でも無く、ただ、タエの膨れっ面から笑顔に変化する様を見逃したくはなかった。
つづく