タエ 第一夜 2
あの日以来、タエの出勤日には、必ずユウヤが来店するといって良かった。
何度か遅れて現われたことがあったが、殆どはタエが出勤すると程無くしてユウヤが来るような具合だった。
実際、ユウヤの存在は、夜の仕事初心者のタエには大きな存在だった。
とにかく、接客をそつ無くこなすことを、言葉にはしないが、それとなく態度や動作で教えてくれるのだ。
客の煙草に火を付けることや、灰皿の交換のタイミング、水割りの濃さの度合いやグラスの水滴を拭き取ること、チャームの置き方やカラオケの合いの手の入れ方まで、細に入り自然と教えてくれた。そのどれもが、押し付けがましいものでなく、チラリと視線で教えてくれたり、グラスや灰皿を動かすなど動作の一端が教えてくれるのだった。
時には、カウンターの中に入ってきて
「洗うの手伝うかな?」
と言って、グラスを洗い、その水滴を拭き取ることも手本のように見せてくれた。
お蔭で一ヶ月とせずに、タエのカウンターでの仕事振りは見違えるように様になったと言っていいだろう。
そんな気遣いに、タエがマスターに怒られたり注意されることも少なくなった。自然と身体が動くようになったのも大きな進歩だろう。
服装も変えられる努力はしてたが、何せ持っている服が夜の商売に合わせたものなどあるはずもない。アレンジと独創的な組み合わせで間に合わせていたが、それにもユウヤの協力が大きく貢献した。
一度見た服装を忘れないのか、ユウヤはアレンジを適切にアドバイスしてくれた。ジーンズには、上だけでもスーツの上着を羽織ればそれらしく見えるとか、ラフなフレアスカートを身につけてもブラウスにベストを合わせれば変じゃ無いとか、持っている洋服で出来るアレンジを教えてくれたのだ。
今では、教えてもらわなくても、それなりに夜に似合う服装が選べるようになった。
色々とお世話になりながら、何一つ返すことが出来ない自分が情けなくなったが、お礼というかしこまった形を取るのも変な気がして、タエはそのままの日々を過ごしていた。
季節が春を迎え、雪国の街にもチラホラと桜の便りが聞こえるような四月。
大学の中では、近くの街に出来た海の中のタワーが話題になっていた。数人は、既に行って来たらしく、詳しく自慢話したりパンフレットを配り歩いている者までいた。
タエも興味をそそられた。何と言っても自分の大学での専攻は海洋生物学である。興味を持たない方がおかしいというものだろう。
訪れてみたいと思う反面、大学を休むわけにもいかず、夜のバイトもある身では、若さにまかせて休日を費やすという行為は、レポートを溜め込んだ身には無謀な行為である。
中々、行動できないままで居た時に、その話がユウヤとの夜の会話に躍り出た。
「凄いんですってね? 海の中まで見れるって話しでしょ? 流氷とか下から見れるって」
自分が興奮しているのが分かったが、止められるようなものではなかった。大学での友人と話せば『行きたい』『行こう』の簡潔な会話になってしまう。そうなれば簡単に行けるのだが、毎日のようにレポートを迫られてるタエには、ちょっと無謀な行為に思えて、話しも避けていた結果のようだったかもしれない。
友人から貰ったパンフレットを眺めながら、いつか落ち着いたらと考えていただけに、話し出すと興奮が先に立つ。
「知ってるよ。開場式の時に行ってきた」
ユウヤの言葉にタエの身体がビクンと反応した。
素っ気無い抑揚のない言葉に、何だか腹が立った。これほどまでに行きたいと思ってる人間が居るのに、素っ気無く行ってきたなんて言うのが、イラッとした。
「いいなぁ。どうでした? 本当に海の中まで入ってるんですか? 中が水族館みたいになってるって本当でした? 展望台から流氷観測出来ました?」
腹立たしくも興味の方が勝ってしまうのか、言葉に出るのは質問ばかりだった。ユウヤといえば、戸惑ったように眼を丸くしてしまっている。
ちょっと、まずかったかな? と一瞬考えたが、何だかユウヤだから良いや、と思える自分もいて、むず痒い感覚に襲われた。
「カニの爪のモニュメントがあるんですよね? あたし、今、カニの勉強してるんですよ。知ってました? カニって昆虫の仲間なんですよ。いいなぁ、行きたい! 展望台ってレストランもあるんですよね? アザラシとか泳いでなかったですか?」
矢継ぎ早に出てくる言葉が、まるで自分のものでは無いかのような感じだった。酔ってるのかな? とも思ったが、自分で感じるほど酔ってもいないようだ。
「そんなに行きたいなら、連れてってやろうか?」
「ほんとうですか!? 約束ですよ!」
ユウヤからの言葉を待っていたかのように、自然と返す言葉が口から出てしまった。
「い、いや、もちろん、いいよ。ああぁ、じゃ、今日は金曜だから、明後日の日曜で、どう?」
「やった〜! 日曜ですね。ゆっくり見たいし、車でもちょっと遠いですから、午前中から行きましょうよ。8時じゃ早いか。9時にしましょ。えっと、そうだなぁ。市民会館の前で待ち合わせってことでいいですか?」
ちょっと驚いたようなユウヤを不思議に思いながらも、タエの口は、本人のスケジュールなど無視して予定を勝手に組み上げていく。
予定では、月曜に提出しなければならないレポートが二本ある。一本は、ようやく半分といったところだし、もう一本については白いままで手も付いていない。日曜が潰れるということは、明日一日で、それらを仕上げなくてはならないわけだ。徹夜の覚悟をしても間に合うだろうか。
何故にこんなことになってしまうのか、タエ自身も不思議だったが、断るようなことを考えなかった。それどころか、来る客に話をしては、自分の週末の予定を再確認するほどだった。
変に浮かれてる自分が、何だか可笑しかった。
日曜日の朝。
タエは机に突っ伏して寝ていた。
窓側に置いた机は、朝日を容赦なく当てているが、春の陽光は柔らかくタエを包んで、眩しく起こそうなどという気は無さそうだ。
携帯の目覚ましが鳴ったのは、時刻8時を指していた。ユウヤとの約束、一時間前だ。
けれど、タエの手は、携帯のボタンを一度押して音を止めると、そのまま元に戻って軽い寝息も元に戻ってしまった。
もう一度、今度は倍の音量で流れ出すアラーム音と置かれた机を小刻みに叩き上げて唸る携帯にタエは深い眠りから引き上げられた。
寝惚けた眼で携帯を引き寄せ、ボタンを押して静けさが戻ったのを確認して、机に額を付けた時、自分が携帯を握り締めていることに気が付いた。
「やっべ!」
叫びと共に気だるい身体を引き起こしたものの、携帯の時計は既に8時半を表示している。
これからシャワーを浴びて、化粧をして髪をブローして……。
とても約束の時間に間に合うようなシュミレーションは出来上がらない。
いっそ断りの電話でも入れようかとも考えたが、これこそ本当のドタキャンに相当するし、ユウヤはそろそろ家を出たかも知れない時間だろう。ここで断ってしまったら、次に会った時にどんな顔をしたらいいのか分からない。
本来であるならば、呑んだ上での約束事など無いに等しい。タエにだって覚えがないわけではない。呑んで調子が良くなった挙句にデートの約束をチャッカリさせられていたなんて茶飯事のことだった。勿論、守られることなど無かったが。
それが、今回に限っては、破ってはいけないような切迫観念が拭えない。
確かにユウヤの優しさや気遣いなんかには感謝しているし、気さくに話し易い人柄も魅力的といえばそうだろう。
けれど、ユウヤから与えられる印象には、どことなく距離というか隔たりみたいなものを感じることが多い。友人とか男女の距離では無く、親密になれないクラスメートのような、知っているけれど知らないことが多い間柄なのだった。
近寄ろうとすれば引かれ、諦めようとすると近づいて来るような、不思議な感覚だった。
お互いの距離を一定に保つように、着かず離れずと言った方が表現としては適当かもしれない。
机の前で大きく溜め息を吐いて、意を決して立ち上がったタエだったが、寝不足の身体は、思った以上に重苦しく、背中から圧し掛かってくるようだった。
「ふん!」
それでも気合で胸を張り、洋服の入ったクロゼットに向かいながら、ボサボサになったセミロングの髪を掻き揚げた。
空色のブラウスとジーンズを素早く着込んで、顔を洗って歯を磨く。
既に十分以上を費やしてしまっている。化粧ポーチと財布をバッグに押し込んで、部屋を出る直前になって取って返し、サマーカーディガンを片手にして飛び出した。
約束の場所までは走って十分は掛かる。走ればの話しだが。
春の陽気にしては、汗ばむような空気が身体に纏わりつく感じがする。
揺れる髪が、うっすら滲んだ額の汗に張り付いて違和感を誘う。やはり結んだ方が良かったかな? と後悔してみたが、今更なことだ。
というより、何故か走っている自分に気が付いたのは、何度目かの額の髪を指先で払い除けた時だった。
『あたしって、何時から走ってるの?』
ユウヤとの約束の時間に間に合わないことは、部屋を出た瞬間から明白だった。今更、急いだところで、遅刻の時間が数分だけ縮まるだけのことだ。確かに一時間遅れるより、三十分遅れる方が罪は軽いのだろうが、タエが今、急いだところで五分が三分になる程度だろう。
それでも、急ぐ足を止められないのは、意識していない心の何処かが背中を必死に押している結果に他ならない。普段のタエの心境ならば、急いで汗を流し、折角の化粧を台無しにしてしまうより、多少の遅れでも、綺麗な自分を維持するはずなのだ。
市民会館の裏手にある角を曲がると、正面玄関に続く通路が見える。その先がユウヤと待ち合わせた場所だ。
普段であれば、催し物でもない限り会館前は閑散としたものだ。実際、今日も開催しているものなど無いのであろう。脇にある駐車場も静か極まりない。
走りながら腕時計を持ち上げた。なんだか焦点が合わずチカチカする眼で、必死に針を追いかけた。
どうやら五分と遅れていないようだ。
しかし、化粧もしてないし、きっと髪もボサボサになっているはず。このまま、ユウヤに会うと考えると恥ずかしさに顔が熱くなるが、そう思いながらも足は、タエの不安と裏腹に急ぐことを止めないのだった。
正面入り口ゲートから少し外れた場所に、ダークグレイ色のRV車が、ハザードランプを点灯させて停車しているのが視界に入った。
間違いなくユウヤの車であると、車種も聞いていないタエが確信できたのも不思議なことだったが、それを認めた自分の足がほとんど全力疾走に近い走りになっている方が信じられないことだった。
弾む息と血流に眩暈まで感じながら、一気に走り抜いて車内を確かめた。
リクライニングさせたシートに寝そべって軽く眼を閉じている男性が覗けた。それがユウヤで、表情も安らかな感じなのを見られて、タエの胸が高鳴った。ユウヤの寝顔も、もしかしたらこんな感じなのかも知れないと思うと、締め付けられるような痛みが伝ってくるが、それが走った結果の後遺症なのか、違う意味を持ったものなのかは判断できなかった。
軽く窓を叩く指が震えていたのも、走った身体がもたらせたものだと思いたかった。
車内のユウヤが身を起こして、眼を丸くしているのを可笑しく思いながら、助手席のドアを開けて入り込んだ。ちょっと図々しいかな? とも思ったが、とにかく身体が自然と動いてしまう。
今までの経験で、男性の扱いを知らないわけではない。見る眼も養われてると自覚していたし、どういう素振りが男性に喜ばれるかも知ってる。
なのにユウヤには、それを考えるより先に身体が動いてしまうのだった。ユウヤが身体を起こしてドアに手を伸ばしているのを分かっていても、それより先に手が動いたと言っていい。
「ごめんなさい。遅れちゃいました」
素直に出た言葉だったのだが、何故か顔が赤く火照ってくるのが分かった。
走ったせいで身体が火照ってしまっているのだと分かっているくせに、そのこと自体が恥ずかしくてまともにユウヤの顔が見られない。
誤魔化すように片手で顔を扇いでみたものの、取って付けたような仕草に思えて余計に顔が紅潮してくるのが感じられた。
しばらく、そうして時間を稼いでいたが、ユウヤからの反応が何も無い。
もしかしたら遅刻したことがユウヤの機嫌を損ねたのかもしれないと、恐る恐るながら横目で確かめてみたが、ユウヤの表情はタエが想像していたものとは掛け離れていた。
どう見ても、驚きの表情にしか見えない。
「…どうしました?」
そんな表情をされる覚えが無いタエの正直な気持ちだった。
はっと我に返ったようなユウヤが
「え? あ、あ〜、なんだ、その……びっくりして…」
という答えにも、タエはキョトンとするしかなかった。ユウヤの言っている意味がわからない。
「え? びっくりって?」
「あ〜、いや…本当に…来るなんて思ってなかったから…」
あぁ、そうゆうことか…。
なんとなくタエにも合点がいった。ユウヤの中では、きっと軽い気持ちの約束で、タエが来なくてもそれほど気にしなかったことなのだろう。だが、約束した以上は、とりあえず出向いてみようか? くらいの取り交わしだったに違いない。
「え? どうしてですか? 約束したじゃないですか」
わざとらしいくらいに笑って見せた。
寝不足の自分が必死に走ってきても、約束した相手が本気じゃなく疑っていたことに、なんだかイラっとしてしまっていた。
車が走り出してからも、しばらくはタエは口を開かなかった。
苛立つ気持ちが、口を開くと態度に出てしまいそうで怖かったし、運転しているユウヤも話しかけて来る事が無かったせいもある。
流れる街並みの風景を眺めながら、ちょっと眠くなりそうな気分でいた。
違和感みたいなものが感じられたのは、何度目かの信号待ちの時だった。違和感という言葉は適当ではない。正確には違和感を感じていないのが本当なのだ。
普通、走っている車が、停車のためにブレーキを踏めば、前に慣性の法則が働いて身体が動く。確かに、ユウヤの運転でもそれは感じられる。けれど、完全に止まる時にあるはずのグッとくる停止感が無い。
タエも車の運転はする。だからこそ分かることだが、車が止まる寸前に制動を加減して、ほとんどショックを感じさせていないのだ。
タクシーやバスの運転手でさえ、そんな気遣いなどしてくれたことなど記憶に無い。
元来のユウヤの運転がそうだったにしろ、これほど同乗者に気を使った運転手などいるだろうか?
タエの口元に、自然と笑みがこぼれた。苛立つ気持ちが、自然と消えた瞬間でもあった。
ちらりと盗み見たユウヤの顔付きは、運転に集中しているように真剣で、ミラーや歩行者、対向車などに視線を向けるが、タエの方を見ることは無かった。
夜にしか会ったことの無いユウヤは、社交慣れしたプレイボーイの感があったが、今のユウヤを見ている限りでは、タエを気遣うように運転しているように感じられるのだ。
「ねぇ、ユウちゃん。ユウちゃんって、今まで何人くらいの人と付き合ったんですか?」
特別、意識して言った言葉では無かった。自然と、かつ滑らかに出た疑問だったろう。しかし、そのことを本心から知りたかったかと問われれば、即座に『否』と答えていただろう。
「ん? 何? ごめん、聞いてなかった」
信号待ちから開放され、車が発進しかけた直後だったこともあり、ユウヤは運転に集中していたのだろう。答えの代わりに、疑問符が返ってきた。
「あ? ううん。何でもない。…そうだ、レポートが進まなくって、今朝まで頑張ってたんだけど、結局、居眠りして完成してないの。どうしましょうって感じ」
質問を繰り返す気にはなれず、すかさず話題をどうでもいい感じに摩り替えた。不自然じゃないかと、ちょっと心配になったが、ユウヤの反応は、そんなタエの心配など吹き消すようなものだった。
「ええ!? 今朝までって、まさか徹夜なの? それじゃ、疲れてるんだろ? 大丈夫か?」
二度見、三度見なんじゃないかってくらいの驚きようだった。顔は真顔で、本当に心配してるかのように見える。
思わず噴き出してしまったのも仕方ないといえよう。取って付けたような話題のすり替えなのに、それに過剰に反応してくれるユウヤが、滑稽なほど嬉しく思えたのだった。
「レポートは、間に合うの? 勉強の邪魔になったんなら、言ってくれれば、今日でなくても良かったのに」
「大丈夫です! それくらいの余裕くらいありますよ。ユウちゃんに心配されたら、連れてきてもらってるあたしが変じゃないですか」
「あ…そう?」
お互いを見詰め合って、お互いに笑った。
自然な笑いだったし、心地好い空間だった。自然と肩の力が抜けたような、変に気取らない自分になれたような、居心地のよい瞬間だったようにタエには感じた。
「遊び過ぎて、結構、宿題溜めてんじゃないのか?」
「失礼ね! これでも単位、落としたこと無いんですからね。そりゃぁ、遊んでるけど。適度によ。て・き・ど」
「どうだかねぇ。どんなとこ、遊びにいってるの?」
「んん〜。温泉が多いかな? この辺て温泉、多いでしょ。お風呂入って、食事して、帰ってきてお酒呑んで騒ぐみたいなことが多いかも」
弾みだした会話は、途切れることを知らないように続き出した。
ユウヤは、タエの話しに大仰に笑って見せたり、微笑んで頷いたりと、確かな反応を返してくれる。そんなユウヤに、一生懸命に話す自分が、なんだか宙に浮いたように楽しくなっていることにも気付いてなかった。
流れるように会話しながら、気付けば目的の場所に到着していた。
海沿いにいつの間にか出てしまっていて、青い煌めきの中に巨大なカニの爪のモニュメントが、白い波に洗われて見えてきた。
駐車所に車を止め、ドアを開けて降り立つユウヤの後を追う様にタエも車を降りた。
途端に吹き付ける風に、髪の毛を巻き上げられ、乱雑になる髪を片手で押さえなければ視界さえ遮られそうだった。
「ううぅ〜、髪、邪魔!」
掻き揚げる髪が指に絡む。バッグの中にゴムが入っているのを思い出し、縛ってやろうかと思った瞬間に、風が弱まった。
不思議に思って顔を上げてみれば、ユウヤがタエの前に立って風除けになってくれていた。
「行こうか?」
首だけを巡らせて言うユウヤは、タエの歩調に合わせるかのようにゆっくりと歩いてくれた。
何組かのカップルや親子連れが、前後に見える。その間に挟まれるように歩きながら、タエは建物を見上げた。
「わぁ〜。こんなのなんだ」
想像していたよりも意外に小さいタワーは、四角いビルに円筒形の展望台を乗せたような形で、円筒形の部分は殆どがガラス張りだった。
頭上近くに昇った陽光に反射して煌めいている。眩しさに眼を細めたが、廻りの波間からもキラキラとした光りが飛んできて、何処を見ても眼が痛い。
ユウヤが振り向いてこちらを見ているようだったが、クラクラする視界にその表情までは確かめられなかった。
「中に入ろう。眼が痛いや」
ユウヤの提案に頷いて、背中を押すように走って入り口に飛び込んだ。
眩しさにしかめっ面になってるであろう自分の顔をマジマジと見られるなんて我慢ならなかった。きっと、変顔になってるに決まっている。
中は外の眩しさとは対照的に薄暗い感じで、タエの眼が瞬時に対応してくれなかった。
何度か眼を瞬いて、廻りの暗さに慣れた頃、ユウヤの背中を追いかけて近寄ると、何時の間に購入したものか、入場チケットを手渡された。
よく見渡せば、入ったすぐに女性二人がカウンターに鎮座してチケットを売っていた。眼を慣らすのに必死で、気付かなかったのだ。
「ごめんなさい」
急いでバッグの中から財布を取り出したが、ユウヤは軽く笑ったくらいで片手と首を小さく振って断られてしまった。
天然に見られたかな? と思いながらも、ユウヤの好意に甘えた自分が、なんとなく女を意識してるかな? とも思えて、恥ずかしくなった。
受付の女性に案内されるままに奥へと進むと、地下に降りるエレベーターが見えてきた。大きさは二十人ほどが一度に乗れるくらいだろうか。けれど、集まってきたカップルや家族連れ、ツアーの観光客も居るのだろう。エレベーター前には、倍の人数はひしめき合っているだろう。
先を急ぎたいせっかち者が、我先にと押し合いしだすと、狭いホールは押し競饅頭のようになってしまった。
よろめくタエを支えてくれたのは、当然のごとくユウヤだった。タエの腕を引き、自分の近くに寄せると、そのまま身体を入れ替えるようにエレベーターのドアに押し当てた。
エレベーターのドアが開いて人を受け入れると、ユウヤはそのままタエを押すように壁の角に追いやって、自分の前に壁となってタエを人込みから守ってしまった。
そんなことに気付かないほどタエは疎いことはない。ましてや、エレベーターから降りる際にもドアを押さえてタエを送り出すほどの気遣いように、恐縮するより腹が立ってきた。恐らく人にぶつからないようにとの心遣いだろうが、降りる間際に背中に回されたユウヤの手も、知らずに睨み付けるようになってしまった。
大事にされることは嬉しいと思う。今までに付き合ってきた男性にも、それなりに大事にされてきたこともある。でも、そんな奴に限って隙を見せると襲い掛かってくるような、下心ありありの人ばかりだった。
ユウヤもそんな一人なのかと思うと、少しがっかりしたのと同時に、何と言ってこれから先の窮地を脱しようかと考えてしまっていた。
通路を進む過程で、興味のあるものも幾つかあったのだが、何だか半分以上、気分が削がれたようで、何を見てもあまり好奇心を誘うようなものにならなかった。
少し前を歩くユウヤは、何を考えているのか、エレベーターを降りてから、あまり話すようなことも無く、積極的に触れてくるような事も無く、然したる興味も無さそうに歩いていくだけだった。
ふと、外壁だろう壁側にはめ込み式の窓が眼に入った。水中の窓だけに二重のガラスに仕切られた窓外は、水色とは言い難い薄緑の光りに彩られている。植物プランクトンが多い証拠だが、それを口にしても誰に聞いてもらうつもりなのか。
その視界を上から下へと、何かが横切った。かなり大きかったのは見て取れたし、生き物であることも確かだと思う。潜るように動いていたのだから。
「ね、ねぇ! 今、何か、窓のところを通ったよ!?」
つい声が出た。かなりの大きな声だったのが、自分でも意外なことで赤面しそうだった。
「え? なに?」
ユウヤが立ち止まる気配と共に、また大きな影が窓を通過した。今度は下から上にだ。
「わかんない! でも、確かに何か降りてったんだって!?」
確かめなくてはと思う心が身体を自然に動かした。窓まで小走りで近づくと、頭をぶつける勢いで窓外を眺めた。
上下左右を一回り見渡したものの、透明度の薄い海水に掻き消されてしまったように、何者の影も見当たらない。
「何か、いた?」
いつの間にかユウヤが、すぐ隣でにこやかに聞いてきた。
不意に近くでユウヤを感じて、内心、タエの心はザワついた。不快なものではなかったように思えるが、変に息苦しいような気分に、タエはユウヤを見ることもしなかった。
「うう〜ん。わっかんない〜。何だったんだろ? 大きかったんだけどなぁ」
「誰か石でも投げたかな?」
「そんなんじゃない。きっと、生き物だよ。見間違いじゃないと思うんだけどなぁ」
自分の中で複雑な何かが動いているような違和感に攻められながらも、視線は窓外だけを見詰めることに勤めた。ユウヤを見てしまったら、そこから何かしら今迄と違う自分をみつけそうだったし、ユウヤから視線を外せるかどうかも自信が無かった。
「ああ! ペンギン!?」
タエの心を察してなのか、遥か天空から舞い降りてくるように、一羽の鳥めいたものが羽ばたきながら降りてきた。
「え? ペンギン!? そんなわけないだろ。北半球だぞ。第一、日本に野生のペンギンなんかいるわけ…」
ユウヤが、即座に否定してきた。しかし、タエの見る窓外には、羽ばたく鳥が下降して行く。
「だって! ほら!」
無意識だったとはいえ、ユウヤの腕を取ってタエは隣に導いた。自分の顔の隣に、ユウヤの顔を認めて、タエの心臓は高鳴った。でも、そんな素振りを見せるなんて出来ない。
すぐさま窓外に眼を向けた。
「ど、どこ? どこ?」
タエの強引さにユウヤも気後れしたのか、ちょっと返事が戸惑い気味に聞こえた。
「ほら、あそこ。潜ってく。ほらほら、あれあれ! 降りてくる!!」
一体、何の切っ掛けなのか、通り過ぎる鳥のようなものは、次から次へと降りてきては消え去り、海の底から浮かび上がってくる。
「…ペンギンにしては、泳ぐスピード、遅くね?」
「んん? そうだよねぇ。じゃ、なんだろ? あれ」
ユウヤの指摘にタエも賛同した。ペンギンならば、流線型の身体を起用にくねらせ、羽ばたき一つで驚くほどのスピードを出すはずだ。
「ここに書いてあったよ」
ユウヤが傍らにあるプレートを指していた。そこには、謎の鳥の正体が書かれていた。
「カモ!? 鴨なの? なんで、鴨が海に潜るの?」
パネルを確かめ、窓外を眺め、もう一度、パネルを見て、窓に移るを繰り返し、疑問符までも連発してタエは子供のようにはしゃぐ。
「海底の藻や海草を食べに潜るんだって。解説が書いてある」
ユウヤが、パネルの下に書かれた解説文を読んで口にした。確かにこの暗がりでは、豆粒のような文字に気付くことも困難だった。
「へぇ、面白いねぇ。鴨かぁ。ペンギンって言われても信じたかもねぇ」
なんだか気分を半分削がれたが、それでも珍しいものが見れたことにタエは満足だった。
それに、ユウヤが優しく微笑んで、すぐ傍で見詰めていてくれることにも安心感があった。
変な気分だと自覚はしているものの、あまり追求してしまうのも変な考えだと、タエは思考を止めて、今を楽しむことにした。
それからは、クリオネの水槽やカニが窓に張り付いているのを笑って見ながら、上階へと続く階段を上り、一階から展望フロアに続くエレベーターに乗って煌びやかな風景の広がるガラス張りの展望を、ユウヤと肩を並べて眺めた。
下を覗き見れば、先程の鴨の正体が知れた。
海面を優雅に滑りつつ、時折、海中に潜っては姿を消してしまう。
「白黒の鴨なんだ。上から見ると何だか間抜けな感じね。あっ、ほら、潜った。あれを見てペンギンだと思ったんだ。おっかしい」
自分の勘違いが、実は大きな間違いだったことが恥ずかしく思える。けれど、ユウヤは、優しい眼差しで微笑んでくれた。
まるで子供を見るような視線には、いささかの不満はあった。子供扱いされているような感覚がする。それが少しだけ気に障るけれど、妙な満足感もあったりして、タエは唇を尖らせて眉を寄せた。
今日という一日で、ユウヤに対しての気持ちがコロコロと入れ替わる。いや、実際には、まだ半日なのだが。
もうすぐ時計は昼を指す。
つづく