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ユウヤ 第一夜 2

 その日以来、ユウヤはタエに会いに『ムーン』を訪れるようになったと言って良い。

 タエは週に二日。火曜と金曜を出勤日にしていた。その日だけは、どんな誘いがあっても予定を入れなかったし、残業があっても翌日に回したり、無給で休日出勤しても火曜と金曜は『ムーン』に通った。

 ユウヤ自身、タエがそれほど気に入ってしまったという自覚は、まったく無い。それどころか、素人丸出しな接客にはイライラすることもしばしば有る位だ。けれど、それが何故か許せてしまうことは、どことなくタエを放っておけない気持ちになるからだが、それが起因する理由がわからなかった。

 妹のような存在。一言で説明するとするなら、そうかもしれない。ただ、ユウヤは、兄弟はいるが末っ子で、妹など存在しないのだが。

 会いに行く度に不思議な感情が積み重ねられていくようだった。

 開店とほぼ同時に入店し、タエやマスターと日常的な会話を楽しむ。タエが会話に入るようになってからは、込み入った難しい話しはしなくなっていた。心遣いという意識は無かったが、自然とタエが参加できる話題を探していたのかも知れない。

 客の少ない『ムーン』では、開店からしばらくは他の客が来ることはほとんど無い。タエにしてみれば中年のマスターと、客が来るまで話すよりは、歳上とは言え、近いユウヤとの方が話し易かったはずである。

 助かったのは、それだけではない。他店の従業員が訪れる『ムーン』では、下手をすると盛り上がって朝まで営業することも少なくない。学校を翌日に控えるタエには、勿論、非常事態と言える。

 それをユウヤは、逐一、気にしていた。客と盛り上がっていようが、カラオケが続いていようが、定時の2時になると、マスターに耳打ちしてタエを帰らせるのだった。

 そんな日々が一月ほど続いた。

 タエの接客も板に着いてきて、ボトル選びや水割りの作りにも戸惑い無くこなすようになっていた。ただ、客がタバコをくわえた時に、スムーズに火を付けることだけは、未だぎこちなさが残っている。

 服装も見違えるように変わった。

 2、3回はジーンズを穿いていたこともあったが、今では黒い衿なしのワンピースに白のロングカーディガンを合わせるなど、洒落た格好をするようにもなっていた。


 4月も半分を過ぎ、田舎の街にも遅い春の声が聞こえ出した頃、近くの街に海に突き出たタワーが出来上がり話題になっているという話しになった。

「凄いんですってね? 海の中まで見れるって話しでしょ? 流氷とか下から見れるって」

 どこから手に入れたものか、タエの手にはタワーのパンフレットが握られ、細かな注釈まで説明してくれる。

「知ってるよ。開場式の時に行ってきた」

 相変わらずバーボンをロックで飲みながら、ユウヤはタエに笑って見せた。

「うっそ! ズルイです! あたしも行きたかったのに〜」

 ぷくっと頬を膨らませるタエは、どこか大袈裟で計算してやっているようにもみえる。

「行きたかったって言われてもなぁ。俺も急に決めたから」

 計算だとしても可愛いと思えてしまうのは男の性だろう。つい、ニヤけた口元になってしまう自分が可笑しかった。

「いいなぁ。どうでした? 本当に海の中まで入ってるんですか? 中が水族館みたいになってるって本当でした? 展望台から流氷観測出来ました?」

 巻くし立てるように質問するタエにユウヤは少し面食らった。

 ユウヤの印象では、さほど騒ぐほどのものでは無かった。海の中と言っても真冬の海では、表面が厚い氷に閉ざされ、うすら青い海水と灰色の海面を仰ぎ見るようなものだったからだ。

「そんなに行きたいの?」

 まるで子供がディズニーランドにでも行きたがるようにはしゃぐタエに、ユウヤはちょっとした興味を持った。物珍しい観光名所が出来れば、一度は訪れてみたいと思うのも当然だが、地方の単なる展望台タワーなど、普通なら機会があれば行って見ようという考えのユウヤには、あまり好奇心をそそるものではなかったからだ。実際、友人達とドライブがてら通り道だったから寄ったようなもので、改めてそこに行くだけに時間を割くことなど考えられなかった。期間限定のイベントではない。建物などだから、逃げたりもしないし、そう簡単に無くなりもしない。

「行きたいですよ。カニの爪のモニュメントがあるんですよね? あたし、今、カニの勉強してるんですよ。知ってました? カニって昆虫の仲間なんですよ。いいなぁ、行きたい! 展望台ってレストランもあるんですよね? アザラシとか泳いでなかったですか?」

 矢継ぎ早に変わる話題に戸惑いながらも、ユウヤは話を笑って聞いていた。恐らくタエ自身も無我夢中で話してるのだろう。ユウヤが答える暇さえなく言葉が紡がれてくる。

「そんなに行きたいなら、連れてってやろうか?」

「ほんとうですか!? 約束ですよ!」

 ほんの軽い気持ちで、断られるだろうと予想していた、話の流れで出た社交辞令みたいな誘いだったのに、タエの答えは、あまりに力強くてユウヤは驚いた。その身がカウンターから乗り出すほどだ。

「い、いや、もちろん、いいよ。ああぁ、じゃ、今日は金曜だから、明後日の日曜で、どう?」

 答えるユウヤも少しシドロモドロになっていたくらいだ。けれど、タエは意に介さないのか、跳ねるほど喜んで見せた。

「やった〜! 日曜ですね。ゆっくり見たいし、車でもちょっと遠いですから、午前中から行きましょうよ。8時じゃ早いか。9時にしましょ。えっと、そうだなぁ。市民会館の前で待ち合わせってことでいいですか?」

 一人舞い上がってあるかのようにポンポンと予定が組まれていく。苦笑いしながらも、ユウヤも嬉しくないわけではなかった。どことなく照れ臭いようなむず痒さがある。

「なんだかデートの待ち合わせみたいだな」

 ふざけて言ってみたが、タエに届いていないのか、パンフレットを睨みながらあれこれと考えているようだった。

 その日、タエは来る客、全てに日曜の予定を話して廻っていた。誰と行くとまでは口にしなかったが、子供のようにお出掛けの予定を振れ回るタエを、ユウヤは定時まで見守って、いつものように帰した後、ウキウキしてる自分を抑えるようにバーボンのボトルを空けてしまった。


 日曜の朝。

 市民会館の前に車を止めて、ユウヤは大きな欠伸をひとつして両腕を伸ばした。

 夕べは、何故か寝付きが悪かったせいだろう。まるで遠足を明日に控えた小学生のように、ワクワクする胸を押さえることが出来なかった。そればかりか、時間を経る毎に眼が冴えてきて、色々と考えてしまったあげく、やっとウトウトした頃には、カーテンの隙間から、ほの青い朝空が覗いていたほどだった。

「子供じゃあるまいし。初デートの若造かよ」

 シートにグッともたれて、自分の心境をあざ笑った。

 時間は、まだ約束の時間より30分は早い。

 ユウヤとて、今まで付き合ってきた女性がいなかったわけじゃない。学生の頃には、6年近く付き合っていた娘もいたし、社会人になってからも2人の女性と数年付き合っていた。どれも縁が無かったのか、結婚という話にまではならなかったが、本気で好きになり、痛い別れも経験してきていた。

 飲み屋の女の子と遊んだ経験もある。大概は社交辞令みたいなものばかりで「今度」と「お化け」には会ったことが無いという言葉通り、約束しても当日に現れないなんてことも珍しくない。現れたからといっても安心なんて出来ない。高い買い物をさせられたり、良いだけ振り回された後、同伴出勤させられるなんてことも普通の話だった。

 タエは、飲み屋の女の子というわけではないが、若い娘特有の無邪気で無神経なところがないとは言えない。ちょっとした悪戯心で、年上の男をからかったっとしても不思議ではないような気がしていた。

 それでも、約束の時間よりこんなに早く来てしまう。ウブな中学生みたいだと笑われても仕方ない。

 時間まで、どこか一回りして来ようかとも思ったが、もしかしたらタエが時間より早く来るかも知れないと考えて思い止まった。この考えもウブなのだが、当のユウヤは真面目に考えたのだから仕方ない。

 少しシートを倒して、ゆっくりと待つことにした。外に出て待とうかとも思ったけれど、さすがにそこまでウブな真似をしては、タエが現れなかった時に、自分にする言い訳が無さそうで嫌だった。

 お気に入りの音楽を聴いて待つなんて、どのくらい振りだろうと思い返してみたが、はっきりとした日時が思い出せるような記憶が無かった。寒い時期では無かったはずだから、冬では無かったくらいの記憶しかない。

 男って、その場面や行動は思い出せても、何故か時間や日時を覚えないよな、などと自笑した。

 カーステレオが6曲目に差し掛かったところで、手元の携帯電話のタイマーが、約束の時間を告げるアラームを鳴らした。

 頭だけを起こして車外を一円してみたが、待ち合わせをしているような人影は見えなかった。

「やっぱり、からかわれたか」

 自分に言うように独り言を呟いて、もう一度、頭をシートに押し付けた。ちょうどお気に入りの曲が流れ始めた時で、この曲が終わったら車を出そうと思って眼を閉じた。

 不意に助手席の窓が鳴ったのは、その曲が終わりを迎えるような頃だった。

 駐車禁止の取り締まりでも来たのかと、身体を起こしてみた。運転手が乗っている以上、駐車ではなく停車だと文句のひとつでも言うつもりだった。けれど、そこに立って車内を覗き込んでいたのは、制服の警官などではなく、空色のカラーシャツを着て髪を掻き揚げながら息を弾ませている若い女性だった。

 急いで身体を起こし、内側からドアを開けて迎え入れる。

「ごめんなさい。遅れちゃいました」

 タエは、いそいそと乗り込んで来たが、ユウヤの顔を見る余裕も無いのか、しばらくは自分の胸を押さえながら、荒い呼吸を整えるのに必死のようだった。額にも、うっすらと汗が光っている。片手には、着る暇さえ惜しかったのか、それとも途中で脱いだのか、アウターらしき白い布が巻き付いてる。

 ユウヤは、ちょっとびっくりした表情のまま、フウフウと息を吐くタエを見詰めたままだった。

 信じられないという気持ちが大きい。昼間にタエを見るなんてことが初めてなのもそうなのだが、初めて出会った時のように、ジーンズ姿なのがとても刺激的に映る。

 この頃は、夜の姿に慣れてしまっていたせいか、こんな格好がタエにとっては歳相応なのだと、改めて気付いたのかもしれない。化粧の度合いも違うようだ。今日は、汗が滲んで光るほどに薄い。いや、もしかしたら、何も化粧をしていないのかもしれなかった。

 2分ほど大きく胸を上下させながら、やっとユウヤを振り向いた表情に、満面の笑みを認めてユウヤの心は、変に疼いた。

「すいません。ちょっと、出掛けにバタバタしちゃって。久しぶりに走ったら、息切れちゃって」

 左手でパタパタと顔を仰ぐ仕草も、タエくらいの年頃なら当たり前のことなのだが、ユウヤの眼には、妙に可愛く映ってしまう。

 馬鹿のように薄く口を開けて、眩しいくらいのタエを見詰めるだけだ。

「…どうしました?」

 さすがにタエも不信に思ったのだろう。ボーっと見詰めるユウヤに眉をひそめた。

「え? あ、あ〜、なんだ、その……びっくりして…」

 しどろもどろになってしまった自分が、何だか可笑しくて、ユウヤは素直に答えた。実際、言葉通りなのだ。半分以上は期待などしていなかった。たとえ来なくても、これほどショックを受けなかったろうし、もう数分、タエが来るのが遅ければ帰ってしまっていただろう。

「え? びっくりって?」

 当然の疑問が返ってきた。

「あ〜、いや…本当に…来るなんて思ってなかったから…」

 少し落ち着くように、溜め息を大きく吐いた。それでも、胸の真ん中辺で高鳴る心臓は治まらない。

「え? どうしてですか? 約束したじゃないですか」

 そう言って、屈託無く笑い掛けるタエに、ユウヤの心はざわついた。

 自分の中に膨らみつつある異変に、戸惑いながらもユウヤは否定を決め込んだ。馬鹿なことを考えるものじゃない。この娘は、妹みたいなもので、それ以上の感情などあるはずがない。この娘にしたって、凄く軽い気持ちで、自分を信用して来てくれたに違いないんだから。

 軽く両眉を吊り上げて、軽く笑って見せた。タエも答えるように笑い返す。自然な空気じゃないが、嫌な空気でもない。むず痒くて、ちょっと息苦しい。それでも、抜け出したいような感じじゃない。

「…行こうか。遅くなってもなんだから」

 もう少し見詰め合っていたい欲求を、グッと我慢してシートを元に戻すと、シートベルトを引くのももどかしくユウヤは車を発進させた。

 タエもシートベルトを締めて、不思議そうな表情をユウヤに向けながらも、嬉しそうな笑みを浮かべて、走り出した車外に眼を向けた。



 車が市街を通り抜けるまで、ユウヤの口数は少なかった。

 田舎とはいえ交通量の多い市街地では、運転に集中したかったのもあるが、タエがキョロキョロとする度に胸が高鳴ってしまい、落ち着かない運転になっていたせいが大きい。

 それでも郊外まで出てしまうと、信号も無ければ擦れ違う車も疎らだ。片手をハンドルから離し、煙草を咥える余裕も出てきた。

 いつもの自分に戻れてきたと確信してから、タエを横目で見ながら会話を楽しめるようになってきた。

 大学の勉強の話から、友人達の話、果ては今まで行った温泉地の話題まで、水を向ければ流れるようにタエは話し続けた。

 時に笑い、時に怒ったような表情で語るタエを、ユウヤは時に大袈裟に笑って、時に笑顔で頷いて聞いた。

 都合2時間の道程も、ユウヤには苦痛にはならず、気が付けば右手に大きく広がる海沿いの道に、巨大なカニの爪のモニュメントが、白い波に洗われて見えてきた。

 タワーのある海岸は、港に隣接していて、コンクリートの護岸で囲まれた中に、堤防のように突き出た渡り廊下で繋がっていた。もちろん、その下を歩くこともできるのだが、タワーに入るには、この堤防の上を歩いて、強く吹き付ける潮風に晒されなければならなかった。

 ユウヤは、タエを風から守るように前を歩いて、歩調を合わせながら、ややゆっくりめに進んだ。

「わぁ〜。こんなのなんだ」

 入り口のゲート近くでタエが上を仰いでいた。つられてユウヤも振り仰ぐ。

 タワーは、四角い箱状の上に丸い円筒形を重ねたような形をしていて、その壁はガラス張りになっており、真上から照らす陽光に煌めいて幻想的な表情で迎えてくれていた。

 沖合いから寄せる波のうねりも、陽光を時折反射して、眩むような光りの凹凸を送って来て、青い空と緑色を薄く溶かしたような海に、ユウヤも眼を細めて見入ってしまった。

「綺麗ってより眩しいね」

 言われて振り返ってみたものの、ユウヤの眼には光りの残像が残って、タエの表情をはっきりと見ることが出来なかった。

「中に入ろう。眼が痛いや」

 駆けるように入り口に走り込んだ。ユウヤにとっては、タエの表情が確認出来ないことが不安の焦燥になっていた。笑顔なのか、自分と同じように眩しさにしかめっ面なのか、それすらも見ることが出来ない。

 入ってすぐにカウンターが設けられており、ユウヤは二人分の入場料を払ってチケットを受け取った。タエが慌てて財布を取り出していたが、笑顔で片手を振った。照れ臭そうに短い舌を出すタエの素振りを、ユウヤは改めて可愛いと思えた。

 案内の女性に促され、地下に降りるエレベーターに乗る頃には、いつの間に押し寄せたものか、数十人がエレベーター前にひしめいていて、ユウヤはタエをそっと引き寄せるように手を取って、自分の傍らに導いた。

 狭いエレベーターの中でも壁に隠すようにタエを人込みから庇い、降りる時にもゆっくりとドアを押さえるような気遣いまでしたほどだった。ただ、それが自然と出来てしまう自分がユウヤには不思議でならなかった。

 今までの経験上、それをすることに抵抗は無い。ただ、今日のように自然と身体が動くなんてことが無かっただけだ。女の子をエスコートしていると意識していれば、それなりに振舞わなくてはならない。ドアを開けたり車道側を歩く行為や支払いの不自然さが無いようにとか、それなりに考えながら行動することが多かった。

 なのに、タエと居る自分は、少なからず意識した動作ではなかった。そうしなければならないという脅迫感も無い。そうすることが当然のように身体が動いていくのだ。

 変な考えだとユウヤは打ち消したが、エレベーターを降りるタエの背中を人がぶつかってこないように軽く片手を添えて送り出すようにしてあげる動作に、自分の行為ながら驚いてしまった。

 当てられた片手をチラッとタエが確認したように目線が動いた。自分では至って自然な行為だったのだが、されている方はそうとは限らない。

 下心を持っていると思われていても仕方ないのだ。後ろめたさから、すぐに手を引いて通路を並んで歩く。

 エレベーターを出た先は、意外なほどと驚くようなことは無かった。一般の水族館のように、ほの暗い感じの照明が灯され、壁に幾つかの填め込み式の水槽がある程度で、中身に至っては、近海の魚や貝類、甲殻類などが入れられている。さほど目新しいものではない。

 タエにしても、一応は覗き込んでは見るものの、スーパーなどでパック売りされてる魚が生きて泳いでいる位にか思わないだろう。

 反対側に楕円形の窓が嵌められているが、そこが恐らく海の中なのだろうと顔を近づけてみた。確かに上のほうが蒼い光りに見えなくもないが、透明度が高い海水ではないのだろう。真横は暗雲のように蒼暗い不気味さが漂っている。

 これではタエも喜び半減だろうとユウヤは感じた。感動できる代物とは到底、言えそうも無い。

「ね、ねぇ! 今、何か、窓のところを通ったよ!?」

 ちょっと溜め息が出そうになった時、タエの甲高い興奮気味の声がした。

「え? なに?」

「わかんない! でも、確かに何か降りてったんだって!?」

 急いで窓に近づき、頭をガラスにくっ付けながら、下を見たり上を見たりしているタエが、なんだか無邪気な子供のように思えて、クスリと笑いがこぼれた。幸いタエは窓外に気を取られているので見られることはなかったが。

「何か、いた?」

「うう〜ん。わっかんない〜。何だったんだろ? 大きかったんだけどなぁ」

「誰か石でも投げたかな?」

「そんなんじゃない。きっと、生き物だよ。見間違いじゃないと思うんだけどなぁ」

 窓外をグルグル見回しながら、ユウヤの方など見もしないタエに、小さな溜め息が漏れたが、なんだか子供を遊ばせてる親の気分が理解できたようなユウヤだった。

「ああ! ペンギン!?」

 一段と大きな声が通路に響いた。勿論、タエの声だ。

「え? ペンギン!? そんなわけないだろ。北半球だぞ。第一、日本に野生のペンギンなんかいるわけ…」

「だって! ほら!」

 妙なものを発見したものだと呆れたユウヤの腕を取って、タエは自分の横に引っ張った。引かれる力が強かったせいもあったが、油断していたことが最大の原因だろう。

 よろけたようにふらついて、タエの顔にくっ付くほどに近づいてしまった。間近にタエの横顔があって、ユウヤは動揺してしまった。胸の真ん中が大きく二度、三度と脈打ってまるで太鼓のように打ち鳴らされる。

「ど、どこ? どこ?」

 上ずったような声にならなかったことがせめてもの救いだったろう。ただ、言葉の動揺までは隠し切れなかったが、タエに気付かれたようなことは無かったと感じていた。

「ほら、あそこ。潜ってく。ほらほら、あれあれ! 降りてくる!!」

 忙しいなと思いながらもユウヤは、タエが指差す方向を下、上と首を巡らせて追いかけた。

 確かに何かが潜ってくる。近づいてくる姿は、羽ばたいているように見える。以前にテレビなんかで見たペンギンが水中を泳ぐ様に似ていないことはない。

「…ペンギンにしては、泳ぐスピード、遅くね?」

 テレビなどで見たペンギンは、海中で魚を捕獲していた。つまり、少なくとも魚のスピードに勝るとは言わないが、それに近いものでなくては、到底、無理なことだ。だが、今、目前を通り過ぎようとしているものは、確かに海中で羽ばたいているものの、その速さはお世辞にも魚に近いとは言えそうも無い。

「んん? そうだよねぇ。じゃ、なんだろ? あれ」

ふと、手を掛けた壁にスルリとした手触りがあって、ユウヤは横目で確かめた。

 パネルのようなものが張られている。暗い照明のせいで見えなかったのだろう。この場に来るまで気付かなかった。

「ここに書いてあったよ」

 身体をずらしてパネルを見せる。その間にも、海中を潜り浮き上がりするペンギンもどきは、その数を増やしているようで、数秒待てば姿を見せるようになっていた。

「カモ!? 鴨なの? なんで、鴨が海に潜るの?」

 パネルを確かめ、窓外を眺め、もう一度、パネルを見て、窓に移るを繰り返し、疑問符までも連発してタエは子供のようにはしゃぐ。

「海底の藻や海草を食べに潜るんだって。解説が書いてある」

 ユウヤが、パネルの下に書かれた解説文を読んで口にした。確かにこの暗がりでは、豆粒のような文字に気付くことも困難だった。

「へぇ、面白いねぇ。鴨かぁ。ペンギンって言われても信じたかもねぇ」

 潜りつ浮きつつする鴨の姿を追いかけながら、およそ有り得ないことを信じるなんて言うタエを、ユウヤは笑顔で見詰めた。いつの間にか敬語でなくなってるタエに、自分との距離が縮まったような気がして気持ちが緩んでいたと言っていい。

「まだ、見てる?」

「んん〜。ペンギンなら見てたかったけど、鴨って言われると半分、冷めちゃったから、もう、いい」

 言葉とは裏腹に、名残惜しそうに窓外を振り返りながら、タエはユウヤに視線を向けて笑って見せた。

 ドキンとする胸の奥が、ユウヤを僅かに動揺させた。

 タエの笑顔に見詰められただけで、喜んでいる自分が存在しているのだ。下心がある時には、こんな気持ちになる事は無い。笑う相手を確かめて、心の中でほくそ笑むことはある。半分以上は、自分のテリトリーに入り込んだ獲物を襲う獣の感情なのだろうが、そんな時は、決まって胸より下半身の方が疼く。

 それが、タエに対しては、胸の奥が痛いような疼きを感じる。遠い昔に感じたことがある感覚だが、それを認めてしまうと自らが認めたくない答えに辿り着いてしまう。

 強引ながらも、ユウヤはそれ以上の思考の探求をしなかった。辿り着かない思考は、それだけでかなりなストレスだが、答えを導き出すよりはマシだと思えたのだ。

 それ以後に、特別、見るようなものは無かった。強いて言えば、円筒形の水槽にクリオネと呼ばれる貝の一種が漂っていたのが印象的かもしれなかった。流氷の妖精とか海中の天使とか呼ばれるが、肉食のこのクリオネは、食事時になれば、とても天使などとは程遠い姿に変貌する。興味がある人は、実際に見てみることをお勧めする。SF映画のホラー版よろしく、気分を害すること請け合いである。

 円形の建物を一周すると、上階に昇る階段が現われた。

 これ以上の見るべきものが無いと思えば、階段を選ぶことに抵抗は無い。

 ユウヤもタエも、人の流れに沿うように階段を選んで、上階に昇った。

 一階フロアは、おみやげなどを置く売店があったり、奥に砕氷船の説明などをするコーナーなどがあったが、それを興味深く眺める人は少なかった。

 それよりも、上の階だ。

 四角い展望台は、この上にあるのだ。二人は、躊躇することなく上階に昇るエレベーターに乗った。

 最上階。とはいえ、普通のビルでいえば、三階、四階程度の高さだが、海の只中にあるその高さは、想像していたものとは、かなりの相違があった。

 海岸側の展望はそれほど特筆することはないが、水平線を視野に入れる風景は、砂浜から見る水平線とは違って、足元から広がる水色と波立つ反射に光る銀色に彩られ、幻想というにも足りない情景だった。

 暫し無言の感動に占められ、呆然と彼方を見る二人だった。

「あっ! あれだ!」

 先に正気に戻ったのはタエの方だったらしい。窓に駆け寄り下方を指差して額をガラスにくっ付けていた。

 ユウヤも遅れてガラスに頭をぶつけた。

「白黒の鴨なんだ。上から見ると何だか間抜けな感じね。あっ、ほら、潜った。あれを見てペンギンだと思ったんだ。おっかしい」

 クスクスと笑うタエを、ユウヤは横目で見ながら優しく笑ってみせた。自然とそうなったのであって、特別格好付けていたわけではない。

 何だか吐く息が熱い。タエの表情や言葉、いや、一挙一投足まで気になって仕方が無い。本心から見詰めていたいと思い始めている自分が、これ以上の欲を出してはいけない。そう釘を刺して、軽く頭を振った。

 もうそろそろ、時計は昼を指す頃だった。




つづく



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