ユウヤ 第二夜 3
頭上から睨みつける熊山の表情は、歯を剥き出すように噛み締めた苦々しいものだ。
怒りのレベルがどう表現されるものかはわからないが、熊山の握り締めた両手が小刻みに震えているのを見れば、尋常な感じではないだろう。
発した怒声も、店内を静まらせるほどの大音響だった。
ざわついた店内が、熊山の声に数秒以上の空白を作っていた。
が、数日に一度は巻き起こるような事例でもある。程無くして店内は、いつもの喧騒を取り戻した。それでも、何組かの客は、こちらを窺うように事の成り行きを興味深げに盗み見ている。
気を利かせたのは店主の息子の弟の方だった。
そそくさと近寄ってくると、無言のままに小上がりの引き戸を閉めてしまった。大きな騒ぎを起こさない限り、叩き出されるようなことなどない。
部屋に残された当事者達には、他人の眼が無くなっただけに、むしろエキサイトすることも多いのだが。
愛美は、まるで蛇に睨まれた蛙よろしく、熊山を見上げたままで身動きひとつしない。
驚きの表情と怯えたような目付きが、これまでの二人の間にここまでの緊迫した状況が無かった証拠でもあろう。
「お前が…お前が、それを知ったからって、何も出来やしない! 親切ぶって他人の古傷にまでズカズカ入り込んでんじゃねぇよ!!」
「ごめ……ごめん…なさい…」
怯えたような言葉が愛美の口から弱々しく呟かれた。
心から謝ったものではない。熊山の勢いに気圧されて、つい出てしまった子供の心理だ。
ユウヤは、熊山を見てはいなかった。
不安定になっていた精神は、虚ろな視界を写しながら心にまで届いていない。頭で理解する余裕がない状況で熊山が現れたと言っていい。
空白の時間が途切れたのは、愛美の言葉を耳にしたからだろう。
気弱な子供が親に叱られた時に発する言葉が、ユウヤの気持ちを現実に引き戻した。
「……貴…やめろ。どんなことがあったにしても、自分が好きな相手に、そんな顔、させるもんじゃない…」
愛美の声は、消え入りそうなほど細く、小刻みに震えた声だ。
信頼や愛情が深いほど、怒りも強いが裏切られたり叱責された時のショックも大きい。
「だけど、お前。俺の居ない間を良いことに、そんな話を…」
「もう、いい」
一度、頂点まで達した怒りの矛先を折られた熊山は、何か言いたげだったが、ユウヤは額を右手で擦って遮った。
昨日からの疲れと酒の酔いで、少しばかり精神薄弱になりかけていたのだろう。
軽い眩暈のような感覚が、頭の後ろで鉛のような重さを造っている。
「愛美ちゃん、ごめんね。俺には、まだ『過去』と言えるような穏やかさになってないみたいだ。少しはマシになったつもりだったんだがな」
「……ごめんなさい……あたし…バカだから…ユウさんに辛い思いさせちゃって…」
お互いがお互いに謝るという変な会話が交差した。
ユウヤは、落ち着き始めた心音を確かめるように穏やかだが、愛美の方は、熊山をチラチラと盗み見るようにオドオドとした子猫のようだ。
「いい加減、座れよ。怒るのは仕方ないにしても、頭から怒鳴らずに、ちゃんと落ち着いて話せ。どうせなら、貴が話せばいいことだし」
怒気の表情を半分だけ残したまま、熊山は手持ち無沙汰のように立ち尽くしていた。
ユウヤも心のどこかで熊山が愛美に自分の過去を話しているかもしれないと思っていたところがある。それ故に、今のように秘密を守っていてくれたことを、僅かながらも疑っていたいた自分が恥ずかしく思えた。
「……俺は、当事者じゃねぇ。粗方知ってはいるが、詳しいことまでは聞いてない。中途半端なことを、憶測交えて語るほど物好きじゃねぇ」
どかっと愛美の横に腰を下ろした熊山は、あからさまにユウヤの視線を避けるように横を向いた。それでも、愛美の頭に左手を乗せて、痛いんじゃないかと思えるほどにグリグリと撫でた。
謝ることをしない熊山の最大限の表現なのが理解できて、ユウヤは笑えた。やられている愛美からすれば、体罰を与えられているように感じたかもしれないが。
「なぁ、貴。例え自分が侭ならない時でも、大事な人だけには、悲しい顔はさせても怯えさせたりするなよ。その時、信頼する全てが間違いだと勘違いするから」
傍らに押しやられていた湯飲みを手に取って『司牡丹』の一升瓶から酒を注ぎ飲み干した。
喉元から胃の腑に落ちていく間に、冷酒は熱を帯びて熱くユウヤの鳩尾くらいに溜まった。
「言われなくても分かってるつもりだよ。ただ、直情型の俺には、全てが後で気が付くことばかりなんだ。ことわざにもあるだろが『後悔、先に立たず』ってな」
ちらりと飛ばした目線は、一度ユウヤを捉えたものの、止まることはせずに愛美の足元に二度、三度行き着いた。
「分からんでもないがな。『転ばぬ先の杖』ってのもあるし、お前がそれほど気にすることじゃないだろ?」
「当事者でなくとも、事の一端は担ってる。もう少し早く気付いていればって思わない日は無いさ」
胸ポケットから煙草を取り出して口に咥えると、火をつけて大きく煙を吐き出す熊山は、どことなく所在無さげに煙を眼で追った。
言われて気付いたわけではない。もう数年に渡って何度も思い返してきたことだ。
その過程において熊山が言った事が過ぎったこともあった。が、それは最終的な結果に僅かながらの変化を与えたかも知れないという程度だったろう。
熊山は、熊山なりに大きな十字架を背負ってしまっている。
ユウヤは、もう一度、湯飲みを煽ってから大きく息を吐いた。
熊山と愛美は、まだお互いを見ようとはしない。気まずさが僅かな二人の隙間にわだかまってしまっている。
「どう哀愁を持ってみても過去は過去だ。今日は、俺を祝ってくれるんじゃなかったか?」
「あ?」
酒の勢いなのか、時間の経過なのか、ユウヤの口から吐き出された言葉に暗い影が滲んでなかったことに、自分自身でも驚いた。
惚けたような「あ?」の熊山も、すぐに口元を歪ませて嫌味な笑いを作った。
「そうだったな。今日は、ユウの……何記念日になるんだ?」
「馬鹿な名前を付けようとするな! お前に付き合ってやるだけで、別に祝って欲しいわけじゃない」
憮然と一升瓶を抱き寄せて湯飲みに注ぎながら、ユウヤは鼻に皺を寄せて見せた。
その隙に熊山は、生ビールの大ジョッキを注文して受け取った。
一気に半分近くを流し込んで、
「ぷっは〜、効くねぇ〜」
と空を向く姿は、どことなくオヤジ臭い感じがして笑えた。
「愛美ちゃん。こんな豪快なオヤジ熊は放っておいて乾杯しよう」
未だ所在無さげに俯く愛美にユウヤは湯飲みを差し出してみせた。チラリと眼だけを動かす愛美の瞳には、先刻まで浮かんでいた光りの玉のようなものは無かった。
おずおずと自分のグラスを持ち上げる愛美に、身を乗り出して湯飲みを合わせるて微笑んで見せた。
営業用の顔だが、こういった時には意外と重宝することをユウヤは知っている。
「あの…あたし…ご…」
「ユウ! お前は、俺の彼女にそんな面するんじゃねぇ」
愛美が何か言おうとしたのを遮るように熊山が前に乗り出した。ちょっと驚いたようなような顔で返したが、肩を竦めるくらいの愛嬌は示して見せた。
「おい、騙されるなよ。あいつのあの顔の裏にはな、正反対の意地悪な奴が隠れてる。騙されて近寄ろうもんなら、他人より冷たい眼をされるぞ」
グイっと愛美を抱き寄せる熊山は、歯を剥き出して威嚇してくる。
当然、本気の言葉ではないが、相手が愛美でなければ、そういうことも有り得るとユウヤは笑って見せた。
「まさか? ユウさん、そんな人じゃないよ」
「いいや、あの顔以外なら信用するが、あの顔だきゃ信用できない。その辺のホストより格段に性質が悪い。期待させるだけ期待させて、知らん顔しやがるからな」
愛美の擁護も熊山にとってはユウヤを知らない女の言葉にしか聞こえないのだろう。
現実には、熊山の指摘は少し間違っている。
嫌われない程度に行動して、その場の雰囲気に溶け込むのが上手くなった。そのために勘違いする女性も多い。が、知らん顔をしたことはない。きっぱりと断ることはあるが。
「でも、騙したりしないでしょ?」
「騙されて金品でも巻き上げられれば恨みもできるだろうが、こいつの場合、そんなことも無いから恨むに恨めない。女の方は、深く傷付いて終わるんだ。ある意味、罪な生きモンだな」
「それって、ユウさんが悪いの?」
「無意識でやってるか意識してやってるかは知らんが、こいつは当然の帰結として理解はしてるはずだ。それを分かっていてスタイルを変えないってのは、十分に性質が悪い」
「おいおい。人を扱き下ろしに来たのか? 祝ってくれる話じゃなかったのか?」
「あ?」
薄く笑いながら二人のやりとりを聞いていたユウヤだったが、いい加減にならない話しに割って入った。
惚けたような「あ?」の熊山の後、三人から爆笑が生まれたのは、先刻までの空気が消えた証拠だった。
「ところで、どんな女なんだ?」
既にユウヤの一升瓶の中身は半分ほど胃に収まり、熊山はビールからカクテルに変化し、愛美は四杯目の酎ハイを呑んでいた。
お互いの近況報告を肴にしていたが、熊山が思い出したようにユウヤに聞いてきた。
「どんなって……普通の女の子だ」
多少酔ったような気分はあるものの、酩酊というには、まだ程遠いユウヤの口調は軽い。
「そりゃ女だろうよ。ユウが雌犬や雌猫なんかとどうこうなるわきゃないだろが。そういうことを聞いてるんじゃない。何処の誰かって聞いてんだ」
熊山の方は、浅黒い肌が紅く染まってきている。口調は平静のようだが、トロンとした眼は、眠気のせいではないだろう。
「そうですよ。あんなに頑なに貞操を守ってたユウさんの相手って気になるじゃないですか」
熊山の質問に相乗りするような愛美は、顔色ひとつ変化していない。元来が酒に強いのだろう。ユウヤの記憶の中でも愛美が酔い潰れたようなことはない。
「どんな女の子でもかまわないだろ。この街の半分は女なんだから」
「そうはいかない。これからお付き合いするなら、俺に紹介しないなんて有り得ないからな。始まりの顛末くらい知っておかないと友人としての示しが付かない」
どんな理屈なのかと呆れてしまうが、きっと熊山にとっては真剣な言い分なのかもしれないと感じて、自然と笑いが込み上げた。
「ったく、面白がりやがって。至って普通の娘だよ。世間慣れしてなくて、素朴っていうか天然っていうか。感情表現激しくて、コロコロ変わる気分屋みたいで、ちょっと掴めないようなかんじで…」
そう説明しながら昨日から今朝までのタエを思い描いて、変な安堵感を抱いていた。それでいて、胸の辺りにグッと込み上げるような焦燥感もある。
複雑な気分に、ユウヤ自身が自分の気持ちを把握していないのかも知れないと感じていた。
「なんだ? 不思議ちゃんか? いつからそんな好みになった?」
「不思議ちゃんて?」
「ん? 天然系の酷いヤツ。会話はかみ合わない、人の話は聞かない、自分の世界しか興味がないっていう転地無用の厄介な人」
「そんな人、居るの?」
「予備軍みたいなのはいっぱい居るだろうよ。腐女子とか歴女とか鉄子とか。ちょっと道を外れれば、みんなお仲間みたいなもんだろ」
「へぇ。ちょっと近くには居ないから、新鮮な驚きだわ」
熊山と愛美の会話に、ガックリと首を折る。
真面目に聞いているのか、いないのか。
「貴。いい加減なことを教えるな。彼女達だってある意味ポリシーとプライド持っている娘だって多いんだ。十羽一絡げみたいな差別をするな」
擁護的な発言をしたみたが、実際のところユウヤも彼女達の何が理解できているというわけでもない。
「おや? 随分と理解ある発言じゃん。相手がそうだと、やっぱり味方になってしまうのだね〜」
そう言って二人で頷きあうのを見ているのは、僅かながら腹立たしい。
「中立的見地からの意見だ。趣味だって度を越せばマニアって呼ばれる。大体、俺の相手が不思議ちゃんだなんて認めてない。話を作って広げて行くな」
脱線し始めた会話は、きっと面白半分に酔いも混じって在らぬ方向に進んで行きそうだ。
「だったら、ちゃんと教えろ。何処の誰ちゃんなんだ?」
熊山がほくそ笑むの分かった。
この時になって気付いた。熊山は、ユウヤをムキに反論させておいて酔いを回し、思わず口が軽くなるのを待っていたのだ。
「………。」
さすがに熊山の思惑通りに答えるわけにはいかない。
多少、頭の上半分が痺れたようにフワフワしているのは、酔ってきている証拠だ。昨夜からの寝不足に、数年振りの甘い一夜に体力も奪われている。
気を抜いてしまったら、酔いに任せてペラペラと話してしまいそうな予感もある。
当然のことながら昼間にそのことを聞いている熊山は、ユウヤがかなりの疲労度であることも承知している。
「な、なんで睨むんだよ。俺は、単にお相手は誰かって聞いてるだけだろ? それを隠そうとするから、余計に聞きたくなるんじゃねぇか。あっさり言っちまったら、ここまでくどく聞かないよ」
「確かにその通りだ」とは、思っていても口にはしない。そんなことを言ってしまえば、熊山の追求は、もっと激しくなり、昨夜の行為の一部始終まで聞きたがるに違いない。
「………。」
「わかった、わかったよ。それじゃ、どういう女かってことを、もう一度、教えてくれよ。そしたら、もう詮索しないからよ」
ユウヤの沈黙を何と取ったかは定かでは無いが、詳しくは教える気が無いことくらいは察したらしい。
ユウヤとて、隠すつもりなどは無いのだが、何だか浮かれた気分で熊山に話してしまったのは、今となっては軽率だったと思えている。
確かにタエを『抱いた』というのは事実なのだが、恋人同士になったというわけではない。お互いに身体を求め合ったのだが、その後に気持ちを確かめていない。
僅かに残る心の違和感は、そんなユウヤの不安なのかもしれない。
「……やっぱり、今は言えないな」
「なんでだ? 言えないような女なのか?」
「そういう意味じゃない。ただ…ちょっと…俺の中でも整理がついて無いんだよ」
率直な気持ちの表れであるのだが、自分で言っていても釈然としない言い訳に聞こえる。
「なんだ? 久々に男になったっていうのに、押し切られた女みたいなこと言うのか?」
噴き出してしまいそうな言い分が熊山の口から出されたが、今のユウヤという人物に彼女が関わっていたということは、汚点になってしまわないだろうか。
お互いを認め合っての関係なら、公言のしようもあるのだが、今の二人の関係は、どう表現して良いものやら困惑してしまう。
不倫をしている旦那が、口を滑らせてしまうと、こんな感じになってしまうのだろうかと、酔った頭で考えてしまっていた。
「おいおい、今更、感情の度合いをどうこう言うつもりは無いが、子供じゃないんだ。欲情に任せてってことも無いだろう」
尤もな事を言う。熊山の言い方であるのなら、この世に風俗なる商売は無くなるだろうし、強姦という名の犯罪も消えるだろう。
一般的な恋愛の話をしているのだろうが、こういう風に歪めて取る自分の方が素直じゃないんだと感じてしまった。
「恋愛そのものを、どこかに置き忘れてきた罰かな? 自分の中の感情が旨く理解できない。人を好きになるってどんなだったかな?」
仄かにというか、不確かながらタエと一緒に居た時に感じた感覚は、懐かしいというよりは新鮮な感じだった。
「…ユウさんって、感情オンチ?」
眼の辺りをほんのりと紅く染めた愛美が、小首を傾げた小猿のように笑い掛けてきた。
「かんじょうおんち? そんな言葉あるのか?」
熊山が不思議な顔で愛美に聞いた。ユウヤにとっても聞いたことがない言葉だ。
「んん〜、感情表現が下手な人に対する言葉だったんだけど、今は感情の振れ幅が少ない人にも使うかな? 感動が少ないとか、笑いたいのに笑えないとか。精神疾患の一種だってことも言われてきてるかな。外から入ってくる情報を旨く理解してコントロール出来ないらしいのよね」
「鬱病とかいうやつか?」
「うう〜ん。ちょっと違うかな。鬱にも千差万別あるから何とも言えないけど、基本的に落ち込んだら浮上できなかったり、落ち込みとハイテンションが交互に来たりって極端だったり。それとは別で、受けた感動なんかを旨く消化出来ないとか、ショックな事を認めたくないとか」
「………。」
「………。」
考えながら、旨く説明しようと言葉を捜しながら、愛美は解説してくれる。恐らくは、自分の中でも完全に理解した言葉では無いのだろう。
しかしながら、ユウヤと熊山にとっては、少しばかりショックな言葉だった。
お互いに顔を見合わせて言葉も無い。
「そ、それって、どうなるんだ? 医者に診てもらって分かるのか?」
カクテルのグラスを煽って、熊山が愛美に向き直った。
「あ〜ん、そんなわけないでしょ。言ったでしょ。『精神疾患の一種だって言われてきてる』って。今は、ちゃんとした病気になんかなってないよ。ただ、ゲームの影響で残虐性に躊躇しなくなったとか、虐待のせいで笑えなくなった子とか、色々と言われてきてるじゃん。そういう感情コントロールが出来ないってこと。トラウマとかも、そういう意味ではその一種なんじゃない?」
「ん? どういうことだ?」
「ほら、高所恐怖症とか閉所恐怖症とか、二度と体験したく無いことには、自然と心が身体にブレーキ掛けるでしょ? これ以上だと、また同じ思いをするって分かると。それだって、本人の意思とは無関係な反応なんだから、そういう意味では『感情オンチ』の一種だってこと」
「ふ〜ん。で? ユウは、どうなんだ?」
「やだ、専門家でも無いのに、そんなこと分かんないわよ。ただ、相手のことを好きかどうか分かんないって言うから、そう思っただけ。トラウマだって、切っ掛けさえあれば克服してる人はいっぱい居るんだし」
そこまで言って、愛美は酎ハイを一気に飲み干して、お代わりを熊山の分も含めて頼んだ。
酔った頭ではあったが、ユウヤは少し考えていた。
愛美の言ったことが自分に当てはまっているとは思い難い。要領を得ない愛美の説明では、その範疇に何処までが入っているかも妖しいものだが、深く理解しようとすれば、言おうとしていることは納得できる。
熊山は別として、愛美はユウヤがある時期から性格変化を起こした後に知り合っている。そういう意味でも、愛美の観察眼を信じるのであれば、ユウヤが素直な感情表現をしていないと感じていても不思議ではない。
この頃は、意識しているわけでは無いが、それなりに繕ったような顔で人に接していることは間違いない。板に付いたと表現すればそれまでだが、もう一人の自分を作り上げて演じていることは確かだ。その相手に熊山も例外無く含まれている。
『自身を演じる』という言葉が適当かどうかは判然としないが、ある時を境にユウヤの他人に対する態度は変化している。意識していたのは、恐らくは一年程の期間だったろう。それが、無意識下に刷り込まれるのに時間が掛からなかったのは、ユウヤの努力なのか、それとも愛美の言う通り病的疾患に苛まれた結果なのか。
「おいおい、考え込むなよ。こいつが言ったことなんて、ある意味、特殊な見方だろ? ユウが自覚してるかどうか知らないが、違和感の無いものを意識しろって方が間違いだろ?」
いつの間にやらロダンの彫像よろしく、深刻なポーズをとっていることに気付いた。
「そうだよ。あたしだって聞きかじりなんだから、どこまでがホントかも良く分かって無いし。ユウさんが当てはまるなんて思ってないよ。少なからず、あたしから見たユウさんは、すごく自然だよ」
愛美に言われて、ユウヤはちょっと苦笑いを作った。
『自然』と言われて、それが似合っていないことを誰より知っているのも自分に他ならないと思えてしまう。
「お前が話を逸らすから悪いんだ。余計なこと言いやがって。今日は、ユウのお祝いだって言ってんだろ」
「あたしのせい?」
愛美を肩で小突くようにしてグラスを上げる熊山は、今日、何度目かも分からなくなった『乾杯』を派手に押し付けた。
「で? 久々の体験の感想はどうなのよ?」
薄く笑った顔で熊山が仕切りなおしのように聞いてきた。
下卑たいやらしさが見えるが、いい加減に酔った感覚では、それが内心の具現であることは確かだ。
隣の家の夫婦に夜の営みの頻度を聞きたがる中年主婦と大差が無い。
「……そんな余裕なんて無かったよ」
無難にやり過ごす答えを見つけることは、こういう話題では難しい。
「馬鹿言うな。お前がテンパるわけないだろうが。出し惜しみすんな」
やっぱりそうなるだろうと思える言葉が返って来てしまった。実際に、嘘を言っている訳でもないのだが。
「出し惜しみしてない! ほとんど無我夢中で……彼女のことを気遣うのも忘れたくらいだ。自己満足したような気分で、これでも後悔してんだぞ」
「なんだ? 自己中で満足させられなかったとでも言うのか? そいつは問題だぁ」
大仰に、それでいて半分以上は馬鹿にしたようなリアクションで、熊山は肩を窄めて見せた。
「勝手に言ってろ。面白がりやがって。こっちには、これでも結構な悩みの種になりそうなんだからな!」
吐き捨てるように言ったものの、相手が熊山では見透かされてしまうだろう。
「ニヤけてるぜ」
と言われて、ソッポを向くのが関の山だった。
「随分と面白そうな話をしてるじゃないか」
不意に予想外の方向から声がして、三人は一様に小さく跳ねた。
振り向いて見れば、小上がりの引き戸を半分ほど開けて、トロンとした目付きを向ける人物が腰を下ろしていた。
「い、伊藤先輩……」
引き攣ったような表情で、なんとか笑いの表情にしようと努力している熊山の口から、その人物の名前が零れた。
つづく