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タエ 第一夜

二話目のお話ですが、視点が変わっただけで、一話と変わらない内容です。

こんな調子で進んで行くと思ってください。


はてさて、お付き合いしてくださる方は、如何ほどおられるんでしょう?

 結婚式の日取りを決めるのは、意外なほど簡単な作業だった。その後に続く予定を説明されてからの方が憂鬱になることばかりだった。式と披露宴の招待客リスト作りから、衣装合わせに前撮りがあり、余興をお願いする人の選定や、発起人選び、披露宴で使う曲の選考や料理の打ち合わせ、新婚旅行の手配等々。細かいことを入れたら切が無いほどだ。

 普通は楽しい作業なのかな? とタエは溜め息を吐いた。

「どうした? 眠くなった?」

 運転席から近い未来の旦那様が声を掛けてきた。

「ううん。違うの。ちょっとこれからの予定を考えると大変そうだなって」

 暗い運転席から頷く気配だけが伝わってきた。

 11月も終わりに近い。

 二人を乗せた車は、急な勾配をワインディングしながら登ってきた。もうすぐ目的地が見えてくるはずだ。その証拠に外灯が幾つか見えている。あの場所が駐車場で、そこから徒歩で数分。

 開けた場所に差し掛かってからタエは黒い窓に額を押し付けるようにして外を見た。綺麗な星空が広がっている。天空を二分する天の川もくっきりと見える。オリオン座を探してみたが、既に地平線に消えたものか、それらしいものは見当たらなかった。

「着いたな。この上に駐車場があるんだな」

 車が左に曲がると、外灯が数本立つだけの場所が現れた。何台かの車体が見えるのは、そこが駐車場だと告げている。

 もう少し奥に進めば、これから行くはずの遊歩道の入り口が、車のライトに照らし出されて見えてくるはずだ。

 タエがこの場所に来ることになったのは、何も近い未来の旦那様が新しいデジカメを買ったからでは無い。何か風景を撮りたいと言い出したのは先週のことだったが、こんなところまで来る必要は無かった。その辺の紅葉でも良かったし、夕日でも構わなかった筈なのだが、心の奥底で波紋のように広がる風景に焦がれて、どうにも我慢できなかった。

 それがこの場所で、この時間なのだった。

 夜明け前、寒々とした空気の中、その光景は広がるのだという。だというのには、タエ自身でも目の当たりにしたことが無いのだった。ただ、この場所に来たことはなくとも、この場所の地理は詳しく知っている。風景が思い描けるほどに話して聞かせてもらったからだ。

 車は一度、大きく駐車場の中を横切るように廻った。その時、ふと見覚えのある車の陰が眼に入った。ナンバーまでは確認出来なかったし、同じ型の車は何十台とこの街にも走っている。その車がタエの知っている人のものだという確率は低いし、数年を経ていることを鑑みれば、もっと低い可能性になるだろう。

 あぜ道のような遊歩道が見えた辺りに車を止めて、二人は時間を調節することにした。まだ、予定の時間より30分は早い。

 タエは、先刻見掛けた車を思いながら、ここに捨てて行かなければならない想いを、改めて噛み締めた。そうしなければ、これから先に結婚を控える自分を許せないような気がしてならなかった。



 友人の紹介とはいえ、水商売という名前には多少なりとも抵抗があった。

 でも、ここにきての金欠は、今までの怠惰な自分が招いた結果でもあるわけだから、バイト先を紹介してくれた友人に文句を言うのもお門違いなことだ。

 タエが生まれ育ったのは、千葉でも都心に近い方で、電車なら30分もあれば東京の繁華街に出られる、比較的に都会と称されるところでもあった。けれど、東京から千葉への道程は、川を越える度に建物の高さが変わっていく。江戸川を越えるような頃には、間延びした街並みが、確かに東京とは違う雰囲気を感じさせる。

 中学まではそれほど違和感を感じなかったのだが、高校に入ると遊ぶ場所も友達も変化し、千葉に居ることの方が少なくなっていったりもした。遊ぶことは楽しいし、ちょっとした危険も覚悟するなら、家に帰らなくても数日、楽しく暮らせたりもした。

 そんな気持ちに変化が生じたのは、二年生の後半になり、誰しもが進学か就職かを選択しなければならなくなってきた頃だったろうか。

 大半は進学を選択して何流だかわからない大学や短大、専門学校の名を口にしだす。

 遊びに専念していたわけではないが、勉強を懸命にしていたわけでもないタエは、それほど重要に進路を考えたことが無かったのかもしれない。これではいけない、というほどの一念発起したわけではないが、漠然とした未来を考え始めるようになったのは、タエにとっては進歩だったろう。

 そうやって改めて自分の居る場所を考えてみた時に、何故だか違和感が付いてまわるようになった。いつもの通学路。いつもの風景。いつもの人波。変に息が詰まるような思いに苛まれるのは何故だろうと考えるようになった。

 幼い頃に家族旅行で行った片田舎の温泉地が、いやに懐かしく心に蘇ったりもした。

 懐古感というもとは意味合いは違うのだろうが、自分の中で懐かしい風景画が描かれる。緑の山河に田園風景。古びた港に疎らな人々が穏やかに暮らす風情。

 やがてタエは、大学の一覧表の中から、辺鄙な港町に最近新設された大学を選び出した。両親は、もちろん異を唱えたが、障害になるほど猛反対したわけでもなく、タエがどうしてもやりたいことがあるならと言ってくれた。受験の倍率が0.8倍なのも安易な決断に手を貸した。相当の成績不振者でもない限り、合格を拒否されることもないだろう。


 当然の結果ながら、幾らも受験勉強らしきものをしなくても合格通知が届いた。

 ワクワクしながら飛行機に乗り、電車ではなく列車というものに乗り、更にバスに乗り換えるという過酷な移動も嬉しかったし、小高い山の頂上に建つ大学の校舎からは、広々とした水色の水平線まで見える。反対側には、緑の山岳に田畑が彩りを添える風景に、タエは感動して震えた。

 が、そんな感動など幾らも長続きするわけはなく、タエも多分に漏れず3ヵ月もすると退屈な毎日に閉口してしまった。

 のんびりとした地域と言えば聞こえは良いが、とにかく不便の二文字に尽きる。自分で車を持たない人間には、バスか列車かタクシーかってことになるが、タクシー以外は日に何本もあるわけではなく、一時間に一本なんていうのは可愛い方で、列車などは数時間に一本くらいしかない。かといってタクシーを連日使えるほど裕福なわけじゃない。泣く泣く2時間歩くなんてこともあった。

 買い物にも不満がある。大きなスーパーが無いわけではないが、今まで住んでいたところからは比べることすら可哀想なほどだ。食料品などは、親が送ってくれたりするもので賄えたりするが、衣服に至ってはそうはいかない。洒落たブティックなどあるはずがなく、田舎の習性なものか、年寄り染みた服が大半を占め、タエが気に入るようなものが無いに等しい。

 一応は市という名前ではあるものの、衰退が現在進行形な小さな街であることに違いない。数百単位の学生を受け入れ、活性化を図ろうとしたことは明白だった。その意図が、街の中まで浸透していないのか、それとも経済的に無理なのか。

 必然的にタエは、車を所持してる学生と友達になる。大学自体が専門的分野の学部ばかりであるために、女子の割合が数パーセントにしか満たない環境では、友達になるのも男子が多く、成り行きとはいえ男女の仲になってしまうこともあった。結果的には、友達なのか彼氏なのか判然としない知り合いが増えて行った。

 勉強に勤しもうという気分も、単位を維持することに努めれば、そう毎日登校することもないと理解してしまうと、退屈な日常を脱出するために友達と遊ぶことが多くなった。とはいえ、大学のあるこの街では、遊ぶ場所もない。周辺の街も似たようなものだが、多少様変わりするので、新鮮にドライブすることはできた。が、長続きはしない。コンパや合コンもあるが、クラブも無ければ若者が群れるような洒落た店など見当たらない。居酒屋で飲んで、二次会はカラオケかスナックというのが定番になってしまう。

 いい加減、馬鹿馬鹿しくなったタエは、免許を一年生の後半で取得した。免許を受け取ったその足で中古車販売店に乗り込み、父親に電話で保証人を承諾させて4WDのステーションワゴンを購入した。もう少し小さめでも良かったのだが、事故を起こした時に少しでも大きい車でないとと譲らない父親に押し切られたようなものだった。

 それからは自分の行きたい時に好きな場所に行けるようになったタエは、近くの温泉を巡るようになった。今では町興しのためにスパとまでは呼べないが、日帰り入浴の温泉施設が乱立していたし、ちょっと贅沢に遠出してホテルに一泊するなんてことも出来る。今までは、男子に連れて行ってもらうしかなかったが、タエが車を持ってからは、少ない女子と行動を共にすることが多くなったことも喜ばしかった。同性の友達とワイワイしながらドライブして湯に浸かるなど中年主婦の楽しみだと思っていた自分が損をしていたような気にもなった。

 そんな日々を続けていれば金欠になってしまうのは至極まともな結果というものだ。

 ガソリン代から入浴料、時には宿泊費。外出してしまえば、当然、外食費も付いてくる。

 タエは、半年も経たずにバイトを余儀なくされた。そこで仲の良い友達に割の良いバイトを頼んでみたのだが、大学が昼間あるわけだし、サボりの増えたタエは後半に皺寄せが来ている。これ以上、休むことは単位に響く。結果、夕方からのバイトになるが、片田舎の街は、夜の7時を回ればシャッターが閉まるところがほとんどだ。

 コンビニが無いわけではないが、そういったところは、他の学生で埋まっている。結局、選べる選択肢はそれほど多くはないのだった。



 紹介された店は、深夜まで営業しているスナックで、本来は店主のマスターが一人で切り盛りしているところだと聞かされていた。友人は、タエを店まで連れて紹介すると、自分も夜のバイトがあると言って消えてしまった。

「この店はね、平均して8時から深夜の2時まで営業するんだよ。何時から何時まで働ける?」

 カウンターの席に座ってタエは、出されたウーロン茶を飲みながら考えた。

 マスターという男は、60がらみの背の低い小太りな人だった。短めの髪に白髪がチラホラ見え始めている。ドングリのような眼はクリクリと良く動いて、まるで小動物のようだ。団子鼻に厚い唇。おまけにエプロンをした身体は、丸く迫り出して中年太りを絵に描いたような人物だ。

 ただ、人は良さそうだと思えた。

「そうですね。初めてなものですから、良く仕事の内容もわかってませんし…」

 正直な気持ちを言ってみた。水商売など考えたこともなかったし、ドラマなどで見たくらいの知識しかタエは持っていない。

「んん〜、じゃあね、今日を試してみないかい? それほど客が多い店じゃないし、下手すりゃ客が来ない日もあるくらいだし。もちろん、客は無くても出勤したら給料は払う。時給は2千円だ。お酒は苦手なら、無理に飲む必要もない。カラオケの管理したり、客と話ししたりするのが仕事だと思ってくれていいよ」

 言葉が少ないタエを気遣ってか、マスターは捲くし立てるように一気に喋った。タエは、それに何度か頷いた程度だ。

 けど、計算は速い。8時から2時まで6時間。時給2千円で、一日1万2千円の収入になる。今のタエには、至極、魅力的な数字に感じた。

「どう? 今日で辞めたいなら、それでもいいよ。合わない客も居るだろうからね。試しにやってみるかい?」

 ちょっと考えるフリをして小首を傾げて見せた。心の中では既にOKサインを出しているが、なんだか安易に答えると軽い女に見られそうだという変なプライドが働いた。

 それでも

「はい。お願いします」

と答えたのは、たっぷり1分程使ってからだった。

「よし。じゃあ、こっちに入って。服装が…ちょっと軽装すぎるけど、初日だしお試しってことで良しとするか。次からは、ちょっとだけ考えてくれな」

 マスターは、タエの薄い水色のブラウスと青いジーンズを指差していた。友人にも指摘されたが、今日から働くとは思ってなかったタエには、これで十分だと思えていたが、迎えに来た友人は、鮮やかな赤いブラウスにラメの入った黒いベストを合わせ、ふっくらとした白の膝上のスカートを身に付けていた。一体、どこで購入したものかと首を傾げたほどだ。

 ああゆう格好が必要なのかと、ちょっと寒い感じを覚えながらも、自分のアパートのクロゼットに並んだ洋服を思い浮かべてみた。

 カウンターの中にタエは入って、店内を見回してみた。

 ちょっと薄暗い感じの店内は、カラオケの大型画面の明かりの方が照明ではないかと思わせる。カウンターの右手は厨房になっていて、ちょっとした料理が出来そうな感じだ。カウンターと並びの右奥は、店の入り口で、木製のドアが閉まっている。カウンターは入り口から真っ直ぐに伸びてL字型に曲がっていて、10席ほどの丸椅子が床から突き出ている。左の壁は酒のボトルの棚で、焼酎からウイスキー、ブランデーなどが詰め込まれている。向かって正面は、テーブル席が6席ほど、その脇にちょっとしたフロアのように広く空間が取ってあり、一番奥には今時珍しいレーザーディスクのカラオケマシンがデカデカと鎮座して、その上に50インチはあろうかという画面が乗っている。傍らに小さく身を潜めているようだが、あれは現代風の通信カラオケに違いない。

 こんなところが満員になったら、どう対処するんだろうとタエは心配になった。居酒屋じゃないのだから、料理を出して去っていくわけにはいかないんだろうと予想した。

 チリンチリンという音がドアの方からしたのは、タエが自分の飲んでいたグラスを下げた時だった。ドアに取り付けられた出入りする度に鳴る仕組みになっているようだが、タエが入って来る時には鳴ったかどうかの記憶が定かでない。緊張に記憶までが飛んでいたのかもしれない。

「ああ、ユウちゃん。いらっしゃい。早いね」

 入ってきたのは、見た感じは20代前半だろうか。サラリーマン風には見えない。どこか遊び人のような臭いがする眼鏡を掛けた男だった。

「ああ。早めに仕事が切り上がってさ。余裕があったんで着替えてきちったよ」

 ユウちゃんと呼ばれた男は、チラリとタエに視線を飛ばしはしたものの、タエの存在には触れずにタエの眼の前のカウンター席に座ってしまった。

 初めてのお客に、どう接していいものかわからずに、タエは人形のように固まってしまった。

「ユウちゃん。この娘、今日から働いてもらうタエちゃん。大学生でね。二十歳になったばっかりなんだって。こういう商売は初めてだっていうから、粗相があるかも知れないけど、寛大に許してやってくれよな」

 マスターが厨房の奥から出てきて男を迎えた。タエを紹介してくれるが、男はマスターから視線を外さずに、ふ〜んという感じで頷いたきりだった。

「始めまして。よろしくお願いします」

とペコリと頭を下げる動作は、自覚しないで自然に出た行動と言葉だった。

「ああ、ユウヤっていいます。よろしく」

 初めてまともにタエのことを見る男は、ユウヤと名乗って頭を下げたが、なんとなく眼の奥が笑っているような感じがして、タエには馬鹿にされた印象があった。

 その後にオシボリを出したり、ボトルを覚えて出したり、飲み方に違いがあってグラスを変えたりすることなど、覚えることがドカンと出て戸惑ったが、客が飲み始めればすることが無くなった。途中で爆笑されたりして顔から火が出るかと思うほど恥ずかしくなったが、それをからかうほど意地悪な客ではなかったことに、少しほっとした。

「タエちゃん。ボ〜っとしてないで、少しご馳走になったらどうだい?」

 マスターがチャームという名の小料理を二皿出してきてタエに言った。

「え?」

 ご馳走になるなんて言葉を聞くことすら無かったタエには、戸惑う勧めだった。ただ、じっといつの間にかユウヤという客に見詰められていたことを、この時になって気付いた。

「いやぁ、ごめん。気が利かなかったね。好きな物、飲んでよ。マスターも」

「いや、ありがとう。ほら、タエちゃん。何、飲む?」

 マスターは手馴れたようにユウヤのボトルから水割りを作って口を付けたが、タエはどうしたものかと悩んだ。元来、酒には弱い方ではないが、良く真っ赤になる顔をからかわれてしまう。飲みたくないわけではないが、初対面の人と酌み交わすのには、まだ抵抗があった。

「あの…ビールがいいんですけど…」

 悩んだ末の言葉だったのだが、眼の前の客は、一瞬、驚いたように眼を丸くして爆笑した。

「いいよ、いいよ。好きに飲んでくれよ」

 笑いを堪えるように手を振ってユウヤという客はタエを見詰めてきた。何を笑われているのかもわからないタエは、恥ずかしさのあまりに俯いたが、横からビールのグラスを差し出されて受け取ると

「あ、あの、えっと、いただきます…って言うんですよね?」

 テレビドラマなどで見た記憶から女の人が「いただきます」なんてしおらしく言うシーンを思い出したのだが、それにもユウヤという客は爆笑で答えた。ここまで笑われてしまうと恥ずかしさも開き直りに出来そうだ。

 1杯目のビールを飲み終える頃に、ユウヤという客は怪訝な顔付きでタエを覗き込んできた。

 小首を傾げて、疑問を投げかけると

「大丈夫? 酒、弱いの? 顔、真っ赤だよ。無理して飲まないでいいからね」

と心配顔になって聞いてきた。やっぱり、そうなってしまったかと思う反面、同世代の男の子達は、赤い赤いとからかうのに、心配してくれる人がいることの方が新鮮で驚いた。

「おいおい、無理しないでね」

 マスターまでが、心配そうにしていることに、タエは恐縮してしまった。

「いつものことです」

 これは証拠を見せなくては、心配顔されたままになってしまう。

 タエは、ビールを一気に煽って、2杯目からはユウヤという客の酒を貰うことにした。バーボンというそうだが、タエにはウイスキーもバーボンもスコッチも区別がつかない。唯一、ブランデーだけは甘味が違うと感じられるくらいだった。

「バーボンは、かなり癖のある臭いがあってね。松ヤニのような臭いが残るんだ。好みもあるから、無理しないで、好きなもの飲んでよ」

 そう説明してくれてユウヤという客は、ビールでもジュースでもと勧めてくれたが、タエは構わず水割りにした。一口でプーンとした独特の香りに襲われた。嫌悪するほどではないが、鼻に付く臭いは意外に強い。水を足して、薄い感じで飲めば、それほど気にならなかったが、消えることはなかった。

 それを見て安心したのか、2人は何も言わずに会話を始めた。

 政治の話から他店の話、季節の話とコロコロ入れ替わる2人の話を聞きながら、タエはユウヤという客を観察しだした。

 細面の顔立ちに黒い縁取りの楕円型眼鏡を掛けている。良く見れば縁取りの黒も角度によって透けて見える。結構なオシャレだ。髪は真っ黒で染めていないようだ。それをオールバックのように掻き上げているが、前髪から巻き込むように横に流しているせいで、中年臭い髪型にはなっていない。額には皺も無くつるっとした印象で、眉は薄い感じだがしっかりと太い。眼鏡の奥の瞳は、一重に見えるが、良く見ると奥二重なのがわかった。鼻は小鼻ですっとしている。唇は上下同じ厚さで桜色だ。顔立ちだけなら、良い男の部類に入るかもしれない。

 身体付きは黒と灰色のボーダーのカッターシャツに包まれているが、その上からでもかなりな胸板の厚さが感じられる。下半身までは、カウンターに隠されて見えないが、上半身のがっしりした印象から、押して知るべしというところだろう。

「タエちゃんは、学校で何を勉強してるのかな?」

 いきなりの話題だったが、ちょっと酒が廻ったせいかタエは「海洋生物学です」と即答できた。2人の話題に入って行けずに酒量が進んでいたのかもしれない。

 その後、タエは話し続けている自分が、不思議に思えてならなかった。普段なら聞き手に廻る方が多い自分が、話題が切れずに喋りまくっている。話が途切れそうになると、ちゃんと次の話題に移行していて、合間らしいものが出来ない。友達と話していても、こうは旨く話は廻らない。

 何度かトイレに中座したが、帰ってくると呼び水があるように、話が途切れないのだった。

 ユウヤという客が、話の勧め方が巧みなんだと気付いた時には、タエの警戒心は何処吹く風で、ユウヤの呼び方も「ユウちゃん」になっていた。

 夢中で話すタエに試練が訪れたのは、深夜1時を過ぎた頃だった。

 ドヤドヤと女性と男性2人が入ってきた。ぺこりと頭を下げただけで、何故かユウヤとまだ話したいという欲求が抑えられずに向き直った。途端にユウヤが立ち上がって、他の客に聞こえないような小声で

「みんなにオシボリ出して、何を飲むのか聞いて」

と囁いてきた。ハッと我に返って、仕事なんだということを思い出した。

 急いで全員にオシボリを配り、挨拶と自己紹介を済ませて飲み物を聞いてまわった。男性2人は個人のボトルがあり、焼酎とウイスキーだった。ボトルも手間取りはしたものの、名札が付いているのだから探せないことはなかった。

 問題は、如何にも夜の商売の女性客だった。グラス生ビールを注文されたのだ。サーバーは、どんな店に行っても見かけるものだから知っている。ただ、注いだ経験はない。ユウヤが居たなら聞いたかも知れないが、トイレに入ってしまって今はいない。

 意を決してチャレンジしたものの、案の定、失敗作が出来上がった。グラスの半分以上が白い泡だらけになった。どうしたものかと迷ったが「いいよ。持ってきて」と優しく女性は言ってくれた。その後も自分から手本まで見せてくれて、言葉にはしないが「こうするのよ」と眼で語ってくれた。

 みんな優しいんだな。そう思うと嬉しくなった。

 カラオケも始まって、タエの仕事も増えた。カラオケの番号入力がそれだ。通信カラオケなら普段から使い慣れたものだ。多少、型が変化したからといって大差はない。

 拍手したり、新しい客と話したりと忙しく動き回って、男性客が向かいの焼肉屋の店員と斜向かいのカラオケ店のバイトだともわかった。女性も隣のビルのスナックに勤めていることも判明した。

 ただ、ちょっとユウヤと話せなくなったことが残念に思えた。

 そう思った直後にユウヤが立ち上がるのが見えた。

「ユウちゃん、もう帰るのかい?」

とマスターが呼び掛けている。

 ユウヤは、困った表情をしているが、チラリとこっちに視線を投げかけてきた。一瞬で顔が火照るのがわかった。どうしてこんな反応をするのか理解できないが、顔が真っ赤になっていることは間違いない。

 まだ、帰ってほしくないという気持ちが、目頭あたりに熱い塊りになって盛り上がってきそうになるのを、ぐっと瞳に力を込めて堪えた。

 カラオケ店のバイトが話し掛けてきて、視線を外したが、マスターと二言、三言会話して、ユウヤは席に戻ったのを横目で確かめながら、何故かタエはホッとしていた。




 店を閉めたのは、結局は深夜の2時を大きく廻って3時に近い時間だった。

 帰ろうかと思っていると、マスターが歓迎会をすると言い出した。客達には、既に通達済みなのか、全員が居酒屋に移動し始めていた。

 タエには、明日の朝。もう、既に今日なのだが、大学に行かなくてはならない。最悪のことに、朝から講義があり9時前には大学に入らなくてはならない。だが、折角、自分のために歓迎会をしてくれるというのを無下に断ることも気が引ける。

 店の前で迷っていると、スッと肩越しにユウヤが現れた。耳元で囁く。

「すぐに帰してやるから、ちょっとだけ付き合って」

 低い声だが、野太いという感じではなく、心地好いような声音にタエは頷いてしまっていた。この人は、何故か信用していいような感じがしてならない。

 居酒屋に入る時もユウヤは、入り口のすぐ傍の小上がりを選び、タエをすぐに出られる場所に座らせるなど、気の使い方が痛いほどだった。

 乾杯の後、そっと耳元で

「いいか、もう少ししたらトイレに立つ振りして帰りな。店の前にタクシーが止まってるはずだから、この金で乗って帰るんだ。決して歩いて帰るようなことするんじゃないぞ。この時間の酔っ払いはタチが悪い。捕まったら何されるかわかんねぇからな。わかったか?」

と、金まで握らせるほどの紳士的行為に、タエは返せる何物も無い。フルフルと首を振って拒んでみたが、ユウヤは強引に押し込んで素知らぬ顔だ。

 他の人に冷やかされるのも構わずに、おどけて見せたりもする。

 タエには、笑いかけてあげるくらいしか出来ない自分が、なんだか情けなかった。

 何だか熱いものが込み上げてくるのを、眼を閉じて我慢していると、脇腹をユウヤが小突いてきた。見れば視線で「帰れ」と促している。

 居たたまれない気分で立ち上がると、カラオケ店のバイトが声を掛けてきたが、それもユウヤが軽くいなして送り出してくれた。

 慌てたわけではないものの、うっかりバッグを忘れてしまったのに気付いたのは、靴を履いて立ち上がった後だった。

 どうしようかと迷っているところにユウヤが顔を出した。

「忘れ物」

 それだけ言って突き出した手には、タエのバッグが握られていた。タエが黙って受け取ると、ユウヤも黙って引っ込んでしまった。

 見えるはずも無いのだが、タエは会釈をユウヤに送ってから居酒屋を出た。

 ユウヤの言う通り、居酒屋の前にはタクシーが2台ほど客待ちをしていた。飛び込むように乗り込んで、アパートの住所を告げた。

 走り出したタクシーの中で、タエはユウヤの優しさを噛み締めて、見えるはずもないがユウヤのことを振り返って見た。





          つづく


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