タエ 第二夜 2
申し訳ありません の一言ですねぇ。
色々なトラブル続出でしたので、何故か今頃になってしまいました。
半年以上の間は、とても痛いです。(まだ、あるんですが…)
とにかく! やっと進めそうです。
諦めずお付き合いして頂ければ幸いです(土下座)
ユウヤのお節介の甲斐も無く……いや、甲斐あってと言うべきか、タエは午後の講義を受けることは無く、大学内の図書室にこもり、頭を抱えることになってしまった。
福江に託けられた小向教授の伝言は、言うなれば『最後通告』ともとれるものだ。
無理と分かっていても、それなりの形になったような文面のものを作り上げなくてはならない。
とはいえ、ここ数日を要しても形にならなかったものを、たかが数時間という僅かな猶予の中で完成させることなど無謀というより無意味に近い諸行であろう。
手当たり次第に資料となり得る専門書、参考書、学術書などを堆く積んでみたものの、これといった主題を決めていないようでは、何を調べて良いのかすら、途方に暮れるような惨状だ。
海洋生物学といってもその範囲は広い。
海に生きる生物ならば、その範疇には必ず入ってしまうし、淡水、塩水の区別はあるものの、海洋という区分では、どちらも同じという感じだ。
フナや鯉もマグロや鰹と同じような区分になる。つまりは、水中で生きるものは、差別無く範疇に収まってしまうということだ。
変な諦めムードを持たずに、苦肉の策で書き上げた一本だけでも持って来て居ればと後悔しても今更だろう。その次に書きかけていたものは『おいしいピラフの作り方』なるものだったのだから。
「いい加減、諦めて、次善の策でも考えることの方が建設的なんじゃないの?」
堆く積まれた書籍の向こうから、冷やかな声が聞こえてきた。
「無駄な抵抗というより、無駄な足掻きって感じで悲壮感漂うわ」
書籍の山に出来た僅かな隙間から、こちらに視線も向けない八重樫の上半身だけが見えた。
福江の言葉を理解するまでに数秒の時間を要したが、理解した後の行動は素早かったといえる。一目散にこの図書室に駆け込んで、備え付けのパソコンに向かい合いながら、手当たり次第に『らしい』書物を運び出した。
もともと甲殻類に感心があったのは確かで、蟹だの蝦だのは興味をそそられる生物ではあった。あったのだが、それ以上に学生生活の謳歌の方が数倍、魅力的だったのも確かなのだ。
それでも自分の勉学の証というべき努力と苦肉の汗で書き上げた『海流によるカニの分布と産卵場所』は、多少なりともタエの勉強の結晶とも言えるものではあった。
それを忘れて…というより、故意に持参しなかったという方が正しいが、今となっては、あれを取りに戻る算段もしておいた方が良いらしい。
が、どういうわけか午後の選択科目があるはずの八重樫が、タエの向かいでファッション雑誌を片手に斜に構えているのだった。
「あのね〜、他人が苦しんでるの見てるなんて趣味悪いわよ。大体、講義があるでしょ? 八重ちゃん」
レポート用紙を広げてみたものの、先程から一行書いては破り捨てる行為が十枚を数えたところで、上目遣いで八重樫を睨みつけるタエだったが、当人はこちらに視線すら向けることなく『今年のトレンド夏服』なるページを熱心に読み耽っている。
「あたしは、良いの。既に出席日数は余ってるし、ややこしいレポートも完遂してるし〜」
眼は活字と写真に釘付けのはずなのに、タエの言葉は聞こえているのか、八重樫の返事は明瞭だ。
はっきり言って、八重樫の大学内の生活振りは、タエが見る限りでは優等生の部類に入ると思える。
課題は決まって締め切り前に提出するし、朝一の講義にも遅れるようなことは記憶に無い。タエが遅刻してしまうことはあっても、八重樫がその後に現れたなどということは無いのだ。
成績までは垣間見ることはほとんど無いが、選択講義のレポートにも『A』以外の記号が記されていたのを見たことが無い。
「八重ちゃんて、意外と成績優秀だよね。レポートも真面目に提出してるし。評価もA判定ばっかだし」
そう言って浅い溜め息を吐くタエを八重樫は、初めて手元の雑誌から眼を外して振り向いた。
「学生の本分は勉学に有りって言うでしょ。当然の帰結だっての。疎かにしてるあんたが悪い」
したり顔で言われてしまっては、タエに返す言葉などありはしない。
フンっと唇を尖らせて手元のレポート用紙に視線を落としてみたが、一向にペン先が進まないのは同じことだ。
「なんてね。そんなにマメにあたしが勉強するはずないでしょ」
ポイっと雑誌を机の上に放り出し、大きく伸びをする八重樫は、う〜んと首を左右に振って本の間からタエを覗いた。
「はぁ?」
眉を寄せるタエに、八重樫は眠そうな眼で、んん〜と唇を突き出してきた。ちょっとキスをせがむような態度にタエは上体だけを僅かに後退させた。
「あたし、試験はボロボロだよ〜ん。出席日数とレポートで稼いでるから一応は安泰だけどね」
机に顎を乗せただらしない格好のはずなのに、八重樫がすると変な色っぽさがあって、同性のタエですら視線が外せなくなる。
「はぁ?」
それでも疑問符を出せたのは、タエの少なからずな同性としてのプライドだったのかもしれない。
「……鈍いなぁ。多恵果にだってファンの男の子の一人くらい居るでしょうよ?」
「は?」
鈍いと言われる意味が理解出来ずに、疑問符が重なる。恐らくはかなりの不信顔になっていることだろう。眉間の辺りに力が入っているのが判る。
「課題やレポートなんて、デート一回くらい約束すれば、勝手に出来上がってきちゃうでしょ?」
二秒。いや、三秒だったろうか?
タエが八重樫の言葉を理解するには、それほどの時間が必要だった。
「はぁぁ!?」
静まり返った図書室に、タエの怒りにも似た疑問符が響き渡ったのは次の瞬間だった。
「し―っ! 声が大きいっての!」
静けさの中に突如として沸き起こった叫びにも似た声に、半数以上の席が埋まった図書室から痛いような視線が降り注がれて、八重樫が歯を剥き出して威嚇してきた。それでも声を潜めているのは、痛い視線を彼女も共有しているせいだろう。
「八重ちゃん…あんた、まさか?」
タエも視線に気付いて体勢を低くしながら、本の間から垣間見える八重樫を睨みつけた。
「あ〜ら、当然の帰結でしょうよ。あたしより頭が良い男なんて掃いて捨てるほど居るのよ。その中の一人が、あたしの成績の一端を担ってくれるっていうのなら、そのお礼にデート一回くらい安いものじゃない?」
タエは眼だけで空を向いて細かく首を二、三度振った。溜め息も伴ってしまうのは、当然の結果ともいえる。
「河村か? すげぇ量の本だな? 何の勉強だ?」
姿勢を低くして机にへばりつくような会話をしていた二人に、頭上から話し掛けてきた男があった。
「そ〜ら、カモが来た」
ニヤリと笑う八重樫に、ムっと鼻の頭に皺を寄せて返すと、タエは表情を柔らかく笑顔に変えて男を振り仰いだ。引き攣った表情になっていないことを半分は祈ったのだが。
「遠藤くん。ごめんね。うるさかったよね」
「いやぁ、本の中に埋もれてたんで、誰だか分からなかったから」
会話にもなっていないような気がしたが、タエはにっこりと微笑んで、遠藤という男に答えた。
この遠藤なる男は、タエが何度か遊びに行くために足として使ったことがある人物だ。
背がタエと同じ位しかなく、ちょっとずんぐりとした印象を受ける体型。天然パーマの頭は、短めに揃えているためにクリクリと渦を巻いてしまっている。
性格は至って温厚。といえば聞こえは良いが、内向的で派手な事を嫌う小心者。ネクラと言ってしまうとそれまでだが、小ざっぱりとした清涼感は持ち合わせている男でもあった。
「ね、ね、遠藤くん。またも小向教授の試験で二番だったって本当?」
本の山を乗り越えて来るかのように八重樫が身を乗り出してきた。
遠藤が入学当初からタエに気持ちを寄せていたことは、周知の事実だった。地元出身の遠藤は、父親の車を持ち出しては、何度と無くタエとその他の友人を遠隔地の行楽に連れ出していたし、その他の中に八重樫や福江も居たのだ。
タエにしても遠藤の気持ちは知っていたものの、どことなく相性が合わないような気がして二人きりで会うようなことはしてこなかった。そのうちにタエが車を購入してしまったために、今は大学内で会うこと以外、稀になってしまっている。
「八重樫も居たのか? 二番じゃ自慢にもならないよ。一番じゃなきゃ」
えへへと頭を掻く遠藤は、言葉とは裏腹に満更でもなさそうな表情だ。
「ね、ね、遠藤くん。多恵果って、今、すんごい困ってんのよ」
「ちょっと、八重ちゃん!」
先程の八重樫が言った「カモ」発言の意図を悟って、タエは八重樫を押し戻そうと手を伸ばしたが、逆に八重樫がタエの額に右手を当てて押し戻されてしまった。
「困ってる?」
そんな二人のやりとりをキョトンとした表情で遠藤は眺めながら、机の上に手にした荷物を降ろしてタエの横に腰掛けてしまった。
「遠藤くんなら、先月のレポートの没ネタとかあったりしない? 提出には未完成な出来だったとか?」
一瞬、ん?という顔付きをした遠藤だったが、すぐに事情は飲み込めたようだった。ふんっという短い息を吐いて、鞄の中を探り出した。
「一本はあるよ。B判定だろうって思えて次点にしたやつが」
十枚程度が入った透明なセルを引っ張り出して、タエの前に押し出し優しく微笑む遠藤は、「まったく、しょうがない奴だ」とでも言いたげな雰囲気だ。
「やった! それ、多恵果に譲ってくんない? もち、タダなんて言わせないから。朝までデート一回ってことで、どう?」
「ちょ、ちょっと、八重ちゃん!」
タエの事などお構いなしにどんどんと話が進んでいってしまう。
「ええ!? 朝まで? いいの?」
遠藤の表情が一瞬で明るくなってしまった。
「もちろんよ! 天の助けだもん!」
と八重樫は、タエの心を代弁でもしているかのように振舞っている。
確かに、以前のタエであったなら、こんな簡単なことを断るなど愚の骨頂と思っただろう。デート一回に一回のベッドインで進級が約束されるとなれば、冷や汗なのか労働の汗なのか分からないような苦労をして、これからの数時間を真っ白なレポート用紙に向かうなど馬鹿馬鹿しいとさえ思ったかもしれない。
が、今のタエにとって、その選択は異様なほど気分が重かった。
「……遠藤くん。悪いんだけど、その約束は、出来ないや。レポートも自分で何とかするから、気にしないで。変なこと言っちゃってゴメンね」
へへっと笑って見せたが、うまく笑えていない事などタエ自身が自覚している。
「ちょっと、多恵果! 何、馬鹿なこと言ってんのよ。あと三時間も無いんだよ。それで二本のレポートなんて無理に決まってんでしょ」
本の山を崩しそうな勢いで八重樫は身を乗り出してきたのと、遠藤が少し寂しそうな表情をしたのを交互に見ながら、タエは軽く首を振った。
甘えることは簡単で、遠藤と一夜を共にしたからといって、特別な感情が芽生えるはずもない。
それでも、昨夜のユウヤとのことを思い出すと、それだけで他の異性というものがしっくりと自分の中で消化できないような気分だった。
「ごめんね、遠藤くん。また、みんなで遊ぼう。今度は、あたしが運転するから。前に行きたがってた動物園ってのも、今度、計画しようよ」
そう言ったタエの言葉に、すっと眼を細くして遠藤は、笑みを浮かべた。
「そうだね。こっちこそ、余計なお節介して悪かったよ。……動物園、楽しみにしてるから」
平静を装ってはいるが、遠藤はどことなくぎこちない動きで荷物を抱えると、席を立って背を向けて行った。
タエとしても、少なからず心は痛む。
誠実に向かい合ってくれようとしていた遠藤に、気持ちは多少なりともタエには届いていた。それを逆手に利用していたことも、今となっては後悔が先に立つようなことではない。
心の中で遠藤の背に両手を合わせ『ごめんなさい』と謝ってみたものの、動物園に行くような約束が果たされることなど無いのではないかと思えていたりもした。
「ああ〜ぁ、カモを自分から逃がしてどうすんのよ」
呟きにも似た声を追ってみれば、片肘に顎を乗せた八重樫が、再び雑誌のページをめくりだしていた。
「いいの! 今は、男の人と関わりたくないわ。なんか、全部に失望しそう」
タエの言葉に、ちらりと視線を投げた八重樫は、ふんっと鼻を鳴らしただけで、タエが身構える反論はしてこなかった。
ちょっと気が抜けたが、そんな時間を費やしているほどタエに余裕などありはしない。
むっと息を詰めて気合を入れると、片手の専門書を引き寄せた。
「あんたさぁ〜、意気込みだけは買ってあげてもいいけど、それが実績に伴ってこないんじゃ、遠藤くんも救われないんじゃないかな?」
遠藤が去って二時間という時間が流れたが、タエのレポート用紙は、数行の文字列を並べただけで、とても進展しているとは言い難いものだ。
それに対しての八重樫の言葉だが、タエにはそれに反論する言葉が見つからない。
時刻にして既に午後の五時になろうとしている。
図書室の中も閑散としだしてきている中で、タエと八重樫は二時間前と寸分変わらぬ位置で過ごしてしまっているのだった。
「最終通告だかんね。もう、料理本レシピみたいなレポートじゃ許してもらえないだろうし。こりゃ、落第決定だね。来年からは後輩ってわけだ。気にしなくても今まで通り、ちゃんと付き合うよ、後輩くん」
既に隅々まで読破してしまった雑誌をヒラヒラさせて八重樫は、ケケケっと笑ってみせた。
そんな八重樫を恨めしそうに睨みながらも、タエには言葉も無い。
ここまでくると、さすがに進退窮まったと言わざる負えないのは確かだ。
「今からでも遠藤くんを呼び戻そうか?」
携帯を取り出す八重樫に、反射的にタエは首を振った。
それをしてしまうと、きっと今の自分は戻ってこない。そして、これからの自分も、きっと変わってしまう。
例え落第しても、今の自分はユウヤの傍に居ても拒まれない存在のはずだ。それが、何かの切っ掛けで変わってしまうのは、タエの中では我慢できない程の苦痛に思えた。
「まったく、来嶋って人にあたしも抱かれてみたいわ。多恵果の人生観を一夜で変えちゃうんだから」
「なに言ってんのよ! ダメに決まって……」
そこまで言って、ニヤ付いている八重樫と眼が合った。
からかわれたと知って、タエは口を尖らせて天を仰いだが、八重樫の含んだような笑い声は耳に届いていた。
そんなやり取りをしている時に、構内放送のスピーカーが耳障りな雑音を発した。
「……こうか? ええぇ〜、海洋生態学科の小向である。河村 多恵果。至急、わたしの教授室まで出頭しなさい。猶予は十分です。……これで、いいのか? ……以上!!」
とても構内に流すような口調の放送では無かったが、タエはスピーカーを恨めしそうに眺めたまま深い溜め息を吐いて肩を落とした。
「あ〜りゃりゃ、締め切りが一時間、短縮されちゃったわね。素直に出頭しなさいな」
八重樫は冷やかに肩を竦めて見せた。
それを見て、タエは一層、深い溜め息を吐いて重い身体を起こした。
「犯罪者じゃないんだから、出頭ってことないでしょ…」
呟いてみたが、八重樫の耳には届いていないのか
「この本の山は、あたしが片付けておいてあげる。お礼は……後で考えておくわ」
と言って、右手をヒラヒラと振って見せた。
海洋生態学の研究室は、大学の最上階。北側の角にある。
五階建ての大学は、一種、独特の階層になっている。四階までは、学部や講義の教室が大半を占め、その中に図書施設や実習室などが点在している。が、五階は専門学部の研究室だけが入るフロアなのだ。
畜産研究室、海洋生物室、小動物生態研究室、昆虫学室、爬虫類生態学室等々、教授専門学部の研究室が立ち並ぶ。
海洋生態学部の研究室は、その中でも一番奥に位置しているのだった。
タエは、ドアの前で大きく一度、息を吸い込んで息を詰め、グッと握った右手でドアをノックした。
中からの応答は無い。
いつものことだと、詰めた息を吐き出して、タエはドアを開けた。
中には男女十名ほどが、パソコンに向かっていたり、ぶ厚い専門書を読み耽っていたり、地図を片手にあれこれとチェックを入れたりと、それなりに忙しそうだ。
ここには、来訪者を歓迎してくれたり疎ましく思ったりする輩は、誰一人としていない。自分のすることに夢中で、タエの存在すら気にしてくれもしない。
「失礼しま〜す」
と礼儀的には言ってみたものの、視線を向ける者もいないのは、ちょっと無視され過ぎな感じだが、いつ来ても、ここはこんな感じだ。
それでも、狭い室内を奥へと歩いて行かなければ最深部に位置する『教授室』に辿り着かないわけだが、タエが歩くスペースは自然と空間が開いて行くところをみれば、存在そのものを無視されているわけではなさそうである。
『教授室』とドアに大きなプレートが張られている前で、タエは大きくもう一度息を吸い込んだ。
どういった言い訳にしろ、手元に何も持たない状況では、どう考えても悲観的観測以外に予測はつかない。
背中で、一瞬だったが、タエの呼吸に呼応するように動きが止まったような人たちの気配がしたが、タエは気にしない素振りでドアをノックした。
「入りなさい」
二度のノックの合間に、中から小向教授の神経質そうな声が返ってきた。
詰めた息を吐いて、タエはドアを開けて中に入った。
乱雑とした書籍は、本棚があるにも関わらず、その辺に無秩序に積み重ねられ、人が歩くスペースが設けられているだけのような室内の一番奥に、大きな机だけが見える。
本棚からはみ出したというわけではない。単に本棚を使わずに地べたに置かれた専門書達は、不平を言うことが出来たのなら、自分達の待遇に文句のひとつも言うことだろう。
本棚の殆どは空席のまま、埃の積もる棚と化しているのだから、もしかすると、本来の役目を当初から果たされたことも無いのかも知れない。
「失礼いたします。河村です」
言いながら近づいて、お辞儀をひとつした。深々という感じではないものの、一応は数秒という長い時間を掛けて頭を下げた。
小向教授は、タエに背中を向けるように、壁に大きく切り取られた窓から外を見るように立っているようだが、その右手に結構厚い紙片を持っていて、それに視線を落としているようにも見える。
「君の学習態度は、ここにきて最悪と言わざる負えない状況になっていると思ってました」
こちらを見ることも無く、小向教授は溜め息にも似た声で言った。
男性にしては、少し甲高いような声が、タエにはあまり好ましくないと思えるのは、入学当時から変わらない印象だ。
「試験の結果は最低だし、レポートも満足に提出しない。講義の出席も半分以下だし、勉強をする態度というには、あまりにも不真面目すぎる。ここ半年で、B判定を受けるような提出物も無い」
大きく肩を落とす小向教授の背中は、言わずものがな落胆の表現だ。
身に覚えが有り過ぎるタエには、甘んじてそれを聞く以外に術は無く、落とした視線に綿埃の塊りが数個転がっている。
掃除すらされていないのかも知れない。
「このままで進学させるなど、さすがのわたしでも差し支えると思っていたところだ」
そこで小向教授は、こちらを向くと、手にしていた紙片を重々しく机に置いて付属の椅子に腰掛けた。
「申し訳ありません! もう少し、時間をいただければ、それなりの物を提出したいのですが!」
こうも印象の悪さを連発されては、タエにこれ以上の何が言えるだろう。
小向教授が並べ立てた事柄については、痛いほどの事実に他ならないのだから。
「ん? いやいや、これで十分だよ。わたしは、どうやら少し河村くんのことを誤解していたのかもしれない」
「……は?」
神経質っぽい声が、少し和らいだように聞こえたのは、タエの耳がおかしくなったわけではない。
下げた頭を元に戻して小向教授を見ても、机の上に置いた紙片をめくりながら悦に入ったような表情だ。
「確かに、今までの君の勉学態度は褒められたものではないが、こういった分野に興味があったとは、わたしとしてもちょっとした驚きだ。専門分野的には違いはあるが、基本理念は同じと言っても良いからね」
半分ほど白くなった頭をポンポンと叩きながら、小柄な痩せぎすの身体を何度か椅子に押し付けて、小向教授はタエに笑い掛けた。
「はぁ…」
何を言われているのかも分からず、タエは曖昧な生返事を返した。
小向教授の言っていることが、単語ひとつも理解できない。
「まぁ、こちらの『海流によるカニの分布と産卵場所』というのは、陳腐で底が浅く、決定的に資料不足だった。海流そのものも参考資料が古いし、時期的考察も海水温と合致しない面も多くて無理矢理だ。B判定には苦しいな」
そう言って傍らのサイドボードから、雑然としたゴミ箱のような状態の一番上の紙片を取り上げて、小向教授は顔をしかめて見せた。
「は!? ええ! それを、どこで!?」
小向教授が片手でヒラヒラさせているものは、確か昼前に自宅から持ってくるのを忘れた…というより諦めたものではなかったろうか?
それが今、タエの知らぬうちに小向教授の手の中にあるのだ。
「ああん? 君ね、こういった大事なものを忘れて来るなんて、うっかりと言うには重症だよ。たまたま、お兄さんが気が付いて届けてくれたから良かったようなものの、今日中に提出できなけりゃ、君の進級にも影響したんだからね」
「お兄さん!?」
タエが驚くのも無理はない。
タエには、確かに兄弟は存在するが、それは弟が二人だ。それも、未だ高校生で、現在は故郷の千葉で学校生活を営んでいるだろう。
一瞬で頭を巡らせたものの、今日という日にタエの自宅から、あのレポートを手に出来た人物は、たった一人しか思い浮かばない。
ユウヤだ。
ユウヤが、タエの気が付かぬうちにレポートを持ち出し、兄と称して小向教授を訪ねたに違いないだろう。
「あの、その人…いえ、兄は何処に?」
「これを置いて帰ったよ。君が、如何にこのレポートに取り組んだか、ちゃんと説明してね」
机の上に置かれた紙片を、これまたポンポンと叩いて、小向教授はウンウンと何度も頷いてみせる。が、タエには、それが何かも分からない。
「あの…それは…」
良く見れば、タエの書いた『海流によるカニの分布と産卵場所』というレポートの倍はあろうかという枚数のレポート用紙だ。まさかユウヤは『おいしいカニピラフのレシピ』までも提出したのかと内心、青くなりかけた。
「実にすばらしいと言えるレポートだ。『海洋生物の絶滅危惧種における要因と分布、及び、地球温暖化における絶滅危惧種の生活圏の考察』 これには、わたしも脱帽だ」
「え?」
身に覚えがないというより、聞いたことすらない。
確かに考えたことくらいはあるかもだが、それをレポートにまでする意識は、タエには無かったろう。
「まず、着眼点が良い。地上における絶滅危惧種の調査は、世界でも盛んに行われている。その数も多くは示され、一日に三種類の生物が絶滅しているとも言われている。サイやゾウ、オランウータンなど代表的なものは君も知っているだろう。昆虫などは、その際たるものだ。だが、海に生きる生物においての絶滅危惧種の調査は、特定のものしか視野に入っていない。ウミガメを筆頭にジュゴンやラッコ、クジラの幾つかがその典型だな。それ以外は、調査の対象にもされてこなかった」
う〜んと唸るような感じで腕を組む小向教授は、歳相応の五十代前半の顔を少し歪めた。
「今年になって、やっと環境省が調査の一端を始めるようだが、その着手も既に手遅れと言っても良い。確実に絶滅していくであろう種は、調査の結果を待つことなくその姿を消すだろう」
「はぁ…」
合いの手を入れていいものかどうか迷ったが、黙って立ち尽くしているのも、何だか変な感じになりそうで、タエは気の抜けた返事を返した。
「君のレポートにあるアザラシによる害獣駆除関連については、少なからず私的な意見が混じっているが、人間の手による餌場の不足と温暖化による海水温変化によっての魚の回遊変化には、一応の説得力はあった。それよりも、サメに関する行動領域変化とその数の減少は興味深い。確かに凶暴で危険な種であるが、君のレポートのデータ通りに、今やその数がここ数年で激減しているものも少なくない。ハンマーヘッドやイトマキエイも特定の場所でしか生息できなくなっている。このデータは、わたしも参考にしたい。それに、極限の生物として名高いイッカク。温暖化によりその生活圏は、見事に縮小してきている。イヌイットによる検証は浅いが、五万頭と言われていた数が、今では三万頭とは驚いた。ここまで良く纏めたものだ」
小向教授が連ねる事柄に、何一つピンとこないタエには、どういった反応を示して良いのかすら判断できない。
講義の一端や延長線上で、絶滅危惧種を論じた講義はあった。が、それは、鮮明なデータを取った上での論理ではなく、推定の上での空論がほとんどであった。
サメに関しても記憶にある。
多くのサメは、海流に沿って移動することは稀に近い。それが近年、温暖化の影響だろうか、日本近海の寒流地帯だと思われている範囲にも大型のホウジロやアオザメなどが確認されるようになってきていると聞いた。
巨大なエチゼンクラゲなどは、今や北海道の北にまで出没するようになり、その環境の変化は生態系の生活圏までも大きく変化させているという。
「これは、ある意味で先駆け的な分野と言って良い。もう少しデータを絞り、環境データも揃ってくれば、論文としての価値も見出せるものだ。君が、ここまで考えてデータを積み上げて、ここまでのレポートを書き上げるとは、わたしとしても看破できなかった。いや、誠にすまない」
頭を机に押し付けるような仕草で下げる小向教授は、真摯にタエに謝罪しているようだ。
「い、いいえ! そんなこと、なさらないで下さい!! あの、あたし…」
慌てたのはタエの方だ。
書いた覚えもないレポートが、過大評価なのか分からないが絶賛されてしまっている。それが自分の所業だというのだから、尚更に頭など下げられてしまっては、タエの良心が痛む。
「どうだね? これを、もう少し進めてみて、来年度の論文として発表してみる気はないか?」
タエの言葉を遮って、小向教授は頭を勢い良く上げると、机に身体を乗せるように迫ってきた。
タエとしては、そのレポートが自分のものでは無いことを白状する機会のように思えたが、小向教授の勢いは、そんなタエの弱い心理など吹き飛ばしてしまうような勢いだ。
「論文なんて無理です! それに、そのレポートだって…と、盗作かもしれませんよ」
自分で書いたものではない。と言いたいが、それを言ってしまうには、ちょっとした勇気が必要だったために、タエの口からはそんな言葉になってしまった。
一瞬、小向教授の表情がキョトンとしたものになったが、フーっと息を吐いて、椅子に身体を沈めてみせた。
タエの想像でしかないが、そのレポートを書き上げたのは、ユウヤだろう。
ユウヤにそれほどの専門知識が無いとは言い切れないが、少なくとも大学教授を唸らせるようなものを書き上げられるとは言い難い。とするならば、ユウヤも誰かのレポートなり論文なりを参考にして、もしくは、丸々盗作して書き上げたという方が想像しやすい。
「まぁ、君の謙遜もわからんではない。いきなり論文というのもわたしの早急だろうしね。だが、このサメの分布図や温暖化によるイッカクの生活圏分布、アザラシの捕食領域変化分布などは、ここ一、二年のデータだろ? 特に海洋生物学に於いて、大学側が政府関連から降りる予算は微々たるものだ。それにより各国の研究者も自国近隣の調査しか出来ない現状にある。そのデータを集め、パズルのように当てはめていく作業は、かなり根気のいる作業だったろうと君のお兄さんも言っていたよ。これは、A評価…いや、それ以上のS評価でも良い」
これはどうしたものだろう? という気分にタエはなっていた。
今、ここで「それは、あたしの書いたものではありません」と言い放つことは、いたって簡単なことではある。しかし、それは、自分の進級を諦めてしまう結果に直結してしまう。かと言って、このまま嘘を付き続けてしまうというのも、タエにとっては良心の呵責に堪えられるものになるのだろうか。
何も答えないタエを、小向教授はどう思ったのか
「いやいや、すまない。過度の期待をするわけではないが、君にその気があるのなら、今後のことも素直に考えて欲しい。少なくとも河村くんには、まだ二年という学校生活が残っている。その間に、この研究を進めることも考えてほしい」
と、穏やかな口調で言った。まるで子供想いの親が諭すような感じでもある。
「とりあえずは、直接、君に評価を告げたかっただけだ。文句無く進級だ。もう、いいよ」
「ええぇ!!」と言いたい心境は抑えて、ウルウルしそうな両目を閉じて一礼すると、そそくさと教授に背を向けた。
「よ〜く、考えてくれたまえよ!」
と、背中に小向教授の甲高い声が追い掛けてきたが、無反応のままドアを閉めた。
急ぎ足で教室を抜けて廊下に飛び出してみたものの、タエの心の中は、進級の嬉しさなのか、本当のことを言いだせなかった良心の呵責のせいなのか、その判別は難しそうだった。
「ほんじゃ、まぁ、カンパーイってことで!」
まだ七時を回ったばかりの店内は、賑やかにグラスを合わせる三人の女性客以外は誰も無く、閑散とした空間に静かなBGMが流れているだけだ。
「乾杯はいいけど、どうしてここかな?」
八重樫の明るい乾杯の音頭で、釣られてグラスを差し出したものの、タエには少々不満があるようだ。
「あによ〜。折角、留年を免れたお祝いをしてあげようってのに、場所の文句を言うわけ?」
グイっとグラスの半分を一気飲みした八重樫は、口元を片手で拭きながらタエを睨んだ。
「そんなんじゃないけど、どうしてあたしの職場でもある『ムーン』なのかって聞いてるの」
小向教授の部屋から戻ったタエは、校舎の入り口付近で待っていた八重樫に、とりあえず進級できることになったと報告した。真相はどうあれ、留年にならなかったことだけは確かなので、そのことを告げただけなのだが、八重樫の方は、タエのことが余程心配だったのか、キャーキャーとはしゃいで祝勝会をやろうと言い出した。
挙句に福江にまで電話を掛けて呼び出し、手近な男を捕まえて暗くなり始めた繁華街まで送らせるという暴挙を成し遂げてしまった。それでも、降りる時に男の唇に軽くキスするサービスくらいはしたのだが…。
店を指定しない八重樫に付いて行く形になるタエだが、勝手知ったる繁華街である。不安などありはしない。が、着いた先は、タエの勤める『ムーン』だとは思いもしなかっただけのことである。
店の前まで来ると、福江が不満顔で立っていたが、それにも八重樫は笑顔といつものお触りで交わして、店内へと導いてしまった。
「なに言ってんのよ。マスターだって心配だったでしょうよ。店子の進級が危うかったなんて。その報告だと思えば、当然の帰結じゃん」
「ちょっと、八重ちゃん! マスター、知らないんだから……」
慌てて唇に人差し指を持って行ったが、タエ達以外に客の居ない店内に八重樫の声は隅々まで行き渡ってしまっていた。
「なに〜! ちょっとちょっと、タエちゃん。穏やかな話じゃないね? どういうことだい?」
飲み物を出し終え、小鉢にツマミをよそっていたマスターが菜箸を片手に飛び出してきた。
わちゃ〜っと頭を抱えるタエに、ケラケラ笑う八重樫と穏やかにグラスを傾ける福江は、冷やかに眼を細めるだけで助け舟を出すような素振りも見せない。
「まさか、落第とか留年とか言うんじゃないだろうね?」
仁王立ちするマスターは、今にも菜箸でも振り回しそうな目付きだ。
アルバイトの店子とはいえ、タエは店の客受けも良く、この頃はタエ目当ての客も多くなってきている。性質の悪い客や手の早い客なども少なくない中、マスターは神経を尖らせてタエに悪い虫が付かない様に勤めてもきた。この数週間で、タエを少なからず娘のように思えてきているのも正直な気持ちなのだろう。
そんな娘が、勤めを頑張るあまりに勉強が疎かになっていたとするのなら、親の気持ちとして、ささやかな叱責の念を持ったとしても仕方の無いことかもしれない。
「いえ…その、危なかったことは…確かなんですけど…一応、大丈夫というか…」
タエとしても、そんなマスターの親心的心配を理解できるだけに、悪戯を見つかった子供のようにしどろもどろで言葉が旨く繋がらない。
「はっきりしなさい!!」
とうとう菜箸をグルグルと振り回し始めたマスターは、今までタエが聞いた事も無いような大声で怒鳴った。
自然と肩を竦めて眼を閉じたのは、実の親に叱られた数年前以来だろう。
「マスター。ちゃんと進級できたから、怒らないの。その祝勝会なんだから。一応は、マスターにも報告しとこうと思って、場所をここにしたの」
八重樫がグラスの残りを煽って、一息吐いてからマスターをなだめた。
「ギリギリセーフか?」
一度、火が付いたものを鎮めるのにも時間が必要なのか、マスターの口調はまだ荒い。
「さて? 聞いた話では、遅ればせながら提出したレポートが、一足飛びのS評価とか。とすると、ギリギリセーフどころか余裕の逆転ホームランって感じじゃん?」
グラスをバットに見立てて大きくスウィングさせる八重樫を、タエは困った顔で押さえ付けた。
「ちょっと八重ちゃん。大袈裟に言わないで」
「S評価ですってぇ!? あの小向先生からぁ? 信じらんな〜い!!」
今までニコニコとグラスの中身を舐めていた福江が、驚きの声を挙げた。とは言っても、本人の表情からは、満面の笑みしか浮かんでいない。強いて驚いたような表情の一部は、大きく見開かれた両目くらいのものだろう。
「信じらんな〜いつったって、本当なんでしょ? 多恵果?」
二人、いや三人の注目を浴びて、タエ自身、どう答えたものかと迷った。
確かにS評価を貰ったことは事実なのだが、その賛辞は自分に向けられたものでは無く、本来であるのなら作成した本人、多分、ユウヤのものであるはずなのだ。が、それを言うとすると、結局は図書室で八重樫が提案した安易な策を自分自身も使ってしまったことを白状することになる。
「い、一応…そう言われたけど…」
そう呟くように言って俯く位が関の山だった。
「すんごいねぇ、タエちゃん! きっと、今期でS評価受けたのタエちゃんだけだよぅ!!」
「え!? そうなの? 優等生のナカタやコイワイとかは? 自信有り有りって感じだったけど?」
「小向先生は、滅多なことじゃぁS評価くれないよぅ。データや図解がいくら優秀でも、独創性とそれが現実のデータにマッチしてないと評価もしてくれないもん。ちゃんとしたデータの裏付けとぉ、そこから推測される形式やら未来やらを、矛盾なく説明できなきゃなんないの。かなりの難関なんだよぉ」
「Sってのは、そんなに凄いことなのかい?」
「普段はぁ、C、B、Aって上がっていくんですぅ。でもぉ、その上のスペシャル評価ってのがぁ、S評価なんですぅ」
「年間でも数人しか貰えないし、教授によっては出さない主義の人もいるし、そのレポートを更に進めて論文にして発表することもあるみたいだし。とにかく、最優秀賞みたいなもんかな?」
三者三様に会話を進めてしまっているが、その話の中心であるタエには、なんとも肩身の狭い話題でもある。
下を向いたまま「はは…」とか「へへ…」とかしか口から出てこない。
「そうか! 大したもんだ! よ〜し、ちょっと待ってなさい。お祝いに華を添えよう!」
マスターなどは、まるで百点を取ってきた娘を、よしよしと褒めるようにタエの頭を撫でて、店を放って走り出て行く始末である。
「え!? ちょっと! マスター! お客さん、来たらどうするんです!?」
タエの呼びかけにも
「そんなもん、待たしとけ!!」
という捨てゼリフを残して、ドアの向こうへと消え去ってしまった。
「や〜れやれ。いくら店子だって言っても過保護過ぎだっての」
空のグラスを弄びながら八重樫は、やれやれと首を振って見せた。
「ところで多恵果」
僅かばかりの沈黙が流れた後に、八重樫がタエに向き直った。
「なに?」
手持ち無沙汰そうな八重樫に、おかわりでもと立ち上がったタエは、ちょっと振り向いて返事をした。
「あの時間まで形にもなりそうになかったレポートが、教授の部屋まで行く間にS評価を受けるまでに完成されてしまうってのは、どう考えても理屈に合わないわよね?」
ビールサーバーの前にまで歩いていたタエの背中に投げ掛けられたものは、疑問というより疑惑というニュアンスに聞こえる。
タエの動きも一瞬で止まって、ゆっくりとした動作で八重樫を振り返ったものの、苦笑いにも似た表情では、その疑惑に確証という二文字を裏づけしたようなものだろう。
してやったりと腕を組む八重樫の表情は、顎をツンと挙げて見下したような視線だ。背もたれに身体を預ける体勢も八重樫の美貌では様になり過ぎていて、女王様に見える。
「遠藤君を断ったのは、ちゃんと自分で違う人を確保してたってこと? それもS評価受けるくらい優秀な人だって言うんだから、多恵果も案外、角に置けないよねぇ」
最後の「ねぇ」は、完全に嫌味を含ませた物言いだが、タエの背中は既に汗ばむくらいにじっとりとしてきていた。
頭の中では、どう取り繕ったものかフル回転しているが、旨い言い訳などあるわけがない。呼び出される寸前まで一緒だった八重樫には、タエが手ぶらだったことを確認されているのだから。
「タエちゃん? インチキしたのぅ?」
小首を傾げて可愛く質問してくる福江だが、目付きは疑いを持って細くなっている。
この二人に嘘を突き通すことなど出来るとは思えないし、タエがS評価を貰えるほど優秀でないことも明白だ。
タエは、ガックリと肩を落とすと覚悟を決めた。
ふうっと重い溜め息を吐くと
「その通りです」
と頭を下げた。
そのままビールサーバーに向かい、新しいグラスにビールを注ぐと、八重樫に手渡して席に着いた。
「インチキって言えば、確かにそうだけど…自分から進んでしたわけじゃないのよ。信じてもらえないかもしれないけど…」
タエは、首までもがっくりと落として、上目遣いで二人を見た。観念した表情というより、イジケた子供のようでもある。
「インチキは、いけない事だけどぉ、今度のことはタエちゃんも切羽詰ってたんだからぁ、大目にみてもいいかなぁ?」
多少の同情的発言をする福江だが、表情そのものは不服顔だ。
「ば〜か。重要なのは、そんなことじゃないっつ〜の。さぁ、多恵果、白状なさい。誰にゴーストライターしてもらったの?」
「白状って…そんな悪い事…なんだけど…」
椅子ごと詰め寄る八重樫にタジタジとしながらも、タエは不平を口にした。なんだか取調べを受けている犯罪者のような気分になってしまう。厳密に言えば、軽い犯罪なのかもしれないが…。
「さぁ、さっさと言うの。ナカタ? コイワイ? それともシゲノ? まさか、東大蹴って来た異色の天才、ハガ先輩?」
八重樫は、ここぞとばかりに学内でも成績上位の男達の名前を連発する。成績そのものに興味のあまり無いタエだが、他人の口から幾度となく聞いたことがある名前ばかりだ。
実際に顔見知りで話したことがあるのは、同じ講義を受けているシゲノくらいなものだが。
「ミッチュは、どっか違った目的のためにぃ、その正体が知りたいみたいだけどぉ?」
そのやりとりを呆れ顔で見詰めながら、福江は未だに半分と減らないグラスを舐めていた。
「あ〜ら、失礼ね。来期の中間評価で、あたしもS評価が欲しいだけじゃない」
ガクッとずっこけるのは、タエも福江も同じだった。どんな意向の詮議なのかと思えば、出来の良いキープ君を知りたいだけのことだ。旨く自分の美貌でたらしこめればという魂胆だろう。
「ミッチュってぇ、自分のためなら犯罪をも正当化しちゃう危ない人だよねぇ」
それはそれは深い溜め息と共に、福江は首を振った。つられてタエまでも溜め息が出た。
「あ〜に言ってのよ。結果が求められるものに、その過程までとやかく言われる必要ないでしょ? 終わり良ければ、全て良しよ!」
「危ない思想家や宗教家がぁ、良く言う言葉だよねぇ」
「福子だって言えないでしょうよ。あんなマッドな小向教授と話が合うんだから!」
「あたしはぁ、聞いてるだけだもん。ミッチュの論法だとぉ、人を助けたけどぉ、その過程に人を殺しても正当化されるぅっていう危険思想だもん」
「正当防衛なら正当化されるもん!」
威風堂々と胸を張る八重樫に、福江はクラクラするように頭をフラフラさせた。
「八重ちゃん。福ちゃんは、罪の意識ってことが言いたいの。どんな正しい事だって、その途中に間違いがあったとするなら、その罪の重さに良心が痛むでしょ?」
さすがに黙っていられずに助け舟を出すタエだったが、ニヤリと笑む八重樫は
「その言葉を多恵果が言うのは、今はとっても変じゃない?」
と言ってのけた。
「え? ああぁ…」とヤブヘビになってしまった発言を後悔しながら、クスリと鼻で笑えた。同じように八重樫もクスクスと笑いを漏らしている。
大袈裟な例え話になったが、現実にそんなことが起こったとしても、八重樫がそんな風に思うわけがないことくらい、タエや福江には解っていることだ。
ただ、言葉で遊んでいるようなもので、お互いの言葉に反応しているだけの戯れに過ぎない。
「で? 本当の正体は、誰なの?」
仕切り直しのように、改めてグラスに一口付けて八重樫がタエに聞いてきた。
少し笑えたこともあって、気分は幾らか和らいだが、さてどうしたものか? と考えてしまう。
「そんなに言い難い人なわけ? まさか!? 教授の中の誰か!?」
「ちょっと! 冗談じゃないわよ。変に突拍子も無いこと考えないで!」
放っておくと八重樫の妄想は、際限なく大きくなりそうだ。
タエは、眉間に皺を寄せ、その部分を人差し指で掻きながら「んん〜ん」と唸って
「昨夜、八重ちゃんも会った人…」
とだけ言った。
「へ!?」
聞いた八重樫は、一瞬、綺麗な二重の瞳を大きく見開いてポカンとした顔を作ったが、すぐに眉を寄せて視線を空に投げた。恐らくは、昨日に会った人物の顔が、物凄い勢いで浮かんでは消えていっていることだろう。
「昨夜って…多恵果に会ったのは…あのレストランだし…。ん? ちょっと待って!? まさか!? あの、いい男!? えっと…え〜と、キジマ…キジマ ユウヤ!!」
思い出したことに驚いたのか、ゴーストライターの正体に驚いたのか、八重樫の叫びにも似た声は、突き出した右手でタエを指差すというオマケまで付いて、その力の入り具合を現している。
指差されたタエの方は、短くフッと息を吐いて、小さく二度、三度と頷く程度だった。ただ、ちょっとふくれたように唇がアヒルのように突き出してしまっているのは、複雑な心境の体現だったろうか。
「マジですか〜? 一体全体、何者なのよ、来嶋 裕也」
賛美のニュアンスではない。どちらかと言えば呆れたという感じの音色だろう。
けれど、八重樫の気持ちも分からなくは無い。
エリートサラリーマンという印象でしかない八重樫には、専門色濃い大学のレポートまでをもこなしてしまうユウヤが、異色の世界の人物に感じてしまうのかもしれない。
タエ自身も、その感覚は多少ある。が、今までに話してきた中に、それとなくユウヤの知識の広さみたいなものが感じ取れないこともない。
だからといって……という気分は拭えないが。
「あたしも確かめたわけじゃないから、ユウちゃんだとは確実に言えないんだけど。昨日から今日で、あたしの部屋から、あたしの書いたレポート持ち出せるのって他にいないし…」
「んん〜、腕利きの営業マンで、多恵果を気絶させちゃう奴で、大学生のレポートをS評価受けちゃう奴で、オマケにいい男って、非の打ち所がないわね〜」
「ちょ、ちょっと八重ちゃん。気絶させちゃうは余計」
八重樫の言葉で、忘れ掛けていたことが思い出されて、一瞬で顔が熱くなった。片手を頬に当てても、グングン上がる体温が分かる。
「ちょっとぉ、いいですかぁ?」
今まで黙って二人の掛け合いを眺めていた福江が、不満げな顔で口を尖らせた。
「あ? なに?」
「どうしたの? 福ちゃん」
ちょっと存在を忘れていたタエは、八重樫の不遜な返事に眼で叱り付けて、福江に笑いかけた。
「キジマ ユウヤってぇ、だれ?」
一瞬の沈黙の後、吹き出して笑うタエと八重樫を、右の頬を膨らませて怒ったような顔をする福江は、小さな子供のような拗ね方で、一層の笑いを誘った。
つづく