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ユウヤ 第二夜 1

永らくお待たせしてしまいました。

やっと戻って来られました。


言い訳はいたしません。いたしませんが、見捨てていない方々。

本当にすいませんでした。


ユウヤの二夜の始まりです。


 眠ったというより、まどろんだという感じだろうか。

 眠れなかったというわけではない。きっと眼を閉じたなら、眠りに落ちることは簡単だったろうと思う。が、それをしてしまうには、惜しい気がするのと、再び悪夢を見ないとも限らない恐怖心から、うつらうつらとしながら、朝の太陽が顔を出すのを迎えてしまったと言っていい。

 ただ、傍らに人の温もりがあることに不自然さを感じながらも、抱き締めてしまいたいほどの愛おしさも同時に感じている。

 先程まで腕枕をしていたのにも関わらず、腕に痺れたような感覚が無い。これにもちょっとした驚きであった。

 時折、寝返りをするタエを見ながら、うっすらと明け行く窓外を眺めているのも悪くはない気がする。静かな寝息が、忘れていた二人で感じられる安堵感を呼び起こされたようで、肋骨の合わせ目が軋んだような痛みを断続的に送ってきていた。

 キングベットが幸いなのか不幸なのか、タエは何度かクルクルと回るように寝返ってユウヤの腕から外れてしまった。

 前に聞いたことがあるが、女性が好むと信じられている『腕枕』なるものは、実のところそれほど寝易いものでは無いそうだ。

 行為の終わった後にも包まれていたいと思う気持ちの現れのようなもので、本気で眠るとなれば意外と邪魔な存在なんだそうだ。

 ふと、そんなことを思い出して可笑しくなってしまうのも久し振りの感覚かもしれない。

 女の子の話しによれば、男性の腕が痺れないような眠り方もあるんだそうだ。聞きだそうとしたが、実践すると言ってきかなかったもので、丁重に辞退申し上げたが、もしかするとタエも習得しているのかもしれない。

 時計の表示は午前の五時半を少し回った程度だ。

 この季節になると、一日が過ぎると数分単位で陽が長くなる。北東向きの窓から差し込む光りは、タエが二度ほどコロコロと寝返るうちにすっかり明け切ってしまっていた。

 耳元でヴーンと唸り音がしたのは、そんな油断した状態の時だった。

 咄嗟に掴んだものの、急激な動きでタエが起きることも考えて、掴み挙げてから静かに動いて携帯のモニターを確認する。

 滅多なことで、この時間に電話などありえない。ということは、何か不幸があったか、それとも猶予が無いトラブルが発生したかだ。

 モニターには会社の部長の名前が浮き出していた。

 ベッドを出てしまおうかと身体を少しズリ上げたところで、タエが転がってきてすり寄ってきてしまった。

 これでは、動いてしまえば眼を覚まし兼ねない。ユウヤの体勢といえば、枕を背もたれにしたような、ちょっとだらしない格好だ。が、こうなっては仕方ない。諦めて携帯のボタンを押して耳に当てた。

「おはよ〜」

 妙に明るい声に拍子抜けするほどの声が聞こえてきた。

 どうやらトラブルという感じではない。

「おはようございます。どうしました?」

 なるべく静かなトーンで、大きな声を出さないように心掛けた。

 タエをチラリと見れば、静かな寝息で子猫のように丸まり掛けてしまっている。どうやら起きるようなことも無さそうだ。

「おやおや? 声を潜めるってことは、傍で誰かが寝てますか?」

 返って来た言葉は、どこか面白がっているような感じに怪しんだ声だ。

「そうかもしれませんけど、余計な感心を持たれたくありませんね。それより、どうしたんだ? こんな早くに起きてるなんて珍しい。っていうより、寝てないのか?」

 いきなり横柄に変化したユウヤの口調に、電話口の主は短く「ちっ」と舌打ちしたのが聞こえた。どうやら、ユウヤの指摘が的中していたらしい。

「ちょっとしたトラブルがあってね。思ったより手間取っちゃって、結局、こんな時間」

 電話の相手は『大城物産』の部長。

 ユウヤの学生時代の一学年先輩でもある。性別は女性。既に三十路を目前にして独身であり、ユウヤの知る限りでは結婚の二文字に辿り着くような身近な関係の男性の影も無い。

「どうして連絡してこないかな?」

 嫌味も込めたつもりの声にしたかったが、潜めたような声では侭ならなかった。

「あたしのミスだったからね。ユウに処理してもらうってわけにはいかないわ。それにデートの邪魔になってたでしょうし?」

「嫌味のつもりか? 変に無理することもないと思うけど?」

「あ〜に言ってんのよ。ユウに遠慮するほどの付き合いじゃないし、あたしにだって、ミスを埋めるくらいのフォローくらいできるっての」

 耳が隠れる程度の短い髪を掻き揚げる仕草が思い浮かぶ。少し丸顔な輪郭が、学生時代よりやや痩せた首筋までを浮かばせる。

 真面目の前に生が付くほどの生真面目な性格は、ちょっとしたミスも気になってしまうが故に、ユウヤが入社するまでの苦労は計り知れない。

 無責任な社長が食い散らかした会社は、決算を待たずして破綻の二文字を突きつけられ、社員の大半を失ってしまった中で、事務しかしていなかった彼女に名目上の『部長』職を与えただけで姿を眩ました社長の代わりに、会社運営にまで従事させられていた彼女の手腕は、推し量ってもそれに見合うだけの想像はできない。

「うまく行ったの?」

「大丈夫! あたしに間違いはないって!」

 自信満々な返事が返って来たってことは、二重三重の確認作業が既に行われていることだろう。

「んで? 暇になってモーニングコール?」

「ん? ちょっと声が聞きたかっただけ。っていうか、あんた、敬語くらい使いなさいよ」

「今はプライベートでしょ? 就業時間以外で敬語なんて使いたくないよ」

「だよね」という軽い返事が耳元に心地良い。彼女と話すと、何故だか学生時代に戻ってしまいそうな不安定さを感じてしまう。硬派を気取って口数少なく無愛想で強がっていた昔。何も知らない、馬鹿な自分がそこに居て、その場所に連れ戻されてしまいそうな感覚に、嫌悪感を憶えながらもどこかで懐かしがっている自分も存在しているのだろう。

「そうだ。集荷伝票が上がってきてるから、ユウの分は今日中にチェックしておいてね。来週にはこっちに居られないんだから」

 仕事中とはまた違う口調が、久し振りに聞いて変な感じだ。

 この頃は会社以外で会うような機会も稀有になってきていた。そのために業務的な口調ばかりを聞いていたような気がする。

「へいへい。気が向いたらやっときます」

「出てきたら、すぐにやんな! んで、今までのことも報告しな!」

「ん? 何を報告しろって?」

 ユウヤの脳内に、仕事上の報告事項は今のところ思い当たらない。

「お相手のこと」

 含んだような笑い声が聞こえてきそうな言い方だった。

「面白がってんな? こっちの状況としては、本意でない部分が多々あるんですがねぇ」

「へぇ、珍しい。あんたに不本意を飲み込むようなことが出来るとは思わなかったわ。……まさか…男ってことじゃないでしょうね?」

 今度は、完全に笑いを押し殺した声だ。完全に楽しんでいるのか、それとも徹夜で単にテンションが高いだけなのか。

「面白がるなって言ったろ。そのうちに話すよ。お……あなたには隠し事しないよ」

「………。あんたって、良い言い方ならセンチメンタルだけど、変にしつこいネガティブだよねぇ。今日、来たら喝でも入れてあげるわ」

 喉まで上がってきた言葉を、ユウヤは言わずに飲み込んだ。

 僅かな疎遠期間があったにしても、この人には変に甘えてしまいそうになる心が、未だどこかで燻っているような気がする。

「……気が向いたら行く」

 それだけを言うのが、精一杯の感じだった。我ながら情けないと思うのは間違いじゃないだろう。

「あんたねぇ……。まぁ、いいわ。んじゃ、会社でね」

 それだけ言って、こちらの反応も気にせずに通話が切れた。

 それだけのことなのに、溜め息が口から零れた。

 彼女との過去にトラウマが無いとは決して言えない。

 今のユウヤを形成してしまった直接の原因は、確かに彼女では無いのだが、そこに行き着くまでの要因であることには間違いではないのだ。

 もう、数年に渡って何度も繰り返してきた想いが頭をもたげかけて、軽く眼を閉じた。

 こうなると、どんな状況にいても心が沈んで行く。浮上するには、どうしても時間が必要になって、半日は無駄になってしまうことも多い。

「うん〜んん〜う」

 傍らから寝惚けた唸り声なのか寝言なのか。聞こえたと思った瞬間にユウヤの身体が引っ張られたと思うと、乗りあがってくるようにタエがしがみ付いてきた。

 驚いたのが正直な気持ちだったし、思わず眼を開けた脇の辺りにタエの顔があって、更に驚いた。

 タエは、ふぅっと眼を瞑ったまま大きく息を吐いたかと思うと、クルリと背を向けてユウヤの腕を自分の首に巻くように抱き締めてしまった。

 と、あんぐりと口を開いたかと思うと、そのままユウヤの腕にかぶりついた。

 痛いと感じたのは最初の一撃だけで、その後はまるで甘噛みするようにハグハグと口を動かす程度だった。

「うみぁい」

 どうやら何かを食べているような夢でも見ているようだ。

 可笑しいのと驚かされたので、埋没していきそうな気持ちも、いつの間にか吹き飛んでいた。

 代わりに笑いと安堵の気持ちが湧き上がって来る。

 くるりとタエがこちらを向いた。今度は胸元辺りに狙いを定めてあ〜んと口を開いたが、噛み付くまでは至らず、途中で力が抜けたようにコトリと落ちて寝息をたてだした。

 胸の辺りに掛かるタエの息遣いをくすぐったく感じながら、ユウヤの心は平穏を取り戻していた。

『今度も助けてくれたのか?』

 そんなわけなど無いと分かってはいるが、偶然の産物がユウヤの心を救ってくれていることには変わりない。

 自然とタエの寝息に呼応するように息を合わせていた。そのせいなのかは分からないが、ユウヤの瞼は、自然と降りてきてしまっていた。

 うっすらと暗くなっていく視界に、タエを起こして大学に行かせなくてはという思いが、少しだけかすめた。


 気が付いた…というより、眼が覚めたという方が正確だった。

 左手に軽い振動を感じて眼が覚めたのだ。携帯のバイブ機能だと判断するのは簡単だ。いつも営業をしているユウヤにとって、携帯の着信音を鳴らすことなど皆無に等しい。当然のことながら、買い換えた時から今までに、ユウヤの携帯が音を発することなど数えるほどしかない。

 それが左手の中で震えて着信を告げたのだ。

 覚醒してみれば、鼻先にくすぐる物がフワフワしている。

 何度か眼をしばたいて見れば、どうやら人の頭だと知れた。

 我知らず、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。それもタエを掻き抱くようにしてしまっている。右腕をしっかりとタエの首に絡めて、向かい合うように胸の中に収めてしまっている。

 急に動いてタエを起こしてしまうのを躊躇って、ゆっくりと右腕を抜く。

 コロンと転がるタエは、それでも起きるような気配は無かった。

 唸り続ける携帯を持ち上げて、とりあえず相手を確認する。

 『部長』の二文字が光っているが、そのことに驚くことは無かった。が、別のことで眼が点になる。

 時刻を示す数字がおかしい。頭の数字が『9』というふうに読める。

『まさか?』と思いつつ通話のボタンを押して耳に当てた。

「良い度胸だな。どんな言い訳をしてくれるんだ? まさか、あれから寝ましたなんてオチじゃないだろうな?」

 イライラしたような部長の声が低く響いてきた。

 どうやら時刻表示に間違いがあったわけではないらしい。自分の判断が間違っている。

「ああ〜、おはようございます」

 自分の発した声が寝起きのしわがれた声なのが隠しようもない。

「おはようだ? 今は何時かな? 来嶋君」

 完全な業務口調だ。数時間前の親しい仲の先輩口調など微塵もない。

 こうなってしまうと付け入るような隙もありはしない。が、今となってしまってはユウヤのとる態度は開き直りしか残されていない。

「すいませんね。あれから酷い風邪に襲われまして、熱もありそうなんで休みます」

「あのな、言い訳にしても限度を知れよ。やらなきゃいけない仕事もあるんだ。さっさと出て来い!」

 見え透いた嘘を由としてくれるほど部長は甘くない。それは良く分かってはいるものの、どうにも今から出社する気分にはなれない。

 傍らでは、今でもタエが可愛い寝顔を見せているのだ。

「ああ〜、頭が痛い。喉が痛い。関節も痛いかも」

「ちっとも痛そうに聞こえないっての。今日を溜めると来週までの予定も狂ってくるだろ? 仕事なんだから、責任持てよ」

 そう言われると痛い気がするが、それでも気分は乗ってくれない。それに、こうしているってことは、タエも大学に遅刻していることに他ならないのではないだろうか?

「……だから、今日は休むって言ってるだろ。どうせ、事務処理だけだろ。それくらい部長でも出来るでしょ? 今日は、風邪なの。だから病欠。よろしくね」

「寝起きの呆けた声しやがって、良く言えたもんだ。面倒をあたしに回す気か? こっちだって徹夜明けなんだぞ。それくらい配慮してくれようって優しさもないのか?」

 部長個人だけを思うのなら、その言葉だけで飛んで行ってしまい兼ねないのだが、今はどうしても譲れない。

 と、タエが胸元を触ってきた。

 ちょっと注意して窺ってみれば、既に寝息の規則正しいものは感じられない。おまけに、触った手がビクッと止まって、そのまま汗ばんできている。

『こいつ、起きたな』

 時刻に気付いてからは、遠慮無しの普通声だったのだ。起きない方がおかしいとも言える。

「寝起きの声だって? どのみち、今からじゃ遅刻でしょうが。有給も溜まってるでしょ? 今日くらい、大目に見てくださいよ。明日には出社しますから、今日は勘弁してください。んじゃ」

 一方的な言い草に抗議の言葉が二言三言聞こえてきたが、構わずに通話を切って短い息を吐いた。

 気分を大きく入れ替えないと、寝惚けたような思考は時間差を伴っているように空白を空けてしまう。

 手にしていた携帯をベッド脇のサイドテーブルに置いた時、胸元辺りに置かれたタエの手が僅かに動いた。瞬間的にビクつくような動きに、タエの心情が知れる。

 目覚めたは良いが、今の状況を把握するのに苦心しているのだろう。

 確かに昨夜のタエの態度や反応は、ユウヤの行為に喜んでいた素直なものに違いなかった。が、ユウヤ自身、タエの豹変ぶりには違和感を感じていた。

 心も身体もここに有るのに、どこかフワフワしたような感覚が消えない。なんだか、夢の中で抱き締めていたかのような不安定さも残っているのだ。

 だが、それでいて全てが満たされているかのような満足感はある。

 ふと、初体験のことを思い出しそうになって、薄く苦笑してしまった。

 そのまま、まどろんだ気分に睡魔が入り込んできそうなのを、首を二、三度振って吹き消した。

 このままでは、怠惰な感覚にタエの生活まで乱してしまう。

 ジリジリとした動きで、タエがフトンの中に潜り込もうとしているのが解る。

「こら! 起きてるだろ? サッサと出て来い」

 顔の部分だけめくろうとしたが、如何せん、相手が動いているだけに肩の部分までが現れてしまった。

 慌てて眼を逸らしたものの、眩しいほどの肌の白さは、ユウヤの眼に焼きついて残像のように残った。

「うきゃ〜! ごめんなさい、ごめんなさい!! それ以上、めくらないで!!」

 タエの掠れたような声が、今まで熟睡していたことを告げている。内心は、安堵の気持ちであった。こんな自分に身体を任せて、尚且つ、安心して眠ってしまうなど嬉しい事実でもあった。

 が、そんな哀愁などに浸っていられるほど現実は甘くない。

 ユウヤ自身は、有給という口実で休みを強要してしまったが、学生であるタエには、そんな理由など通用するわけは無い。

 脅しににも近いやり方でタエをベッドから押し出し、バスルームへと追いやった。その間に、自分の服をさっさと着込んで、僅かながら気分と身体を休める。

 これから運転しようっていうのだ。少なからず万全の体調に戻しておきたい。

 タエのシャワーシーンを覗き見たいという欲求はあるものの、そんな衝動に駆られてしまうことにも懐かしさがこもっているようで、自分を笑いたくなってしまう。


 車に乗り込んでからも、これという会話も出来ないまま、運転に集中してしまった。

 寝不足という言い訳では足りない、身体的な疲労感が、首の後ろ辺りで重く圧し掛かっているようで、会話もそこそこに、タエを無事に送り届けることだけを考えていた。

 そう思ってみても、ハンドルを握る指先は、先程まで感触を楽しんでいたタエの柔肌を思い出しては、熱い脈動を全身へと送り込んでくる。

 何度と無くグッと力を汲めて押し殺しながら、それでも蘇る感覚に朦朧としそうなほどだった。

 タエのアパートに着くまで、まるで記憶が散漫したように断片的なのが、ユウヤの正直な内面を表現していたと言って良いだろう。

 車は、既にタエの住む街の入り口である橋に差し掛かっていた。

 無駄に装飾された橋は、支柱の一本までが彫刻のように彫り込まれている。嘘か誠か、噂では一本が二百万円の代物だとか。

 この橋を渡りきってしまえば、タエのアパートまでは数分だ。

 大きく湾曲する国道を右に曲がって、高台の下を突き通る市道に入り込んだ。

 この方が近道であるのと同時に、交通の量も少なくて、運転の余裕も出来る。ただ、細かいカーブが多いのは難点だともいえるのだが。

「上がって行く? どうせこれから急いでも午前中の講義に出られるわけじゃないし、少しくらい休んでもいいじゃない?」

 アパートが見えて、車がスピードを落とした時に、不意にタエがこちらを向いた。

 車が止まるのと同時に、タエは車を降りて、恐らくは寝不足であろう眼にグッと力を込め覗き込むようにユウヤに小首を傾げて見せた。

「いいの?」

 言ってしまってから、自分らしくも無い言葉だと思う。

 素直に喜んでしまっている自分が、言葉の音程に現れてしまっている。

 その証拠のように、聞いたタエの唇の端が、仄かに笑いの形を作っているのが分かる。

「どうぞ。どうせユウちゃんも休んだんだし、紹介したい人もいるし」

 意地悪な言葉が投げ掛けられたと安易に想像はつく。

 彼氏でもいて、悪意のある関係になろうというのなら話は別だが、こんなタイミングで両親や兄弟が来ているはずもないし、同居していないとも限らないが、以前にタエの故郷は千葉だと聞いている。

 余程の事情が無い限り、こんな辺鄙な街に同居しにくる親類などあるまい。

 瞬時の考えだったが、多少の表情の変化くらいは仕方なかろう。タエが、窺うような目付きで顔を傾けた。

「……そうだな。会っておこう」

 どんな意地悪なイベントを考えたのか、少なからず興味が湧いた。

 ただ、少し楽しそうな表情のタエが、幾分ながら可愛く感じて、その手の中に転がされても悪くは無いと思っただけだ。

「そ。どうぞ」

 車のドアを閉める間際に、大きな黒目が細く笑いの形を作ったのをユウヤは見逃さなかった。

『やれやれ、ドッキリを仕掛けられるとは思わなかったけど、こんな経験も久し振りだし、不自然じゃないリアクションて、どうやってたかな?』

 本来ならネタバレの時点でリアクションという定義も崩れてしまっているのだが、タエの楽しそうに階段を駆け上って行く姿を見ていると、何だか忘れていた学生時代を思い出しそうで、少しだけ笑いが漏れた。

 車のハザードランプを点けて、エンジンを掛けたままでタエの後を追った。長居をするほど時間的な余裕がタエに残っているわけじゃない。何としての午後までに大学に送り届けなければ。

「ただいま! 大人しく待っていたかな?」

 タエの部屋は二階の一番奥にらしい。そのドアの前で鍵を開けるのに苦労していたらしいが、ドアが開くと開口一番に大きな声で呼びかけた。

 まるで子供にでも呼びかけるような口調だ。が、タエに子供が居ないという完全なる証拠は無いにしても、昨夜に見たタエの身体に子供を宿したような線は見当たらなかった。

 まぁ、出来ない人もいるのだから、一概に言い切れないが、タエにはユウヤの知る子持ちの匂いすらしたことはない。

「遠慮しないで上がって」

 さっさと自分だけ部屋に上がり込んで、靴すら揃えない。

 クスッと笑いたくなる気持ちを抑えて、靴を揃えて『お邪魔します』と小声で言った。

 タエの後を追うようにリビングに入る。

 六畳よりは広い。が、八畳というには狭い感じがする。マンションや団地にありがちな一般住宅とは違うつくりの間取りなのだろう。

 とはいえ、リビングとは別にキッチンがあり、右手にドアがあるところをみると別に部屋がもうひとつあるらしい。入って来た廊下にドアがあったことを考えればトイレやバスルームではあるまい。

 典型的な1LDKというやつだろう。

 この地方では、比較的標準的な一人暮らしの間取りと言える。とは言え、タエが通う大学が出来て以来、学生人口が数倍に増えたしまい、このようなアパートメントといえど過去のような安価具合は薄れてきている。

 リビングの隅。窓の脇に金網が組まれて、その中にタエと向かい合う小動物が鎮座していた。

「こ、こいつ? 紹介したいのって?」

 タエの子供のような悪巧みなど見透かしていたものの、その相手は犬か猫の類だろうと想像していた。

 が、ケージの中で両足を器用に揃えて動き回る小動物は、ユウヤの記憶の中でも遠い小学生くらいまで戻らなければ傍で見た憶えさえ薄い。

「ちょっと、ビビった?」

 悪戯な子供が勝ち誇ったように肩を竦めて笑う姿がタエに重なった。

『まったく……』と言いたいのを喉元で留めて苦笑してしまう。

「そ、そんなこと………。こいつって……うさぎ…だよね?」

 聞くまでも無く、その小動物は耳が長く、絶えず口元の髭を数本動かしながら愛らしく首を巡らせている。

 キャラクターグッズの『ピーターラビット』を思い出させるような、小さく茶色の身体は、ユウヤの知る『うさぎ』の印象とは何処か掛け離れていた。ユウヤの知っているのは、小学校時代に学校で飼育していた野うさぎの類なのだから、大きさも特徴も違い過ぎるのだ。

「この子は『ライカ』。本当は犬の名前なんだけど、ペットショップで一目惚れしちゃったから、この子に付けちゃった」

 ちょっと見惚れてしまっていたのを、タエの言葉で我に返った。珍しいものを近くで目の当たりにすると興味がそちらに集中してしまう。ペットショップなどに縁遠いユウヤにとって、うさぎですら身近な存在では無かったことを思い知らされる。

 けれど、我に返った要因はそれだけじゃない。

 タエが言ったうさぎの名前『ライカ』に少しばかり驚いたのだ。

「ライカ……犬の名前って言ってたね? もしかして『ライカ犬』?」

 まさかと思う気持ちの方が大きい。なんと言っても、その名前を普通に知っていることの方が稀だとも思える。

「知ってる人に初めて会った。ちょっと、驚き。そうなんだ。あの『ライカ』からもらっちゃった」

 ユウヤの視線はうさぎの『ライカ』から離れていなかったが、タエの妙に軽いトーンの声は、顔を見なくても苦笑気味なのが判る。

 『ライカ犬』

 それは、ユウヤですら偶然に知り得た、人間の叡智えいちの糧として消えた命のひとつでもある。

 詳しい年代までは忘れてしまっているが、ロシアがまだソ連として君臨していた頃の時代。

 アメリカとソ連は、共に宇宙への憧れを現実化しようと競合していた。

 大気圏内の無人ロケットを経て、何例かの動物搭載のロケットが打ち上げられたことは歴史の中にも有名な事実ではある。アメリカのアポロ計画の中で猿が初搭乗したことは世界的にも有名な話だろう。

 ガガーリンやアームストロングという名も人類の宇宙の歴史では当然のことのように語られる。

 が、その中に埋もれた犠牲は、時として大きな波紋を呼ぶ。

『ライカ犬』は、ソ連時代にスプートニク計画の一端として搭乗させられた命である。

 ロケット自体に地球に戻るという機能が備わっていなかった為に、宇宙への片道切符を手渡され、安楽死の名目で毒入りの餌を与えられ宇宙で絶命したとされる特異な存在として名高い。

 しかしながら、当時の冷戦時代と称される中、詳細な情報すら開示されることは無く、現代に至ってもその全容は明かされぬままにある。

 そもそも『ライカ犬』というものも犬種の総称とされていて、正式名は『クドリャフカ』ともいわれているが、その真意も妖しいとされている。

 近年に論文が発表され、『ライカは毒入り餌を食べて絶命したのではなく、機体損傷の熱傷により死亡した』という記事が記憶に新しいが、そんな事実も憶測の域を出ない。

 ただ、生きて帰れないことを知っていて行われた実験と称する事例を、ユウヤは息苦しくなるほどの憤りで眼にしたことを忘れていない。

 その名前の小動物が目の前に居る。

 自分の名前の由来など考えたことも無いであろうウサギは、薄い茶色の毛並みを何度か震わせながら黒い瞳をユウヤに向けていた。

 自然と手が出た。

 ライカがフッと息を詰めて身構えるのが分かる。

 触れる寸前で指を止めた。ライカの鼻先が伸びて、ユウヤの指を嗅ぐように鼻がピクピクと動く様が可愛い。

 ツンと指先で鼻を押すと「ぶい!」と唸った。

「あっ、ちょっと不機嫌かも? 噛み付きはしないけど、愛想は良くないよ」

「………。」

 タエの声がしたが、そのまま動かずにジッとライカを見詰めた。然したる感情があったわけじゃない。ただ、動物と触れ合うような時には、自分も同じだと思いたかった。『同じ動物で、同じ命で、同じ感情で』。

 ライカの方は、鼻を押されて以来、ユウヤのことをまったく見ることもなく、ソッポを向いたままジッとこちらを窺っているようだ。

「……コーヒーでいい? ちゃんと落として淹れるから」

 タエの声が、僅かに沈んでいることに気付いたのは、声だけを聞いたからかも知れない。

 なんとなくだが、その理由が分かるような気がした。

 昨日のアザラシの一件でもタエは妙に気遣ったような言葉を口にしていた。恐らくはユウヤのことを『動物愛護精神の強い人』くらいに思ったのかもしれないが、本音の部分ではかなり違っている。

 喰う喰われるは仕方ない。飼う飼われるも仕方ないだろう。自分に害があるのなら、生きていく上で絶滅という運命でも仕方あるまい。食物連鎖のヒエラルキーの頂点に立ってしまった事実も間違いないのだろう。

 そんなことに文句を言ってみたところで、その恩恵を受けて日々暮らしている自分が本末転倒という烙印を押されることなど明らかだ。肉を頬張りながら動物愛護など語る方が可笑しい。

 視線がライカから、いつの間にか反れてしまっていた。

 力無くダラリと落ちた手に、フワリとした毛並みが触れたのに気付いて顔を上げた。ライカがそっと身を寄せるように擦り寄ってきていたのだ。視線は合わせることはないが、妙に元気付けようとしている感じに取れて口元が緩んだ。

「出していい?」

「え?」

 どうも動物が入れ物の中に居るのは、あまり良い気分じゃない。タエの返事も待たずに両手をライカに掛けた。ビクンと反応した身体が、意外と熱い。

 片手を首の下から首を支えるように、片手は後ろ足の付け根辺りをすくうように持ち上げる。ウサギの場合はお腹をあまり触らないようにするんだと小学校の教師に聞いたような記憶がある。

「いいけど……素直に捕まった?」

「大人しいよ」

 ライカは固まったように動かない。不思議そうに見詰めるタエが、どうやらライカの扱いに四苦八苦しているのが眼に浮かぶように思えて笑いが漏れてしまいそうだ。

 床に降ろすと、途端にはしゃいだ子供のように走り出した。部屋を一周してきて、また反対に戻る様子は、何処かの園児のように感じる。

 タエが、コーヒーを落とす音とライカがはしゃぐ音だけが妙に心地良いと感じてしまうユウヤには、遠い昔に馴染んだ感覚が頭をもたげそうで、軽く頭を振ってやり過ごした。

 自然と口元が緩んでくるような感覚に、コーヒーの香りが漂ってくる頃、走り回っていたライカが「ぶいぶい」と鳴いた。

「あれ? ご飯、無かった? ごめんね。これ淹れたらあげるから」

 見ればライカが檻の前で餌皿に首を伸ばしている。この辺りは意思の疎通が図れているのかもと思える。

 窓際にあるパソコンデスクの傍らにサブラックがあり、その数段が紙袋やら木の枝やらウサギの姿のぬいぐるみやらで占領されている。一見してライカ専用の棚だと知れるが、その下の段には教科書や参考書だのが並んでいる。

 美的感覚には乏しいが、一人暮らしにペットが居れば、こんな環境になりやすいのは理解できなくも無い。

 ユウヤは、紙袋の絵柄にうさぎの姿を認めて、それを手に取った。

「ご飯って……これ?」

 聞かなくても分かっているが、それでも飼い主に了解を得ることはエチケットだ。ただ「ダメ!」と言われても思い止まったかどうか。

「あげてくれる?」

 タエの言葉に、ほんの少しだけ嬉しくなる自分が、妙に恥ずかしかった。

 可愛がっているペットを任せてくれるんだという、変な勘繰りが馬鹿に自分を高揚させていると気付いても、ウキウキする気分が止められない。

 その間にも、袋を手にしたユウヤにライカは伸び上がるように顔を突き出している。恐らくはこの袋に中に自分の好物が入っているのを経験として知っているのだろう。ライカにとって、今のユウヤは『餌出しマシーン』に映っていることだろう。

 紙袋の中に手を入れて、僅かながらに驚きがある。

 ザラザラとした粒状の手触りがある。知っている限りだが、犬や猫の餌にもこれに似たようなものがあったと思う。

「ペレットなんだ…。手軽になったもんだ。その分、味気ないかもな……」

 本来、草原を駆け回るうさぎは、乾燥した固形物を食べるのだろうか? 雪深い北国の雪うさぎなどは、木の皮などを食べていると聞いたことはあるが、枯れ草を食むということは聞いたことが無い。が、牛や馬などが乾燥穀物を食べていることを考えれば、これも有りなのかもしれない。

「手であげていい?」

 変な興味が湧いたというより、愛情が芽生えたのかもと思えるような自然と口に出た言葉だった。

「いいけど……きっと、食べないよ」

 タエがカチャカチャとカップを置きながら横目で様子を窺っているのが感じられた。確かに、動物に愛護精神を発揮する人間ばかりの世の中ではない。人間には優しくても、動物には虐待の二文字をもって接する人間も少なくは無いのだ。

 その一人にユウヤが入っていないとは言い切れない。タエが心配顔で見守っていたとしても、それはそれで至極当然といえる。

 ただ、ユウヤの興味はそこに無い。

 うろ覚えに小学校時代、担任の教師から教わったような気がすることを実践してみたくなっただけだ。

 数粒のペレット状の粒を手の平に置いてライカの前に差し出した。ライカが興味を示して、手の平を窺うがチラリと視線をユウヤの顔に飛ばしてくるのと同時に視線を逸らす。見られている感覚が頬の辺りにビリビリと感じるが、決して見ない。痛いほどの警戒心がライカから感じられるが、興味も無い素振りで手だけを石のように動かさずにいると、程無くしてライカの興味が自分の顔から逸れるのを感じる。と、同時に手の平にフカフカの毛が触れた。

 手の平の中の数粒が、カリカリという音と共に消えていく感覚が感じられて、僅かに視線を落とした。夢中に餌を頬張るライカが可笑しく可愛かった。

 ユウヤが乗せた餌が数粒だったためか、ライカは全てを口に運ぶと「足りない」という感じに前足を揃えて何度も上下に振り回す。もう一度、餌の袋から数粒を手にして差し出すと、またも同じ視線が投げ掛けられる。同じよう視線を逸らすと、同じ感触が前より早く訪れた。

『草食動物は、食事の時に狙われ易いから、その瞬間は最大限の警戒心を示す。けど、安心して良いと分かれば、食事に集中してしまう。だから、手であげようと思ったら、決して興味がある眼で見ちゃいけない。見られていると思うと、襲われると思い込んでしまって、決して食べないからね』

 消え去りそうな記憶のはずなのに、担任のその言葉だけは、何故か鮮明に覚えているような気がした。

「な……なんで……食べてんの?」

 濃いコーヒーの香りと共にタエの声が、すぐ後ろからしてちょっと驚いた。意識が完全にライカだけに注がれていたせいだ。

 けれど、タエが驚いているのも分かる。きっと、今までに何度か試してみたのだろうけれど、興味津々で覗き込むようなタエの視線にライカは恐怖を覚えて、今日までその手から餌を食べることなど無かったのだろう。

「おいで」

 そっと呼ぶと、タエは手にしていたカップをテーブルに置いて横に跪いた。

「手を出して。餌を乗せるよ。ここからが大事なこと。決してライカが手の餌に口を付けるまで見ちゃいけない。気になっても、顔も向けないこと。手も動かさないで」

 注意したにも関わらず、タエの視線はライカに落ちる。

「ダメダメ。我慢する」

 ライカが、変わった人物に注意を強めてしばらくの間、タエの顔を見詰めている。すっとライカの視線がユウヤの方を向く前に、ユウヤは上を向いてライカの視線を流した。

 程無くしてカリカリという音がする。

「もう、見てもいいよ」

 ライカの乾燥餌を食む音が聞こえてくれば安心していい。

 タエを促して期待の枠を外してあげれば、珍しい宝物を見付けた様に大きく瞳を開いてライカを見詰めているのが、なんとも可愛くユウヤには映った。が、強烈な視線を感じるライカは、耳を伏せて少し緊張気味のようだ。

 ここからは、飼い主とペットとの信頼関係に依存される。ユウヤは、ライカがタエの手の中の餌を食べ終える前に、そっと驚かせないように膝で歩いて香り立つコーヒーのカップへと身体を寄せた。

「あっ、ごめん。コーヒー、冷めちゃう」

 タエの声が尻の辺りからして、チラリと振り向いて見れば、ライカは満足の表情で耳を後ろ足で掻いていた。

「いただきます」

 手に取ったカップに口を付ける寸前に言った。その眼が、どうしても小さな小動物を追いかけてしまう。ライカは、両手で耳の後ろから前を撫で回している。まるで頭から顔までを両手で洗っているようだ。その仕草が、なんとも愛らしい。

「あっ、ミルクとか砂糖とかは?」

 不意にタエが動いて言葉を発したせいだろう。ライカは、ハッとしたように首を竦めて一瞬固まった後、跳ねるように部屋の隅に駆け出して行ってしまった。

 どうやらライカがタエに懐いていない理由は、こういうところにもあるのかも知れない。

「入れないよ。甘いコーヒーは飲むことないし、ミルクは……お腹に悪い」

 ライカは、壁のところまで行って落ち着きを取り戻したのか、片耳を両手でしごいている。

「え!? お腹に? なに、それ?」

 言われるとは思っていた。まぁ、大概の人に言えば、賛同してくれるかタエのように反応してくるという二極化になることは、経験上知っている。

「……乳製品は大丈夫なんだけどね。粉ミルクとかミルク、牛乳は、どんなことしても1分でトイレが恋しくなる……」

 とはいえ、何度経験しても、こうした反応には自分が恥ずかしくなる感情が生まれてしまうのは不思議だ。かといって、それを押さえるような事も出来ない。

 タエの口元が小刻みに震えているのが分かると、一層のこと恥ずかしさが増してしまう。

「なに、それ? 子供? チーズは好きだけど、牛乳はイヤ! みたいな?」

「仕方なかろう。体質なんだよ。色々と試したけど、どれもダメだった。医者に言わせりゃ、思い込みなんだそうだけどね」

 言われてみたところで仕方が無い。別に嫌いなわけではないのに、身体が反応してしまうのは止められない。

『精神病』の一種とも考えられているが、本人にしてみれば身体の不調に直結しているのだから、本来なら笑い事では済まされないのだが。

「…っと、和んじまった。早いとこ仕度しな。大学まで送って行くから」

 可愛いペットと恥ずかしいような自分の体質に誤魔化されるところを我に帰った。もしかするとタエの策略だったのかも知れないが、ユウヤの思惑はもっと大きいところで働いている。と、言いたいが、自分の不利益なところを突かれて、思考を変えたら思い出しただけのことだ。

 あからさまにタエの唇が尖って突き出た。

 不機嫌な気分の表面化だろうが、そんなことで誤魔化されてしまっては、ユウヤが強引にここまで来た意味が消し飛んでしまう。

「そんな顔しない。行けるんなら行っておくに越したことないんだから」

 一度、頬を膨らませて両手で顔を覆った後に立ち上がったタエだったが、への字になった口元までは元には戻らず、結局は可愛い顔に不機嫌な皺を浮かせて窓際にあるラックから鞄を取り出して教材を詰め出した。

 プリンターの前まで行きかけて、一瞬の躊躇いの後に、くるりとこちらを向いて両手を腰に当てて、フンとばかりに顎を上げてみせる。

『どうよ!』とでもセリフが付きそうなタエの凄みに、含んだコーヒーを吹き出しそうになったが、悪戯心も手を貸して、訝しげな顔付きで見上げてやった。

「……着替えないのか?」

 一瞬のキョトン顔から両目が忙しく左右を泳ぐタエの表情は、まるでドラマの中の滑稽なヒロインのようだ。

 ハッと気付いたような素振りから、小走りに部屋を横断してクロゼットに頭を突っ込み、衣服を小脇に抱えて飛び出して行く様はドラマの一場面のようだが、芝居がかっているわけでもないから、尚更可笑しく思えてしまう。

「ライカ。お前さんのご主人は、どうやらコメディ女優みたいだぜ」

 言われたライカは、ツンと横を向いて両手で口元を揉んでいる。どうやら、ライカにとってはそれほど重要なことでは無いらしい。

 と、それより気になることがあった。

 先程、一瞬の迷いの間がタエにはあった。それはパソコンのプリンターの前だった。視線もそこに留まったのは間違いないと確信している。

 となれば、そこに何かがあることは間違いない。

 数枚の用紙が吐き出されているプリンターは、これといった異常があるようには思えない。

 吐き出された用紙には、細かい文字が敷き詰められてはいるが、タエが学生である以上、レポートや論文などをパソコンで編集していたとしても不思議なことではない。

 が、ユウヤの眼は、ちょっとした違和感をその文章から読み取った。何やら『カニ』『エビ』などの甲殻類の名前があるのは良いとして、合間に『塩』だの『コショウ』だのという言葉が見える。

『料理のレシピだろうか?』

 気になることは確かめることでしか好奇心は収まらない。

 ユウヤは、プリンターのトレイに乗った数枚を手に取って、恐らくは一番下になっているであろう最初のページを引き抜いた。

「んん?」

という唸りはユウヤのものだが、その中に含まれた感情は、いささか表現しづらいものであった。

 その原因は手にした一枚の紙片にある。

『おいしいカニピラフとエビピラフの考察と実証』という命題が打たれ、その下に『河村かわむら 多恵果たえか』とある。

 タエの本名が河村 多恵果であることは、昨夜の友人が「たえか」と呼んでいたことで察しは付くが、栄養士や調理師にでもなるのら理解できるレポートなのかも知れない。知れないが、タエは『海洋生物学』とかいう専攻だったのではないだろうか?

 数枚を流し読みしてみる。玉ネギだのニンジンだのの材料、角切りみじん切りの包丁さばきに炒める順番だの適量の調味料だの……。

 こだわりは隠し味のラー油らしい。

 その後の言葉を読んで、ユウヤは口元に素早く手を持っていって強く押さえた。吹き出して笑ってしまうのを未然に防いだのだが、それでも可笑しさに腰が折れる。

 タエのレポートらしいものの結びに『思いつきませんでした。実証して美味しいレシピを提出しますので、今回だけはお許しください』と書かれていたのだった。

 苦しくなる息を、なるだけ静かに整えて、手にしていたレシピというレポートをプリンターに戻した。そういえば、以前、大学に通っていた友人に聞いたことを思い出した。卒業論文を書くに当たって、真面目に勉学に勤しんで居た者は立派なものを書き上げるが、そうでない者達は、提出したという大義名分があれば卒業できるから『おいしいカレーレシピ』だの『朝顔の観察日記』だのと小学生の自由研究なみの物を数枚書き上げるとか……。

 このレポートを読む限り、タエも御多分に漏れず真面目な学生とは言い難いのかもしれない。

 パソコンデスクの横にあるサブラックには、専門書や参考書などが肩を並べているのに、それがタエの勉学には役立っていないのだろうか?

 ふと気になって、一番大きな本を引っ張り出した。

『海洋生物の分類と生息分布』なる十センチはあろうかという分厚い専門書らしい。

 数ページをめくってクラクラしてきた。細かい文字の中に、数センチの図解に地図が添えられ、専門用語が飛び交っている。

 ペラペラとめくっていくうちに、変な事に気付いた。この本には、何処にも汚れたところも無いし、折り目すら見当たらない。まるで本屋に並んだまっさらな新品のような装いだ。

『使われていない』というより『使いこなせていない』という方が正しいのかどうかは分からない。

 パソコンデスクの辺りを見渡すと、クリップ留めされた用紙がある。覗き込んでみれば『海流によるカニの分布と産卵場所』なる題名が書き込まれている。

 真面目にやっていることはやっている。が、それが追いついていないのか、それとも自分から脱落したのか。

 どしらにせよタエが勉強していることに、少しだけ興味が湧いてきた。そういう眼で見れば手にした重い専門書も、ちょっとした百科事典の感覚にならなくもない。

 またもペラペラとページをめくって、本の重さに耐えかねて座り込んでしまった。

 魚類から貝類、甲殻類に哺乳類と、落ち着いて読み取れば分類も細かく、特徴から食性、産卵や胎生といったことも説明されている。

 興味がそそられたという感じでは無いのだが、なんとなく眼が放せなくなった程度だったのが、ページをめくる手は止まらなかった。

「ああ! ライカ! ダメ!!」

 突然のタエの叫びが背中でした。ビクンとする背筋が無意識に首まで駆け抜けて後ろを振り返った。

 ライカがユウヤの腰の辺りに両手を掛けている。

 すっ飛んできたタエがライカを抱き上げて、初めて事の真相が分かった。

「ご、ごめんなさい! 弁償しますから」

 ライカがカジッた皮製のベルトは、腰の辺りで半分ほどの切れ目を見せていた。

「ありゃ? やられちったか。ま、ライカにやられたんじゃ仕方ない。大目に見よう」

 別に高い代物ではない。紳士服売り場で三本セットで売られていた流行遅れのブランド物だ。惜しいという気にさえならない。

 が、タエはどう勘違いしているのか、申し訳無さそうな顔付きでライカを抱えたまま頭を下げ続けるのが、なんだか可笑しく感じる。

「ベルトの弁償はいいから。代わりにこの本、借りていいかな?」

 そう言ったユウヤの顔を、タエはライカと一緒にキョトンとした顔で見詰めてきた。

「どうぞどうぞ。卒業まで借りててもいいくらい」

 その言葉で、タエがこの本を読んでいないことが証明されたと言っても良い。

 軽い溜め息を吐き出して、ユウヤはライカをケージに戻し、タエを押すようにして部屋を出た。

 その流れの中で、パソコンデスクの上に置かれた『海流によるカニの分布と産卵場所』というレポートを手にした本の間に滑り込ませたのをタエは気付いていないようだった。



 ポケットの中で、既に数回震えている携帯を取り出したのは、無視し続けていると際限なく数分置きに同じ相手から電話が掛かってくるからだ。

 最初は部長だろうと思ったのだが、あの部長がそう何度も電話してくることなど皆無に等しい。それに今日に至っては欠勤の報告も入れている。トラブルがあったとしても、ユウヤを頼ってくることなど有り得ないだろう。

 とするならば、相手の想像は容易につく。

 取り出した携帯の液晶には、馴染みの名前が浮き出して「早く出ろ!」と言わんばかりに震えている。

 静かな空間で電話を受けるという行為は、流石のユウヤでさえはばかられる。通話ボタンを押しつつ席を立って、静然とした空間を出て耳に当てた。

「それほど忙しいとは聞いてなかったがな」

 ソプラノ系の声が寝不足の耳には、少し痛いような気がしたが、馴染みの声に安堵してもいた。

「何回電話すりゃ気が済むんだ? しつこいのは、嫌われる原因の一位だぜ」

 皮肉めいた言葉だが、電話の相手には通用するほど気が利いていない。人の言葉の裏までを読んで会話をするほど思慮めいてはいないということだ。

「相手が出るまでは電話するさ。そいつと会話したくて電話するんだからな」

「ふん。お前らしいといえば、らしいかな。んで? 用件は?」

 長年の付き合いではあるものの、この男の真相までは辿り着くことが無い。きっと、これからの人生に於いても付き合いは続くのだろうが、その頂に辿り着くことなどないのだろうと思える。

「何処に居る? 会って話そう」

 こんな調子で、大事な話しなのかどうかすら窺い知れない。

「……。会わなきゃ話せないことか?」

 無駄だとは知っているが、言ってみるだけは言ってみる。

「電話代とコーヒー一杯の代金とどちらが高いと思う? こうして話しているだけでも、何円って金が消えていくんだぜ」

 相手が言う金銭感覚が、本心からの言葉でないことなど重々承知している。会って話せば、それだけ労力を使うし時間も無駄にする。平日の昼間に仕事もせずに友人に会いに来るなど、それこそ一日の労賃を無駄にしていることになる。

 その辺に矛盾があるのだが、それを指摘したところで、この男の論点からは外れていることなのだろう。

 ユウヤは、半分は呆れているが、半分は諦めている。

「何処に居る?」

 なかなか返事をしないユウヤに痺れを切らしたのか、電話口の男が聞いてきた。

 大きな溜め息を吐きたい気分ではあるものの、それでも自分から赴いて来るという気遣いはあるようだ。

「市立図書館だ」

「はぁ?」

 ユウヤの答えに男は間抜けた声を出してきた。

「二度と言わん」

「わかった、わかった。もう聞かねぇ。市立図書館だな。そこって、飲食OKか?」

「知っていて聞いてくることにも答える気にはならんな。もう少しで出るつもりだったんだ。何処かで待ち合わせるか?」

 ユウヤは、元来た道筋を辿るようにしながら、重厚な防音ドアの前で腕時計に眼を走らせた。

「恋人じゃあるまいし、待ち合わせなんて……」

 あからさまな照れたような含みが感じられるが、気持ち悪い想像しかできやしない。

「そうだなぁ。気分を変えて、海岸沿いのデッキハウスに一時間後でどうだ?」

「……。構わないが、まだ寒いし、オープンしてないんじゃないか?」

「行ってみりゃわかるだろ」

 言い放って折り畳みの携帯をポケットに仕舞い込んだ。「おい!」とか何とか聞こえたような気がしたが、待ち合わせが決まった今では、それ以上を聞くのは会ってからで構わない。

 ユウヤは、大きく息を吐いてから、グッと止めて気持ちも新たに静かな空間に再び入り込んだ。



 約束の一時間は、既に数十分単位で経過してしまっている。が、催促の電話が入ることもなく、オープンデッキのある喫茶店にユウヤは辿り着いた。

 店の前に張り出した木造のデッキには、五つのテーブルが用意されているが、ひとつを除いては空席状態だ。

 そのひとつに大柄な男の姿が見える。

 こげ茶色のジャケットをラフに羽織った姿は、どことなく危ない雰囲気がある。

 車を海岸線の駐車場に乗り入れて、ユウヤはゆったりと車を降りて、そのテーブルに歩いて行った。

「相変わらず約束の時間に現れないんだな。そんなんでよく営業が務まるもんだ」

 デッキに足を掛けたところで、男が苦言を呈してきた。

 短髪の髪が癖毛のせいでクルクルとパーマをかけたような感じに見える。身長が高いせいで大柄に見えるのだが、肉付きは華奢な感じで、それほど厳つい印象は受けない。

 太い眉と浅黒い肌が、どこかサーファーを思わせるが、この付近でサーフィンなどしようものなら想像以上に冷たい海に心臓麻痺を起こすだろう。現実に、この辺りでは、海水浴が楽しめる期間など半月程しか存在しない。七月の後半から八月上旬くらいまでだ。それ以前だと海水の温度が低すぎるし、それ以降だと波が高くなるしクラゲの宝庫に変貌してしまう。

「すまない。ちょっと寄り道しててな。お前より大事だったもんだから」

 軽く手を挙げて挨拶した後で、本気で笑いながら向かいの席に着いた。

「長年の親友をないがしろにするってのは感心しないね」

 男は、既に空になったグラスを差し出して不平を述べた。

 この男は熊山くまやま 隆明たかあき

 ユウヤの学生時代からの友人で、今までの付き合いを入れれば十五年もの年月になる。

 ユウヤの中では、親友という括りには抵抗が無い訳ではない。学生時代は、友人というよりは、どことなくライバルといったような存在であった。何をするにも張り合いながら切磋琢磨していたような記憶がある。が、学生という立場を無くしてしまうと、張り合う理由が無くなってしまったし、お互いが選んだ職種も違い、ライバルという意識が薄れてしまっている。

 気分的には認め合う仲なのかもしれない。損得無く話せる相手でもある。秘密を持ったことも熊山には無いと思う。何でも話せるという気楽さもあれば、秘密を話しても他に漏れないという信用もある。

 それなのに『親友』と呼びたくないのは、ユウヤの中で、まだ何処かにライバルでありたいという願望があるのかも知れない。

「今日はおごるから、許せ。」

 店の中から若い女の子が注文を取りにきた。

 ユウヤはビールを注文して、熊山はコーラを注文した。

「就業時間中にビールとは、偉くなったな」

 皮肉のこもった言葉だが、トーンは軽い。

「今日は休んだんだ。たまにはこんな日も良い」

「ありゃりゃ。そいつは部長さん大変だろうに。お前が休んじまったら、ほとんどの仕事があの人の両肩に圧し掛かるだろ?」

 差し出されたビールとコーラにそれぞれ口を付けながら、ユウヤは熊山の言葉に苦笑いした。

 今居る社員の殆どは新採用の者ばかりで、仕事を覚えて間も無い。トラブルがあっても自分で処理することもままならないことも多い。

「明日、フォローするよ。今日は、気分じゃない」

 そう言って、グラスの半分以上を飲み干したユウヤを、熊山はシゲシゲと見ながら、眉を寄せた。

「お前……何か、変じゃね?」

 言われてユウヤも眉を寄せてしまう。

 変と言われることに心当たりが無い。

「変て言うお前が変だろ?」

 一気に煽ったビールが、喉元を過ぎて胃に落ちる。冷たい感触が、胃に到達すると熱い感触に変わる。

「いつものお前より、何だろ? 柔和っていうか、温和っていうか」

 熊山の観察は、未だに続いていたようだ。

 自分の変なところ。感じていないわけではないが、認識してしまいたくないという気持ちは大きい。

 何処か、身体の芯が熱くて、じんわりとした痛みもある。痛いのだけけれど、キュンとするような心地好さもある。

「ああ〜、分かった」

 ぐっと覗き込むような素振りをした熊山は、両目を大きく見開いて、右手をグー、左手をパーにして打ち合わせ『なるほど』ポーズをとった。

「な、なにが?」

「お前、ニヤけてるぜ。猫がネズミでも食ったような顔なんだ」

 フムフムと納得顔の熊山に向かって含んだビールを吹き出さなかっただけ良心的だとユウヤは思った。

「いつの時代の例えだよ。今時の猫はネズミなんか喰わないよ」

 一笑にしてやったつもりだったが、熊山の方は薄く眼を閉じた感じで、窺うような目付きで背もたれにゆっくりと身体を落とした。

「……。わかった、わかった。確かに変だよ」

 こういう感じになると熊山はしつこい。粘着質の性格では無い筈なのに、聞きたいことや不信に思うことは、その場で解決なりヒントなりを貰うまで話を摩り替えさせてもくれはしない。

 あっさり認めて、聞きたいことを聞かせてやる方が簡単に済む。

「やっぱなぁ! お前のことならすぐに分かるんだから、俺! んで、何があった?」

 目線だけで空を仰いでユウヤは頬まで膨らませて息を吐いた。

「女を抱いてきた……。」

 それ以上を、どう言っていいものか、表現し辛い自分がもどかしい。

「なんだ、女か。そいつは羨ましい。あやかりたいもんだね」

『女』と聞いて熊山は、少しがっかりしたようにコーラをグッと煽った。が、その顔が空を向いた辺りで止まると、勢いで流し込んだものか口の中から空に向かって数個の氷を噴出すと、テーブルにグラスを叩きつけるように置いて立ち上がった。

「な、な、なんだとぉー!! お前が、女を抱いてきただとぉー!!」

 誰も居ないデッキに熊山の雄叫びが、小高い丘の向こうから聞こえてくる心地良い潮騒を打ち消して、近くの建物へと反響していった。




                    つづく


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