タエ 第二夜 1
まどろむという感じが、気持ち良いと感じることは珍しい。
いつもは、けたたましい目覚ましの音で眼が覚める。その度に『もう少し時間がゆっくりだったら』と思わない日が無いくらいだ。
なのに、今朝に限って気だるい感覚が、身体の温かみと共にふわりとした浮遊感を与えてくる。
目覚めたのかどうかも妖しい感覚。
ただ、近くでユウヤの声がしたような気がする。それが、昨夜の夢に出てきたユウヤの名残にも思えて、フトンの温かみに包まれていたいと思えてしまう。
昨夜の夢は、ユウヤに身体も心までも愛されてしまい、それこそ気を失ってしまったような夢だった。どこか、未だに身体の芯が熱く燃えているような気さえする。
「……だから、今日は休むって言ってるだろ」
ユウヤの声が、まだ耳元からするような気がして、タエは自分が可笑しくなった。夢で抱かれて、夢から覚めてもユウヤを止めておきたい自分が、これほどまでに幻を生んでしまうものだろうか。
「どうせ、事務処理だけだろ。それくらい部長でも出来るでしょ? 今日は、風邪なの。だから病欠。よろしくね」
ユウヤの声が、会社を休むために仮病を使っている。面白い夢だな。
そう思って自分の胸元を手で触った。
可笑しいと感じたのは、普段ならパジャマの感触があるはずなのに、素肌のような気がしたからだ。
パジャマを着忘れた?
そう思って手を下に持っていく。下着の感触も無い。それどころか、恐らくは自分は何も身に付けていない。
お風呂から出て、そのままフトンに入って寝ちゃった?
自分の身体の眼の前にある物が、ゴソゴソと動くような気配がする。それが、妙に暖かい。
手を伸ばして触ってみた。が、その手がそのまま動かせなくなってしまった。
感触は、他人の肉体。それも素肌。感触としては、胸のあたりだと思える。膨らみは無く、筋肉のようなかなり固い感じがするということは、男性に違いない。
完全に頭が覚醒してくる。
薄目を開けて確かめる。
引き締まった身体が、眼の前に寄り添っている。そして、自分は生まれたままの姿で、恐らくは眼の前の肉体も一糸纏わぬ姿に違いない。
もう一度、眼を閉じて暗闇の中に埋没しようとしたが、完全に目覚めた意識は、そんな逃げ方を許してはくれなかった。
『ちょ、ちょっと、待って。あれは夢だったんじゃなくて、現実であったんでしょうか? って分かり切ってるような感じでしょうね? ってことは、さっきの夢現で聞こえたのは、確かにユウちゃんの声だったり? っていうか、完全に気を失って、そのまま寝たってこと!?』
グルグルと言葉の羅列が頭の中を駆け巡る。が、眼を再び開く勇気が湧いてこない。
「寝起きの声だって? どのみち、今からじゃ遅刻でしょうが。有給も溜まってるでしょ? 今日くらい、大目に見てくださいよ。明日には出社しますから、今日は勘弁してください。んじゃ」
ユウヤの声が途切れて、ベットの脇に携帯を置く乾いた音が響いた。
ちょっと身体がビクンと反応する。
なんとか頭をフトンの中に潜り込ませようとしたが、顔の半分くらいまで潜らせた辺りで止まってしまった。
「こら! 起きてるだろ? サッサと出て来い」
顔の部分をめくられて、眩しい朝日に晒されてしまった。
「うきゃ〜! ごめんなさい、ごめんなさい!! それ以上、めくらないで!!」
必死にフトンにしがみ付いて、なんとか顔を出しただけで留まった。これ以上だと、露な胸が光りに晒されてしまう。
「……どうして、こんなことに……」
小さくなって消えてしまいたいと思うが、現実には無理なことだ。
昨夜の出来事は、半分は現実な意識があった、が、半分は夢の中での出来事だったように感じている。確かに、身体のあちこちが、未だ火照ったように感じているのは間違いではないだろう。だからと言って、こんな朝を迎えることを、理性は許してくれていない。
勢いとか、成り行きとかでもなく、ただ、夢現の中での出来事。
「おいおい、しっかりしろよ。シャワーでも浴びて、すっきりしてこい。大学もサボるわけにはいかないだろ?」
うぅ〜と唸ってみたところで、今の現状は夢と消える様子も無い。
そっと枕元にある時計に眼をやると、すでに午前の九時を回っている。これからシャワーを浴びて身支度をしたとしても、ここからでは一時間近い道程がある。午前中に大学に着ければ御の字というところだうか。
「もう、いいよ。午前中の講義始まってるし、午後からは選択だけだから、そんなに重要でもないもん」
めくられたフトンを戻して顔を隠し、そのまま潜り込んでしまったが、ユウヤはそれを許してくれるほど優しくはなかった。
「だ〜め。勉強できるうちにしときな。出来なくなって後悔するんだから。行きなさい!」
今度は大きくめくられて、胸元までが露になってしまった。
急いでフトンにしがみ付いて、それ以上を阻止したが、ドキドキする胸は寝起きには厳しい。
「わかったから〜! でも、あんな透け透けじゃ、入りたくても入れない〜!」
ふうっと溜め息を吐くユウヤの吐息が感じられた。昨夜はあの口に何度となく絶頂に導かれてしまったことを思い出して、タエの心は熱くなってしまいそうだ。
「俺は、ここから動かないし、タエが出てくるまでフトンを被っている。何も見ないし動かない。これでどう?」
実に紳士的な提案ではあるものの、それを真に受けるには昨夜の印象が強すぎる。かといって、このままウダウダと時間を延ばしていれば、先程のような強行手段に出ないとも限らない。
まぁ、散々に見られ尽くした後と考えれば、今更、見られたからといって減るものでもあるまい。
タエは、ユウヤにフトンを被せて、自分はベットの縁に腰掛けた。
服は? と探してみれば、いつの間に揃えたものか、下着類は枕元に、ジーンズとブラウスはベッドサイドの上に畳まれていた。
こういうところに気遣われるっていうのも、ちょっと大袈裟すぎて引いてしまう感もないわけではない。が、自分ではきっと気付けないというのも本当だろう。
下着と服を両手にバスルームに向かう。
チラリと顧みたが、ユウヤがフトンから出てくる様子はない。だからといって安心できるものでもないが。
シャワーを浴びてる間も、何度かユウヤに視線を向けてみたが、これといって動いた様子も無く、タエが身支度を整えて、バスルームから出てくるまで、確かにユウヤはフトンの中に隠れてしまっていた。
「こっちは準備できたよ。ユウちゃんもシャワー浴びてきたら?」
まだ少し、生乾きっぽい髪を後ろに束ねてゴムで留める。
乾いたら跳ねるかも? と感じたが、ユウヤを待たせたままでは、タエも気持ちが落ち着かない。
「俺は、いい」
がばっとフトンを跳ね飛ばすユウヤを見て、タエは驚きで心臓が飛び出しそうになった。裸のユウヤなんかを見てしまえば、否応なく昨夜を思い出してしまうに決まっている。
急いで後ろを向いたが、眼の端に違和感があった。
ゆっくりと振り向いてみれば、いつの間に身につけたものか、ユウヤは既に服装を整えてしまっていた。
脳裏にフトンの中で服と悪戦苦闘している様子が浮かんで、少しおかしかった。
「シャワー、浴びたら? 汗、かいてるでしょ?」
今更、時間など気にしても仕方ないし、今更、大学に行く気にもならないっていうのが本音でもある。それならば、ユウヤのシャワーくらい待っても同じことだ。
が、ユウヤは自分の二の腕辺りをクンクンと嗅いで、やんわりと笑顔になる。
「タエの匂いがする」
驚きというより恥ずかしさに耳まで紅くなってしまったのではないだろうか? 顔全体、首から上全体が火照ってしまって、旨く考えがまとまらない。
「だ、だから、早くシャワー浴びてきなさいよ! 臭いって、そんな、だって、あの」
しどろもどろになってしまう自分が、どこか情けないが、こんなことを言われたのも初めての経験なのだから仕方あるまい。
「いいんだって。今日一日、タエの匂いを着けていたい……変かな?」
そう言われてしまうと嬉しい気持ち半分、ちょっと汚いかなと思うのも半分。でも、嫌な気分ではない。どちらかといえば、やっぱり嬉しいが強い。でも
「変だよ」
とだけは言っておいた。
ユウヤが、さっさと会計を済ませ、ドアを開けて階段を降りて行く。その後ろを着いていくように歩きながら、タエは少し複雑な気分だった。
車に辿り着くと車庫のシャッターは半分くらい開いたところだった。恐らく、会計を済ませた客が部屋のドアを開けると、自動的にシャッターも開き始めるような仕組みなんだろう。
無言のままに乗り込んだ車内で、タエは窓の外を向いたまま、ユウヤの方を見られなかった。
そんなタエを気遣っているのか、それとも一言も無いのを雰囲気で悟ったのかユウヤも話しかけてくることは無かった。
車が走り出して数分。
「何か食べる? 朝食っていうには遅いけど」
初めてユウヤが話しかけてきた。車が街の中心街に差し掛かっている。
「……いい。あんまり、食べたくないから」
それだけ答えた。食事となれば、少なくともユウヤと対面でしなくてはならないだろう。
今のタエに、ユウヤを正面から見る勇気は無い。というより、こうして隣で座っていることもドキドキとして胸が痛いほどなのだ。
「……大丈夫?」
「……大丈夫……ユウちゃんは?」
「大丈夫……だと思う」
「………」
何が「大丈夫」なのかも良く理解しているわけでもない。ただ、聞かれたことに答えただけなのだが、何だか変な会話だと思う。
流れる街並みが昨日と同じはずなのに、何故か同じに感じられない。
昨夜の事を思い出そうとして、タエはちょっと躊躇った。
未だに半分が夢の中のような出来事に思えてしまっている。でも、身体の芯は本当の事であったと告げているし、現にユウヤが隣にいる状況では、夢で済ませるには無理がある。
確かにユウヤとの関係を進展させたいと思っていたことは否定できない。が、それが一足飛びな関係になってしまうことまでは想定外だったかもしれない。いや、想定内ではあった。こうなってしまうかもしれないという気持ちはあった。けれど、これ程までに激しい……。
リアルな感触まで思い出しそうで、思い切り眼を瞑って顔を左右に振った。
頭が痛い。というより、多分、寝不足なんだろう。ぼ〜っとした感覚が、足の先や指先から抜けないような感じがする。
もう一度、車外に流れる景色を眼で追ってみた。
いつもならば、こんな会話も無い車中で揺られてしまっていれば眠気に襲われて堪えられるわけはないのだが、今日という日にはとてもそんな誘惑も消し飛んでしまっているような感じだ。
気分が重いような、そんな中に自然と込み上げてくるような至福感が、戸惑う心に拍車をかけてしまいそうだ。
口元が自然と緩んでしまいそうになるのを必死に堪えながらも、窓に映る自分の顔は、いつの間にか薄く笑った笑顔をつくってしまっている。
ウダウダと考えながら、自分の顔付きを叱咤しながら、ユウヤが運転する車は、タエの暮らす街に辿り着いた。
「上がって行く? どうせこれから急いでも午前中の講義に出られるわけじゃないし、少しくらい休んでもいいじゃない?」
タエのアパート前に横付けした車を降りて、ドアを閉めずに覗き込んだ。
あれから結局は何も話さなかった。それだけに、どこか寂しい感じがある。というより物足りないような感じが渇きを覚えたように喉元に引っ掛かっている。
「いいの?」
「何を、今更」と言いたいのは心の中で止めておいた。
「どうぞ。どうせユウちゃんも休んだんだし、紹介したい人もいるし」
そう言った時に、ユウヤの眉が僅かに上がったのを見逃さなかった。
驚いているのは確かだ。そりゃ、そうだろう。濃厚な一夜の後で、その相手から紹介したいと言われてしまっては、色々と想像してしまうことだろう。
『こりゃ、逃げるかな?』と意地悪な言い方をしたことを反省したが、その説明をする気にはならない。ここで逃げるようなら、所詮はユウヤという人が、そこまでの人だったということだろう。
「……そうだな。会っておこう」
眉間に皺を浮かせて、ちょっと考えたようだったが、しっかりとした視線を向けられて、タエの方が驚いたくらいだ。
でも、恐らくは覚悟を決めたとかいうものでは無く、開き直ってしまったように思える。
「そ。どうぞ」
言って車のドアを閉めた。そのままユウヤを待つことなく、外階段を上って二階に上がる。
築十年、三階建てのアパートは、この辺りではマシな物件だった。
大家はこの土地に住んでいるわけではなく、タエが住んでいた千葉に暮らしている。アパート経営が目的ではなく、老後の収入のために買い込んだものらしい。管理は不動産業者に任せてあるのだが、行く行くはこの地に移り住んで、気楽なアパートの大家になるつもりらしい。
そこの二階の一番奥の部屋がタエの借りている部屋だ。
ドアの鍵を開ける手前で、チラッと後ろを顧みた。ユウヤが、重そうな足取りで階段を上がってきていた。
険しい顔付きで視線を落とし、何かを懸命に考えているようだ。きっと色んなシュミレーションがユウヤの頭の中で行われていることだろう。
そう思うと可笑しさが込み上げてきて、持っている鍵が震えて旨く鍵穴に収まらない。
やっと鍵を回してドアを開けた頃には、ユウヤがタエの後ろに来ていた。
「ただいま! 大人しく待っていたかな?」
声を掛けながら靴を脱いで上がり込む。
広いとはいえない玄関から、僅かな通路があってドアが二枚ある。正面のドアはリビングに通じていて、右のドアは洗面所からトイレ、風呂と続いている。
「遠慮しないで上がって」
後ろに声を掛けて、そのままリビングに入る。
実のところ、泊まりになるとは考えていなかったために、待たせていた相手のことが少し心配でもあったのだ。
リビングの広さは八畳と意外に広い。ドアから左手には小さなキッチンがあり、右手には六畳の洋室がある。いわゆる1LDKというものだ。
地方ということもあって、都会などから比べれば四分の一程度の家賃で借りられる。実に夢のような物価と言える。
リビングの隅。窓の脇に金網が組まれて、その中にタエを待ちわびていた相手が鎮座していた。
「こ、こいつ? 紹介したいのって?」
のそのそと動いているところを見ると、どうやら元気なようだと安心したところにユウヤの声が後ろからした。
「ちょっと、ビビった?」
「そ、そんなこと………。こいつって……うさぎ…だよね?」
ケージの中でクルクルと首を巡らせる小動物をユウヤは珍しそうに覗き込んでいる。
「この子は『ライカ』。本当は犬の名前なんだけど、ペットショップで一目惚れしちゃったから、この子に付けちゃった」
片手には乗らないが、両手には乗ってしまう『ライカ』と名付けられたのは、絵本や童話などにも登場する『ピーター・ラビット』という種類のウサギだ。
愛嬌があり活発で、人になつくことも多い種類だと買う時に説明されたが、タエの中ではウサギをこうして飼うまで、これほど賢いとは思っていなかった。何と言っても、ウサギが鳴くというのもライカを飼って初めて知ったことでもある。
とにかく感情表現が素直で、イラ付いた時などは「ぐぅーぐぅー」と唸るように鳴くし、お腹が減ると「ぶいぶい」と短く吼えたりもする。
猫や犬と違って忙しなく動くことはあまり無いが、甘えてくるようなこともあまり無い。物足りなく思うこともあるが、苦労するほど手間も掛からないのは嬉しいペットといえる。
「ライカ……犬の名前って言ってたね? もしかして『ライカ犬』?」
すっとユウヤがケージの前に膝を折って覗き込みながら聞いてきた。
「知ってる人に初めて会った。ちょっと、驚き。そうなんだ。あの『ライカ』からもらっちゃった」
犬の名前だと思うと、少し胸が痛い。
本当は犬を探したのだけれど、名前を『ライカ』に決めてしまっていたために、どうしても犬には名付ける気にならなくて、ブラブラとペットショップを見回しているうちに一目惚れしたのが、このウサギだったのだ。
名前の由来など、普段は気にしてはいないが、こうして知っている人が現れると、否応無く思い出して胸が熱くなる。が、それを思い入れと感じてしまっても『ライカ犬』が果たした貢献は、きっとタエが知るよりも大きいに違いない。
とはいえ、そのことを知ったとしても、その過酷な運命を同情無しに受け入れることなど、タエの感情にはあり得なかったことでもある。
ユウヤは、そっと手を伸ばしてライカに触れた。
小さくライカが「ぶい」と唸る。よく不機嫌な時に聞かせる声だ。
「あっ、ちょっと不機嫌かも? 噛み付きはしないけど、愛想は良くないよ」
「………。」
触れただけで、その手を動かすことも無くユウヤは、無表情のままにライカを見詰めている。眼を細めているくらいが変化で、それ以上の感情を探れない。強いて例えるなら、昨日のタワーで見たアザラシを見詰める表情に似ていたかもしれない。
「……コーヒーでいい? ちゃんと落として淹れるから」
キッチンに向かうタエには、少しユウヤの中が怖かった。不遇な『ライカ犬』。その名前を付けたペット。その意味するものを知っているユウヤにとって、保護されたアザラシより怒りを覚えるはずだからだ。
「出していい?」
「え?」
コーヒーメーカーに向かう背中にユウヤの声がした。
振り向いてみれば、既にライカを両手に掴んで持ち上げるところだった。
「いいけど……素直に捕まった?」
「大人しいよ」
その言葉に疑問符が浮かぶ。
タエとライカが暮らし始めて既に三ヶ月になろうとしている。なのに、捕まえるとなると嫌がって足をバタつかせたり、手を擦り抜けたりと苦労する。それなのにユウヤの手の中のライカは、まるで大人しい猫のように身動きひとつしない。
ユウヤは、そのまま抱くようなこともなく、そのままライカを檻の外に置いて手を離した。途端に広い空間に出た喜びなのか、バタバタとリビングを一周するように走って、ユウヤの前まで戻ってくると反転して逆方向に走っていった。
そんな様子を視線だけで追いながらコーヒーの用意をするタエだったが、ユウヤがその場に座ってライカを眺めるのが不思議と自然に思えてしまっていた。
男女問わずに何人かの友人がこの部屋を訪れてはいる。ライカと会った友人も少なくは無い。なのに、これほど自然にこの部屋に馴染むように存在した人は初めてではないだろうか?
部屋の中にコーヒーの香ばしい香りが漂いだした頃、ライカが檻の手前で「ぶいぶい」と鳴いた。
「あれ? ご飯、無かった? ごめんね。これ淹れたらあげるから」
声のトーンで餌の催促だと知れるなんて、かなりの意思疎通ができてきていると思う反面、さっきのが不機嫌な声じゃなかったのかと不思議に思えてしまう。
「ご飯って……これ?」
ユウヤが、檻の横にある棚の上段から紙袋をつかみ出していた。袋の表面にはウサギの写真が貼られているのだから、一目瞭然と言えなくもない。
「あげてくれる?」
ちょっと仲の良いカップル風の会話みたいだと思いながら、湯気をたてて落ちる褐色の液体を待った。
「ペレットなんだ…。手軽になったもんだ。その分、味気ないかもな……」
手を紙袋に突っ込んでバラバラと音のする乾燥餌を手に取って独り言のようにユウヤが呟いていた。
タエもそう思う。普通の自然な環境に生きるウサギなら決して口にすることなど無いものだろう。が、生まれて離乳を経たライカは、ペットとしての運命を授けられ、この乾燥物以外を口にしたことなどないだろう。
それが幸せなのか、それとも不幸なのかと問われてしまうと、飢えることがないだけ幸せだと答えてしまいそうで、少し心が痛む。
「手であげていい?」
首だけを向けてユウヤが聞いてきた。
そりゃぁ、あげられるものならタエ自身もあげてみたい。みたいが、ライカは決して人間の手から物を貰うようなことはなかった。近寄っては来るが、床に置くか皿に入れられるまで食べるようなことがない。草食動物の警戒心がそうさせるのだろうが、飼い主のタエの手からも食べてもらえない現実には、少々傷付いてもいた。
「いいけど……きっと、食べないよ」
カップを出しながら、香り立つ褐色の液体を注ぎながら、チラリと視線だけを向けた。
ライカは、ユウヤの膝元あたりに寄って、前足をちょっと浮かせて鼻をピクピクさせている。
驚きの瞬間は、タエの眼の前で起こった。持っていたカップを取り落とさなかったことが、せめてものことだったろう。
ユウヤの手に乗せられた乾燥餌をライカが前足を乗せて食べている。
程無く手の中の数粒がライカの口の中に消えてしまった。前足を揃えてブンブンと振る仕草をする。「足りない」という主張なのだ。
それに気付いて、ユウヤは再び紙袋の中に手を入れて、前より少し多い数を差し出した。又もライカは、ユウヤの手に足を掛けて伸び上がり、手の中の餌を夢中に頬張っている。
「な……なんで……食べてんの?」
タエの言葉にユウヤが振り仰いで軽く笑顔を見せた。
「おいで」
目線とちょっとした頷きでタエを自分の横に呼んだ。脇のテーブルにコーヒーの入ったカップを置いて、言われるままにユウヤの横に座った。
「手を出して。餌を乗せるよ。ここからが大事なこと。決してライカが手の餌に口を付けるまで見ちゃいけない。気になっても、顔も向けないこと。手も動かさないで」
ユウヤが、タエの手の中に数粒の餌を乗せた。
気になって視線が落ちかけた時
「ダメダメ。我慢する」
とユウヤに注意されて、わざとらしくソッポを向いた。と、不意に感じる視線というか、見られているような感覚。
「感じる?」
黙ったままに頷いた。ユウヤの視線じゃない。下から見上げてくるような感覚が、頬のあたりにピリピリと感じる。
数秒、その後に餌を乗せた指に冷たい感触とフカフカの毛の感触。と同時にカリカリと乾燥餌を食む音が聞こえてきた。
「もう、見てもいいよ」
言われて顔を戻せば、ライカが自分の手に前足を掛けて餌をついばんでいる。伏せた耳が可愛らしい。それより、初めて自分の手から餌を受け取ってくれたことが、物凄い感動だった。
タエの手の中の餌を食べ尽くして満足したのか、ライカはピョンと跳ねて毛づくろいを始めてしまった。
その様子を眺めながら、タエはまだ感動の余韻に浸ってしまっていた。ユウヤが動いて、やっと我に返ったほどだ。
「あっ、ごめん。コーヒー、冷めちゃう」
テーブルはちゃぶ台を四角くしたような簡易のもので、フローリングの床にはミスマッチだが、大仰な椅子やテーブルを置くような趣味はタエにはない。
その前に這って行くようにユウヤが移動するのが可笑しかった。
カップの取っ手を掴まずに全体を握るように持ち上げるのを見て、なんだか『ユウヤらしい』と思えたのは不思議だった。
「いただきます」
言って口を付けるユウヤは、柔和な顔付きでライカを見ていた。
「あっ、ミルクとか砂糖とかは?」
自分では入れないことが多いので、粉状のミルクや料理用の砂糖くらいしかないのだが、友人の中にはそれでも欲しがる奴は多い。
「入れないよ。甘いコーヒーは飲むことないし、ミルクは……お腹に悪い」
ちらっと横目でライカからタエに眼を移したが、すぐにライカの動向に戻ってしまった。
「え!? お腹に? なに、それ?」
「……乳製品は大丈夫なんだけどね。粉ミルクとかミルク、牛乳は、どんなことしても1分でトイレが恋しくなる……」
カップを頬に当てて隠してはいるが、紅くなっているのが見える。恥ずかしがっていることが一目瞭然だ。
吹き出しそうになるのを堪えたけれど、口元が緩んでしまうのは堪えられなかった。
「なに、それ? 子供? チーズは好きだけど、牛乳はイヤ! みたいな?」
「仕方なかろう。体質なんだよ。色々と試したけど、どれもダメだった。医者に言わせりゃ、思い込みなんだそうだけどね」
乳製品全般でなく、牛乳に似通った液体にだけ反応するというのなら、確かにそうだと言えなくもない。が、そういう人がいないということはない。
タエの友人の中にも卵の姿、玉子焼きやゆで卵、目玉焼きなどは食べられないのに、卵が入ったケーキやプリンなどは好物な奴もいる。それに似ているのかもしれない。
「…っと、和んじまった。早いとこ仕度しな。大学まで送って行くから」
ちっ。っと舌打ちしたい気持ちだった。良い感じに忘れてくれていそうだったのに、何の拍子に思い出したのか?
「そんな顔しない。行けるんなら行っておくに越したことないんだから」
ムクれたように唇が突き出てしまっていることに、ユウヤから言われて気が付いた。
いけない、いけないと両手で顔を覆って揉み解してみたものの、やっぱり唇は突き出てしまう。
部屋の窓側に置いてあるパソコンデスクとサブラックに、教材の殆どは収納されている。六段のサブラックは教科書やノート、参考書、辞典、専門書といった類が半分を占領して、半分は鞄やパソコンの教本、ライカの餌やおもちゃなどが押し込めてある。
一緒にしてしまうのは、ちょっと抵抗があったのだが、スペースを無駄にしてしまうよりは、こうして活用していることの方がタエには使えているという実感があって良い。ただ、インテリアの美観としては、かなりの不細工さだろうけれど。
プリンターの脇に、数枚のレポートが吐き出されている。が、完成というには程遠い代物だ。
「………」
一瞬だけ迷ったけれど、手を伸ばすことは無かった。持って行ったところで提出できなければ意味の無い代物なのだ。
鞄を開いて数冊の教科書とノートを押し込んで、サッサと肩に担いだ。
行けますよ! という具合に両手を腰に当てて仁王立ちしてユウヤの反応を待ったが、当のユウヤは眉を寄せてちょっと斜めに見上げてきた。
「……着替えないのか?」
言われて気付いた。服が昨日と同じだ。下着も同じ。
誰が知っているわけでもないのだが、昨日から一緒のユウヤの手前、二日も同じ下着を着けたままというのは恥ずかしい。
鞄を投げ捨てて、クロゼットの中から服と下着を引っ張り出して、勿論、下着は服に隠して洗面所に駆け込んだ。
素早く着替えて、洗濯籠に着ていた服を放り込む。鏡の前を素通りしようとして止まる。
ちょっと眼が赤い。
んん〜と考えてから、ハブラシを手に取って歯を磨いた。化粧をどうしようかと迷ったが、今更、ユウヤに化粧をした顔を見せても笑われるような気がしてやめた。
洗面所を出ると、ユウヤの背中が丸く見えた。どうやら何かの本を見ているような感じに見える。
その背中に、そっと近寄るライカの姿が見える。よっぽどのことが無い限り、自分から人間に近づくようなことをしないライカがユウヤの背中、腰の辺りで首を伸ばして匂いを嗅いでいるような素振りをしている。
面白そうだから見ていようと考えたところに、ライカはやってくれた。
ユウヤの腰に前足を掛けると、そのまま顔を押してけるように小刻みに動いた。
「ああ! ライカ! ダメ!!」
とは叫んでみたものの、ライカの動きは止まらない。
タエの叫びにユウヤが振り返って見た。
急いでライカに走り寄って抱き上げた。が、やはり予想していた通りになってしまっていた。
ユウヤの腰に巻かれた皮製の黒いベルトが、腰の真後ろ辺りで半分ほど無くなってしまっている。ライカがカジッた結果だ。
「ご、ごめんなさい! 弁償しますから」
ライカを抱き上げたまま頭を下げた。昨日のぼんやりとした記憶だけれど、外すのも苦労するほど特殊な牛革のベルトだった。きっと安物ではあるまい。
「ありゃ? やられちったか。ま、ライカにやられたんじゃ仕方ない。大目に見よう」
まるで小さい子供にでも悪戯されたように笑うユウヤは、スッと立ち上がって鞄を差し出した。
タエに鞄を手渡して、代わりにライカを持って行ってしまった。そのままライカを檻の中にそっと放して戻ると、読んでいた本を手に取ってタエに示した。
「ベルトの弁償はいいから。代わりにこの本、借りていいかな?」
見れば『海洋生物の分類と生息分布』なる百科事典なみの専門書だ。大学に入学した時に買わされたものだが、持ち主のタエですら数回開いてみたことがある程度で、授業でも使ったことなどないし、それで何かを調べたようなこともない。恐らくは、これからも開くことは無いかもしれない。
「どうぞどうぞ。卒業まで借りててもいいくらい」
ん? という顔付きをしたユウヤが可笑しかった。
幾らか今日が提出日の期限でもあるレポートが気になったのだが、ユウヤに押されて部屋を後にした。
「多恵果さ〜ん。お昼に登校とは、かなりの余裕ですねぇ?」
完全に遅刻というのにも恥ずかしい、昼を僅かに手前の時間にタエは学食の中に入った。
午前の講義を終えた学生が半分くらいの席を埋めている中に、入り口を潜ってきたタエを目ざとく見つけて声を掛けてきた女性がいた。
「ちょっと、八重ちゃん。あんまり大きな声でそんなこと言わないで」
走り寄って唇に指を当てるタエだったが、八重樫ミユキはその仕草を確認してから
「多恵果さ〜ん。遅刻の理由は、何でしょうか?」
と、一段と大きな声を張り上げた。
「もう! 意地悪!!」
憮然としてソッポを向いたが、テーブルを離れることはしなかった。向かいの席に座って、ベッと舌を出した。
結局は午前中の講義に出るようなこともできず、到着と同時に昼休みになってしまっている有様に、今更ながらユウヤのお節介に溜め息が出る。
八重樫はタエと学部は違うものの、選択科目が幾つか同じで、三日に一度は同じ講義を机を並べて受ける。そうでなければ、こうして昼休みに学食で一緒に食事をする。
つまりは、お互いのどちらかが大学を休まない限り、学内のどこかで一度は会話をする仲になっているということだ。
「随分と呑気なことじゃない? 先週、出されたレポートの課題は出来たんでしょうかねぇ? 小向教授の単位、落としたら留年しちゃうんじゃなかったっけ?」
八重樫の眼の前には、既に空になった食器がトレイに乗っている。今は、白いカップに琥珀色の湯気を昇らせる紅茶を片手にタエを見ている。
真紅のミニスカートから出した足を組んで、真っ白のキャミソールの上に緑のダブダブのタンクトップを合わせるという破天荒な服装だが、片肘を付いた姿勢で、僅かに斜めを向いてタエを見詰めてくる姿は、妖艶という感じが匂い立つようだ。
「大きな声で言わないでよ。恥ずかしいじゃない。結局、間に合わなかったし…。なんか、もう、どうでもいいかなって感じだし」
ちょっとふて腐れたように肩を落として溜め息を吐くタエは、本当に投げやりのように視線までもテーブルの下に投げる。
「今から投げて、どうすんのよ。大体、出席日数の方は自業自得でしょ? おまけに小向教授のレポートだって必修科目じゃん。本末転倒なんじゃないの?」
八重樫は、近くを通った男子に手招きして、何やら指差し指示を出しながら、タエの方に向き直った。
「…そうなんだけどさ。今日は、なんか疲れてるし眠たいし……気が抜けたっていうか、何かやる気出無いし」
両手をテーブルの上に投げ出して突っ伏してしまうタエを、八重樫は平手で軽く小突いた。「イタッ」とタエが呻いて、体勢を戻したところに、先程の男子がカップを持ってタエの前に置いた。
湯気の立つコーヒーが、気だるいタエの気分を幾らか和らげた。「どうも」と小首を傾げて言ってみたが、相手の男子は八重樫の微笑みに釘付けでタエの方など振り向きもしない。どうやら八重樫のファンのようだ。にこやかに手を振る八重樫に、男子は何度も手を振って去って行った。
「……あんたって、悪い女だよねぇ」
運ばれたコーヒーに一口、口を付けてほろ苦い液体を飲み込んでタエが八重樫を苦々しくチラ見してみせた。
そんなタエを冷やかな視線で受け止めて、八重樫は軽く首を振った。
「あのね、期待はするものじゃなくて、させるものなのよ。少しでも入り込める余地があるくらいが、相手にも自分にも気持ち良い関係なんだから。それ以上を期待されたら、スッと引いてお互いの位置を確かめさせる。どうせ男なんて、下心の次くらいにしか友情なんて持たないんだから」
消え去った男子の背中の幻を追うように八重樫は視線を投げて「でしょ?」とでも言いたげに眉を上げて見せた。
「どう言って良いか分かんないわ。良くも悪くも、あんたって女なんだなぁってのが本音かな?」
カップの中のコーヒーを半分ほど流し込んで、クラクラしそうな頭を振ってタエは言った。
「女を消耗品くらいに思ってる男には、これくらいでも十分過ぎるわよ。……って、ちょっと待って!」
ぐっと身を乗り出してきた八重樫を、驚いたように身を引いて受けるタエは眉を寄せた。
「な、なによ?」
「あんた……まさか、ノーメイク? 油断しすぎじゃない?」
言われてみて自覚する。
そういえば、ユウヤに見られることだけを気にしてしまっていて、大学でこうして他人と会うことを失念していたと言っていい。
何をしているのか……。ユウヤのことだけで頭が一杯で、その他がぼやけてしまっていたことは言うまでもないが、だからといって今更ながら化粧を施すような気合も入るはずもない。
「……もう、どうでもいいわ。今日は、これで精一杯で〜す」
ちょっとおどけたような感じにしたが、八重樫は白眼を剥いて溜め息を吐いた。
「何を投げやりになってんのよ。……でも、変よね?」
「なにが?」
「こうしてしっかり見ればメイクしてないって分かるんだけど、それまで分かんなかったもん。こう……なんていうか……艶があるっていうか、張りがあるっていうか…」
う〜んと唸って眉をしかめる八重樫は、じっとタエを見詰めていたが、フッと眼を細めたかと思うと低い声、周りには聞こえないような囁き声を出した。
「あんた……昨夜、心身共に満足しなかった?」
八重樫の言葉に、心臓が飛び出すかと思えるほどに胸が高鳴った。と同時に昨夜の夢現なユウヤとの出来事が蘇って、のぼせたように顔全体が火照ってしまい、コーヒーカップを持ったまま身動きひとつ出来なくなってしまった。
固まった石造のように瞬きひとつしないタエを、八重樫は眼を細めたまま椅子の背もたれに下がって見詰めた。
「はは〜ん。昨夜の良い男と……ってわけだ。確か『来嶋』さんだっけ? そう〜、あれだけ否定してたのに、行くとこまでいっちゃうわけだ」
熱があるのではないかと思えるくらいに耳たぶが熱い。やっとの思いで瞼を下ろして乾いてきた瞳を潤した。
昨夜の感覚に身体の芯が燃えるような震えを感じ出して、タエは両肩を強くすぼめて強く眼を閉じた。
そっと置いたつもりのカップが、細かい震えを伝えて、カタカタという小さい音を響かせ、タエの心中を一層のこと動揺させる。
「ありゃりゃ〜。そんなに動揺すること? 多少は年上かもしんないけど、同級生の男連中と一緒じゃん。初めての相手じゃあるまいし」
タエの大仰な動揺に八重樫は、右肩からずり落ちかけたタンクトップを引き上げながら冷やかな目付きだ。
「そ、そういうことじゃないけど……。ある意味……初めてって感じだったけど……」
タエとしては、あまりを口にしたい心境ではないが、八重樫の小馬鹿にしたような目付きに自然と口が開いた。
「はは〜ん。年上の男性に翻弄されたってとこね。あの人、経験豊富そうだったし、多恵果みたいに『がむしゃら君』ばっかりの同世代だけだと、ちょっと衝撃的だったってことかぁ」
「ち、違うわよ! そういうんじゃないの! なんていうか、表現しづらい感覚っていうか……憶えて無いっていうか……」
タエの言葉に、一瞬だけキョンとした理解不能の表情をした八重樫だったが、次の瞬間にはニンマリとした笑顔で身を乗り出してくると、テーブルの上に置かれたタエの左手を取って両手で包み込んで撫で回し始めてしまった。
ゾクッとするような感覚に、手を引きそうになったが、八重樫はがっちりと捕らえて放さない。
「憶えて無いって、どういうことよ? 詳しく聞きましょう」
「ちょっと、八重ちゃん。この癖、なんとかしなさいよ。すぐに人の身体に触るの」
僅かな抵抗のつもりで軽く握られた手を振ってみたが、意外に驚いたような表情を見せる八重樫は、それでも放すようなことがない。
「ああぁ、これ? 癖なわけないじゃん」
「え?」
「まぁ、多恵果に触るのは癖っちゃぁ癖かもしんないけど、ほとんどワザとだよ」
「ええぇ!?」
今の今まで、悪友の悪癖だと思っていたものが、故意だと知るのは、かなりの衝撃的事実だ。
「あったりまえじゃん。あたしだって同性でもベタベタ触ってくるような奴、気持ち悪いと思うもん」
「んじゃ、なんで触んのよ!?」
「相手にもよるけど、最初の出会いって結構、印象が薄い時ってあるじゃない。あたしって存在がどうでも良い様な時。言うなれば意中の相手と一緒の時なんか、他の人なんか眼中にないでしょ? そんな時に身体に触れてくるような見知らぬ相手って、悪印象でも好印象でも強く残るじゃない。次に会った時にも『あの時のあいつだ』みたいにさ。知り合い程度でも『えっと、誰だっけ?』みたいなことになりたくないのよ」
深い溜め息と共にうな垂れそうになる首を、途中で八重樫の手が押さえて戻した。
「だったら、あたしはもう知り過ぎるぐらいの知り合いなんだから、わざわざ触ることないでしょ?」
うう〜という感じで引っ込めようとした手を、がるる〜という唸りで八重樫が引き戻した。
「放せ!」
「い〜や! 多恵果の場合は、既に癖というより習慣なの! どっか触んないと、なんか会った気がしないのよ!!」
「なによ! それ! きもちわるい!!」
なんとなく流れの言葉なのか、売り言葉に買い言葉的な雰囲気で、ついつい口から出た言葉だったのだが、八重樫の両眼がクッと開いた感じになると、力強く握られていた手が放された。
みるみる潤んでくる八重樫の両眼に、タエは言葉も無く見つめ返すだけだ。
半分開いた唇が、何か言いたそうに何度も動く。
「あ、あの……八重ちゃん」
声を掛けた途端に、八重樫の左眼から、大粒の水滴が一筋流れて、さすがのタエもうろたえた。
「あの、本気じゃないのよ! なんていうの? 流れっていうか、雰囲気っていうか、気持ち悪いんじゃなくて、気持ち良いってことでもないけど、触るっていうことが悪いんじゃないんだけど」
「ああぁ、やっぱ、そんな反応だよね?」
「は?」
バタバタとした動きで取り繕うタエの動きが、大粒の涙に濡れていた八重樫から発せられた言葉に固まってしまう。
ふうっと大きく息をして、八重樫は大きな眼を二三度瞬いた。と同時に、すぐさまタエの手を取って握り締めた。
「さっきも言ったでしょ? 既に多恵果の身体に触るのは、あたしの精神安定剤的範疇なのよ。行為そのものに意味があるわけじゃないの。こうしてると安心するのよ」
「……だったら、何で泣き真似なんかすんのよ!」
「一度くらいやっとかないと、いざって時に使えないでしょ?」
「ああぁ、疲れるわ。もう、好きにして」
八重樫の行為を理解するのは、タエにとっては不可能だと分かったような気がした。何処までが真面目なやり取りかなど考えたところで無駄だろう。きっと八重樫には、全てが真面目なことだろうから。
「んで? 話の続き。憶えてないって、随分と意味深じゃん」
この切り返しである。
気分的には、八重樫の奔放な性格に毒気を抜かれてしまっているせいか、先程までの恥ずかしいようなまでの気分は既に無い。
「憶えて無いっていうか、気絶したみたいになっちゃって、記憶が曖昧なのよね」
「んん? それって、俗にいう『いっちゃった』みたいなことじゃないの?」
わざとらしく顎を上に向けて艶っぽい表情をする八重樫だったが、その意見にタエは少々不満だった。どことなくだが、そういうものではないという気がしてならない。
タエも少なからず、そういう経験がないこともない。が、ユウヤとの行為が、そんな類の表現に当てはまるようには思えないのだ。
「イクって感じ……八重ちゃんってどんな?」
未だに上をむいて「あうあう」言っていた八重樫が、そんなタエの言葉にキョトンとした表情で視線を合わせた。
「どうって……。そうね、フワフワした感じで、眠りに入る手前みたいだけど、身体は勝手にゾクゾクしてるような。それでいて宙に浮いてるような浮遊感があって……って、表現しづらいわ」
トロンとした眼をしながら視線は空を彷徨う感じだったが、もともとがはっきりとしない感覚を表現しようというのだから仕方ない。
タエも同じように言葉にするとすれば、八重樫と同様な感覚を口にするだろう。
だが、ユウヤとの一夜は、そんな言葉にすらならない。
「そんなんじゃないんだよねぇ」
溜め息も一緒に出たかも知れないという言葉だ。
「ん? 出来る限り言葉にするとしたら?」
既に興味本位の目付きになっていることは一目瞭然なのだけれど、タエ自身もこの体験をはっきりとした形で確かめたいとも思えている。
「……なんだろ? 感覚的なものなんだろうけど、繋がった部分から触れられている部分までが、全部溶け合っっちゃって、自分なのか相手なのかの区別もつかなくて、気持ち良いとかじゃなくて、すごい満たされたような……幸せってこんなのかな? みたいな気分が大きくて……。真っ白になるより、なんか柔らかい日差しの中で暖かく眠れちゃうみたいな感じで……本当に寝ちゃって……」
逐一思い出すことは困難だが、言葉に置き換えるとするならば、羅列のような感情だがそんなものだろう。
八重樫の反応を窺うためにチラリと見た視線が上向きになって、初めて自分が俯き加減になっていることに気が付いた。どうやら考えているうちに下を向いていたらしい。
八重樫は、ちょっと表現しづらい顔付きだった。どちらかといえば不信顔のようだが、驚いているようにも見えなくは無い。
「なんか……変?」
微妙な表情を見ていると、何だか自分がとても悪い体験でもしたような気がしてくる。
「変って言うよりも……」
「……言うよりも?」
ちょっと遠くを見詰めるような八重樫の声に不安を抱きながら、タエは同じ経験を誰もがしているだろうと考えていた。八重樫も多分に漏れずその一人に違いなく、陳腐な体験に「今更〜?」と言われてしまうのではないかと思っていた。
「………羨ましい………」
「え?」
予想外の言葉が返ってきてしまい、自分でもいささか間の抜けたような声が出た。
「それって心まで溶けたってことじゃん! セックスってさ、行為そのものって身体で心を確かめる意味が強いじゃん。どれだけ相手が自分を欲しがってるかって価値観みたいな。でも、多恵果が言ってるのって、自分も相手も区別がつかない程に求め合っちゃって、お互いが満足し合って溶け合うみたいなことじゃん。………あたし、そんなの出合ったことない!」
まるで身体ごとテーブルの上から迫って来るような八重樫を軽く押し戻しながら、タエの表情はそれほど晴れやかではなかった。
「ちょっと、迫ってこないで。あたしもこんなの初めてだし、半分以上は夢の中みたいな感じだったし、表現自体も言葉通りじゃないような気もするし……。はっきり憶えてるわけでもないの」
「なるほどね。どっちにしても幸せな一夜だったことには違いなかったわけだ。お蔭でこっちは散々だったけどね」
自分の椅子に戻った八重樫は、深々と背もたれに身体を押し付けて、ちょっと上向いた顔で愛らしい唇をツンと突き出し不機嫌さを表した。それでもタエの手を放さないのは、どんな心境なのだろうか。
手を引かれたようになってタエは、八重樫と反対に前に出るような格好になったが、テーブルに肘を付けばそれほど不自然な格好ではなかったろう。とはいえ、テーブルを挟んで女同士が長く手を握り合っている姿は、あまり好ましいとは言えないのではないだろうか。
「そう言えば八重ちゃんも、あれから目的は果たせたの? 確か外村さんだっけ?」
そう言われて八重樫の眉間に、あからさまな不機嫌皺が浮き上がった。顎も更に上がって、見下ろすような瞳が細くなる。
ちょっと恐い感じを演出していることは確かなように見えるのだが、八重樫の性格からすると何処までが演出なのかは量れないところもある。
「あなたに幸せな一夜をプレゼントしてくれた来嶋さんが、別れ際に言ってくれちゃった言葉で、あいつ、キレちゃって大変だったんだから」
「それって、あたしのせいってことじゃないでしょ? あたしに苦情、言わないでよね」
僅かに握られている手を引いて八重樫の身体を引き寄せた。ちょっと八重樫の身体が前に来て、不遜な体勢だった身体が普通に戻った。
「気絶しちゃうほど幸せな体験したんだから、ちょっとくらい八つ当たりさせてよね。 とにかく酷い扱いだったんだから」
「どんな?」
ふうっと溜め息と共にテーブルに肘を置いて、手の上に顎を乗せた八重樫は、つまらなさそうな表情で言葉を続ける。
「どんなってね……言いたくもないけど、あれから不機嫌になっちゃって無言のままホテル連れ込まれて、そのまんまお風呂にも入れてもらえず……」
「ええぇ!? そんな雑な扱い? なんで拒まなかったのよ!?」
八重樫の話しに驚きより腹が立つ思いで語尾が強くなったが、受けた八重樫の方は冷やかな顔付きだ。
「あんたが言うか? 初デートで喰われちゃってるくせに。どうせ強引にされたら力じゃ敵わないしね。最初からその気はあったんだから、別にどうってことでもないんだけどさ。その後がもっと悪い」
「あんたって、変なところで悟り啓いちゃってるよね? もうちょっと大事に生きたら?」
握った手をもう片方の手でポンポンと叩いて力付けたつもりだったが、当の八重樫は小首を傾けただけで、タエの心の内など理解していないようだ。
「どうせ一度の人生でしょ? 大事にしてたって出会いのチャンス失くしちゃうだけだし、こんな目に遭う事もそうそうあるわけじゃないし、余程酷いことにならなかったことには感謝するけど、それで人生観変えちゃうほどじゃないでしょ? って、そんなことじゃなくて、あいつ、自分だけ満足したら『もう、帰れ』って追い出したんだから! タクシー代は貰ったけど、それだけじゃ割に合わないっての!」
「マジ? それってあんまりじゃない!? そんな扱いされて、良く黙って帰ってきたわね!?」
「黙って帰ってくるしかないでしょ? ホテルに連れ込まれた時点で既に諦めてたし、終わった後には愛想も尽きてたしね。あれ以上、変に付き合ってて逆ギレされてたら、こっちも危ないしね」
何度目かすら忘れてしまった溜め息が、それでも八重樫を気に掛けて軽いものにしたつもりだが、タエの口から漏れた。
大事が無かったから良かったとは、タエ自身には言えないという気持ちが大きい。
最近のニュースなのでは、凶悪犯罪の若年化が毎日のように告げれている。血生臭い犯罪が大きく取りざたされているが、その影に埋もれた陰湿な犯罪も少なくないように思える。
自分の耳や眼に届いているものの方が少ないと誰が言い切れるだろう。特に女性特有の被害となれば、表面化しないことも多いと聞く。
八重樫のような同性のタエが見ても可愛らしく華奢な女性となれば、邪な考えを持つ男性も多いはずだ。それを考えれば、八重樫の無防備で楽観的な行動は、タエにとっては胸が苦しくなるほどもどかしく思える。
「少し考えて行動しなさいよね。友達やってるこっちの身にもなって欲しい」
一度、ぐっと握った手に力を込めた。八重樫の手がタエの手の中で小さくなったような気がした。
「これでも考えてるんだけど? 心配しないでよ。人を見る眼はあるつもりだし、ちゃんと危険な雰囲気からは逃げるようにしてるから」
そっとタエの手から逃れるように八重樫は手を引いた。
長く握っていたせいか、タエの手の平に寒々とした空気が感じられたのが、どことなく八重樫との距離のような気がして、すぐに手を握り締めて拳を作った。
「タエちゃん発見!」
不意に学食の入り口付近で大きな声がした。
ちょっと舌足らずな感じの高い声に、タエも八重樫も聞き覚えがある。
バタバタと走り寄ってくる足音は、軽快とはとても言い難い感じで、その人物の運動神経すら想像が付くような印象を受けてしまう。
顔を見合わせてしまったタエと八重樫だったが、変化が大袈裟だったのは八重樫の方だ。
片方の眉が上がって、あからさまに嫌そうな顔付きを作る。
タエの方は、そんな八重樫を見ながら困ったような顔付きだ。
「ちょっと福ちゃん。大きな声で呼ばないでよ。恥ずかしいでしょ」
テーブルの脇まで駆け寄ってきた女性をチラリと目線だけで見上げてタエが言った。
まるで麻の布なのではないかと思えるようなクリーム色のワンピースは、デザインなのか洗濯を間違えたのか皺だらけ。その上に着込んだカーディガンは、恐らく昔はピンクだったのではないかという色合いに見えるが、そう古着のようにも見えない。元から煤けたような薄いピンクなのだろうか。
そんな服装に身を包んだ女性は、ふっくらと空気を含んだボブカットの髪が艶々とした黒色。多少、頬がふっくらとした印象を受けるが、体付きを見る限り肉付きが良いとは言えない。どちらかと言えば、痩せているように思える。
眉は太く力強いが、眼が世に言う『タヌキ顔』で下がっている。鼻や口は小さく、可愛らしいと言いたいところだが、パーツのバランスなのか、綺麗とか可愛いとかという形容詞が旨く当てはまらない。
「こら! 福子! 気軽に多恵果に放し掛けるな!」
八重樫が腕組みで迎えて吼える。
「ミュッチ! あたしはフクエ! 福江。福子じゃない!」
「ミュッチって言うな! あたしはミユキだ! 変な呼び方すんな!」
「福子って呼ぶ間はやめな〜い。ああ〜、お腹、空いた〜」
とりあえずは八重樫に一言告げたことで気が済んだのか、女性は空いていた席に腰を下ろして天井を仰いだ。
遠藤 福江。
タエがこの大学で、初めて友達になった女性だ。ふんわりとした性格と舌足らずな口調がタエには安心できるような雰囲気を持っていて、入学当時は良く一緒に行動していた。
とにかくマイペースで、自分を誇示するようなことはないが、他人に妥協もしないという変わり者でもある。外見と口調のふんわりに誤魔化されると、意外なクールさに一撃されることも少なくない。
「お腹すいたって、もう昼休み終わるよ」
苦笑しながら二人のやりとりを見ていたタエが、福江の髪をそっと撫でた。上を向いた時に、バラバラと数束が耳の辺りに絡んでいる。
「くすぐったい! あたしはこれから講義ないもん。変に小向先生とおしゃべりしてたら遅くなちゃって」
「はん? 小向教授と? あんたって辛抱強いよねぇ。授業や講義以外であの教授と話するなんて、あたしは耐えらんないわ」
あからさまに顔を歪める八重樫は、タエに同意を求めるように顔を突き出してきた。
頷くのもどうかと思ったタエには、愛想笑い程度の返事しかできない。
「害は無い人だと思うけどなぁ。『ラッコの帽子の保温性』とか『アザラシの靴の防温性』とか面白かったしぃ」
「なに? それ? 大体、ワシントン条約に違反すんでしょ。マッドよ、マッド」
「あらぁ、一時期よりマシだよ。その前なんか『エボラ出血熱の生物兵器転用の考察』とか言ってたしぃ」
福江の言葉にタエも八重樫もあんぐりと口を開けてしまった。
話の内容如何では『危険思想化』や『テロリスト』と言われても文句は言えまい。
「完全にイッっちゃてるじゃん。良くそんな話に付き合ってられるわね」
八重樫の呆れた口調に福江は微笑んで答えた。
「だって、呼び止められたんだもん。しょうがないでしょうよ」
「それにしたって、そんな話するのにあんたを選ぶのもどうかと思うけどね」
そろそろ昼休みの時間も数分を残すほどになり、学食にわだかまっていた学生達も三々五々に立ち上がり始めている。
タエもチラリと腕の時計を見て時間を確かめる。
「ああぁ、最初は、そんな話じゃなかったよぉ」
福江が、そんなタエに向き直るように座り直して言った。
自分に話し掛けられていることに気付かないタエは、午後からの講義をどうしようかと思いを巡らせていた。
「それなら、何の話だったっての?」
「んっとねぇ。そのまんま伝えるよ」
そう言うと福江は、タエに向かって姿勢を正し両手を膝に置いて、大きく息を吸い込むと真面目な顔を作った。
「『河村 多恵果。レポートの提出期限は、今日の午後六時が最終猶予だ。それに一分でも遅れた場合、警告していた通り留年を決定する。努々、忘れることなかれ!』ですって」
一瞬の間、タエと八重樫は顔を見合わせた。
福江の言った言葉を理解するのに数秒。理解出来てから福江を振り返るまでに数秒。
「なんですって〜!?」
同時に叫んだ綺麗なユニゾンは、閑散としてきた学食に木霊して、福江の両手を耳を塞ぐ役目へと導いた。
つづく
ご無沙汰でありました。
既に三ヶ月も過ぎてしまいました。
昨年の暮れから仕事の都合で休みも無い有様で、今年になると早々に指を骨折するという不手際。
やっと完治に向かっています。
頭の中では進む物語も、文字にすると遅々として進まず今日に至ってしまってます。
告知していたノクターンのエッチシーンも今現在、書いてる途中という有様です。
こんな状態で大丈夫か? 自分?
とりあえずは、少しづつですが、話を進めていきますので、我慢してお付き合いして頂けたら幸いです。