ユウヤ 第一夜 7
多少の淫靡な表現があります。
趣味で無い方は、お薦めできません。
降り注ぐ熱い雨に耳がおかしくなったと思う他に、どんな理由付けがあるというのだろう。
「……タエ……今、何て言った?」
確かめる必要があったろうか? 聞き間違いってどんなことが考えられる?
「………。」
タエからの返事は無かった。
ドアに眼を移してみれば、先程より小さい影がガラスに押し当てられている。恐らくは両足を抱えるように小さく座っているに違いない。
「……タエ……髪…乾かしたら……帰るからな。そのつもりでいろ」
言い終わらぬうちに、すっとガラスからタエの背中が消えた。
ユウヤの心臓が、見た目で脈打つのが分かる。胸の中央部が大きく跳ねているのが見える。
『何を反応してやがる!! 幾ら心が動いても無駄だ!』
思い切りドンと一度、自分の胸を右手で叩き付けた。息が止まるかと思うほどの衝撃に、クラっと眼の前が暗くなる。
誘惑される言葉など、腐るほど聞いてきた。ロシアの女の子など、胸にユウヤの手を導いて押し当てたほど積極的だったではないか。
それでも、これほど胸の高鳴りを覚えたことはない。
頭を抱えたくなるほどの気持ちに大きな溜め息が出た。出来るなら、胸の中を全て吐き出してしまいたい。つかえた物が大きな石の様に胸が重い。
そのくせ身体のあちこちが熱い。熱いシャワーのせいだと思いたいが、身体の芯が熱を持っているように、ジーンと広がってくる。
『くそっ! あいつが、あんなこと言うからだ!!』
ガンと壁に頭を当てて、温度調節を、もう一度、冷水に戻した。
痛いほどの冷水が背中を直撃して、ウッと息を詰めて背中が仰け反ってしまった。それでも堪えて、全ての熱が引くのを黙って待った。
数分だったろうか? もしかすると数十分かも知れない。
耳の奥がキーンとしてくるような感覚に、やっとシャワーを止めた。
冷え切った身体が、動きさえ緩慢になるほどだが、気分は落ち着いてきていた。身体の水分をバスタオルで拭き取り、きちんと服を身に付けると、冷えた身体を温めようと心臓が血を巡らせ始めたのか、体表がジーンと痺れたような感覚を浮き上がらせた。
大丈夫。頭は冷えてる。
確かめるように自分に言い聞かせて、バスルームを出る。
暗い部屋に思えていたが、既に数十分以上をこの暗がりで過ごしているせいだろうか、部屋の細部までが見渡せる位に眼が慣れてしまっていた。
タエはと探せば、ベッドに横になっていた。
「タエ? 髪は乾いた?」
声を掛けてみたが、身じろぎひとつ返ってこない。
ベッドに近づいて腰掛ける。音もなく沈む腰は、僅かにベッドを傾けてタエの身体を揺らした。
起き上がるかと期待してみたのだが、それらしく動くこともなく、タエは夜景の窓に身体を向けたままで、動くことすらしない。
『まさかと思うが、この状況で寝た?』
ユウヤが座ったのは、夜景とは反対側のTVにある壁側だ。ここからではタエの背中しか見えない。
仕方なくユウヤは、身体をベッドに乗せて腕を伸ばす。タエの身体を通り越し、反対側に右手を置いて覗き込むようにタエの顔を確かめた。
柔らかい表情で眼を閉じるタエは、規則正しい寝息を繰り返していた。
「タエ?」
小さく呼びかけたが、寝息が途切れることもなければ、眼を開けるような仕草も無い。
『こいつは、参ったな』
今の自分の格好を確かめて、ユウヤはドキンと胸の奥に痛みが走った。
ちょうどタエに覆いかぶさるような姿勢だ。顔も十センチほど離れたところにタエの寝顔がある。静かなタエの寝息が顔に感じるほどなのだから、その距離はもっと近いかもしれない。
暗がりの中だというのに、タエの睫毛までがはっきりと見える。僅かに開いた唇が、息をする度に微かに震えているのも分かる。水分が抜け切らない髪の毛が数本、頬に落ちていて、その筋の下に小さなホクロが見える。
自然と右手がタエの頬に伸びて、張り付いたような髪を掬い取る。
頬に触れた指が、タエの熱を感じて我に返った。
『何をしてんだ!! 頭、冷やしたばっかだろ!!』
ゆっくりと身体を起こして、ベッドからも降りた。
頭が痛い。そう、思った。
足音を立てないように歩いて、窓辺に座った。
先程まで座っていた場所なのだが、既に温もりも失われて、ヒヤッとする感覚が心地良い。そのままガラスにもたれて身体全体を冷やす。
窓の外に広がる夜景が、幾らか疎らになったような気がするのは、既に営業を終えた店が明かりを落としたからだろう。
ゆっくりと息を吸って吐き出した。
視線だけを眠るタエに向けた。
ここからだと、タエの足元から全身が見える。寝息を立てる白い顔が、無邪気な子供のようだけれど、その身体の稜線は確かに成熟した女性を思わせる。
馬鹿なことを考え始めてる。もう一度、窓の外に視線を移して、ユウヤは眼を閉じた。
ここに至って、どうしようもないことに気付いてしまっている。
どうやらタエに惹かれてしまっているようだ。
しばらく振りの感覚だ。いや、いつも思うことだが、何度、同じ経験をしても初めてのような気がしてならない。
一緒に居れば楽しいのだが、同時にもどかしいような重苦しい感覚が胸の奥に疼いて痛みさえ感じる。
どうして、こんなことになったのか?
いつもと同じだ。答えなど出るはずもない。
軽く自分を笑って、ユウヤは眼を開けた。
そのまま窓外に眼を向ける。が、何を見るでもない瞳は、光りの羅列を認識するだけで、形にはならなかった。
空は晴れているのだろうか。僅かながらの星が、黒々とした山の影の上に幾つか見える。
この夜景に負けないくらいで光っているのは、一等星なんだろうと思いはするが、それが何ていう星かなど分からない。
ただ、星空の方が地面にへばり付く様に光りを撒き散らす光景より、遥かに綺麗に思う。
『ふっ。無理矢理だな…』
遮二無二、考えを切り替えようとしている自分が笑えてしまった。自然と軽い溜め息が出る。もう、何度目なのかも想像できない回数だろう。
下げた目線に、ゆっくりと移動する光りが幾つも見える。車のヘッドライトだろう。
自然とその移動を眼で追っていた。連なる光りの列を潜るように移動するヘッドライトは、そこがバイパスだと告げている。大きく湾曲する道程を越えて、オレンジのライトの連なりに入って行く。
そこが大橋だ。
街を横断する川は、あの大橋の手前で山からの川と合流していて、そこから川幅を二倍に大きくしている。橋の長さは二百メートルほどで、洪水対策の堤防は、川底からだと十メートル、橋の上までだと十八メートル程になる。
このホテルから橋の街灯を見るのも数年振りくらいだろう。
『……時間が経てば、それなりに感じなくなるもんなのになぁ……』
こうして橋の姿を夜とはいえ見詰めていることなど、以前なら出来ることではなかった。動悸が激しくなり、眩暈を起こすことなど可愛い方だった。
が、今でも、心静かにという感じではいられない。心臓を鷲掴みされたように息苦しい感覚が湧き上がって来る。
『那美……。俺は、いつまで、こうしていればいい?』
久し振りに、そうユウヤは思った。
「急に呼び出してゴメンね」
一年近く会ってもいなかった那美は、髪がやや長くなっていた。身体も少し細くなっているようだ。ふっくらとしていた頬が、すっきりしてしまっているのが、その証拠でもあろう。
昔、良く来ていた喫茶店も、内装を変えたせいか初めて来たような錯覚を覚える。
テーブルや椅子はそのままだが、壁紙や照明も変わっているし、何より自分達の関係も様変わりしてしまっている。
「しおらしいじゃん。那美らしくもない。マリッジ・ブルーって噂もマンザラ嘘じゃないってか?」
白いブラウスに濃紺のスカートを身に付けた那美は、何処と無く浮かない表情だった。
「……別に、マリッジ・ブルーじゃないも」
口を尖らせて言う那美は、昔に良く見た膨れっ面だ。
「んで? どうしたよ。あと一週間で花嫁だろうが。こんなところで、俺なんかとお茶してる場合か?」
運ばれてきたコーヒーに口を付ける。夏ももう終わりに近いが、ユウヤはアイスコーヒーを飲むようなことがない。どんな時でも缶コーヒー以外はホットコーヒーしか飲まない。
「相変わらずなんだ? 夏でホットって暑苦しくない?」
那美は、長細いグラスに入ったレモン色の液体をストローで吸い上げている。
「那美だって相変わらずじゃないか。レモンスカッシュのガム抜きだろ? よくそんな酸っぱいだけのもん飲めるよ」
「いいでしょ! 好きなんだから!!」
俯いた感じで睨みつけてくる。眉が寄って眼が釣りあがって見える。この顔が、いつもの那美が文句を言う時の顔だ。怖そうに見えるが、怒っている時にはしない顔。本気の時は、真正面から睨み付けてくるから、その違いは分かり易い。
「だったら、俺も好きなんだからってことで」
「そんなとこも変わんないのね」
ふっと目線を逸らして、那美は口元に左手の親指を持っていく。
「その癖。直せって言ったろ? 親指の爪、無くなるぞ」
手持ち無沙汰だったり、ぼうっとしたりすると那美は親指の爪を噛む癖がある。お蔭でいつも爪の頭がガタガタになっていることが多い。
「あぁ、なかなか、直んなくって。気にはしてるんだけどね」
てへっと笑って見せる那美にユウヤは苦い顔で溜め息を吐いた。そのままポケットに手を入れて煙草を一本、つまみ出して口に咥えた。
「……それ、好きだったな……」
その様子を、ユウヤがライターで火を付けるまで眺めて、那美が呟くように言った。
「あ? 何が?」
「その、ポケットから一本だけ煙草取り出すの。箱ごとじゃなくて、一本だけ出すのって、あんま他の人しないから」
ふんと鼻で笑った。そんなことかという意味だ。同時に吸い込んだ煙を横に向いて吐き出す。
「まだ、同じ銘柄なんだ?」
クンクンと鼻を鳴らして煙を匂う那美は、懐かしそうに眼を細めて優しく笑って見せた。
「好みは、そう簡単に変わらないよ」
そう言ってコーヒーカップを持ち上げて口に運んだ。その仕草も那美は眼を細めたまま見詰めた。
「それも好きだった」
「んん? 何が?」
「それ。カップを取っ手じゃなくカップ全体を包むように持つとこ。熱くてもやせ我慢して、そうするでしょ?」
「こいつは、俺の中でのこだわりだ。コーヒーってのは、こうして飲むもんだと思ってる。ってか、今更、そんなこと言うなんて変だぞ。前は言わなかっただろ?」
片手に煙草、片手にコーヒーカップを包んで、ユウヤは椅子の背もたれに身体を預けた。身体も少し斜めにする。
那美とユウヤが付き合っていたのは、既に二年も前のことだ。
その当時に那美が、そんなことを言ったことなどなかった。
「あの頃は、あたしだけが知ってれば良いことだったの。誰にも気付いて欲しくなかったもん」
ちょっと頬を膨らます那美は、フンという仕草で横を向いた。髪がフワリと揺れて、僅かな香りがユウヤの鼻腔に届いた。
「シャンプー変えたのか? 香りが変わったな?」
「あの人が好きなの。トリートメントだけどね。臭い?」
自分の髪をつまんで鼻に持っていく那美は、クンクンと匂ってユウヤに振って見せる。
「いいや。そんなことない」
表情は変わらなかったと思う。が、那美はあからさまにムッとした表情をしてベッと舌を出した。
「ウソツキ! 強い匂い嫌いなくせに! 今でも正直じゃないのね?」
ユウヤ自身、嘘など付いている気など無い。相手のことを丸ごと受け入れることも、注ぐ愛情の一部だと思っていた。嫌なところも好きになれることが、好きになるということだとも思っている。
見せたくない嫌な面が自分にあったとするなら、それを見せないことも自然なことだと思う。
が、全ては既に過去のことだ。
「何だよ。そんなこと言うために電話してきたのか?」
「……そんなんじゃ……。そういえば、可愛い彼女は元気?」
視線を落として一瞬、暗い表情に見えたが、すぐに笑顔を作って顔を上げる那美をユウヤは不信な思いで見た。
「……ああぁ。って、何で知ってんだ?」
一年以上会っていない那美に、今の彼女の話を出来るわけは無い。
「アハハ、貴に聞いたの。たまたま、この前、デパートで会ったんだ。貴も彼女と一緒だったよ」
貴。
熊山貴幸は、ユウヤの中学からの親友だ。ワガママで軽い性格だが、心の底は熱い奴で、ユウヤのことを一度たりとて裏切ったことはない。良いライバル的なところもあって、よく勉強やスポーツで張り合ったりもした。
玉に瑕なところは、気の許す相手には口が軽いところだろうか。
そういう意味では、同じく中学から一緒の那美に話をしていたからといっても、それを責めるのは無理なことかもしれない。
「犯罪な彼女なんだって? まだ高校生なんでしょ? 悪いこと教えてるんじゃない?」
斜めに見てくる那美は、ちょっと悪そうな顔だ。腕を組んで、フンとばかりに鼻息まで荒い。
「馬鹿言うな。まだ、何にもしてない。今年は受験だしな。そんなことで煩わせてたまるか」
今のユウヤの彼女は、付き合いだした頃は高校二年生だった。学校の夏休みに、同じアルバイト先で知り合った。
ユウヤは、本音では子供と思って相手にしなかったが、仕事を教えている内に『お兄ちゃん』と慕ってくるようになり、気付けばいつも一緒に居るようになってしまっていた。
悪い子では無いが、無邪気すぎるところが心配で、何かと世話を焼く内に、付き合うということになってしまった。
だが、ユウヤの中では、半分は『妹』的存在なのは否めない。だから、一年を過ぎた今日まで、キスくらいはするが、それ以上を求めない関係でもあった。
「あんたにしては、随分と頑張ってるんだ? 何? 自分で処理してんの? 我慢は身体に毒なんじゃない?」
冷ややかな目付きで顔を突き出してくる那美に、ユウヤは煙草の煙を吐き掛けた。
ケホケホと軽く咽て身を引く那美は、渋い顔だが、どことなく嬉しそうな表情でもあった。
「俺の付き合い方に意見されたくないね」
煙草を揉み消しながら言った。那美の表情から注意が逸れたのは、その一時だけだった。
改めて見る那美は、ちょっと悲しそうな感じで眼を伏せていた。
たった数秒の時間に、那美の中で喜悲が入れ替わってしまったようだ。
「そういう相手を思い遣るのが、時には見当違いってこと思わないのも……変わってないんだ」
那美の言いたいことが分からないこともない。が、それを認めてしまっては、今までのユウヤが否定されてしまう。
ユウヤの考え方が、時折、相手のことを考えない独り善がりだということも分かってはいる。全てを話し合って合意して行くのも大切なプロセスだと理解していても、ほんの少し自分が我慢すれば解決してしまうことなら、敢えて面倒な手順を省いてしまうことも多々ある。
だが、そんなことなど、誰にだってあるはずだし、ユウヤ自身、親や兄弟とだって同じ対応をしている。
恋人だからといって、そのスタンスまでは変えられなかった。
「そんな顔すんなよ。相手が違うだろうが。それよりも準備はいいのか? 式まで大詰めだろう?」
話を摩り替えるつもりは無かったが、那美に今のユウヤの彼女という話をするのは気が引けた。
「……ここまできたら、することなんて無いよ。もう、黙って待つだけ……」
苦笑いのような表情の那美は、視線をテーブルの上に落として、気泡の浮き立つグラスを見詰めているようだ。
「……お前。本当にどうしたんだ? 世間話するのに呼び出したのかよ?」
目線を上げてユウヤを見る那美の瞳は、僅かに光っているようにも見える。
「聞きたいことがあってね。それで、呼んだの」
「聞きたいこと?」
その時、喫茶店のドアを開けて、客が一人入って来た。
扉はユウヤの左斜め前方にある。自然と眼が行くのも仕方なかった。
入って来たのは、一人の女性だった。
入ってきて店内を一望して、ユウヤと眼が合う。軽く会釈するように頭を下げる女性だったが、ユウヤに覚えがあるようにも思えない。
どこかで? そんな感じだったが、名前が浮かぶほどの記憶が無いところをみると、見掛けたかどこかの店員でもあったか?
「………をどうしたかと思って」
女性に気を取られていて、那美の言葉を半分聞き逃したと思った。
「え? 何?」
「聞いてなかったの? あんまりじゃない?」
プッと頬を膨らますのは、昔のままの行為だが、今の二人には意味合いが随分と変わってしまっている。
女性がユウヤの座るテーブルの斜め向かいに席を取って座った。目線をずらすだけで視界に入る。
「………をどうしたかって聞いたの」
女性がユウヤを見詰めていた。小首を軽く傾げて、僅かに上目遣いな視線は、ドキドキするほどに刺激的な感じに思える。
那美の言葉が、何故か遠くに聞こえてしまう。
「ごめん。どうしたって?」
もう一度、聞き直した。
ふうっと大きく溜め息を吐かれてしまった。それと共に腕を組む那美は、口をへの字に曲げて不満顔だ。
「聞く気あるの? 心、ここにあらずって感じだけど?」
向かいの女性が気になっていることは確かだ。どこかで見たような覚えがあるものの、それがどこなのか、誰なのかがまったく分からない。
気のせいだと思うことにして、那美に改めて向かい合った。
「すまん。聞く気はあるよ」
カップに残ったコーヒーを飲み干して、やや冷たくなった苦味のある液体を流し込んだ。
「………をどうしたのか聞きたいの」
今度は、聞き逃さぬようにしていたはずなのに、前半部分が聞き取れない。
「え? 何をどうしたって?」
「だから、………をどうしたのって」
注意して聞いている。なのに、肝心な部分が聞き取れない。
わざと聞き取れないように話しているということもない。ちゃんと話しているのに、その部分が理解できない言葉のように耳に入っても意味を成してくれていないように聞こえてしまう。
「わからん。何をどうしたっていうんだ?」
その時、すっと向かいの女性が立ち上がるのが見えた。
那美が、業を煮やしたように、ズイっと身を乗り出してテーブルに身体を載せるように迫ってきた。顔が眼の前まできて、ニヤリと笑ってみせる。
嫌味を言うときなどに見せた顔付きだ。
「聞こえるように言ってあげる。あの娘が欲しいんでしょ?」
眼の中を覗き込むような視線が、ふっと落ちると淋しげな苦笑いになり、泣きそうな表情に変わる。
「何を馬鹿なこと言ってんだ!? そんなことあるわけないだろ!」
強く否定して、那美の肩を掴もうと伸ばした手が、冷たい物に押さえつけられた。
はっとして見れば、那美の手がユウヤの手首を握っていた。
まるで氷にでも捕まれたような感覚に、振り払おうと力を込めたが、どんな馬鹿力なのかピクリとも動かない。
「あの娘が気になってる。どうしようもなく気になってる」
俯いて顔を伏せた那美は、まるで呪文のように繰り返して呟いている。
「馬鹿な! 知らない娘に、どんな感情があるってんだ!?」
引くも押すもできない。冷たい手の感覚が、触れた皮膚から身体全体に移ってきそうな気がする。
「……さない。許さない……絶対に許さない」
那美は、もはやテーブルに頭を付けるような感じになってしまっている。呟きも聞き取れないほどくぐもってしまっている。
「いい加減にしろ! お前は、もう俺の彼女じゃないし、俺は、もうお前のものじゃない! 許すとか許さないってことじゃないだろ!!」
必死に手を引くが、まったく動かない腕は、まるで金縛りにでもあったかのようだ。
「………えてくれてないのに……許してなんかあげない……絶対に………くれるまで」
呪詛の言葉かと思える低い声は、ユウヤの背筋までを冷たく凍らせて、恐怖すら覚えるような感覚だ。
囚われる。そんな言葉が頭に浮かんで、そのまま身を委ねてしまえば楽になれるような気がした。
と、不意に身体を引き寄せられる感覚がした。
はっと我に返れば、暖かい腕の中に包まれていると感じた。
腕は、まだ冷たい那美の手に捕まれたままだが、頭を抱え込むように、包み込むようにギュッと締め付けられる柔らかな感覚。
「ユウちゃん。どうしたの? 大丈夫。大丈夫だよ」
すぐ耳元で囁かれる言葉が耳朶に熱い。それも聞き覚えがあるような心地好さ。
向かいの女性? と思えたのは、感覚的なものだったろう。
ぼうっとする頭が、考えるのを停止したかのように虚に浮遊している。感覚がなくなったような、どうしたら良いのかさえ判断できない。
「あっち行って! ユウは、あたしのものなんだから。渡さない。許さない」
那美の言葉が、地の底から聞こえてくるような気がする。
「決めるのは、ユウちゃんだよ。でも、こっちに来て欲しいな。あたし、もっともっと、ユウちゃんのこと知りたいから」
抱きしめる腕に力がこもって、暖かさが身に流れ込んでくる。ジーンとする痺れにも似た感覚に、ユウヤは眼を閉じてしまった。
と、同時に閃く。
『タエ!?』
暗いと感じた。
右肩から半身がやたらに冷たい。
ガラスに触れていると気付いたのは、数秒の間があっただろう。
『夢!?』
目玉だけを四方に走らせて廻りを見渡せば、窓外に疎らな電飾が街の名残のように瞬いている。
どうやら、いつの間にか居眠りをしていたようだ。
出窓に腰掛けた姿勢で、ガラスに身を寄せて眠っていたために、冷えた体が僅かに痛い。
ふうっと息を吐いたのは、自然な行為だった。安堵の溜め息といえるだろう。
『……やっぱり、まだ、見るんだな……』
戻ってこれる。いつも、そう思う。同じような夢を、もう何度、見たことだろう。
その度に、冷や汗と悪寒に悩まされて目覚め、頭を抱えて朝を迎える。
それが、今日は違った。
冷や汗などかいていないし、どこか暖かいような感覚も残っている。いつものような冷たい水の中を泳いできたような悪寒も皆無だった。
壁に背を預けて天井を仰ぎ眼を閉じた。もう一度、深く息を吐いて、眼を開けて窓外とは反対に眼を向けた。
見覚えのある顔が、穏やかな寝息をたてながら横たわっている。
『ありがとな。助かったよ』
心の中で呟いた。
過去の妄執……などというつもりはない。言うなれば、自分の中のトラウマ程度だと思っている。
だが、その根は意外と深かったということだろう。ここ数年、同じ夢を見ることが多い。それも、女と二人きりでいるときには、必ず訪れる恐怖の時間。
毎晩のように飲み歩き、軽い酔い方で解決できたことだったが、酔いに任せて女と一夜を共にしようとすると、こうしてお迎えがやってくる。
それが、今日に限って途中で目覚めた。こんなことは珍しい。いや、初めてだったろう。
タエの存在が、どうやら大きく起因していることは確かだろう。
腕にはめた時計を見てみる。
午前二時を回ろうとしている。
どうやら一時間近く眠っていたようだ。
こうしてタエの寝顔を眺めながら過ごす一夜も魅力的ではあるものの、レポートの途中だと言っていたことを気掛かりに思うなという方が無理だろう。
タエは学生で、勉学が主体でなければいけない。それが全てというつもりは無いが、ユウヤ自身が高卒で、それ故に勉強というものに憧れていたこともある。社会に出てみて分かったことだが、日常を過ごしながらの勉強は、安易に成し遂げられるようなものではない。日々に追われて、その目標さえも失うなど茶飯事なことなのだ。
『今、出来ることをしないってのは、やっぱ、損してることだよな。変に付き合わせちまったし、夢の中でも助けてもらったし、安眠中だけど鬼になるしかない……だろうな』
自分で考えていて笑いが漏れる。ユウヤ自身、勉強に勤しんだ記憶など学生時代でも皆無だ。勉強を好きな人間なら、それを生甲斐にすればいいのだが、漫然と過ごす学生生活に、勉強は苦痛以外の何者でもなかった。が、今にして思えば、足りないことが多すぎる。もっと、もっと勉強しておけば良かったと思うことも少なくないのだ。
だからこそ、タエのようにチャンスが残されているのならば、無駄になろうとも知識の幅を狭めて欲しくはないのだ。
少し気だるいような身体を壁から引き剥がして、ユウヤはタエの横たわるベッドに歩いて、その縁に腰掛けた。
「タエ? もう、起きて。帰らなきゃ駄目だろ?」
熟睡しているのを起こされるくらい腹の立つものは無いと自分でも思う。が、今、それを許してしまうと、明日提出だというレポートが犠牲になってしまう。時間的には、既に今日なのだが。
「………んんっん………」
薄っすらと眼を明けたタエは、右手で眼をこすりながらユウヤを確かめたような感じだ。
「レポート、残ってるって言ってたろ? そろそろ帰って仕上げないと、朝までに間に合わないんじゃないの?」
父親か母親のような口調だなと思いながらも、寝惚け眼のタエの肩を激しく揺すった。
「……ううん……うん……」
幾らか意識が戻ってきたのか、タエは大きく瞳を開いて廻りを見渡してユウヤの姿に戻ってきた。
「……ユウちゃん………」
掠れたような声がユウヤの名を呼んで、しっかりとユウヤのことを見たはずなのに、その眼はゆっくりと半分閉じてしまった。
「起きろって! 帰らなきゃ」
力なく横たわるタエの右手を引いて、上半身を無理やりに起こして座らせた。動けば覚醒も早いはずだ。
「忘れ物すんなよ。さっさと帰るんだ」
取り敢えずは倒れこんで寝てしまうことは無い様だと確認して、ユウヤはベッドから離れて財布を取り出した。
精算しなければドアの鍵は外れない。
後ろでゴソゴソと動く気配がする。チラリと見てみれば、タエが必死に沈み込む身体を支えて、ベッドの縁に移動してくるところだった。
1万円札を出そうかとも考えたが、お釣りを貰う手間が鬱陶しいかな? と千円札の枚数を数え出したところで、すぐ背後で気配がした。
まだ、ベッドからそう距離が無いところだけに、タエが来たことは確かだろう。
「忘れ物ない? 後から取りに来るって結構、厄介なんだよ」
千円札は七枚。足りるだろうかと考えながら話しかけたが、タエの返事は無かった。
不思議に思って振り向くと、やはりすぐ後ろに立っていた。
が、予想外なのは、その表情だったろう。
切なげに眉を寄せて、グッと噛み締めたような口元がイジけた子供のように見える。それだけなら馬鹿にした笑いに紛らわせただろうが、問題はタエの眼だった。
暗闇にも光る瞳は、潤んだように濡れている。半眼に近い瞼は、下に降ろされてしまえば光る粒を押し出してしまうだろうことは予想できる。
何故、こんな表情をするのだろう。
「………あの……タエ?……」
何かしてしまったのだろうか? 知らぬうちに地雷を踏んでしまったか?
あたふたと考えるユウヤだったが、タエの行動は、そんなユウヤの範疇を超えたものだった。
すっと両腕が上がったと思うと、そのままユウヤの首に回されて、クイっと引き寄せられてしまった。抗えば振りほどけないことも無かったろうが、ユウヤは何故かそんな気になれなかった。
ユウヤの手から財布がボトリと床に落ちた。
タエの顔が近づいてきてしまう。止められないことはなかった。が、それにも抵抗する力が出ない。
薄く眼を閉じるタエが、数センチに近づいたところで、ふっと背伸びをしたように下から押し上げてきた。と、同時にユウヤの唇に柔らかい感触が重なった。
グッと眼を閉じた。
数秒。いや、数十秒だったろうか。
重なった唇は、そのまま動かず、ただ、ただ感触を確かめるように押し付けられたままだった。
スッと離れたタエの口から軽く息を吸い込む音がして、ユウヤはゆっくりと眼を開けた。
眼の前にタエの潤んだ黒目が、切なげにユウヤを見上げていた。まだ、両腕はユウヤの首を放していない。
「………タエ……駄目だよ……本気になる……」
果たして自分の言葉だったのだろうか?
そう思える自分が、意識していないままに言葉を発していると知れた。
タエの瞳は、一度、ふっと空を彷徨って、再びユウヤに戻ると、ぶら下がるようにユウヤを引いて、クルリと位置を入れ替えた。
ユウヤが、ベッドに背を向けるような形になった。
マズイかな? と思った時には遅く、タエはそのまま身体を押し付けるように体重を掛けてきて、前に倒れ込む形でユウヤを押し倒した。
二人の身体が、柔らかいベッドに弾む。
ユウヤとて男である。踏み留まれば、タエのようなか弱い力に押し倒されるようなことはない。が、どういうわけなのか、力を入れることさえ考えられなかった。
倒れたユウヤの身体に覆い被さるようにして、タエはユウヤの唇を求めてきた。
再び重なる唇は、先程のような押し付けるようなものでは無く、無理矢理に唇を押し開けて、舌を入れてくる濃厚なものだった。
縦横無尽に掻き回すような舌の動きで、タエはユウヤの口を中心に首を左右に巡らせる。
「んん……うん……んんん…‥」
息苦しさなのか、タエの口からくぐもった声が漏れてきた。
稚拙なと言えばそれまでだろうけれど、タエの隠さない気持ちの表れであるとするなら、これほど素直で一途なくちづけも無いだろう。ただ相手を求める、確かめる。それだけの気持ち。
一度、離れて、喘ぐように息を吸うタエは、ユウヤの肩に額を当てて、しがみ付くように抱き付いてきた。
ユウヤは、その間、ただ、されるがままに任せて、タエの身体には手も掛けなかった。
「……うぐっ……うっく………」
肩のタエが、小さく震えているのが感じられた。服に熱い吐息と湿った熱が感じられる。
今までのユウヤであれば、どんな相手でも、どんな状況になっても冷ややかに受け流せただろう。
それは、自分の中の欠陥が、女を受け付けないことに起因する。
だが、今のユウヤは……。
タエの身体の重みを感じながら、ゆっくりと眼を閉じて、押し殺したように泣き声を上げるタエの頭に手を当てた。もう片方の手を背中に回す。
暖かいというより熱いくらいのタエの身体が、ビクンと反応して跳ねた。
「タエ……本気になるって言ったろ? ……タエのせいだからな……って、言い訳だな……俺のせいだ」
肩のタエは、固まったように動かなくなった。その耳に口を押し付けるように囁いた。
自分の中の何かが、永い間の呪縛を解かれたように熱を帯びて力を溜め込みだしたのを感じる。
ホッと息を吐き出したのが、まるで炎を吐き出したかのように熱く感じて、眼を開けると同時にタエを抱き締めたまま体位を入れ替えた。ぐるりと半回転したのだが、ユウヤの体重を全て押し付けるには、タエは華奢に感じる。上半身を重ねたまま、下半身は身体から外して、肘で身体を支えて重みを掛けないようにした。
わざとゆっくりした動作で頭を上げる。目の前にタエの濡れた瞳がユウヤを見ていた。
『こいつは、何を泣いてんだか』
馬鹿な奴と思う。俺みたいな欠陥品なんかに、どうしてこんなことをするんだか。そう思う反面、物凄く可愛くも思えてしまう。
何の打算も無く、ただユウヤという自分を求められたなんて、凄く久し振りなことに思えてしまう。
じっと見詰めていると、頬を紅潮させてタエは顔を横に向けてしまった。
ムズムズとする感覚が芽生えてしまう。と同時に、胸の奥が締め付けられるように苦しく、それでいてドキドキと大きく波打つ。
遠い昔に味わったことのある感覚。だが、初めてのような気さえする。
両手でタエの頬を挟んで自分の方を向けた。
驚いたように見開いた眼を、それでも抵抗のつもりなのか、視線だけを横に向けてしまうタエに、ゆっくりと口を押し付けた。
「うん……ん」
ほんの少し、首を引く仕草をしたが、抵抗というには程遠い。
ユウヤの胸のドキドキは収まるどころか、倍の大きさになってしまている。が、焦ってしまう気持ちは無い。
今の時間を少しでも長く感じていたい。
舌を少し出してタエの唇の間を舐めた。ピクンと首が反応した。唇に力が入るのが分かる。
そのまま、何度か左右に行き来して様子を窺った後、唇を割って差し入れた。歯に当たって止まる。
薄目を開けて表情を確かめれば、眉間に皺を寄せて力を込めているような感じだった。
舌で歯の上をなぞって、前歯から犬歯くらいまでを往復した。それでも閉じられた歯が開くことは無かった。
先程のくちづけが嘘のような強固な守りは、ユウヤの中で笑えてしまえるほどに楽しかった。
夢中になって求めてしまった結果のキスは、今になってタエの羞恥心をひどく刺激しているんだろう。
『我慢、我慢。大人な男なんだから』
自分に言い聞かせないと、歯止めが利かない欲望は、一気にタエを貪ってしまうことにもなりかねない。そんなことはしたくないし、もったいないとさえ思える。
「うふっ……んん……」
さすがに息が苦しくなったのか、タエは小さく鼻で鳴いて息を継いだ。
こんなところも可愛いと思える自分は、既に重症なほどタエに溺れてしまっているのだと知らされてしまう。
ツンツンと舌先で歯の間を突付く。まるでノックのように扉が開かれるのを待った。
二度目のノックで、おずおずと僅かに開かれた扉を、ユウヤは開く度合いに合わせて舌を差し込んでいった。焦らず、急がず。
数十秒のような長い時間を掛けて、タエの口はユウヤの舌を迎え入れた。
様子を知るように大きく舌を動かして中を探る。緊張しているのか、少し乾いたような感じが伝わってくる。
一度、舌を戻して、自分の舌に湿りを乗せて差し込んだ。
クンと顎が上がって、息を詰めるのが感じられる。そのままタエの舌先を弄びながら、深く中まで差し込んで行く。
顔をタエとは真横になるほどに傾けると、幅の方が大きい舌を迎え入れるには大きく口を開かなくてはならない。
「うんく……はふっ」
大きく開いた口の隙間から、タエが一度息をした。
薄くタエが眼を開けるのが見えた。それに答えるように笑って見せて、隙間無いほどに口を塞いだ。
首の後ろに手を掛けて持ち上げるように浮かせる。喉と口内が真っ直ぐになるのを感じてから、グッと奥まで舌を差し入れた。
「んん!? んん……うん」
驚いたようにタエの両手がパタパタとして、そのままユウヤの背中に巻きついてきた。
タエの口の奥までを舐め取って、代わりに自分の水分を分け与えながら、舌を動かした。
背中を上下していたタエの手が、素早く駆け上ってユウヤの耳辺りに登ってきて、強い力で引き剥がした。
はぁはぁと息を継ぐタエは、切なげな表情でユウヤを見上げている。
胸の辺りのムズムズが止まらない。心音も今や胸の筋肉を叩くように跳ね飛んでいるのが見えるほどだ。
『やばい。止まんねぇ!!』
首を振ってタエの手を振り解くと、もう一度タエの口を吸った。強引に口をこじ開けて、タエの舌を掬い取って舐め回すと自分の口に導いた。素直に付いて来たタエの舌を強く吸ってしまった。本音で言えば、このまま吸い取って飲み込んでしまいたい衝動に駆られてしまう。
執拗なほどのキスに耐え切れなくなったのか、タエは顔を背けて逃れたが、それをも手で戻して再び口を吸う。
「うぐっ……うんん〜……」
限界が来たのは、タエの方が先だったのかもしれない。
ユウヤの左手を掴むと、そのまま自分の胸に導いて押し当てた。
下着の感触が伝わる手に、僅かに力を込めて押し当てた。
柔らかに押し返す感触が、ユウヤの我慢さえ溶かしてしまった。
犬のように、何度もタエの口を舐め取りながら、左手はタエのブラウスのボタンを外し始めてしまっていた。
ユウヤとタエの熱い一夜の始まりだった。
つづく
ちょっとだけ、短いですね(笑)
残念ながら、ここでの表現には限界がありそうです。
Hシーンは書きたいところなのですが、18禁になってしまいますので。
ということで、次回の「タエ」編を書いた後、一話だけHシーンを「ノクターン」に投稿しようと思います。
興味のある方は、覗いてみてください。
って言っても、まだ先の話ですけど(苦笑)