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タエ 第一夜 6

「お前さ。そういうところは、昔より露骨に嫌味になったな」

 ゴリラがニヤニヤと笑いながら腕組みしている。当然、言葉の相手はユウヤだ。

 タエも確かにそう思える。

 あんな離れてから大声で言うことでもあるまい。

 と、不意にユウヤの顔がこちらを向いた。

「マウンテンゴリラの従兄弟でキタオホーツクゴリラだ。性格はおしゃべりでお調子者。料理は、そこそこ出来るが、記憶力が無いんで毎日が違う味になるという珍獣だ」

 したり顔で言うユウヤの言葉に、最初は訳が分からなかった。が、その言葉を咀嚼して飲み込むうちに、理解より先に笑いが込み上げてきた。

 急いで口に蓋をしたものの、噴出してしまったものは止めようが無い。

「誰がキタオホーツクゴリラだ! 俺には恵庭えにわ修一しゅういちって名前があるわ!」

「すいません……恵庭さん…プッ…オホーツクゴリラって……クック…」

 恵庭に謝りながら、言い放ったユウヤを見てみれば、何食わぬ顔でチャーハンをパクついている。

 その変わり身にも笑いが誘われて、なかなか止まらなくなってしまった。

 恵庭は、そんなタエを喜ばせようとしたものか、本物のゴリラのように胸をドラムロールして見せる。本音では、オヤジギャグの究極のようなものだが、流れが面白すぎて笑えてしまうのは、雰囲気の良さなんだろう。

「ところで、ユウヤ。お前、機嫌は直ったのか?」

 ユウヤの眼の前に座って、恵庭は突然に言い出した。片手にビールの大ジョッキを持っている。

「んん?」

 ユウヤは、口に頬張ったチャーハンを飲み込むのに必死になっているような返事だった。

 それは、タエにも気になることだった。

 外村と名乗った男にあんな言い方をするようなユウヤは信じられない。どちらかといえば、旨く調子を合わせて場を繕ったはず。それが、あんな言い方…。

「あんな嫌味、昔なら怒鳴り散らすところだろうが。それが笑って言えるようになるってのは成長かもしれんが、腸は煮えくり返ってんじゃないのか?」

 恵庭が言い終わらぬうちに手のジョッキを煽った。大ジョッキの中身が半分くらい消えた。一気飲みに近い呑み方にタエは少し驚いた。

「ったく、仕事中に呑んでんじゃないっての。アルコールは味覚が鈍る。味が統一出来ないのは、半分はその癖のせいだろ?」

「今日は、お前達が最後だ。もう、入れないから良いんだ。それより、答えてねぇぞ。もう、一杯!」

 もう一度、口を付けてビールは消えた。二口で大ジョッキの中身が消えるのをタエは初めて見た。

 その豪快さを見ているうちに、何だか自分もお腹が減っているのを思い出した。

 レンゲを手にして、まだ湯気の立つ餡かけチャーハンを一口運んだ。

「う〜ん、おいしいぃ!」

 昼間のハンバーグといい、ここのチャーハンといい、ユウヤが連れてきてくれる場所は、タエが今まで味わったことが無いほどに美味だ。

 カニの餡かけは、嫌味にならない程度の風味で、チャーハンの塩気に負けない程度の主張はしてくる。ほのかに香るのは、ホタテの香りだろうか。だが、眼を凝らしてもその姿は確認できない。多分、出汁に使われているのだろう。が、強く主張してくるのは、チャーシューだ。煎り卵の影から、強い塩気を漂わせながら、米粒と絡まり絶妙な味わいを残して行く。ふと、味噌の風味を覚えるが、それもすぐにカニやホタテの中に消えて、幸せな風味を残して消えて行く。

「そうかい? タエちゃんは正直だねぇ。それ見ろ。味は鈍っちゃいないよ」

 そう言って恵庭は胸を張ったようだが、タエにはあまり聞こえていなかった。

 とにかく、夢中に食事に手を付ける。

「さっきの事だけど。別に怒って言ったわけじゃない。正直に気持ちを言っただけだ。怒る必然性も感じないしな。あいつが怒るのは勝手だ」

「初対面の奴に『嫌い』って言う奴だったか? お前、どんな性格変化起こしやがった。まぁ、今よりは正直な奴ではあったがな」

「大きなお世話だ。どう変わろうが俺の勝手だし、今の自分を変えようとは思わん」

 ユウヤが恵庭と話し出したが、ご飯の美味しさに夢中になって、あまり二人の会話が頭に入らない。

 が、キーンというユウヤのライターの独特の音が耳に届いて、ふと、眼がそちらを向いた。

 そして、改めて思ってしまう。『あたしって、この音が好きなんだ』

「こうして話してると、昔のクソ生意気な奴なんだがな。俺にしてみれば、さっきのあの野郎相手の作り笑いの方が虫酸が走るってもんだ」

「あんたにどう思われても俺は俺だ。ま、あんたに態度を変えるには、付き合ってきた時間が長い分、無理だがな」

「ガハハハ、違いねぇ」

 夢中に食べてた。というより、美味しさに負けてしまっていたという感じだろうか。

 冷盛パスタは、オリーブオイルを香り付けに使う程度で、嫌味な程に効かせ過ぎておらず、ワインビネガーで酸味を加えて塩コショウで整えてある。細切りのパプリカとスライスしたカリフラワーとブロッコリーが色合いと歯ざわりを演出しながら甘味を与えてくれる。その下に細いパスタと千切りのレタスが敷かれているのだ。

 トマトスープも絶品だ。ホールトマトなどでは出せない新鮮な完熟トマトを潰して作られたものだろう。軽い酸味にトマトとは思えない甘味がある。それでいてスープ自体は薄い赤色を溶かしたように澄んでいる。エビワンタンも歯ごたえが残る程度に潰してあって、食感が心地良い。

 気が付けば、ほとんどを口に運んでしまっていた。

 ユウヤと恵庭の会話が耳に入ってきたのも、食事が粗方片付いてしまったからだろう。

「お前、もしかして、まだ、気にしてんのか?」

 そんな言葉が耳に付いた。恵庭の言葉だったが、なんとなく静かな口調で、豪快な話し口調だった恵庭の流れが、不意に変わったので気になったとも言える。

 ちらりとユウヤの視線が恵庭を睨むような感じになって、その後に顔を伏せた。

 何かしらの過去が、ユウヤの視線を暗い地面に引き寄せることになっている。そう感じて、タエは、わざと食器をガチャガチャと音を立てて恵庭に差し出した。

「ごちそうさまでした。あの、ユウちゃん……いえ、ユウヤさんて、昔はどんなだったんですか?」

 下を向いていたユウヤが、跳ねるように顔をこちらに向けるのが感じられたが、タエはかまわずに恵庭を見続けた。

「こいつかい? そうだなぁ。生意気な感じは、こんなもんだったよ。ただ、もっと感情豊かっていうか、見た目で不機嫌か上機嫌かが分かるような奴だったな」

 食器を受け取った恵庭は、事もあろうかそれを後ろに無造作に投げ捨てる。割れると思った瞬間に後ろに居た男性数人が走って来て見事にキャッチしてみせる。

 感動すら覚える光景だが、されている人たちからすれば、冷や汗もののことだったろう。こんなことになると知っていたら、恵庭などに手渡すことなどしなかったのにとタエは後悔した。

「へぇ。顔に出やすい人だったんですか?」

 ちょっと睨むような眼つきで恵庭を見た。気付いた恵庭は、眼を大きく見開いて口をへの字にした滑稽顔を作って誤魔化す。

 すぐにワイングラスに入った黒いゼリーのようなものが、タエの前に差し出された。上に白いホイップが乗っている。

「デザートだ。こいつの考えた作品のひとつで、今もデザートの人気上位になってる」

 どう見てもコーヒーゼリーだと思える。恵庭がパフェスプーンを手渡してくれた。

「んん? これってコーヒーゼリーですか?」

 一口すくって口に運んだ。

 ほろ苦い味が広がるが、それに続いて甘いカカオの香りとチョコレートのような甘さの広がり。後に残るココアのような風味だが、ホイップが口の中で溶けるとすっきりとした酸味のような香りだけが尾を引いて消えて行く。

「な〜に、これ!? ほろ苦いのに甘いけど、クリームでさっぱりしちゃう! 不思議!! おいしい!!」

「だろ? 一時なんか一番人気だった。今でも二桁出ない日なんぞ無いくらいだ。で、こいつは、それを「どうだぁ!」と自慢するタイプの人間だった。喜怒哀楽が顔にも身体にも出る奴だったのさ」

 顔を向けてユウヤを見たが、ユウヤは再びご飯に手を付けていて、こちらを見ようともしない。

「かなりの苦心作だったはずなのに、出来上がっちまえば涼しい顔だ。ホイップには僅かな砂糖だけで、レモンとミントが分からないくらいで入ってる。アイスモカジャバってんだが、ココアとチョコレート、コーヒーを絶妙に組み合わせてある。配分も苦労したろうに、レシピもあっさり教えて、さっさと辞めちまう。読めん男だといえば、昔からそうだったのかもしれんな」

 掻き込むように皿を空にしていくユウヤを見ながら、ふ〜んと鼻息を吐く恵庭は、どことなく父親を思わせる。

「才能があるんですね?」

「俺は、そう思う。が、こいつが、そう思っていないようだ」

「ふ〜ん。発明家みたいな人なんだ。発想家なのかな?」

「性格なんだろうな。大雑把なくせに繊細な事が好きだった。このオープンキッチンもこいつに言われて造ったようなもんだ。「見えないところで、誰が作ったかも知れない料理を食うのって不安じゃないか?」って言ってね」

 繊細……そう言われても違和感はない。女性という意味で扱われる気の遣い様は、意識してしているとするなら、細かい神経がないと無理だろう。

「自分に? 正直な人だったんですか?」

「正直ってんじゃないな。そうだなぁ、言うなれば『直情型』だったのかもな。どんな感情も相手にぶつけてみて、それで受け入れられなきゃ、うろたえるみたいな」

「う〜ん。チラチラ見えるのは、その名残りなのかな?」

 横目でユウヤを確かめてみれば、カウンターに頭を付けて横を向いている。

 こんなユウヤを見るのも面白い。

「それが、何でこんなに変わっちゃったんですか?」

 何気ない質問のつもりだった。話の流れからいっても自然な感じだったと思う。

 が、恵庭の表情が僅かに曇った。次いでユウヤに視線を向ける。

「ああぁ、そいつは……」

 言い澱むという感じではない。どう言って良いのかと迷うような戸惑いだろうか。

「そんなことを聞いてどうするの? タエは、俺の昔が知りたい?」

 ハッとするほど柔らかい感じのユウヤの声。振り向いてみれば、優しい微笑を張り付けたユウヤが、眼だけは冷ややかに冷めた感じで見詰めている。

 怖い。違う。突き放すような、それでいてそれを感じさせないような、それ以上を聞かれないためのトロけそうなほどの微笑み。

 けれど、タエには分かる。これ以上は、他人には入り込んで欲しくないという意思の現れ。

 無意識にグッと奥歯を噛み締めた。

 近づいた距離が、初めて出会った頃より遠い距離にまで離されたような、そんな気がしてしまう。

「聞かれたくない事なら聞かない。ちょっと、ユウちゃんの中身が知りたいかな? って思っただけだから……」

 眼を合わせていることも辛い。思わず下を向いた。ギュッと眼を瞑って、ユウヤの中に入り込もうと考えていた自分を戒める。

 自分にだけは、特別にユウヤの意外な一面を見せてくれている。千佳子も知らないユウヤを見せてもらえているという、変な自惚れがあったのかもしれない。

「……もう、行こうか? 八時になる。帰ったら九時だよ。レポート、途中なんだろ?」

 顔を見ないで聞くユウヤの声は、少し掠れたようなものだった。だからこそ分かるのか、それともタエの思い込みなのか、ユウヤの柔らかい声の陰に、冷たいものが潜んでいるようで、タエはもう一度奥歯を噛み締めた。

「だね。お腹も一杯だし、ユウちゃんの機嫌も悪くなったみたいだし、行きましょうか?」

 勢い良く顔を上げて、そう言えた自分を褒めてやりたかった。作った笑顔もわざとらしいことは無かったように思える。

 ただ、少し寂しそうに笑うユウヤの顔は、タエの笑顔に反応するように眼を細めたのが、どうしようもなく切なかった。


 昼間の約束通りに食事代を支払おうとしたが、恵庭は頑として受け取らなかった。

 ユウヤが「この次は、倍払うぞ! 受け取らなかったら火を付けてやる!」と凄んで店を後にした。

 車内に乗り込んでも、気まずい空気は払拭できなかった。

 ユウヤの方を見ることもできず、かといって、このまま帰途に着くのも虚しい。

 どうして、こうなってしまうんだろう? 考えてみると、今日一日で何度、ユウヤと気まずい空気を共にしたんだろう? 気が付くと、こんな空気が自然と流れている。

 普段から「一言多い」くらいのことは言われている。過去に付き合ってきた男にも、最後には口喧嘩みたいになって別れたことも数度ある。

 聞かなくてもいいことを聞いてしまうと自覚しているわけではない。それは、相手のモチベーションによっても変わってしまうものだと思っている。それに、普段から相手の気持ちを配慮しながら言葉を口にしても、それは本当の意味で付き合っているということになるのかと疑問にすら思う。

 が、その結果が今に至っているのだから、正しいとは言いきれないのだが。

「何か、飲み物でも買う?」

 窓外に眼を向けているだけで、何か見ていたわけでもない。ボ〜っとする頭に、ユウヤの言葉が聞こえてきたが、何を答えていいものかも分からない。

 このままなら、きっとユウヤはタエを送り帰してしまうだろう。

 こんな空気のまま別れるのは、タエの中では許せない。何より、今までユウヤがしてきてくれた行為を深読みしていたとはいえ、恩を仇で返すようなものだ。それに、このままでユウヤは、次にタエが勤務の時の「ムーン」に笑って来てくれるだろうか?

「ねぇ…」

 ドキドキと胸が脈打つ。こんなに話し掛ける事が苦痛に思ったことは無い。

「この街で夜景が見れるって本当?」

 首を巡らせてユウヤを見た。顔が紅くなっていないか心配だったが、暗い車内ではきっと判別はできなかったろう。

 横目でチラリとこちらを見るユウヤも、薄暗い街灯が無ければ、影位にしか思えなかったろう。

「あ? ああぁ、そうだな。あるよ。ちょっとした小高い丘みたいなところ。道路もあるんで、若い連中のデートスポットにもなってる」

 ちょっと上目遣いなユウヤは、過去の記憶でも呼び起こしているかのようだ。フッと笑った口元は、甘い過去でも思い出したのかもしれない。

「ちょっと行きたいな。どんなか見てみたい」

 半分、本当で、半分は、期待していない言葉だった。「帰って宿題しなさい」と言われてしまえば、タエに反論するだけの時間的余裕も無いし、何より気持ちが既にユウヤの傍から離されつつある。

 顔を一瞬だけこちらに向けたユウヤは、ほんの少し眉を上げたようだった。暗い中でのことだっただけに錯覚かもしれない。が、無言のままユウヤは交差点を左折すると、街灯すらない暗い道を緩やかに登る道路にハンドルを向けた。

 街を離れること数分であったにもかかわらず、周辺は明かりひとつ無い暗闇になってしまっていた。途中、何件かの民家があったくらいで、それ以外は暗い中をひた走ることになった。

 右手が山間になった頃、その途中に脇道のような細い路地を右折して、車は斜面を登って行く。立ち木が延々と続くのかと思った時に、風景が一変した。

「うわぁ〜、キレイ〜」

 斜め右手に広がった光景は、今しがたまで居た街の全景だった。

 色取り取りの電飾は、地上にばら撒かれた星のように明滅したり、瞬くように変化したり。

 狭い車道の脇を、何台かの車が占領している。ちょうど夜景のベストポイントでもある場所だけに、デートの最後を盛り上げる要因には、きっともってこいだろう。

 ユウヤは、そのまま車を進めて、一旦、夜景の見える場所を離れたかと思うと、急にUターンして元来た道を戻り始めた。そして、そこにも気遣いが窺える。止まった場所からは、タエの助手席から眼下に夜景が一望できるのだった。

『こんなところにも、こんな気遣いが出来るユウちゃんて、何処までが自然な振る舞いなんだろう?』

 そう思わずにはいられない。小さいことのようだが、気が付けることは誰にでも出来ることじゃない。

 停車と同時にライトを消す。一瞬、前の車の中で、二つの影が中央でくっ付いているように見えたが、タエは見ない振りで夜景に眼を移した。

 綺麗だとは思う。が、注意して見詰めれば、信号の変わりようや、パチンコ屋のネオンの変化、繁華街のネオン管の明滅などが確認できる。

 タエは、以前に元カレと行った函館の夜景を思い出す。

 確かに綺麗だった。『百万ドルの夜景』とは良く言ったものだ。港の外で漁をする漁火も相まって、それは豪華なものだった。が、それと同時に、その中で暮らす自分も重なって、風景の一部にしか捉えられない存在も自覚した。

『八重ちゃんにそそのかされて来てみたけど、逆効果だったかも?』

 そう思う自分が、なんだかロマンを忘れたように思えた。

 静かな車内が、嫌に寒々しく感じる。

「ねぇ…ユウちゃん」

 自分の声だったかも妖しい、か細い声が出た。沈黙に耐えられない。

 すぐ後ろに居るはずのユウヤが、なんだか遠い。

「んん?」

 返事は、意外なほど直に返って来た。

 何を言うつもりだったわけじゃない。ただ、静けさの中に居るのが、たまらなく嫌だっただけだ。

 話題が見つからない。見つからないなりに、思い当たることを口にする。が、それが欠点なんだと気付いても、もはや遅い。

「…さっきの…外村さんだっけ? あの人に、なんで『嫌い』なんて言ったの?」

 確かに気になってはいた。だけど、今、聞くことだろうか?

 心臓がバクバクと早鐘を打つのが分かる。

「そう、思った。だから、言った。ただ、後悔はしてるけどね」

 澱みない返事に、タエは安堵した。少なくとも拒否されることまでは無いようだ。

「後悔って?」

 安堵の溜め息が窓に曇りを作った。いたずら書きでもしようかと思ったが、止めておいた。以前のカレは、その行為にひどく怒っていた。汚れるんだそうだ。

「今までで、あんなこと言ったりしたことない。初対面の人は、その時だけじゃ量れないものも沢山あるだろ? あんなこと言えば、次が無くなることもある。だから、その時はそう思っても、口に出したりしない。次に会った時にも同じ印象なら、その時に言えば良いんだ。そういう意味での後悔かな?」

 上辺のユウヤなら、それをしただろう。

 でも、あの時に言われたことをタエは聞いている。タエや八重樫のことを侮辱した外村を、タエの中では許せなかったし、ユウヤが同調してしまうのも怖かった。

 それでもユウヤは同調せず、外村に嫌われることも顧みずに言葉を放った。

 胸が空く想いに、ユウヤの価値観を改めて知った。

『この人は、きっと自分より下を作ったりしない』

 無性にユウヤの顔が見たくなって、ゆっくりと振り向いた。急に振り向いたら、何だか泣きそうな気がしたのだ。

 夜景の光りにぼんやりと照らされたユウヤは、タエをしっかりと見詰めていて、その瞳が僅かな光りに反射して光っている。

「ユウちゃんて、変だよね?」

 自分の言葉に驚愕する。なんだって、こんなことを言ってしまうのか。照れ隠しにしても酷すぎる。

 天然の由来は、こんなところにあるのかもしれない。

「んん? 変?」

 ユウヤが、胸の辺りを探って、次の瞬間にキーンという独特の音が響く。直に火が灯されて、暗がりに慣れていた眼が眩しさに細まる。ほんの数秒、ユウヤの顔がはっきりと浮かんだ。煙草に移した火を見越して、タエを見詰めるような眼に心地好さが感じられて、タエは変な気分になった。

 蓋が閉まってカキーンと金属音が尾を引いて消える。

 いい音だと思ってしまう自分は、どこか変な趣味があるのだろうか?

「あたし、今日が無かったら、きっと今までのユウちゃんがユウちゃんだと思ってた。でも、今日のユウちゃんって、子供だったり大人だったり、笑ってるかと思ったら怒ってみたり、しどろもどろにうろたえてみたり、随分と印象がマチマチなんだもん」

 消えた金属音に導かれるように話し出していた。本来なら、きっと言っても仕方ないことだと思う。誰だって装う気持ちがあるし、ユウヤのそれが人より顕著だったにしても、それを咎めたりすることなど誰にも出来るはずはない。

 けれど、どうしても踏み込みたい心の現われは、自然と言葉を選んでタエの気持ちとは裏腹に好奇心を大きくしているようだった。

 そんな自分に腹が立つ。

「………。俺、今まで、色んなことしててね。まぁ、バイトみたいなことばっかりだったけど、それなりに仕事はしてたんだ」

 驚きの表情がユウヤに見えたろうか。今までにこんな話をしたことが無い。といううより、聞いても誤魔化されて聞いたことが無い。

「今の仕事は?」

 口が勝手に動く。聞きたいってことの体現なのだろうけれど、拒否されればいともアッサリ消え去る流れでもある。

「今の会社は、二年半くらい前に先輩に拾ってもらったんだ。倒産する目前で、社員の八割がいなくなったような会社で、ひとつ上の先輩が名ばかりの部長に選任されたってことで、やる気の失せた社長からも経営権を任されたんだそうだ」

 紫煙を吐き出しながら、ユウヤが答える。流れは途絶えないということだろう。

「なにそれ? 完全に放棄したってこと? ひっど〜い」

 完全に合いの手だと分かる言葉だが、それ以外に言う言葉がない。

「まぁな。けど、先輩は、どうせ長持ちしない会社なら、大きく勝負する気になったらしい。んで、何を思ったのか、俺を誘い込んだってわけ」

 その先輩という人の気持ちが分からなくも無い。普通に見れば、きっとユウヤは、頼れる存在に見えるだろうし、決して間違いを犯さずに正しく道を指し示してくれる。

 時折、口に運ぶユウヤの煙草の火が眩しい。眼を細めたが、唇まで尖らせてしまっているのに気が付いて恥ずかしくなった。でも、ユウヤを見詰める視線は外せない。

「その頃、俺は無職だったから、願ったりだったけど。俺に任されたのは、とにかく販路の拡大と商品開発。ここまでになったのは、ほとんど奇跡だけどね」

 奇跡。その言葉の裏にユウヤの汗が滲んでいることくらい、簡単に推測できる。

 きっと中途半端にできない性格は、打つかっては折れ、それでも打つかって勝ち取ってきたものだろう。

「苦労したんだ?」

 こんな言葉一つで片付けられるものであろうはずもない。が、その苦労を知らない人間が、これ以上を口にすることは、本人に対する侮辱だと思える。

 一息、煙草を吸って、ユウヤは灰皿に揉み消した。蒼いような光りにユウヤの顔がぼんやりと浮かぶ。

「苦労っていうほどの苦労は無かったけどね。その前のバイト生活の方が、苦労だったかも?」

「どんなことしてたの?」

 心地良い静かなトーンの会話。きっと、それだけじゃない。二人だけの、誰にも邪魔されない会話。それを楽しみたい自分にタエが気が付いているかどうか。

「最初は、あのイルマージュさ。一年くらい居たからね。それからバーテンになってシェーカー振ってカクテル作ったり、コンビニの店員にビデオ屋だろ。農家に住み込みもあったし、船にも乗った。建設現場もあったし、アクセサリーの販売ってのもやったっけ。床屋でシャンプーもしたし、マッサージ屋でモミモミもしたなぁ。後、何かしたかな? 最後は喫茶店でマスターだったか」

 淡々と話すユウヤの声は、心地好く心の中に染みて行く。返事も相づちも忘れて聞き入った。

 優しいトーンのユウヤの声は、どこかしら優しさを含んでいて、安心するより安心させられるような強制力がある。

「自分に合うものが無かったの?」

 考えて言った言葉じゃない。ボ〜っとして口にした。ただ、会話を途切れさせたくないことに必死な気持ちが言わせたもかもしれない。

「自分に合わないか…そうでも無かったよ。俺って器用貧乏なんだよ」

 聞きなれない言葉に、疑問が湧いた。小学生が質問するようなものだろう。

「キヨウビンボウ?」

「ああぁ。俺って人並み以上に何でもこなせるんだ」

 ユウヤが体勢を整えるようにドアにもたれた。この話に飽きてきたんだろうか? 胸ポケットを探って、煙草を一本取り出すのが見える。

「だったら長所でしょ? ビンボウなんてマイナスイメージじゃん」

 口に咥えそうになる手を止めて、タエを見るユウヤは、どことなく視線が泳ぐようにフワフワしている。

 じっと見られるのも居たたまれないが、定まらない視線は却ってタエを不安にする。

「問題は、そこじゃないんだ。人並み以上でもプロにまでは追いつかない。ってか、届かない。長年の修行してきた人の言うことも感覚的に分かる。だから真似ることは簡単に出来るんだ。だけど、それまでなんだ。それ以上のことをしたくても、器用な真似事で終わってしまう。それが分かるから、続けられない」

 言い終わって、やっと煙草を咥えた。ライターを入れた手を顔に持ち上げる。

 悪戯心が湧き上がる。身を乗り出して、ユウヤの手の中のライターを奪い取った。案外に素直に渡してくれたことにがっかりもしたが、暫くの間、ユウヤに握られていたライターは、ユウヤの温もりを残していて暖かい。

「もう、今日は吸っちゃダメ。身体に悪いんだから。禁煙しなさいとは言わないけど、吸える場所も少なくなってるんだから、吸わないでいられるくらいにはならないとね。それに、今さっき、吸ったばっかだし」

 蓋を押し上げると独特の甲高い金属音が響いた。オイルの香りは苦手なのだが、この音には陶酔してしまう。蓋を戻して跳ね返る音は、開けた時と違って一オクターブほど低いが、尾を引く長さは倍はある。どちらも好きな音だ。

「やりたかっただけだろ?」

 咥えた煙草をポケットに戻しながら、ユウヤが上目遣いに見ている。軽く笑顔が暗闇に悩ましい。

「あう? バレた? だって、この音、好きなんだもん」

 奪い返されるか「返せ」と迫られるかと思ったが、ユウヤはそのまま何も言わなかった。

 何度か開閉して音を楽しみながら、さてどうしようと考えた。返してもいいが、なんとなく名残惜しい。

 そのまま胸のポケットに入れてしまった。が、それにもユウヤは、何も文句を言わなかった。

「話の続き! 仕事、いっぱい変えて、器用貧乏だって気付いて、それでそんな造ったような性格になったの?」

 折角、ユウヤが自分の過去の一部を話してくれているのに、その他に気を回したくない。できるだけ、先程に開いてしまった溝を埋めてしまいたい。

 ふっと、ユウヤの顔が自分から逸れる。ちょっと、心が痛い。もしかして、また無神経なことを聞いてしまったんだろうか?

「失礼な。造ったなんて言うな。これでも、俺には酷く助かってる」

 つぶやくような小さな声に、タエは少しホッとした。

 こちらを見ようともしてくれないが、さっきみたいに拒絶を露にしていない。

「いつもは、きっとそうなんだよね。でも、今日は、全然、様になってないもん。すんごく薄っぺらで軽薄に見える!」

 一種、賭けのような言葉だと思った。これで拒絶されてしまえば、ユウヤはタエに表面を飾った自分を見て欲しいと思っているに違いない。

 が、その予想は、違った意味で裏切られた。

「ああぁ、もう! タエが悪いんだ! 朝から俺の予想を裏切ることばかりするし、答えが返ってくる。こんなの俺の予測範囲外だ。取り繕えるもんか!」

 いきなり左手で顔を覆うと、声を大きくして喚いた。急変のような態度に驚いたが、その後に溢れてくる笑いにも似た感情は何だろう。

「やっと本音かな〜? って、それこそ失礼じゃん! あたしが、一般的女子から外れてるみたいでしょ!! 撤回しなさい!」

『嬉しい!!』一言で表現するなら、それしかない。

 ユウヤの心の本音の一部が、今、垣間見えた。そんな気がして、飛びつきたい、抱きつきたい。そんなことを考えていたら、自然と両手が伸びていた。

「おい! よせ! 普通の一般的女子は、こんなことしないっての!!」

 肩や手を掴んだが、ユウヤは身を引いてしまった。手が熱い。

 考えてみれば、ユウヤから触れられたことはあっても、今日という日にタエから触れたのは、デパートの一件以来だった。

 これ以上、追いかけるのはわざとらしい。ちょっと身を引いて身構えるだけにした。

 二人の間には、腕を置くアームレストがシートにそれぞれ付いている。上下するものだが、運転するのにユウヤは、いつも腕をそこに置く。車の便利な構造とはいえ、今は二人を隔てる邪魔者にしか過ぎないのが恨めしい。

「まったく、一般的女子とか言っちゃって。そんならユウちゃんは、今まで何人の女の人と付き合ってきたっていうの?」

 少しでも距離を狭めたくて、両足をシートに上げて座った。

 聞いたことは、今朝から聞きたかったことだけれど、自分の中では、旨く話しの流れに乗せられたように感じていた。

「ああぁ、なんだ…そういうことじゃないんじゃないかな?」

「誤魔化せません! 答えて!」

 またも避けようとする。今度ばかりは逃さない。かといって、本音で知りたいのか? と問われると、その辺は自分でもはっきりとしていないような気がする。

 友達には聞いた覚えはあっても、付き合った人に聞いた覚えはない。

「お、俺がそれに答えるとしてだ……正直に答えると思うのか?」

 笑いが出そうな答えだと思った。だって、既にしどろもどろに近い。こんな状態で嘘がスラスラ出てくるようなユウヤじゃないことくらい分かっている。

「んん〜、そうだけど、ユウちゃんは、今日、あたしに見え透いた嘘は言うけど、騙す嘘は言わないでしょ?」

 一応、念を押すようなつもりで言ってみたが、チラチラと窺うような視線のユウヤには、どのみち余裕など既に無いだろう。

「ああ〜、なんだ? そのぅ……よ、よ、四人だ!!」

「へぇ〜、意外と少ないね? なんか印象、やっぱ違うかも?」

 どうしよう。笑ってしまいそう。恥ずかしがってる。可愛い!

 ユウヤが固く眼を閉じてそっぽを向いた。

「どんな印象だっての。最初の頃が長いからな。それに、この頃は付き合うようなこと無かったし……」

 少しふて腐れたように身体を整えて、タエの視線を逃れるようにフロントガラスを見るユウヤは、タエから見ても実に可愛く見える。もしかしたら、紅くなっているのかもしれない。

「長いってどのくらい?」

「え? そうだな。二番目が足掛け七年ってとこか? その次が、三年くらいで……もう、いいだろ!!」

「七年は長いねぇ。高校生くらいから付き合ってたの?」

 ユウヤは確か二十八歳。今の年数を計算して、他の二人が一年くらいだとしても十二年。高校生くらいに付き合っていなければ、今の年齢に合わないことになる。

 高校生のユウヤ……。

 ちょっと想像できない感じがする。

「どうでもいいだろ? 過去だ。今じゃない」

 あっと思う。

 ユウヤの声のトーンが変わった。きっと話したくない事に触れそうなんだと悟った。

「わかった、わかった。そんな、怒んないでよ」

 なだめるように両手で扇ぐ。溜め息を吐くユウヤが分かった。

 じゃ、もうひとつ、気になることを聞こう。この際だし。

「じゃさ、じゃさ。抱いた女の人って、何人?」

 溜め息を吐き終わって俯き加減だったユウヤの顔が、ゆっくりと一度、タエを見て戻り、次に勢い良く戻ってきた。俗に言う『二度見』というやつだ。

 そんなに驚くことだろうか? とも思うが、きっとユウヤには驚きなんだろう。でなくては、こんな反応などするまい。

「ば、ばっかじゃなかろうか!? なんで、そんなことを聞く!? んで、なんでそれに答えなくちゃならん!?」

「いいじゃん。別に恥ずかしいことじゃないでしょ? 隠したいなら聞かないけど、それでユウちゃんの価値がどうなるってものでもないだろうし」

「それなら、タエはどうなんだ? 今まで何人と付き合って、何人に抱かれた?」

 ありゃ? 反対に聞かれちゃった?

 ちょっと予想外ではあったが、タエにはユウヤに嘘を付くような意思はない。正直に答えたとしても、ユウヤはきっと軽蔑などしないし、態度も変えないだろう。

「んとね。付き合ったのは五人かな? 抱かれたのは……んとね……きっと、二十人くらいかな? もっとかな? ああ〜、でも三十人までは、きっと行ってないと思うわ」

 ユウヤが両目を見開いて驚いていた。

 あ、やっぱり多いかな? と思った。さすがにそこは少なく言っておくべきだったろうか?

「答えるんかい!!」

「え? だって、聞いたじゃん」

 ああぁ、そうか。きっと答えられないと思ってたんだ。それを正直に言ったから、それに驚いたんだ。

 やっぱりユウちゃんだ。と感じてしまう。何を言ったとしても、今の自分を、そのまま見てくれる。

「さ、ユウちゃんの番」

「俺は……そうだな……十六人ってとこか? って、どこまで入れていいんだ?」

「どこまでって?」

「抱きしめるまでがいいんなら、もっとだけど?」

 こんなところでも、ふざけて一拍の緩急を入れてくる。照れの証拠でもあるけれど、和んだ雰囲気に紛らわせたいのも分かる。

「馬鹿にしてるでしょ? 抱くって言ったら『しちゃった』ってことでしょ?」

「あ〜、はいはい。んじゃ、十六ってことで」

 そして、こうして直に投げるような態度になる。気を遣っているようで、その実、身を委ねるような感じ。

 ユウヤは、元々がこんな感じなのかもしれないとタエは思った。

「付き合ったのが四人で、抱いたのが十六人ってことは、付き合って無いのに抱いたのは十二人ってことかな?」

「それを言うなら、タエは五人以外は定かじゃないくらいってことだろうが?」

 すぐさまの反論は、多少、タエの心を動揺させた。言ってはみたものの、付き合ってもいない男に身を任せたなど、普通には褒められたことじゃない。

「しょ、しょうがないのよ、女って。そんなに好きでもなくても、求められると、なんか答えなくちゃなんない気がするの!」

 高校時代には、付き合っていた彼氏もいて、その人に身を任せるということが当たり前だったが、大学に入ると環境が一変し、親元を離れた開放感もあって、何故だかそんな関係になってしまうことも少なくなかった。

 それが悪いことだとは思わないが、自慢できる話でもない。

「気にすんな。誰にだってあることだ。数うんぬんじゃ、量れないことだし、男なら金で解決することも、女は受身になることが多い分、誘惑も多いだろうからな」

「別に気にしてないもん。っていうか、今『金で解決』って言った? それって……」

 ユウヤの口からは、おおよそ出てこないだろう言葉を聞いて、タエの心臓が一瞬、跳ねた。

「ああ、世に言う『フーゾク』ってやつだけど?」

 事も無げに言うユウヤは、普段の会話のような感じだ。けれど、ここのところは真剣に聞きたい。

 シートに正座して、ユウヤを凝視した。

「ユウちゃんも……行ったことあるの?」

「そ、そりゃぁ、男だかんな。興味で行くだろうし、我慢できなきゃ、行くしかないだろう」

 彼女が出来ない。女に相手にされない。そんな人が行く場所だと思っていた。が、ユウヤの話では、そんなことではなく、興味本位で行くこともあるという事実を知った。それに我慢できなくても行ってしまうことも。

 ユウヤほどの男なら、そんなところに行かなくても相手になってくれる女は沢山いるだろうに。それでも行ってしまうっていうものは、どんなサービスをしてくれるんだろう?

「その十六人に、その人達も入ってるの?」

 がっかりというより『金で解決』という方がショックだったかもしれない。それって『嫌い』と罵った外村と同じなんじゃないだろうか?

「は、入ってるよ。一応、そういう店だったし」

「そうなんだ……」

 失望でもない。裏切られた気持ちでもない。何だか淋しい気持ちが、胸の奥で疼くようで、窓の外を眺めながら何も考えられずにいた。

 結局、こんな感じになっちゃう。

「そろそろ帰ろう。もう、十分に堪能したろ?」

 静かな口調で語りかけるユウヤは、きっと柔らかな微笑みなんだろうと顔を見なくても分かる。

「んん〜、もう少し……」

 それに比べると自分の声のなんと呆けた感じなことか。

 眠いということもある。暗い車内に煌びやかとはいえ、遠目の夜景は間接照明のように柔らかい。

 ユウヤとフーゾク。なんとも結びつかないと思うのは、今までのユウヤを見てきたからだろうけれど、そんなユウヤですら行ってしまうんだから、行かない人がいないと思う方が間違っているようにも思えてしまう。

「もう少しって。いい加減、帰ろうぜ。明日は学校だろ? 遅くなったら、遅刻するぞ」

 言い終わらないうちに車は発進していた。

 眼の前の夜景が流れていく。

「ああ〜ん、やだぁ。まだ、帰りたくな〜い」

 ちょっとボーっとしていたために眠くもなっていた。旨く口が回らずに舌足らずな感じになったが、一応は膨れっ面て遺憾の意を表してもみたのだけれど、ユウヤは気にした風でもない。

「どこの酔っ払いだ? 駄々こねないで、サッサと帰るよ。さすがに俺も疲れたし」

 冷静に対処され、止めに「疲れた」とまで言われてしまっては、タエとしても悲しい思いになってしまった。

 ぼんやりと窓外に眼をやるくらいで、流れる景色に眼を漂わせた。

 少し近づいては、その分遠退いてしまうユウヤとの距離。何も恋人や親友というくらいにユウヤの中に入り込みたいわけではない。ユウヤとの今までの態度や会話にも、それ以上は入り込めないような一線を感じてもいる。

 ただ、何となく、ユウヤという人の生活の、その中の自然な一部に、タエ自身も居場所があったらと考えたくらいだろう。

 落としかけた視線に、ふっと路上駐車の車の屋根越しに何かが見えた。意外に近い場所に窓のような四角い明かりが並んでいる。それもどうやら、山の頂上辺りだと思える。

「ああ!! ユウちゃん!! あれ、なに!?」

「へ? どれ? なに?」

 別に大きな声を上げるつもりはなかったのだが、落ち込みそうな気分を切り替えるために少し大きめの声を出すつもりだったのに、自分の予想より遥かに大きかった。ユウヤも驚いたんだろう。キョロキョロと首を巡らすのに忙しそうだ。

 それでもタエが指差すものを認めると、軽い安堵の溜め息を吐いた。

「あれって、ホテルだよ。ここは、夜景の名所だからな。そういうものくらいあるさ」

「ホテル……じゃ、あそこからも夜景が見えるんだ?」

「あ? ああ、見えるね」

 何気ない言葉に、ユウヤはハンドルを操作しながら軽いトーンで応じてくれた。

 もう少し、もう少しだけ、ユウヤとの時間が欲しいと思ったのは、タエの無意識な欲求だったのかもしれない。

「行ってみたいなぁ。これからじゃ、チェックインできないかな?」

 不意に車がグッとノッキングして、身体が僅かに前に出た。驚くほどではないが、ちょっと不思議に思えた。ユウヤの運転は、安心して乗っていられるほどの気遣い安全運転のはずなのに。

「あのな。あれはラブホテルだ。ラブホ! ビジネスホテルや観光ホテルじゃない」

 ユウヤが、こちらを睨むような顔で声を大きくした。

 そんなことは分かっている。というか、こんな何も無い場所に観光目的にホテルということなどあり得ないし、夜景といっても小さな街の疎らな感もあるものなど、大都市の呼び物にはなっても、片田舎ではラブホの目印くらいにしかならないだろう。

「ああぁ、なんだ、そうなんだ。だったら、いつでも入れるじゃん」

と言ってみたのは、なんとなくユウヤがタエは勘違いしていると思っているらしいからだが、自分でも空々しいと思わないでもない。

「そうだね。いつでも入れるね。今度、誰かと来た時に、時間帯を気にせず入るといいよ」

 んん? と気になることをユウヤは言う。

 誰かって誰? 時間帯を気にせずって何? あたしを、そういう眼で見てるってこと?

「見える夜景って一緒?」

 気にはなるけど、それを口にはしなかった。車が擦れ違うために、慎重な顔付きでいるユウヤを煩わせたくない。

「んん? ああっと、あそこの下は崖みたいになってて、足元まで見えるよ。窓の方向も違うから、さっきより広く見える」

 ほうほう、行ったことがあるわけだ。そりゃね、その歳でホテルの一軒も知らないって方が不自然だわね。

「そうなの? う〜ん、行きたいなぁ」

 車がちょうど対向車と擦れ違うために路肩に停車した。

 ユウヤの気は対向車に注がれている。今、何を言ったところで、きっと上の空だろう。

「だから、次に来た奴と行けよ」

 やはり素っ気無い返事が返ってきた。答えとして「俺は行きたくない」ってことに直結しているんだろうけれど、タエとしては、もう少し押してみたい。

「今、行っちゃダメ?」

「はぁ?」

 思わず噴出しそうになった。

 一瞬、ユウヤの眉がグッと寄って難しい顔になったかと思うと、ゆっくりとこちらを向いた。理解不能のような困惑顔。こういうのも、面白い。

「行きた〜い! 行こう!!」

 我ながら子供っぽいと思うけれど、ユウヤのことだ、駄々をこねれば折れる可能性は高い。

「アホか!? ラブホだって言ってんだろ。ベッドはあるし、風呂なんかガラス張りだぞ。そういうとこは、そういう奴と行け!」

 そういう奴って、誰よ! って言いたいけど止めておく。そんなことを言い出してしまえば、きっとまた変な口論になって、結局は空気が悪くなる。

 今は、もう少しだけ、ユウヤとの時間を確保する方が大切に思う。

「行きた〜い、行きた〜い!」

 子供の駄々ってこんなだよね? と思いながら、本音ではかなり恥ずかしいと思いながらもやってみる。まぁ、相手がユウヤだから出来ることであって、他の誰であっても、多分、親にでもしないだろう。

「子供か!? いい加減にしろ。俺だって男だぞ。そんなところに行ったら、襲われることだってあるだろ? もっと、考えろ!」

『襲われる』という言葉に、ゾクっとした。

 確かにユウヤも男だ。けれど、何故だかユウヤには「そんなことしない」という変な安堵感みたいなものがあって、今、言葉にされたからこそ考えるかもしれないが、そうでなければ意識しなかったかもしれない。

 が、言われたからといって、そんなことをするとは考えられない。紳士っていう被り物をしてるとも考えられるけれど、それなら「ホテル行こう」って言葉には、簡単に頷いていたはずだろう。

 ということは、タエをそういう対象として見ていないってことにならないだろうか? 遊びに連れて行くだけの、まるで近所の子供扱いなのか?

 そう考えると腹が立つ。

 自分だってユウヤを男として意識するものが薄くないといえば嘘になるだろうが、それでも男という目線でみていないことはない。

 知らないユウヤの中身を垣間見れてワクワクしている自分もいるし、千佳子の言った通りだとするなら「タエだけが知っているユウヤ」も存在すると知ってドキドキもする。

 ユウヤは、自分を女という部分で見ていないのだろうか?

 やはり、このままじゃ帰れない。もう少し、ユウヤを困らせてもいいから一緒に居て、自分の存在がユウヤのどの部分に居るのかを知りたい。

 意を決して手を伸ばす。

 こうなったら実力行使でも致し方ない。ユウヤの襟首を掴むと、強く引いて身を乗り出した。

「な、なんだ!?」

「もう、いい!! 運転、変わって! あたしが運転して、あそこに行くから!!」

 片足をシートに掛けて、ユウヤの身体を踏みつけてでも入れ替わるつもりだった。

「!! わかった! わかったから、来るな!」

 額を鷲掴みにされて押し戻された。確か昼間にも似たようなシチュエーションがあったような?

 とはいえ「わかった」と言わせたのは確かな事実。完全に承諾したってことだ。

「わかったって言ったんでしょ? さぁ、出発!」

 これで「嘘でした」なんて言ったものなら……。

 タエは、心の中で色々と想像しながら足をバタバタさせた。それも面白いかも? と思いながら。

「んじゃ、行くけど……満室だったら、即帰る。いいね?」

「いいとも!!」

 車は、ノロノロと、見た目、凄く嫌そうに走り出したとタエは感じた。



 青いランプが灯されたゲートは、当然の如く「空室」を表している。

 それを見上げながら、げんなりとしたようにこちらを向くユウヤに笑って見せた。

 軽く首を傾げながら、それでも中に入るユウヤは、約束事だから仕方ないと思える素振りだ。

 建物は、赤と白にペイントされたペンション風な二階建ての建物だった。一階は駐車場で、入り込めばセンサーが働いて、ゆっくりシャッターが下りてくる。入ったところ、車のドアが開くあたりに一枚のドアがあって、そこから二階に上るような感じになっている。

 急な階段を登って、そこで靴を脱ぐようなスペースになっている。小さな下駄箱があるのがその証拠だろう。

 もう一枚、ドアを押し開けると、そこが部屋だった。ドアの横に料金の精算機があって、突き当たりにガラスのドアが見える。恐らくはお風呂なのだろう。小さなテーブルと二人掛けのソファ、壁に大型テレビ、中央にデカイベッド。

「んん〜、やっぱり、こういうところって、あんまり変化ないねぇ」

 ここに来たのは初めてだが、タエの住む街の外れにもラブホテルは数軒は存在している。そのどれもが、似たような創りだ。

 ベッドに近づいてみて思う。なんだか、大きい。

「ベッドも同じ……うっきゃ〜! キングベッド!! すんごい! 初めて!!」

 今までのホテルでは、ダブルサイズが平均的だった。下手をするとセミダブルなんてこともあった。それが、このホテルはリゾートホテルのペントハウスクラスのキングサイズベッドなのだ。浮かれない方が可笑しい。

 手を差し伸べてフトンに触る。フカフカと手が沈み込んでいく。

 これは、ダイブするしかないでしょう!

 床を蹴ってベッド中央に飛び込んだ。跳ねるどころか、身体を包むように受け止められて、そのままベッドに沈んでしまいそうになる。

「すんごい……身体が沈んじゃう。何これ? 腰、痛くなっちゃうんじゃないかな?」

 身体を反転させて仰向けになるのも苦労するほどだ。

 やっと落ち着いて足元を見れば、ガラス張りの壁が見える。その奥の部屋にシャワーのノズルが壁に差し込まれ、その下に大きなバスタブも見える。

「うっわぁ! ホントにお風呂、ガラス張りだ」

 こんなところでシャワーなど浴びたら、こちら側にいる人に全てを見られてしまう。

 この部屋を良く知っていたユウヤは、この部屋で誰かの入浴シーンを、今のタエのようにベッドに寝そべって眺めていたことがあるのだろうか?

 ふと、想像してしまって紅くなる。顔が火照ってきそうだ。

「折角の夜景が、明るくて見えないね。明かり消しちゃおうか?」

 ユウヤは、タエの足元の方でソファに腰掛けている。こんな顔を明るい部屋で見られるなんて、ちょっと恥ずかしい。

 身体を沈むベッドから起こして、入り口付近の壁にあったスイッチを切りに行こうとしたが、中々、起き上がれない。

 と、そんなタエを見ながらユウヤが立ち上がった。電気を消してくれるのかと思ったが、こちらに歩いてくる。

 バクバクと心臓が高鳴る。期待じゃないだろう。かといって、恐怖なはずもない。ただ、ただ恥ずかしいような、胸が詰まって旨く呼吸が出来ないような、そんな感覚に襲われてタエは身体を横に向けた。

「ここで出来る。このパネルがそう」

 タエの頭辺りに腰掛けて、ユウヤはベッドのヘッドサイドにある小さなパネルを操作した。

 ふっと、室内のライトが光度を落として暗くなる。

「こうして、ライトを消す。そして、ここをONにする」

 小さな豆電球のような、恐らくはLEDなのだろうけれど、それが壁に反射するように灯る。間接照明なのだけれど、これでは暗すぎて物が見えるような感じじゃない。相手の顔も間近に来なければ判別も不可能だろう。

 が、その効果は、TVとは反対にある壁一面に張られた窓のあった。腰くらいまでの高さの出窓風になっているそれは、一面の星の海のように、暗い部屋の中に浮かび上がった。

「うわぁ! すんごい、綺麗。幻想的だね……」

 ベッドの上に横座りして眺める光りの海原は、色とりどりの色彩を交えて昼間の影を連想させもしない。

 恐らくは大きな道の街灯なのだろう。一直線に並ぶ光りは街の外れで大きく湾曲してオレンジに変化している。が、そこが急に暗くなる。

 ユウヤが、そこに腰掛けたんだとわかったのは、人型に切り取られたからだ。腰丈の出窓は、人が腰掛けるくらいにちょうど良い感じだ。

「ユウちゃん、邪魔。そこ、バイパスの稜線があって綺麗なのに見えない」

「……はいはい」

 渋々な声が、暗い中で聞こえる。表情までは分からないが、重いような腰を上げて反対側に回るユウヤは、何処となく小さくなっているようにも感じる。

「そこなら、いいよ。後ろ、山だから」

「はいはい」

 ユウヤの座った後ろは、黒々とした山の稜線が見える。といっても、小高い丘に立ち木が乱立して、そう見えるだけなんだろうけれど。

 夜景の端が眼に入る。ぼんやりとした滲む光りは、ユウヤの身体の線を浮かび上がらせて、妙な切なさが漂っているような感じだ。

 視線を夜景に戻したいと思いながらも、眼はどうしてもユウヤの影から離れない。

 片足を出窓に乗せて、肩膝を抱くようなユウヤの姿は、いやに遠い視線を窓外に投げているようで、きっと何処も見ていないと思える。

 こんなに傍にいるくせに、ユウヤの考えていることも、見ているものすら分からない。

 手を伸ばしてしまいたい衝動を、タエは深い溜め息で消した。

 こんなこと、いけない。頭を冷やさなきゃ。

「……ユウちゃん……」

 声が掠れてしまいそうで、何度か口をパクパクしながら、やっと出た声だった。

「……なに?……」

 ユウヤの声が、掠れてしまっている。静かな空間で穏やかに言うつもりだったに違いない。自分でも静かな声を出す難しさは、今、知ったばかりだ。

「……ユウちゃん。これで、お風呂入ったら、見えないかな?」

「……………はぁ!?」

 返事が、かなりの間を置いて振り向いたユウヤは、シルエットになっているので表情までは分からないけれど、きっと困惑顔に違いない。

「だ、ダメだ。ダメに決まってる! い、家に帰ってから入りなさい!!」

 声も無く噴出したのは、多分、ユウヤには見えてなかったろう。

 まるで父か兄のような叱り口調だ。こんなユウヤなど、今までに想像すらできなかっただろう。

 うろたえるというより、嗜めることに気が入って、それ以外を考えていない。

「だって、潮風で髪、ネタっとするんだもん。梅雨の髪みたいで気持ち悪い」

 笑わずに言えたのは、きっと笑ってしまっては、ユウヤの態度が急変する可能性が強いと思ったからだ。少し天然っぽいと思っていてくれるなら、それに乗っかる方がユウヤと居る時間は増えそうな気がする。

「だ、だからってなぁ、ここで入る必要があるのか?」

「だって、これで帰っても、ここでお風呂入っても料金は変わらないんでしょ? だったら、入って行った方が得でしょ?」

 できるだけ天然で、尚且つ理論武装でってのは、意外に難しいものだと思う。口から出る言葉なら頭を通さずに出るくせに、考える言葉ってのは、自分でも嘘臭いというか、わざとらしいというか。

「あのね。俺って男なわけ。さっきも言ったけど、こんな状況で、タエが俺に襲われても文句言えないんだぞ」

 ビクッと肩が震えたのは、ユウヤの「襲う」って言葉に反応したからだろうか?

「……ユウちゃん。あたし、襲う気?」

 そうなら「そうだ」とはっきり言ってくれたり、態度に示してくれた方が対処はしやすい。とはいえ、もし本当にそうなったとして、今までの自分の過去からすれば「求められれば断れない」性格が前に出てしまいそうだ。

「もう、好きにしてくれ」

 やはり、そうなんだ。結局は、そう言ってしまう。「どうしたい」でもなく「好きにしろ」ってのは、卑怯な逃げ方だな? と思わずにはいられない。

「んん〜。でも、見えそう」

 こう言ったらどうするのかな? という意地悪な呟きだった。でも、少しくらい意地悪したとしても、ユウヤの今は、決して本音を語らないだろう。

「はぁぁぁあ。明かりつけるぞ!」

 怒ったような口調に身体がビクンと反応した。

 まさか、怒らせてしまったんだろうか? あんまりにしつこかった?

 部屋の明かりをつけて、そのままバスルームに入っていくユウヤを追いかけようとして、タエはベッドから転がり落ちながら立ち上がった。

「まず、泡風呂。これを入れてお湯を出すと、一時間くらいは泡が出て見えない。んで、これ! ブラインド。全部は閉まらないけど、半分は隠れる。それで、このパネル! 湯船の中でさっきの部屋の明かりくらい光る。大体の物が見えるくらいには明るいから、手元も危なくない。んで、俺は、さっきのように暗くして、文句言われた場所で背を向けてる。一切、見ないと約束する! 何か文句は?」

 テキパキと全てを説明しながらこなしてタエを振り向く。

「ない!!」

 と答えること意外に何が言えたろう。

 ユウヤを信頼しているけれど、誰が覗かないって保証してくれる? ユウヤだって男だと本人が今しがた言ったばかりではなかったろうか?

 考えても仕方ない。

 ユウヤが出て行くと、程無くして部屋のライトが落ちた。チラリと覗いてみれば、こちらに背を向けたユウヤが、窓枠に座って方膝を抱えている。ふっと丸まる背中が、何故か切ない感じに見えて、タエの右手が伸びてガラスにぶつかった。

『何してんだろ? あたし……。頭、冷やさなきゃ』

 バスルームの明かりを消して、服を脱ぐのももどかしくバスタブに飛び込んだ。

 予想以上にぬるい。けれど、変に想像で火照った身体には、調度良い温度かもしれない。

 髪が頬に触れると、水分を含んだせいだろうか、磯の香りがほのかに匂う。嫌いな匂いではないが、今の状況にマッチしているとは、とても言えない。

 シャワーのコックを捻って、僅かに判別できる容器を掴んだ。なんとも出来たホテルだ。蛍光塗料で上書きされていて、シャンプーもリンスも読み取れた。コンディショナーが無いのは仕方ないとして、残りのひとつがボディソープなんだろう。

 まずは頭、というか髪。意外に長い髪が、洗うとなると手間がかかる。乱雑にすると絡まってしまって、後でブローしたりすると泣く眼に遭うことになる。

 丁寧に、それでいてしっかり洗う。長い髪の宿命だろうと思いながら、いつも鬱陶しく思うのは、タエ自身が長い髪にそぐわないのかもしれない。

 シャンプーを流している時に、不意に後ろから声がした。一瞬、ドキンとして動きが止まる。もしかして、後ろを振り向いてユウヤの顔が窓ガラスに張り付いてでもいたら、身も凍ることだろう。

「……なんか言った〜?」

 できるだけ明るく言ったが、どう聞こえたろう? さすがに後ろを振り向く勇気は無い。

「なんでもない!!」

 返事が返ってきた。

 どうにも距離があって、すぐ後ろのガラス窓越しということではなさそうだ。

 ゆっくりと首だけを向けてみると、最初と同じ位置にユウヤの背中が黒く染み付いていた。

 ユウヤは、こんなことで嘘なんかつかない。分かっていたことなのに、何故、そんな疑いを持ったんだろう。

 リンスは止して、身体を洗う。首から腕、胸に移って腹と背中、大事なところを洗って足に移行する。上から洗っていく。子供の頃からの癖みたいなものだが、ユウヤは果たして何処から洗うんだろうと想像して、また身体が熱くなる。

『あたしって馬鹿? もう、止めよう。ユウちゃんは、あたしに女を求めていないんだから』

 そう思うと、ちょっと切ない感じがする。でも、ユウヤの全てを知ることなど一晩で出来るわけもない。それに、ユウヤの態度からして、今日、タエを求めるようなことなどしてくることもないだろう。

 いつも通り、普通に接しなければ、ユウヤの傍にも居られないような気がして、タエは深く溜め息を吐いてシャワーの雨に打たれた。

 バスタオルで身体を拭いて、服をきちんと付けた。

 備え付けのバスローブもあるけれど、そんなものを着てしまう天然さは、止めようと誓った自分に反比例するからだ。

 バスルームを出ると、ユウヤのシルエットは、未だ動かずに窓辺に佇んでいた。

「気持ちよかった〜」

 声の掛けようを考えても、適当なものが浮かばずに出た言葉だった。

 こんな場面で気の利いたことが言えるほど、自分に自信などあろう筈も無い。

 ユウヤの顔が俯き加減でタエの足元をうろついた。

『大丈夫だよ。ちゃんと服、着てるから。あたしをちゃんと見て』

 言いたい気持ちを我慢して、笑って見せるつもりだったが、この暗闇で見えるわけがなかった。

「ユウちゃんも入ったら?」

 そう言うくらいが精一杯だった。

「……そうだな。入って、さっぱりした方が、いいのかも………」

 そう言って横を擦り抜けるユウヤの表情に、何か痛々しいものが張り付いている。追いかけるようにユウヤの顔を窺うと、目頭辺りを押さえてバスルームに消えていった。

『泣いてた? どうして……』

 思い違い、見間違いなんてことは、この暗さだ。あり得ないことではない。

 もしかしたら、自分は知らぬうちにユウヤの何かに触れてしまっていたのかもしれない。

 そう思うと、自然と足がユウヤの後を追っていた。

 バスルームの中で、ザブンと湯船に飛び込むような音がした。

 まさか、押し入るわけにもいかず、タエは磨りガラスのドアに背を付けて座り込んだ。

 直にシャワーの音がしてくる。

「ユウちゃん……」

 消え入りそうな呟きだったろう。それほど、自分の声が小さかった。

「……なんだ?」

 ビクッとするほどに冷たい声がバスルームから返ってきた。こんな小さな声をユウヤは聞き取ったんだろうか?

「……怒ってる?」

 声のトーンが、凄く怖い。付き合った男が、こんな声を発する時は、決まって別れるような寸前の時に多い。

「……怒ってなんかない。覗きに来たのか?」

「ば、ばっか! 違うよ! ……ごめんね、無理言って、こんなとこまで引っ張り込んじゃって」

 柔和に変わったという感じにユウヤの声が返ってきた。思わず言ったことだったが、本心でもある。

「謝るな。襲うぞ。……嫌だったら最初から来ないし、タエが楽しいなら、それでいい」

 さっきの怖いトーンじゃない。けれど、普段の仮面ユウヤのような軽い感じもしない。

『タエが楽しいなら、それでいい』

 何故だかジーンと染みる自分が、鳥肌が立つほどに喜んでいる。

 両腕で自分を抱きしめてしまっている自分が不思議なほど自然に思えてしまっている。

「……ユウちゃん、優しいんだ……でも、女の人、みんなに言ってるんでしょ?」

 言わなくてもいいことだって分かっている。けれど、言わなくちゃ、ユウヤの中での自分の位置が分からない。

 返事は、なかなか返って来なかった。

「……そうかもな。だから、どうした?」

 やっと返ってきたものが、そんな言葉だった。

 けれど、タエにはなんとなく分かる。ユウヤの言葉に自虐的な自笑が含まれている。きっと、誰もが思うことだろうと諦めているんだ。

「……そっか。……でも…正直、店で会ったユウちゃんとは、まったく違ってることが多くて面白かったな。デートの時は、いつもそうなの? ギャップってやつ?」

 何て答えるだろう? それが楽しみで仕方ない。きっと嘘は言わない。けど、はっきりとは言わない。そう予想できる。

「いつもはもっとクールだ。お……タエの反応が可笑しいんだ。だから、こんなことになる」

 真っ白になってしまったと言っていい。嘘じゃない。誤魔化しでもない。はっきりと、今のユウヤは『タエが特別なんだ』と言ってしまったのだ。

「うふっ。『お前』って呼びたいんだ? 言いそうになった?」

 呼ばれても良いと感じていた。なんだろう? 涙が出そうな感覚に、鼻の奥が痛い。

「……確かにな。男って恥ずかしいこと嫌うから、結局、名前で呼ぶってことをためらう。んで、一度『お前』で呼んで返事されると承諾されたような気になって変えられないんだよ」

 グッと我慢する涙が、目頭に溜まって、眼を閉じてしまうと落ちそうな感じだ。でも、悟られたくないって気持ちもある。

 ここから離れたい。けど、どうやって? 切っ掛けが作れない。

「そっかぁ。なんか、謎がひとつ解明されたかも? ……ねぇ、ユウちゃん……」

「ああ? なんだ?」

「……ユウちゃん……あたしのこと……抱きたい?」

 ああぁ、これで切っ掛けが作れたかな? 

 きっとユウヤは「抱きたい」なんて言ってくれることは、間違ってもないはずだから。




               つづく





すいません。

とても長いんですねぇ。

まだ「一夜」でこの長さ。次回が「一夜」の最後になるんですが、それにしても長い(汗)


その後から、ユウヤとタエの話は別々に進んで行きます。

楽しんでいただけていると嬉しいんですが、同じ話を二度読むってのは、どんなもんなんでしょうな?


とにかく、次回から二話。

ユウヤとタエの不安定な夜にお付き合いください(礼)


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