ユウヤ 第一夜 6
ご飯を食べる。
それだけに入った店だったはずなのが、思い掛けない登場人物のお蔭で、何やら変な雰囲気になってしまったと後悔していた。
「お前さ。そういうところは、昔より露骨に嫌味になったな」
巨漢がニヤニヤとした顔でカウンターの向こうで腕組みしている。
「マウンテンゴリラの従兄弟でキタオホーツクゴリラだ。性格はおしゃべりでお調子者。料理は、そこそこ出来るが、記憶力が無いんで毎日が違う味になるという珍獣だ」
言われたことを完全に無視して、タエに向き直ってユウヤは話す。
一瞬、驚いたように見開いたタエの瞳が、段々と笑いに変わる。やがて、噴出すように大笑いを始めた。
「誰がキタオホーツクゴリラだ! 俺には恵庭修一って名前があるわ!」
「すいません……恵庭さん…プッ…オホーツクゴリラって……クック…」
笑いながら謝るタエは、どうやらツボにハマッたらしい。中々、笑いが収まらない。
憮然とした顔をした恵庭だったが、タエの喜び様に自分でも胸を叩いてゴリラを真似るひょうきんさを見せた。
「ところで、ユウヤ」
チャーハンを口に運び出した頃、恵庭がカウンターの向かいに椅子を引っ張って来て腰を降ろした。
「ん?」
口に物が入っているユウヤには、そう言うくらいが上出来だ。
「お前、機嫌は直ったのか?」
自分用に恵庭は、大ジョッキにビールを注いで持ってきていた。それに口を付けながらの会話だ。
「んん?」
まだ飲み込んでもいないユウヤは、反論するかのように眉を寄せたが、喋るまではいかない。
「あんな嫌味、昔なら怒鳴り散らすところだろうが。それが笑って言えるようになるってのは成長かもしれんが、腸は煮えくり返ってんじゃないのか?」
言った後でグッとジョッキを煽ると、中身は半分ほど恵庭の中に消えて行った。大ジョッキの中身は、たっぷり一リットルは入る。数秒で五百CCを飲み干したことになる。
「ったく、仕事中に呑んでんじゃないっての。アルコールは味覚が鈍る。味が統一出来ないのは、半分はその癖のせいだろ?」
やっと、口を空にして話したことは、恵庭の求めたものでは無かっただろうけれど、ユウヤにはどうしても言っておきたいことだった。
癖と言えば可愛いが、中毒手前の依存症ってことも有り得るのだ。が、本人は至って涼しい顔だが。
「今日は、お前達が最後だ。もう、入れないから良いんだ。それより、答えてねぇぞ」
もう一度、口を付けるとジョッキの中身は綺麗に消えた。その空のジョッキを後ろの若者に手渡して「もう、一杯!」とおかわりまでねだる。
豪快と言えるかもしれないが、一リットルが二口では、ビールの方が文句を言いそうだ。
「う〜ん、おいしいぃ!」
歓声ともいえるタエの声が挙がったのは、ユウヤがレンゲを置いた時だった。
「そうかい? タエちゃんは正直だねぇ。それ見ろ。味は鈍っちゃいないよ」
タエの歓声に破顔してユウヤに向き直る恵庭は、どうだとばかりに胸を張った。
「あのな、味うんぬんって事じゃなくて、モラルの問題なんだよ。客の眼の前で酒呑むシェフが作ったモン喰わされる客の身になれ」
「だから、俺は、もう作らん。追加注文が来ても、弟子が作る!」
ユウヤの苦言にも胸を張る。そんな恵庭をユウヤは苦笑しながら溜め息を吐いた。
タエといえば、夢中にチャーハンやサラダを口に運んでいて、あまりこちらの会話には感心無さそうだ。
「さっきの事だけど。別に怒って言ったわけじゃない。正直に気持ちを言っただけだ。怒る必然性も感じないしな。あいつが怒るのは勝手だ」
「初対面の奴に『嫌い』って言う奴だったか? お前、どんな性格変化起こしやがった。まぁ、今よりは正直な奴ではあったがな」
二杯目のビールを、今度はゆっくりと減らしながら、恵庭は身体を椅子に預けながらユウヤを見る。図体がデカイ分、見下ろされるような感じだった。
「大きなお世話だ。どう変わろうが俺の勝手だし、今の自分を変えようとは思わん」
なんだか叱られているような感じがして、ユウヤは恵庭から視線を外して煙草を咥えた。ライターの蓋を跳ね上げた時に、キーンと甲高い音が尾を引いた。
タエの手が止まって、一瞬、ユウヤの手元をチラリと見た。が、直ぐに食事に戻った。
「こうして話してると、昔のクソ生意気な奴なんだがな。俺にしてみれば、さっきのあの野郎相手の作り笑いの方が虫酸が走るってもんだ」
ユウヤが吐き出した紫煙を眼で追いながら、恵庭はビールを煽った。
「あんたにどう思われても俺は俺だ。ま、あんたに態度を変えるには、付き合ってきた時間が長い分、無理だがな」
「ガハハハ、違いねぇ」
二杯目も飲み干して、恵庭は豪快に笑う。が、ふと真顔になると
「お前、もしかして、まだ、気にしてんのか?」
と言った。
その言葉にユウヤは答えなかった。スッと視線を落としてしまうのは、自然な行動で、意識したものでなかったことは確かだ。
「ユウちゃん……いえ、ユウヤさんて、昔はどんなだったんですか?」
突然のタエの質問だった。急いで顔を上げてみれば、既に出された食事を完食していて、空になった食器を恵庭に手渡しているところだった。
「こいつかい? そうだなぁ。生意気な感じは、こんなもんだったよ。ただ、もっと感情豊かっていうか、見た目で不機嫌か上機嫌かが分かるような奴だったな」
ひょいひょいと食器を後ろに投げて恵庭は答えた。その後ろで若い者が必死に食器を追いかけている。落とさないのが奇跡のようだが、きっとこの男は、いつもこんな事をしているのだろう。その証拠に、誰も文句を言う者がいない。
「へぇ。顔に出やすい人だったんですか?」
タエの前にワイングラスに入った黒い物体の上にホイップクリームが乗った物が差し出されていた。このレストランでは、アイスモカジャバと言われる代物だ。
「デザートだ。こいつの考えた作品のひとつで、今もデザートの人気上位になってる」
恵庭がパフェスプーンを手渡しながら説明した。
「んん? これってコーヒーゼリーですか?」
珍しくも無いと言わんばかりのタエだったが、掬い取った一口で顔が跳ね上がった。
恵庭とユウヤを交互に見る。
「な〜に、これ!? ほろ苦いのに甘いけど、クリームでさっぱりしちゃう! 不思議!! おいしい!!」
「だろ? 一時なんか一番人気だった。今でも二桁出ない日なんぞ無いくらいだ。で、こいつは、それを「どうだぁ!」と自慢するタイプの人間だった。喜怒哀楽が顔にも身体にも出る奴だったのさ」
ユウヤは、煙草をもみ消して、途中だった食事に手を付けていた。掻き込むように流し込んで、食器を恵庭に向かって放り投げた。
「ととと、こら! 何をしやがる!?」
慌てて受け取って、それを後ろに更に放り投げる。後ろがバタバタと走り回っているのが滑稽だ。
「あんたがやってることを体験させてやったんだ。感謝しろ。若者の苦労が身に染みたろう?」
パチパチと拍手が後ろから聞こえる。汗だくで肩で息をする恵庭の弟子達だった。
「お前達、明日から時給下げるからな」
拍手に一瞥くれて、恵庭はユウヤではなくタエに向き直った。
「性格なんだろうな。大雑把なくせに繊細な事が好きだった。このオープンキッチンもこいつに言われて造ったようなもんだ。「見えないところで、誰が作ったかも知れない料理を食うのって不安じゃないか?」って言ってね」
身を乗り出すようにタエに話す恵庭は、酔いが廻ってきたのか赤い色味を帯びてきている。
「ふ〜ん。発明家みたいな人なんだ。発想家なのかな? 正直な人だったんですか?」
そんな恵庭にタエも身を乗り出して話しだしている。
『勘弁してくれよ』という気持ちで、ユウヤはカウンターに突っ伏した。
「正直ってんじゃないな。そうだなぁ、言うなれば『直情型』だったのかもな。どんな感情も相手にぶつけてみて、それで受け入れられなきゃ、うろたえるみたいな」
「う〜ん。チラチラ見えるのは、その名残りなのかな?」
チラッとタエがこちらを見るのが分かった。
確かに今日のユウヤを見ていれば、そんな場面が無かったとは到底言えない。
「それが、何でこんなに変わっちゃったんですか?」
ドクンと心臓が跳ねる。胸の奥に激しい痛みが走った。
「ああぁ、そいつは……」
恵庭がタエの質問に言い澱んで、身を起こした。ユウヤに視線を移してくる。
「そんなことを聞いてどうするの? タエは、俺の昔が知りたい?」
自分でも意識した言い方をしたわけではない。ただ、これ以上を聞いて欲しくないという気持ちが、そういう言い方になっただけだ。
ただ、その表情が、意識しなかったとはいえ、薄っすら笑ったような優しい感じだったのは、自分の中に張り巡らせた防衛本能だったかもしれない。
こちらを向いたタエの表情を見れば分かる。
グッと奥歯を噛み締めたような真面目顔。タエの言うところの『造られたユウヤ』が現れた瞬間でもあったろう。
「聞かれたくない事なら聞かない。ちょっと、ユウちゃんの中身が知りたいかな? って思っただけだから……」
最後は視線を落とした、はっきりとしない言葉だった。
こんな想いをさせたいわけでは無いのに、何故かこんな雰囲気になってしまう。
恵庭を見れば、軽く首を振って見せる。
『それは、言わない』という意思表示だろう。こんな男でも、気遣いくらいはできるらしい。
「……もう、行こうか? 八時になる。帰ったら九時だよ。レポート、途中なんだろ?」
穏やかに、優しく言ったつもりだったが、自分で思うよりトーンが変な気がする。気のせいだろうと思いたいが、ヒリつくような喉がいつもの声を出してくれない。
「だね。お腹も一杯だし、ユウちゃんの機嫌も悪くなったみたいだし、行きましょうか?」
ポンと跳ねるように顔を上げて笑ってみせるタエは、どんな感情なのかは量りかねる。
機嫌が悪くなったなど露ほどにも見せていないはずだ。事実、悪いなんてことは無い。
嫌な過去を思い出しそうになって、気分は少し落ち込んではいるが、それだって表面に出るような愚行を今更するはずもないと確信している。
きっと、へんなトーンになった声に、機敏に反応したタエの勘違いだろうと思うことにした。
ただ、無理に笑っているようなタエに、悪いことをしているような気分は拭えなかった。
料金を払うと言い張ったが、結局、恵庭は受け取らなかった。
押し問答の末、次回に倍払うと良い残して『イルマージュ』を後にした。
車に乗り込んでも、何を話して良いのか分からなくて、黙ったままに発進させた。
タエも窓外を見詰めたまま、何も話そうとしない。
このまま帰るとしても、今日で縮まった距離が、以前に戻ったくらいで変化は無い。
気持ち的には、少し寂しい気もするが、そんな気分を味わったのも久し振りな気がして自分が可笑しくなったりもする。
「何か、飲み物でも買う?」
「………。」
社交辞令的なことだったが、タエからの返事は無かった。
ふっと軽く息を吐いて、自分の中の嫌な空気も吐き出したい気分だった。
「ねぇ…」
窓外から顔を離さずに、タエが言葉を掛けてきた。
「ん?」
と反応した声に違和感は無かったように感じる。いつもの自分を取り戻す。それだけを心掛けていた。
「この街で夜景が見れるって本当?」
急に振り向いたタエの表情は、暗い車内で、時折過ぎる街灯に照らされて白く浮き立った。無表情な顔で小首を傾げるタエは、一見すると物悲しいようなものにも見える。
「あ? ああぁ、そうだな。あるよ。ちょっとした小高い丘みたいなところ。道路もあるんで、若い連中のデートスポットにもなってる」
自分の中の記憶を呼び起こす。
車の免許を取ったばかりの頃には、何度か足を向けた経験がある。とはいえ、あまり夜景が目的ということはなく、もっぱら口説きの一環だったのだが。
「ちょっと行きたいな。どんなか見てみたい」
ふっと口元に笑みを浮かべるタエに「レポートは?」と言いたくなる気持ちをグッと堪えた。『イルマージュ』での下を向いたタエの悲しげな顔が浮かんで、何だか胸が痛い。
お詫びのため、少しでも気分を変えさせてあげたい想いで、ユウヤは交差点を左折した。
夜景というからには、少しばかり街を離れる。といっても、この街自体が盆地の中にあるのだから、周りを山や丘に囲まれている。数分も走れば目的の場所に到着することになった。
立ち木の多い場所をくねるように登って行くと、突然のように開けた場所に出る。
「うわぁ〜、キレイ〜」
助手席のタエからでは、反対側に出現する夜の街並みは、眼下に広がるとは言い難いかもしれない。だが、その光景は、小さい街だといっても美しく煌めいていた。
ユウヤは、タエのことを思い、狭い車道を横切って草地に入り込んでUターンした。これでタエの助手席側から真下が夜景になる。ユウヤのRV車だからこそ出来る芸当だ。
廻りには一車線の道路に、数台のセダンやハードトップの車が停車している。
中でどんな事が行われているかは想像に容易いが、ここでは停車してからすぐにライトを消すことがマナーだ。変に前の車の中を照らそうものなら、変な諍いになることも少なくないのだ。
数分、窓外の夜景に眼を留まらせた。
こうして街の息使いをゆったりと眺めたのは、何年振りだろうか? いや、そもそも意識して眼に入れたことがあっただろうか?
自分の中では、こうした街の明かりより天空に広がる星空の方が綺麗に思える。人口的な煌びやかさなど、造られたものにしか思えないユウヤには、見た目が綺麗であるより、その中でうごめく人間達の生活に気分が移って、美しいと想う心を削がれてしまう。
ユウヤは、静かな空気に耐え切れなくなって、カーステレオのスイッチに手を伸ばした。
「ねぇ…ユウちゃん」
消え入りそうな声に、ユウヤは手を止めた。
タエが呼びかけてきたのだが、その声は窓外を向いているために、かなり小さく微弱だ。BGMなど流せば、聞き取れなくなるだろう。
「んん?」
伸ばした手を戻して、シートに身を沈めた。
「…さっきの…外村さんだっけ? あの人に、なんで『嫌い』なんて言ったの?」
『気にしてたのか』
軽く溜め息が出た。自分の中で、それほど重要なことじゃない。ただ、そう思った。だから口に出た。それだけだ。
それを口にすることが、何かの意味を持っているなんてことを、考えていたわけじゃない。
「そう、思った。だから、言った。ただ、後悔はしてるけどね」
お互いの表情もしっかりと見えない中で、ユウヤは笑って見せたが、それがタエに分かることは無かったろう。
タエは、まだ窓外を眺めたままだ。
「後悔って?」
窓に息を吹きかけ、曇りを作っているタエは、手持ち無沙汰な子供のようだ。
「今までで、あんなこと言ったりしたことない。初対面の人は、その時だけじゃ量れないものも沢山あるだろ? あんなこと言えば、次が無くなることもある。だから、その時はそう思っても、口に出したりしない。次に会った時にも同じ印象なら、その時に言えば良いんだ。そういう意味での後悔かな?」
ゆっくりとした動きで、タエがこちらを向いた。首だけを向けてユウヤはタエを見たが、背景の夜景がコントラストを乱して、タエの顔は影の中に埋もれてしまっている。
「ユウちゃんて、変だよね?」
「んん? 変?」
煙草を取り出して、ライターで火を付ける。
車内にキーンという音が響いて、一時、明るくなった。タエが、眼を細めて眩しそうにしている顔が浮かんだ。
すぐに消してしまうのが、なんだか勿体無い気がして、数秒、その顔を見詰めてから蓋を閉めた。
「あたし、今日が無かったら、きっと今までのユウちゃんがユウちゃんだと思ってた。でも、今日のユウちゃんって、子供だったり大人だったり、笑ってるかと思ったら怒ってみたり、しどろもどろにうろたえてみたり、随分と印象がマチマチなんだもん」
暗闇でも煙草の煙は白く浮き上がって天井に吸い込まれていく。窓を少し開けると、逃げ道を見つけたかのように吸い込まれていく。
タエの顔は見えないが、膨れっ面をしているのかのような声音だ。
「………。俺、今まで、色んなことしててね。まぁ、バイトみたいなことばっかりだったけど、それなりに仕事はしてたんだ」
自分でも、何を言い出しているんだろうと思うほどだ。こんな話を今まで親しい友人にさえしたことがない。
古い親友の男は、ただ一人、こんな自分の生きて来た道程を知っている。が、改まって話したようなことがない。
「今の仕事は?」
タエは、どんな気持ちで聞いているのか。
表情が見えないってのは、こんな時に些か不便だと感じる。声のトーンでは、少しばかり感情を推し量るに乏しい。
「今の会社は、二年半くらい前に先輩に拾ってもらったんだ。倒産する目前で、社員の八割がいなくなったような会社で、ひとつ上の先輩が名ばかりの部長に選任されたってことで、やる気の失せた社長からも経営権を任されたんだそうだ」
「なにそれ? 完全に放棄したってこと? ひっど〜い」
「まぁな。けど、先輩は、どうせ長持ちしない会社なら、大きく勝負する気になったらしい。んで、何を思ったのか、俺を誘い込んだってわけ」
煙草の火が口へ運ぶ度に、ぼんやりと車内を赤く照らし出す。その暗い明かりの中、タエはアヒルのような口でユウヤを凝視しているようだ。
「その頃、俺は無職だったから、願ったりだったけど。俺に任されたのは、とにかく販路の拡大と商品開発。ここまでになったのは、ほとんど奇跡だけどね」
「苦労したんだ?」
灰皿に煙草を押し付けると、僅かな明かりも消え去って、車外の明かりが一段と浮き上がったようだった。
「苦労っていうほどの苦労は無かったけどね。その前のバイト生活の方が、苦労だったかも?」
「どんなことしてたの?」
「最初は、あのイルマージュさ。一年くらい居たからね。それからバーテンになってシェーカー振ってカクテル作ったり、コンビニの店員にビデオ屋だろ。農家に住み込みもあったし、船にも乗った。建設現場もあったし、アクセサリーの販売ってのもやったっけ。床屋でシャンプーもしたし、マッサージ屋でモミモミもしたなぁ。後、何かしたかな? 最後は喫茶店でマスターだったか」
ユウヤの職歴を並べ立てるのを、タエは黙って聞いていた。相槌も聞こえない。呆れているのだろうかと思ったほどだ。
職を点々とするなど、堪え性の無い証拠でもある。それが窺えるエピソードにしかならない。
「自分に合うものが無かったの?」
この答えには、些か照れた。
完全に気を遣った言い方だ。それも同情に近い。
「自分に合わないか…そうでも無かったよ」
何故、こんな話をしているのだろう?
今のユウヤの姿を見れば、過去の職歴など話す必要性など感じない。なのに口を付いて吐露したくなる気持ちは、タエだという意味だけでは軽すぎるような気がする。
タエに対する気持ちなど、他の女の子と接するのと変わらないくらいに思う。が、今日の一日が、ユウヤの中で数年を遡ったような錯覚を覚えさせたのも否定できない。
嫌いな自分に遭遇しているような、鈍い重量感。
「じゃ、どして?」
タエが、身体をそっとユウヤの方に傾けた。
顔がぼんやりと見て取れる。軽く息を吹きかければ届くような位置だろう。
ふわりと甘いような香りがそよいで来た。香水やコロンの香りではない。きっとタエが持つ自然な香りなのだろう。
「俺って器用貧乏なんだよ」
ドキッとする心臓に、きっと表情も変わっていただろうが、この暗闇ではタエには見えなかったろう。
自然な仕草でドアの方に持たれ、タエから離れた。
今までの場所では、手を上げただけでタエに触れられる。それが、何故か危険なような気がする。
「キヨウビンボウ?」
「ああぁ。俺って人並み以上に何でもこなせるんだ」
「だったら長所でしょ? ビンボウなんてマイナスイメージじゃん」
「問題は、そこじゃないんだ。人並み以上でもプロにまでは追いつかない。ってか、届かない。長年の修行してきた人の言うことも感覚的に分かる。だから真似ることは簡単に出来るんだ。だけど、それまでなんだ。それ以上のことをしたくても、器用な真似事で終わってしまう。それが分かるから、続けられない」
もう一本、煙草をと口に咥えて、火を付けようとライターを出したところで、タエがズイッと身を乗り出してきた。手の中のライターを奪われるまで、何をされるのかと動きが止まってしまった。
「もう、今日は吸っちゃダメ。身体に悪いんだから。禁煙しなさいとは言わないけど、吸える場所も少なくなってるんだから、吸わないでいられるくらいにはならないとね。それに、今さっき、吸ったばっかだし」
僅かな光りに、タエの手の中のライターが、銀色の鈍い光沢を反射させていた。
キーンと響く音が、車内に心地好く広がる。タエが蓋を跳ね上げたのだ。すぐさま閉めてカキーンと戻る。
「やりたかっただけだろ?」
「あう? バレた? だって、この音、好きなんだもん」
タエは、何度か繰り返して高い金属音を楽しんだ後、そのまま自分のブラウスのポケットに仕舞い込んでしまった。
まぁ、帰りに返してもらえれば構わない。そう考えて返せとは言わなかった。
「話の続き! 仕事、いっぱい変えて、器用貧乏だって気付いて、それでそんな造ったような性格になったの?」
タエは、中央のアームレストに肘を乗せて、その手の上に顔を乗せる。
じっと向けられる顔に、表情は良く見えないとはいえ、ユウヤには真っ向から見据える度胸が無かった。
ふっと顔を背けて、窓外に視線を飛ばす。
何台かの車が行き過ぎるところだった。
「失礼な。造ったなんて言うな。これでも、俺には酷く助かってる」
「いつもは、きっとそうなんだよね。でも、今日は、全然、様になってないもん。すんごく薄っぺらで軽薄に見える!」
語尾が強いが、怒ったような感じではない。きっと、本音でそう思ってるんだろう。
そんなことは、十分に本人が自覚していることでもある。今日という日に、何故にこれほどボロボロになってしまったのやら。
「ああぁ、もう! タエが悪いんだ! 朝から俺の予想を裏切ることばかりするし、答えが返ってくる。こんなの俺の予測範囲外だ。取り繕えるもんか!」
頭を掻き毟ってしまいたいが、そこまではさすがにしない。顔を左手で覆って、顔を隠すくらいが精々だ。
「やっと本音かな〜? って、それこそ失礼じゃん! あたしが、一般的女子から外れてるみたいでしょ!! 撤回しなさい!」
勢い良く跳ね上がったタエは、そのまま両手を伸ばしてユウヤに掴みかかってきた。自分の方に引っ張りたいらしいが、そんな近くに寄るなどユウヤには出来ない。心臓がバクバクと高鳴る。
「おい! よせ! 普通の一般的女子は、こんなことしないっての!!」
やっとの思いでタエの手から逃れ、ほとんどドアに張り付いたようになってしまった。我ながら情けないと思うユウヤだったが、タエは背を丸め、低く唸ったような声を喉から発しながら、未だに狙いを定めている。
まるで獲物を眼の前にした猫のようだ。
「まったく、一般的女子とか言っちゃって。そんならユウちゃんは、今まで何人の女の人と付き合ってきたっていうの?」
姿勢を戻して、少しシートを倒すタエは、こちらを向いて座って聞いてきた。
どう見ても座り難いと思うのだが、本人もそう気付いたのか、さっさと靴を脱いで両足をシートの上に持ってきて折りたたんだ。横座りしていると思えば、シートにもたれている分、楽な姿勢かもしれない。
が、聞いてきたことは穏やかじゃない。今朝も同じような事を聞いていたような気がするが、その時は話が逸れた。が、今は、そうはいくまい。
「ああぁ、なんだ…そういうことじゃないんじゃないかな?」
「誤魔化せません! 答えて!」
無駄と分かっていて言ってみただけのことだ。即座にタエの突っ込みが来た。
そうなると、真剣に、というか真面目に答えなくてはならないが、それを答えなくてはならない義務はないと思える。
「お、俺がそれに答えるとしてだ……正直に答えると思うのか?」
嘘を言うこともありえるということだが、そう言ってみてから、果たして嘘を言う必要性も見当たらない。
「んん〜、そうだけど、ユウちゃんは、今日、あたしに見え透いた嘘は言うけど、騙す嘘は言わないでしょ?」
なんだか、見透かされているような気分が、とても自分に痛い。
「ああ〜、なんだ? そのぅ……よ、よ、四人だ!!」
恥ずかしいことでは無いはずなのに、何故だかとても居たたまれない気分に眼を閉じる。
別段、恥ずかしい数字だとは思ってないし、至ってまともな人数だろう。が、赤面するほど恥ずかしいのは、どんな作用なのだろうか?
「へぇ〜、意外と少ないね? なんか印象、やっぱ違うかも?」
黒いシルエットに、タエが片手を口元に持って行くのが分かる。
「どんな印象だっての。最初の頃が長いからな。それに、この頃は付き合うようなこと無かったし……」
「長いってどのくらい?」
「え? そうだな。二番目が足掛け七年ってとこか? その次が、三年くらいで……もう、いいだろ!!」
こんなことを赤裸々に話すなどあり得ない。自分の中では、誤魔化してきたことだけに、口にすることが尚のこと恥ずかしく思える。
「七年は長いねぇ。高校生くらいから付き合ってたの?」
げんなりしてくる気分が重く圧し掛かる。これ以上は、さすがに無理だ。
「どうでもいいだろ? 過去だ。今じゃない」
「わかった、わかった。そんな、怒んないでよ」
どうどうと両手を扇ぐタエに天を仰ぎたい気分になる。
怒っているわけではない。単に恥ずかしいだけだ。
「じゃさ、じゃさ。抱いた女の人って、何人?」
「!!!」
二度見になった。いや、三度見だったかもしれない。
そんなことはどうでも良かった。聞くも大概だろう。
確かに、今までも数人からはそんなことを聞かれたことはないわけではないが、それは酔った勢いの中でのことで、素面での話しの流れでされたことなど皆無だ。
それを、いとも簡単にタエは聞いてくる。
「ば、ばっかじゃなかろうか!? なんで、そんなことを聞く!? んで、なんでそれに答えなくちゃならん!?」
「いいじゃん。別に恥ずかしいことじゃないでしょ? 隠したいなら聞かないけど、それでユウちゃんの価値がどうなるってものでもないだろうし」
あっけらかんとした声は、無邪気な子供の質問のようかもしれないが、内容は子供には聞かせられないことだ。
どうしたものかと考えて、ユウヤは一計を案じた。
「それなら、タエはどうなんだ? 今まで何人と付き合って、何人に抱かれた?」
これで答えられなければ、自分が答える必要もあるまい。普通、付き合っている相手にだって少なく言ったりするのが女の子。そんな間柄でもない相手になど答えることもできまい。と思っていた。
「んとね。付き合ったのは五人かな? 抱かれたのは……んとね……きっと、二十人くらいかな? もっとかな? ああ〜、でも三十人までは、きっと行ってないと思うわ」
「答えるんかい!!」
「え? だって、聞いたじゃん」
頭が痛い。こんなことがあって良いのだろうかと思える。
タエは、尽くユウヤの予想に反することばかりをする。予想したからといって、その通りになることなど少ないが、それでもそれに似通ったものになることが多い。が、タエはその範疇を軽く超えてしまうのだ。
「さ、ユウちゃんの番」
溜め息しか出ないが、それでも気分を持ち直すくらいの時間にはなった。
「俺は……そうだな……十六人ってとこか? って、どこまで入れていいんだ?」
「どこまでって?」
「抱きしめるまでがいいんなら、もっとだけど?」
タエが、グッと身構えるのがシルエットで分かる。
「馬鹿にしてるでしょ? 抱くって言ったら『しちゃった』ってことでしょ?」
「あ〜、はいはい。んじゃ、十六ってことで」
真面目になんか答えてられるかってのがユウヤの気持ちだった。高校生の夏休み明けの話じゃあるまいし、この歳になって『何人と寝ました。すげぇだろ!』って世界などあろうはずもない。
「付き合ったのが四人で、抱いたのが十六人ってことは、付き合って無いのに抱いたのは十二人ってことかな?」
「それを言うなら、タエは五人以外は定かじゃないくらいってことだろうが?」
うっとたじろぐのが分かる。どうやらタエ自身も、あまり褒められたことではないと理解はしているようだ。
「しょ、しょうがないのよ、女って。そんなに好きでもなくても、求められると、なんか答えなくちゃなんない気がするの!」
プイと横を向く顔は、どうやら膨れているようだ。
そんなことは、ユウヤの歳になれば理解している。雰囲気や流れで、そうなってしまうことは学生時代に夢を持っていた時より多い。男がそうなのであるのだから、相手の女になれば、それこそ数倍は多いだろう。
「気にすんな。誰にだってあることだ。数うんぬんじゃ、量れないことだし、男なら金で解決することも、女は受身になることが多い分、誘惑も多いだろうからな」
「別に気にしてないもん。っていうか、今『金で解決』って言った? それって……」
「ああ、世に言う『フーゾク』ってやつだけど?」
バッとシートの上に正座して、タエはこちらを向いた。あまりの勢いにユウヤは驚いたほどだ。
「ユウちゃんも……行ったことあるの?」
「そ、そりゃぁ、男だかんな。興味で行くだろうし、我慢できなきゃ、行くしかないだろう」
正当化してるのだろうか? それとも言い訳なんだろうか? 定かでない心境は、タエの反応の予測までに至らない。
どんな反応が来るのかとドキドキしながら待った。が、タエは暫く黙ったまま正座を続けて、ふっと息を抜くと、そのままシートにもたれた。
「その十六人に、その人達も入ってるの?」
ちょっと今までとは違う低いトーンでタエが聞いてきた。
何か変なことを言ったのだろうかと、ユウヤは不安になった。
「は、入ってるよ。一応、そういう店だったし」
「そうなんだ……」
それきり、タエは黙ったまま、身体を反転させて窓外に向けた。
肩が少し落ちたシルエットは、何だか寂しそうにも見える。線が細い影に、手を伸ばしてしまいそうな衝動に駆られて、ユウヤは軽く首を振った。
なんだか調子が狂いっぱなしな今日は、ひどく疲れたような感じがする。
「そろそろ帰ろう。もう、十分に堪能したろ?」
「んん〜、もう少し……」
寝惚けたような虚ろな返事が返ってきた。
静まり返った車内に暗い景色、綺麗だといっても変化しない電飾の夜景。おまけにタエは、完全な寝不足なはず。ユウヤより疲れているだろうし、食事の後となれば眠気もピークになっているだろう。
「もう少しって。いい加減、帰ろうぜ。明日は学校だろ? 遅くなったら、遅刻するぞ」
ライトを付けて車を発進させた。
一瞬、前の車の車内が照らし出された。車内で抱き合う二人の姿が浮かび上がって、ユウヤは急いでライトをスモールにして走り出した。
この場所では、車道に出てからライトを付けるのがマナーだということを忘れていた。
ただ、そんなことも忘れるほど、昔になっているんだと認識した瞬間でもあったのが。
「ああ〜ん、やだぁ。まだ、帰りたくな〜い」
やっとライトを付け直し走り出した車内で、タエがこちらを向いて膨れた顔を見せる。
「どこの酔っ払いだ? 駄々こねないで、サッサと帰るよ。さすがに俺も疲れたし」
前方から眼を離さずに、肩を竦めて見せた。飲み歩いている時間なら、まだまだ宵の口と言えるが、タエのことを思えば、まだ午前様になる前に自宅で眠らせられるだろう。
「ああ!! ユウちゃん!! あれ、なに!?」
「へ? どれ? なに?」
別のことを考えていて、タエの叫びに意識が戻ってきたものの、急激な対応は出来ない。ちらりと横目でタエが指差す方を眺めた。
右手の小高い山とは呼べない小高い丘くらいの頂上に、四角い明かりが並列に並んでいる。
何のことは無い。普通に考えても、安易に予想がつく代物だ。
「あれって、ホテルだよ。ここは、夜景の名所だからな。そういうものくらいあるさ」
下りなら速いかと予想していたのに、この時間になって車の数が増えたのだろうか? 両側の路肩に駐車している車をかわしながら走るのは、かなりな低速でないと接触しそうな幅しかない。
「ホテル……じゃ、あそこからも夜景が見えるんだ?」
「あ? ああ、見えるね」
ハンドルを操作するのに神経を使ってしまい、タエの言葉にも反応がおざなりになる。
「行ってみたいなぁ。これからじゃ、チェックインできないかな?」
ブレーキを強く踏みすぎて、軽く車がノックする。
タエの言葉に一瞬、気が削がれた結果だ。
「あのな。あれはラブホテルだ。ラブホ! ビジネスホテルや観光ホテルじゃない」
「ああぁ、なんだ、そうなんだ。だったら、いつでも入れるじゃん」
まったく、こいつは。無邪気なのか天然なのか、こういうところが外される原因かも? とユウヤは改めて思う。一般的という概念から、少し外れた場所で考えているのかもしれない。
「そうだね。いつでも入れるね。今度、誰かと来た時に、時間帯を気にせず入るといいよ」
「見える夜景って一緒?」
対向車が狭い車道を登ってきてしまった。両側は駐車の車で擦れ違えない。僅かな隙間に車を寄せて、こちらが停車して行きすぎるのを待った。
「んん? ああっと、あそこの下は崖みたいになってて、足元まで見えるよ。窓の方向も違うから、さっきより広く見える」
対向車は、ライトをハイビームにして来る。
どうやらナンパ目的の男同士だろう。車内の様子を窺うのに、こうしてハイビームで登って来るのだ。
カップルには嫌われる存在だが、ナンパをされに来る女も少なくない。
「そうなの? う〜ん、行きたいなぁ」
「だから、次に来た奴と行けよ」
やっと車が行き過ぎた。
かなりの低速なのは、物色に余念がないのか、それとも覗きが趣味なのか。
「今、行っちゃダメ?」
「はぁ?」
正に車を発進させようとしているところに、タエの言葉である。
驚きの余りに、惚けたような声に覗き見るような仕草だったとしても仕方あるまい。
「行きた〜い! 行こう!!」
「アホか!? ラブホだって言ってんだろ。ベッドはあるし、風呂なんかガラス張りだぞ。そういうとこは、そういう奴と行け!」
慌ててブレーキを踏んで停車する。こんな話で気が削がれていては、慎重な運転などできやしない。
「行きた〜い、行きた〜い!」
終には身体を揺すって駄々をこねる始末だ。
「子供か!? いい加減にしろ。俺だって男だぞ。そんなところに行ったら、襲われることだってあるだろ? もっと、考えろ!」
む〜っとムクれる表情になったのが見えたのは、対向車のライトが接近したからだが、何をムクれる必要があるのかユウヤにはさっぱりだ。
ホテルになど入るってことは、そういう関係になっても文句の付けようがない。ましてや顔見知りとはいえ、デートと言えるかどうかも妖しい、初めて二人で出掛けた日でもある。
そんな延長線にホテルがあるとは、ユウヤには到底、承諾できるものではなかった。
別に真面目を気取っているわけではない。なる時はなるだろうとは思う、が、それは、そういうムードみたいなものがお互いにあってのことで、こんな子供の駄々をこねるような状況では決してないはずなのだ。
膨れた顔をこちらに向けたタエは、そのままの表情でユウヤに迫るように身を乗り出すと、ユウヤの襟首を引っ掴んで強く引いた。
「な、なんだ!?」
「もう、いい!! 運転、変わって! あたしが運転して、あそこに行くから!!」
本気なのか冗談なのかと疑う余地は、このタエの行動にはありはしない。
もう少しで、シートを乗り越えて来そうな勢いだ。
「!! わかった! わかったから、来るな!」
額を掴んで押し戻し、何とか襟首を掴んだ手からも逃れたが、さてどうしたものかと考える。
ここで「わかったというのは冗談だ」と言って帰路に走ることは簡単なのだが、今の雰囲気からして、タエが大人しく言うことを聞くとは思えない。かと言って、本当にホテルに向かうというのも気が重い。
「わかったって言ったんでしょ? さぁ、出発!」
靴を脱いだ足をシートの上でバタバタさせる仕草は、完全に小学生だ。
これならば、自分も変な気になることもないかもしれない。
こういう無邪気なタエを好ましくは思うが、女性というにはもう少し落ち着いたベースがないと欲情を持つことも無理だろう。
「んじゃ、行くけど……満室だったら、即帰る。いいね?」
「いいとも!!」
俺はサングラスしてないっての という突っ込みは心の中でして、ユウヤは車を慎重に発進させた。
「んん〜、やっぱり、こういうところって、あんまり変化ないねぇ」
タエがラブホテルに入っての第一声だった。
良く考えてみれば、今日は日曜日だった。
週末の土曜日というのであれば、きっとこのホテルも満室という赤いランプをゲートに点灯させていたことだろう。だが、明日が月曜という日に、誰しもが明日の仕事に備えて家で鋭気を養っているはずなのだ。
当然というべきか、ホテルのランプは青く、空室を示してしまっていた。
半分以上の空室状態のホテルは、一階が駐車スペースの車庫で、車が入るとシャッターが下りる。その車庫からドアをひとつ潜ると階段が現れ、そこを登って二階に部屋という造りになっている。
部屋のドアは自動ロックで、部屋に入ると鍵が閉まる。後は、自動精算機で料金を支払うまでは、この部屋からは出られないシステムになっている。
今時は、こんな無機質なシステムが多く、ユウヤがホテルデビューした頃のような壁に穴が空いたようなフロントで鍵を貰って部屋に行くなどという人間味は皆無になってしまった。
「ベッドも同じ……うっきゃ〜! キングベッド!! すんごい! 初めて!!」
入ってすぐには、申し訳程度のソファとテーブルがあり、壁にはめ込み式のTVが大画面で迎えてくれる。その奥にダブルベッドの倍はあるキングサイズのベッドが鎮座し、TVとは逆の壁は、一面のガラス窓で開閉はできないが、外の夜景が一望できる。ただ、強度の問題なのか、腰より下くらいの高さで出窓状だ。のんびりと夜景を楽しむには、この場所に座わる事も出来る。
タエは、そんな風景にも眼もくれず、ベッドにダイブして身を投げた。
タエの身体が跳ねることなく、ふかっと沈み込む。
「すんごい……身体が沈んじゃう。何これ? 腰、痛くなっちゃうんじゃないかな?」
このホテルは、結構なこだわりがあるらしい。
最初はユウヤも驚いた。タエの言う通り、無茶に沈むベッドは腰を痛めると思ったが、そのふかふかの下は細かいスプリングが隙間無く埋められ、ある程度の位置まで沈むと、しっかり身体を支えてくれる。
「うっわぁ! ホントにお風呂、ガラス張りだ」
ベッドの向かいにある壁は、半分が壁だが半分はガラス張りになっている。そこはバスルームで、ベッドからも湯船が見える。まぁ、そういうのを見られても恥ずかしくない関係の人が入るのだから、別に問題があるわけでもあるまいが。
ユウヤは、ベッドでもがくタエを眺めながら、重い腰を小さなソファに落とした。
TVの脇に壁からマイクが二本、突き出ている。その下の棚に分厚い本が刺さっている。で、テーブルにリモコン。どうやら、カラオケシステムも入ったようだ。
以前に来たのは、もう数年前だが、変わった点といえば、このカラオケとTVがプラズマになっていることくらいだろうか?
「折角の夜景が、明るくて見えないね。明かり消しちゃおうか?」
やっと身体を起こしたタエが、部屋の入り口にあるスイッチを指差して言った。
どうしようかと迷ったのは一瞬。ユウヤは、頭を左手の指先で掻きながら、タエの居るベッドに近づいて座った。
予想以上に沈む。年月を経て老朽化してきているのだろうか。
「ここで出来る。このパネルがそう」
ベッドのヘッドサイドに小さなパネルがある。他のホテルだと集中型になっていて、ライトからBGMのラジオまで操作できるが、このホテルではライトだけであるため、目立たない程度の小さなものだ。が、馬鹿にしたものではない。ここにも経営者のこだわりがある。
「こうして、ライトを消す。そして、ここをONにする」
つまみを回すとライトの光量が落ちた。次いで小指ほどのスイッチを入れると、淡い緑色の光りが、ホタルの光源のように輝いた。
それは、お互いのシルエットは見えるが、顔の表情までは判別出来ないほどに淡い。が、窓の外に広がる光の海原を浮き上がらせ、まるで夕闇の中に色とりどりのホタルを放したかのような光景だ。
「うわぁ! すんごい、綺麗。幻想的だね……」
うっとりとするタエは、夜景の広がりに眼を奪われたようだ。丸めた背中がゆっくりと揺れている。
ユウヤは、そっとベッドを離れて、窓際に近づいた。
暗がりで、ベッドがあって、二人で夜景を眺める。考えてもゾクッとする話だ。
出窓の端に座って壁にもたれた。ひんやりするガラスが心地良い。
「ユウちゃん、邪魔。そこ、バイパスの稜線があって綺麗なのに見えない」
「……はいはい」
こんな状況下で邪魔扱いされたことなどないのだが、タエが言うのであれば邪魔なのだろう。反対側の、ベッドの頭に位置する場所に移動して、再び座った。
「そこなら、いいよ。後ろ、山だから」
「はいはい」
このホテルにBGMになるものはない。U線を引いていないこともあるが、雰囲気を楽しむという意味では、大概がBGMは邪魔者でしかない。盛り上げる曲だとかムードのある楽曲だとか言うが、本人達の盛り上がりに比べれば、耳障りな雑音に同じだからだ。とはいえ、ユウヤの場合は、そうはいかない。
出来れば何か音楽でもあれば、それなりに聞き耳をたてて、この静けさから逃れられたかもしれないのだ。
「……ユウちゃん……」
タエの静かなトーンの声がする。顧みてもシルエットのタエは、どんな顔かもわからない。
「……なに?……」
少し声が掠れた。緊張ではない。ただ、静かな声を出そうとしたら、そうなった。
「……ユウちゃん。これで、お風呂入ったら、見えないかな?」
「……………はぁ!?」
言われた意味を理解するのに暫くの時間を要した。
確かに、この暗がりでは詳細な部分までは見えることは無いだろう。が、しかし、シルエットは見えるし、眼を凝らせば細部までとはいかなくとも、それなりの部分は見えなくも無い。
「だ、ダメだ。ダメに決まってる! い、家に帰ってから入りなさい!!」
お父さん口調になっているような気がするが、それも仕方ない。
「だって、潮風で髪、ネタっとするんだもん。梅雨の髪みたいで気持ち悪い」
そう言われて自分の髪を触ってみた。確かに湿気を吸っている。張り付くまではいかないが、かなり重い感じはする。が、それを理由に、この場で風呂に入るってのは承諾しかねる。
「だ、だからってなぁ、ここで入る必要があるのか?」
自制心、自制心と唱えてみる。が、動揺する心は言葉を詰まらせずに口から出ない。
「だって、これで帰っても、ここでお風呂入っても料金は変わらないんでしょ? だったら、入って行った方が得でしょ?」
言っている意味は正しい。が、そういう問題ではないということに気が付いていないのか? それとも、ユウヤを男として見ていない証拠なのか? それとも………。
何だか、眩暈がしそうなほどに頭が混乱してくる。
ここで、もう一度、注意しておくべきだろう。
「あのね。俺って男なわけ。さっきも言ったけど、こんな状況で、タエが俺に襲われても文句言えないんだぞ」
「ユウちゃん。あたし、襲う気?」
アッケラカンとした答え、否、質問だった。
そう言われて「はい」と答える。という気分じゃない。かといって「いいえ」では、なんだかタエに悪い。何だか、良くわからないというのが、ユウヤの正直な気持ちだろう。
「もう、好きにしてくれ」
そう言ううのが精一杯だった。
「んん〜。でも、見えそう」
どうやら入る気は満々らしい。入らないっていう前提がないだけに、どうしたらユウヤに見られないかという考えにしかなってない。
「はぁぁぁあ。明かりつけるぞ!」
もう、これは協力して、早くこの難題を片付けるべきだと気付いた。このままでは、タエの「どうしよう」が続いてしまう。
溜め息というより、吐き捨てるに近いものだったろう。
ユウヤは枕元のパネルを操作してライトを付けると、そのままバスルームに直行して、慌ただしく準備を始めた。 その後ろをタエが付いてきて、不思議そうにユウヤを眺めている。
「まず、泡風呂。これを入れてお湯を出すと、一時間くらいは泡が出て見えない。んで、これ! ブラインド。全部は閉まらないけど、半分は隠れる。それで、このパネル! 湯船の中でさっきの部屋の明かりくらい光る。大体の物が見えるくらいには明るいから、手元も危なくない。んで、俺は、さっきのように暗くして、文句言われた場所で背を向けてる。一切、見ないと約束する! 何か文句は?」
「ない!!」
ここで本当の溜め息が出た。
どうしてこんなに変な気を遣うことがあるのだろう?
どうせホテルに連れ込まれたなら、何をされても仕方ないことだ。覚悟が無くても、他人から見れば、そういうことになっても仕方ないと結論付けされるだろう。
考えることは、無意味だ。ユウヤは、そう思うことにして、バスルームを出ると、ライトを消して窓際にバスルームに背を向けて座った。
数分してバスルームの明かりが落ちた。湯船のお湯が溜まったのだろう。「アワアワ〜」とか「ここからも夜景が見える〜」とか言うタエの声が聞こえるが、どうせ同意を求めているものではないだろうから、あえて無視して煙草を咥えた。が、肝心のライターはタエに没収されたまま返ってきていない。
「くっそ!」
「なんか言った〜?」
シャワーの水音が聞こえる中、タエが聞いたきた。
「なんでもない!!」
煙草を握り潰して、その手をどうしようと考え無しの行動を後悔する。
程無くしてシャワーの音が止んで静かになった。湯船にでも浸かったか。
改めて、窓外の夜景に視線を移した。
あそこが駅。あそこが国道。こっちが昼間のデパート。『イルマージュ』はあそこ。バイパスを過ぎて大橋があの外灯。
ユウヤ自身、夜景を綺麗と認識したことがない。単なる場所の羅列が明かりとして集まっているようにしか思えない。綺麗といわれれば、そうなのかもしれないと思うが、感動するほどのことではないだろうと感じる。クリスマスツリーの電飾と同じで、飾られたものが美しいのならば、デコレーションされた全てを綺麗に思わなければならないのではないだろうか?
そう思ってしまう自分は、どこか欠けたところがあるのかもしれない。
現実に『女』というものに対して………。
「気持ちよかった〜」
そこまでを考えていたところに、タエの間延びした声がすぐ傍でした。
驚いて振り向きかけて止まる。
確かバスルームには、バスローブが置いてあったはず。太ももの上くらいの丈で、こんなのがバスローブと呼べるかどうかの代物だったはずだ。
タエが、それを着ていないとは断言できない。
「ユウちゃんも入ったら?」
目線を下に下げ、足元を見る。ジーンズの裾が見えた。さすがに裸足だが、服はちゃんと着て出て来てくれたらしいことに安心して顔を上げる。
入った時と同じ服装だ。髪が濡れていること以外は、これといって変化は無さそうだ。
「……そうだな。入って、さっぱりした方が、いいのかも………」
タエに言ったのか、自分に向かって言ったのか。
変に思考が自分の意図しない方向に向かう。
今に始まった事ではないが、一人で余裕のある時間を持ってしまうと、いつに間にか考えてしまうことがある。胸の奥に、深く刻まれた、忘れたいだけの代物が自分を蝕んでいるように思えてしまう。
髪をバスタオルで拭くタエの横を、無言のまま眼を閉じて通り過ぎた。そのまま、バスルームに入る。
服を脱いで浴槽に入るまでの時間は、ほんの数分だったろう。
ぬるめのお湯が、肌に纏わり付くようで心地悪い。数秒で上がってシャワーのコックを捻った。
こいつも、かなりのぬるめだ。温度調節を握って、熱いお湯にしようかと思ったが、その手を反対に捻る。途端に凍えるような冷水が吹き出る。そのまま、壁に両手を付いて我慢しながら降り注ぐ冷水に身を任せた。
痛いほどの感覚に、自分の中の考えも吹き飛んでしまう。
「ユウちゃん……」
不意に、バスルームのドアの向こうでタエの声がした。
冷水を浴びたまま、視線だけを向けると、磨りガラスのドアに背中を押し付けて座っているタエが見えた。
「……なんだ?」
自分でも恐いくらいの低い声が出た。だが、取り繕うことも出来ない。頭の芯が痛いほど冷えていて、それに堪えることで余計なことを考えずに居られるのに。
「……怒ってる?」
多分、ユウヤの冷ややかな低い返答に怯えた結果のことだろう。
怒るはずなどあるわけがない。ユウヤは、今日という日を考えながら笑いが込みあがってくる思いだ。表現さえ忘れていた感情の昂ぶりを、タエには素直に出せる自分が笑えて仕方ないのだ。なのに、一人になると、考えまいとしていたことが波のように押し寄せる。
「怒ってなんかない。覗きに来たのか?」
「ば、ばっか! 違うよ! ……ごめんね、無理言って、こんなとこまで引っ張り込んじゃって」
しおらしい声にドクンと胸が躍る。が、すぐさまシャワーが、その高鳴りを消した。
頭から被っていたのをうなじで受けるように外した。鳥肌が立つのが分かる。
「謝るな。襲うぞ。……嫌だったら最初から来ないし、タエが楽しいなら、それでいい」
冷えた身体に、どこからともなく熱い熱が広がった。
『俺は、今、何て言った? 誤解されるようなことを口走ったんじゃないのか?』
そう思っても、出したものは取り返しがつかない。
「……ユウちゃん、優しいんだ……でも、女の人、みんなに言ってるんでしょ?」
『ああぁ、そうか……』
タエの言葉は良く分かる。
自分のことながら、他人に何て言われてるかくらいは想像がつく。どうせ「プレイボーイ」とか「女たらし」とかだろう。確かに、そんなことを言われても仕方ないことはしているかもしれないし、今までの行動ならば、そう受け取られても仕方ない。
「……そうかもな。だから、どうした?」
否定することは簡単だろう。が、それをタエに信用させることなど、どうすればいい? 今までの自分に嘘はないが、それを誤解無く信じさせることなど不可能だろう。
「……そっか。……でも…正直、店で会ったユウちゃんとは、まったく違ってることが多くて面白かったな。デートの時は、いつもそうなの? ギャップってやつ?」
そろそろ身体がガクガクと震え出してきた。芯まで冷えた証拠だ。すぐに温度調節を熱湯に近いまで捻る。冷えた空気に湯気が一気に立ち昇った。それと同時にヒリつくような熱さが身体を包んだ。
「いつもはもっとクールだ。お……タエの反応が可笑しいんだ。だから、こんなことになる」
熱いお湯に身体を任せながら、ユウヤは正直に答えていた。無意識というより、熱さに負けていたのかもしれない。
「うふっ。『お前』って呼びたいんだ? 言いそうになった?」
「……確かにな。男って恥ずかしいこと嫌うから、結局、名前で呼ぶってことをためらう。んで、一度『お前』で呼んで返事されると承諾されたような気になって変えられないんだよ」
「そっかぁ。なんか、謎がひとつ解明されたかも? ……ねぇ、ユウちゃん……」
「ああ? なんだ?」
「……ユウちゃん……あたしのこと……抱きたい?」
つづく