タエ 第一夜 5
正直なところ、どうしようかと迷っていた。
別に買い物がしたかったわけでもないし、買い物という行為にも興味があるわけでもない。
必要なものがある時に買い物に行く。それが当然の行為であって、昔から友人の中には、暇になるとショッピングに出掛けるなんていう人もいたが、衝動買いが多くなって無駄な出費が増えるし、無駄な物が増えて部屋が狭くなるだけだった。
それならば、遊びに出掛ける明確な目的を持って、遊園地なり温泉なりへ出掛ける方が有意義に思えた。
とは言え、ショッピングに誘ったのも自分であるのだから、幾ら興味が無いとしても、ここまで来ていて浮かない顔もできるはずもない。
仕方なく…と言ってしまっては元も子もないのだけれど、タエとしては、無理にはしゃぐ感じで欲しくも無いパンツやブラウスなどを見て歩くのは、かなりの苦痛でもあった。
いっそのこと「ショッピングしたいってのは嘘でした」と白状して、他の交遊場に連れて行ってもらえば良かったかもしれない。
売り場に入り込んで見て回ると、ユウヤはあまり近寄って来ることがない。
手持ち無沙汰そうに辺りを見渡して、時折、欠伸をしていたりする。
退屈なんだろうと見た目で分かってしまうのは、こんな嘘を突いた自分のせいでもある。
悪気があったわけではないのだが、こういう結果は考えていなかった。誰かと一緒の遊びなら、大抵はボーリングだったり映画だったりカラオケだったりと、一緒に楽しめるものが最適なのに、何故に口から出たのがショッピングだったのか。
あまり会話も無く、目に付いた『有名ブランドバッグフェア 特価20%OFFより 最上階催し会場』なんていうポスターに救いを求めた。
一応、興味は人並みにはある。ブランドの名前や種類も把握してもいる。が、欲しいとは、あまり考えたことがないだけだ。
「ブランド物、好きなの?」
というユウヤの問いにも
「一応、女ですから。それなりに興味くらいあるもん」
と答えてはみたものの、何だかやっぱり自分の中でしっくりときていない気がする。
ユウヤが鼻で笑ったのには、多少の腹立たしさはあるものの、きっとユウヤから見ても、自分にブランド物というものが不釣合いだと思われているんだろう。
バッグ売り場に入ると、皮の特有の香りが充満していて、あまり気分の良い物ではなかった。
近頃は、革製品よりも一般の布材が使われているものも数多いはずなのだが、ここは大半が皮製品なのだろう。
「いらっしゃいませ。どんなブランドをお探しでしょうか?」
途端に店員は走り寄って来た。
こういうのは、昔から苦手だった。何だか説明されているうちに買わなければならない気にさせられてしまう。切れ目の無い流れるような口調で、断るタイミングさえ掴めないで、結局は要らぬ長物を買わされたなんていう経験も少なくない。
ユウヤが助けてくれないかな? と一瞬、振り向いてみたが、ユウヤは辺りを見回すのに忙しいのか、そんなタエに気付いてはくれなかった。
店員に促されるままに奥へと連れ込まれてしまった。
「これなんかどうですか? 今年、限定で入荷したものです。数も少ない貴重品ですよ」
勧められたものはシャネルのトートバッグだ。嫌いなものでは無いが、シャネルという歳でもない気がしている。
というか、買うつもりはまったく無いので、黙ったまま首を振った。
「シャネルはお嫌いですか? では、こちらなどはどうでしょう? 高級感もありますし、流行りもあまり気にせず持てます。ひとつくらい持っていても良いのでは?」
上段のバッグを指して店員はにこやかに笑ってみせる。
見てびっくり。というより、呆れてしまう。
勧めてきたのは、エルメスのケリーバッグだ。高級感どころじゃない。本当に高級品だ。オーストリッチでも百万はするものを、この店員はタエに勧めてくる。
ちょっと馬鹿にされているのかと思えるが、小さく首を振って拒否した。
その様子を見て、店員は素早くタエの耳元に口を寄せて来た。
「彼氏ですか? こういう機会なんて、そうは無いんですから、思い切って高いものをねだった方がいいですよ」
驚いて見返すタエを、店員はユウヤの方を一度、ちら見してウィンクしてきた。
冗談ではない。ユウヤにねだるなんて真似が、今のタエに出来るはずもないし、する気も無い。
「じゃぁ、手頃なボッテガやバレンシアガなんてどうです? 人気のミュウミュウもございますよ」
こんな誘いに頷いてしまったら最後、店員がユウヤの元に走り「こちらに決めたそうです」なんて言われかねない。
「定番のグッチやセリーヌも、今年の新タイプです。お手頃になってますから、彼氏も頷いてくれますよ」
このままでは、そのうちに押し切られて、どれかひとつを押し売りされてしまう。
タエは、大きく首を振って見せて、逃げるようにユウヤを探した。
ちょうど角にある財布棚あたりに背中が見えた。
「お客様? どうしました? お客様?」
歩き出したタエは、商品を見るような素振りではない。早足から、多少、小走りになるような足取りだ。店員が訝しんで追いかけてくる声が、タエには堪らなく嫌な気分だった。
そんな様子を気配で悟ったのか、ユウヤが振り向いた。
ちょっと不思議そうな顔をしたが、タエが近寄ると優しく笑って小首を傾ける。
思わず右腕にすがりついた。助けてという気持ちより、なんだか不安な気持ちの方が強かったような気がする。
見上げたユウヤの顔は、眉を寄せたような困った表情だった。が、一瞬でにっこりと笑って、二度ほどタエの頭を撫でた。
その手が「大丈夫、大丈夫」と言っているようで、安心感が生まれた。と同時に恥ずかしさも生じる。そのまま、俯いて頭を腕に押し付けた。
その間も後ろで「お客様? お客様?」とうるさいくらいに呼びかけてきていた。
「すいません。少し二人で選びたいんで、構わないでもらえますか?」
頭上でユウヤが柔らかく店員を断ってくれたいた。手強く食い下がるかと思ったが、意外とあっさり店員は下がったようだった。
「行ったよ」
ユウヤが当てていた手を頭から離して、耳元で囁いた。ドキッと心臓が跳ねて、そのまま固まってしまった。
今の自分の行為自体も恥ずかしくて顔を上げられない。
「どうした? 君ならあれくらい言えたろう?」
耳元から離れながらユウヤが言った。ホッとする気持ちとカチンとくる気持ちが重なった。
あれほど言ったのにユウヤは、またタエのことを『君』と呼んだ。
「また『君』って言った!」
勢い良く、よく顔が上げられたと自分でも感心する。もしかしたら、まだ顔が赤らんでいるかもしれない。髪で耳が隠れていて良かった。きっと、耳は真っ赤なままだろう。
びっくりした顔が眼の前にあった。きっと忘れていたんだろう反応は、間の抜けた驚き顔だった。
「ああぁ、ゴメン、ゴメン」
素直に謝るユウヤだったが、きっと気持ちに刻み込んではいないだろう。軽い感じがするし、本気で悪いと思ってもいないような声だ。
「だけど、どうして断らなかったんだ? タエなら物怖じするほどだとは思えないけど」
ふっと息を抜く感じがするユウヤだった。その前の『君』発言など、既に許されたと思っているようだ。タエの中では、まだ許せていないのだが。
「……なんかさ、あの人も仕事でやってるでしょ? 悪気があるわけじゃないし、もしかしたらあの人だって嫌々やってるのかも? そう思ったら、なんか断りづらくって…」
必死に売りたいって思うのは当然の職業だ。もしも、ちょっと強く言っただけで買ってくれるのであれば、多少の強引さがあったとしても勧めてしまう。きっと、自分が同じ立場であったとしても、そう考えてしまうだろうと感じていた。と言っても、こういう仕事を選ぶことはないだろうと確信しているけれど。
「どんな気の遣い方だよ。そんな弱気で千葉に居た時、どうしてたんだ? 向こうの方が接客は激しかったろう?」
半分笑ったような顔でユウヤが聞いてきた。きっと呆れているんだろうことは分かってる。
「あっちでは、友達が断ってくれたし、一人の時は、そういう人が来たら逃げてたし……」
「なんじゃ? そりゃ? 千佳子に詰め寄った勢いは誰だったんだ?」
「あれは、聞きたいことがあっただけで、別に詰め寄ったんじゃないし」
「ムーンで仕事できるんだから、人見知りってことはないよな?」
「仕事ですから」
人見知りってことはない。人と話すことは好きだし、知らない人と知り合うのもワクワクする。でも、こういうセールスみたいな押される会話が苦手なだけだ。
友人には、よく「気を付けないと、騙されて高いフトン買わされるよ」などと心配されてしまうほどだ。
「自分の欠点くらい分かってる!」って言いたいが、呆れ顔のユウヤには、更に呆れ度合いを深めてしまいそうで止めた。
ぐっと指に力を入れて我慢したところで気が付いた。
まだタエは、ユウヤの腕にしがみ付いたままだった。身体こそくっ付いていないが、寄り添ってしまっていることに変わりはない。
自分の大胆な行動が、またも恥ずかしくなって、ユウヤの腕を話すと同時に辺りを見渡して「へぇ〜」とか「ほぉ〜」とかを口にして誤魔化した。今は顔を見られたくない。
「これって、シャネルとかいうやつ?」
数歩、歩いてユウヤが声を掛けてきた。
ユウヤの前を歩いているタエには、今、見たのがそのシャネルだということは分かっている。
「良く知ってるね? 誰かにプレゼントでもした?」
思わず口を付いて出た言葉だった。別に嫌味を言うつもりは、まったく無かった。強いて言うなら、未だに火照りが収まらない顔を向けられないだけのことなのだが。
「そうだったかもね。これは、なに?」
そうだったかもね? 含みがある言い方。あるの? ないの? どっちなの? と詮索されたくないの?
疑問符の羅列が並んだ。チラリと見たユウヤは、既に違うバッグを覗き込んでいて、こっちを見ようともしない。
変なところに気を遣うクセに、こういうところで誤魔化すような言い方をする。聞き流してしまえば良いのだろうけれど、変にイラッとする気持ちに押さえは効かなかった。
「エルメス。こっちはグッチ。あっちのはヴィトン」
吐き捨てるような冷たい言い方かな? と自分でも思える。けれど、ユウヤは気付いているのかいないのか
「ふ〜ん。聞いたことあるね」
と素知らぬ顔だ。
ワザと知らぬ顔してるのかな?
それがイライラっとするタエの気持ちに拍車をかける。
「ディオール、コーチ、フェンディ、プラダ、ラルフローレン、サザビー、ミュウミュウ、クレージュ」
見える順に言って、より冷たい態度を露にしたつもりだった。が、ユウヤは「う〜ん」と眉を顰めてバッグを見詰めるばかりだ。
「どしたの?」
「名前を聞いても、違いが分からん。というか、どれも一緒にしか見えん」
呆れたとしか言い様がない。そんなことを考えていたのか。
「んん〜。こういうのって、一種のステータスみたいなものでしょ。物を入れて歩くだけなら無印でも構わないんだもん。けど、こうして一流ってブランドを背負った物を身に付けることで、自分も一流の仲間入り! みたいな」
一応は、誰しもが言うことを言ってみた。
タエ自身も、ユウヤが言う通り、どのブランド物にしたってデザインの違いがあるくらいで、バッグはバッグなのだと思う。デザインに惚れ込んだり、ロゴが好きだったりと色んな趣味はあるのだろうけれど、必ずしも値段と性能がマッチした物とは言えないような気はしているのだ。
「問われるのは、持ってる物じゃなく、本人の品位だと思うけどねぇ」
その通り! と賛同したいところだけれど、そこは女と男の違いってものもある。
「んん〜、安物を持ってガサツな女になるより、高級な物を持って上品になるってこともあるんじゃないかな? 安物って乱暴に扱っても気にならないけど、高いと思うと扱いも慎重になるから、自然と行動や仕草も優しくなったりするしね。ユウちゃんだって、高いライターとかだと失くさないようにしたり、壊さないように使ったりしない?」
趣味というものに置き換えれば、男も女も無いのかもしれないが、仕草や言葉、雰囲気なんてのは、安い物に囲まれていると身に付かないって教えてくれたのは、シャネルマニアの友人だった。
ユウヤも確か高いライターを持っていたはずだ。昼間に使っているのを見ているから、持っていることは知っている。
大胆かな? と思いながらも、ユウヤの胸ポケットに手を入れて取り出した。
「言われりゃ、気にしてるかもね。って、俺のライターが高いって、何で知ってる?」
ずっしりと重い感触は、普通のオイルライターの倍はあろうかという感じだ。男の友人が一般的なZIPPOを使っていたので知っているし、『ムーン』に来るお客の中にも数人が使っている。そのどれよりも重くて、そのどれよりも良い音が響く。
蓋を押し上げると、半分開いたくらいで、勝手に持ち上がってカキンと甲高く鳴く。閉じる時も同様に半分から勝手に落ちてキーンと尾を引いて響く。
「ロンソン限定クラシックライター。ロンソンでは珍しい真鍮造りで銀メッキ。オイルZIPPOの中でも知ってる人が少ないくらいの貴重品。だったっけ? んふっ、良い音」
マスターが教えてくれたことを、タエは思い出すように口にした。
この音は好きだった。モヤモヤした気持ちが、金属の甲高い音に消されていくような、そんな気さえする。
「値段分かんないくらいなんだって? 普段、使うような代物じゃないでしょ」
「普通なら使わずに飾っておくような代物だ」というマスターの言葉が印象的に残っている。
タエは表面に付いた自分の指紋を袖口でふき取って、落とさないように慎重にユウヤの胸ポケットに戻した。
その様子を眼を細めて見詰めるユウヤと視線が合って、ちょっと気恥ずかしくなった。すぐ眼の前にユウヤの笑顔がある。
「確かにその通りかもしれないけどね。道具なんだから使わなきゃ、一体、何のための道具だよってことになる。高価なのは価値を付けた奴が居るだけの話で、売り出された時の値段なんか1万程度だったはずさ。つまりは、俺の中での価値は1万程度ってことだ。それほど高いとは思ってないよ」
考えてみれば、その通りかもしれない。自分が持っている物が貴重品だと知らなければ、手荒い扱いもしてしまうだろう。ただ、それを知った後まで、そういう扱いになるかどうかは疑問だけれど。
「まぁ、百円ライターよりは高価だけどね」
クスクスと笑うユウヤにつられて笑ってしまった。なんだか、旨く誤魔化されたような気になってしまう。
「そうだ、何かひとつくらい、プレゼントしようか? あんまり高い物じゃないと助かるけど。バッグがいい? ポーチってのも人気あるらしいって聞いたことあるけど。財布ってのもありかな………」
何の前触れも無く、ただ笑いと話の流れのようにユウヤが言った。
心の中なのか頭の中なのか、プチンと何かが切れる音がしたような気がした。
「……どうして、プレゼントされなきゃならないの?」
言っている自分の口元が、無理やり静かなトーンを吐き出そうとしているためか、ヒクヒクと引き攣るのが分かる。
「い、いや、なんていうか、ほら、そのぅ、え〜と……」
自分を見たユウヤが、素早く視線を外して両手をバタバタと振る。何が言いたいのかすら分からない。
「理由を探さなきゃならないの?」
いい加減な気持ちというか、女になら誰にでもそう言っているのが分かるうろたえ方だろう。それが、余計に勘に触る。
「いや…その…なんだ…ああ! 今日の記念ってことで!!」
あまりにも思い付きだってことが丸分かりの口実だ。ムカムカする気分が最高潮に達した。が、ここまで言わせたのなら、その先に何を言うのかも興味が湧く。
「記念って、何の? 何か記念することでもあった?」
ぐっと詰め寄るような感じになったのは、抑えられないムカムカの表れだった。大胆な行動だと思わないこともなかったが、それ以上に腹立たしい方が勝っていたのだ。
「ああぁ…そうだね。そう…んと…タエとの初デートの記念ってのでは?」
これも思い付きなんだろうことは明白だ。大体にして、デートだなんて思ってもいない本人が、言い訳のためにデート化するとは、侮辱するにも程がある。
オマケに詰め寄ったタエから視線を外す始末だ。
「ほうぅ。デートなんだ。何時からデートになったんでしょうかねぇ? デートって好き合ってる同士がするんじゃないんですかねぇ?」
逃げた視線を追いかけるように、わざとユウヤの視界に割って入る。
「いや、デートっていうか、今日の記念ってことで良いじゃん」
とうとう言った。「…ことで良いじゃん」
この言葉の裏側には「どうでも良いじゃん」って言葉も隠れてる。つまりは、本気でプレゼントしたいなんて思ってなどいなかったってことだ。
「ほうほう、今日の記念なんだ。じゃ、この次に会ったら、ユウちゃんと出会って十四回目の記念だ。その次は十五回目だし。って記念なのかなぁ?」
嫌味な顔ってのは、どうやるんだろう? 思い切りふてぶてしい顔をしたつもりだが、それらしく見えてると良いのだが。ついでに、首も軽く振ってみた。
ぐっと、ユウヤの顔が持ち上がる。ちょっと伸びをする感じだが、タエを見る眼は見下すように力がこもったように見えた。
「君ね。いい加減にしろよ。男からプレゼントされようってんだから、素直に喜びゃぁいいだろ?」
ワザとなのか無意識なのかは分からないが、ユウヤは又も『君』と呼んだ。
「また『君』って言った!!」
ぶつかってやろうかと思うほどに前に出た。ユウヤが後ろに仰け反ったので、ぶつかることはなかったが、避けなければ頭突きになっていたかもしれない。
一度、ユウヤは空を振り仰ぐと勢いを付けて戻ってきた。再び合わされた眼つきは、タエを睨むような感じだ。
「鬱陶しいわ! 呼び名なんかどうでもいいちゅうの!! 女だろ? 少しは素直に人の好意に甘えるとか喜ぶとかしないのかよ!」
この論理には、怒りの燻っていたタエに火を付けた。
タエは、今までに誕生日以外にプレゼントを受け取ったことはない。俗に「記念日」だとか言う人もいるが、記念する意味がわからない。「付き合った日記念」とか「結婚記念」とか「初デート記念」、果ては「初H記念」なんて人もいるから信じられない。
記念するのなら、この世に生を受けて生れ落ちたことの方が、よっぽど記念に値する奇跡なのに。
「今まで、どんな女と付き合ってきたか知らないけど、一緒にされるなんて御免だわ!! 大体、女と見ればプレゼントすれば喜ぶなんて短絡思考、どこで習ったの? 気持ちのこもらない物なんて、それこそ物じゃない!! 値段だけ高い物もらって喜ぶ馬鹿女と一緒にされたくもないわ!! 人を見る眼、無いんじゃないの?」
指を突き立てて胸を指してやろうかと思っていたのだが、何だか悔しくてグーのままでユウヤの胸を叩いた。指を立てる気だったので、それほど力が入っていたわけじゃない。
タエの拳は、厚いユウヤの胸板にぶつかって、そのまま止まった。
そのことにユウヤは腹を立てたのか、眼を大きく見開いてタエを見ると、大きく息を吸い込んだ。
「お前なぁ…。自分が女の範疇にそぐわないからって、人を否定するんじゃないよ!! いいか、心を込めるとか込めないとかってのは、貰う人間のさじ加減だろうが!! 相手がいくら心込めたって、相手がそれに気付かなきゃ、所詮は物って価値からなんか抜け出さないんだよ!! 自分と相手と相互に思うことなんて、そんな無理なこと望む方が、よほどおかしいぞ!!」
意外なほどに大きい声。ちょっと首を竦めるような仕草になったのを、ユウヤに悟られただろうか?
でも、許せないことを、再びユウヤは口にした。怯んでしまってなどいられない。
「おまえって言ったな!? 『君』より酷い!! あんた、どっか考え方、変なんじゃない!? お綺麗に取り繕うとしてるの見え見えなんだから!! そんなんで、人気者だとか言われて、お高く飛んじゃって、まともな気持ち失くしてんじゃないの!?」
言ってしまってから、自分の言葉に『ダメ!!』という気持ちが追い付かなかった。が、今更、言ってしまった言葉は戻せない。
ユウヤは、ぐっと奥歯を噛み締めるように力を込めて、完全にタエを睨み付けている。
「あ、あ、あんただとぅ!? 『あんた』って言うな!!」
「『お前』『君』言うな!!」
売り言葉に買い言葉とはこのことだが、タエは少なからず反省し始めていた。
こんなことが言いたい、聞きたいわけであろうはずがないのだ。
「おきゃくさま!!!」
それでも睨み合うことは止められない。ところに、横から大声が掛けられた。
見れば店員が、眉間の皺も険しく二人を見ていた。
そのまま、店外に追い出され、タエはユウヤの前を小走りで進んだ。
ユウヤに前を歩かれるわけにはいかない。
なんとなれば、可笑しくて仕様がなかったからだ。怒鳴りあった挙句が、店員から叱られて追い出されるなんて経験は初めてだったし、キョトンとしたユウヤが、素直に頭を下げてシュンとした姿を思い出すのも可笑しかった。
必死に笑いを堪えて、口を押さえたが、心の中は爆笑だった。
エスカレーターに乗る頃には、何とか笑いも収まったものの、何だかイライラしたり怒ったりするのが馬鹿馬鹿しくなってしまっていた。
「次は、どこでショッピングですか? お嬢様」
エスカレーターを降りたところで、ユウヤが声を掛けてきた。
後ろ向きに歩きながら、ちょっと考えた。が、最初から買い物になど興味など無かったのだから、この場所に執着も未練のあろうはずもない。
「別に買いたいものなんて無いよ。見るだけで満足だし」
「はぁ?」
ユウヤの困惑した顔が、先程の事と相まって、再び笑いたくなってしまう。
「怒って怒鳴ったらお腹減っちゃった。ご飯、食べない?」
それほどお腹が空いた感覚はないのだが、このまま行きたいところも無いとなれば、ユウヤのことだ「じゃ、帰ろう」といいだしかねない。
このまま別れてしまうのは、なんとなく寂しい。もう少しだけ、ユウヤという人間観察をしてみたかった。
「何か食べたいものは? ああっ、ひとつだけ注文があるな。『何でもいい』は、無しだ」
ああぁと思った。
確かに言いたかったし、いつも言ってしまう。嫌いなものが多いわけじゃないから、何でも構わないのは本当なのだが、言われた当人は、きっと悩むことだろう。
まぁ、いくら「何でもいい」と言っても、美味しいという条件が前提なのだが。
「何でも食べられるところ」
ユウヤなら、何かしら知っていることは、まず間違いない。ただ、タエの中では、最近流行のバイキング形式の時間制限付きの何でも屋を思い描いていたのだが。
ちょっと考えるように口元に手を当ててユウヤは悩んでいるようだった。
「そんなとこ、あるのか?」
「ないの?」
意地悪だったかな? と感じたが、ユウヤに思い当たらなかったらタエが教えるつもりでいた。
「わかりました。行きますか」
割とアッサリと返事が返ってきた。
「やっぱり、あるんだ」
美味しいとはお世辞にも言えないが、それなりの値段で何でも食べられる。時間も気にしなければならないが、日本人で二時間も食事にだけに使うには十分なほどだろう。
先週に友達四人と行ったばかりだが、ユウヤと行くのも悪くないかも。
ユウヤの運転する車に乗って、国道を横切ってしまってから、タエは困惑していた。
タエが思い描いたバイキング屋に行くには、横切った国道を曲がらなくては行けない。それが、バイパスにまで出てしまい、挙句には細い路地に入り込んでしまう始末だ。
『こんなところに同じような店があるのかしらん』
そう思っているところに、ライトアップされた白亜の建物が見えた。まるで教会かと思わせるような造りは、屋根に鐘突き堂まで突き出ている。
教会で食事? と思ったが、良く見てみれば、駐車場の端に看板が立ててある。
「レストラン イルマージュ? 洋食なの?」
看板を読んで、ユウヤに聞いたが、ユウヤは
「何でも屋かな?」
と首を傾げただけで、それ以上を解説してくれなかった。
先を歩くユウヤについて行くと、両開きのステンドグラスが嵌った大きなドアが出迎えた。
今時、自動ドアでなくドアノブを回して開けるという古さだが、変に重厚さもあって、タエはちょっと緊張した。
ユウヤがドアを引いて、タエを先に入れようとしてくれた。
「…ありがと。でも、気を遣ってほしくないな…」
こんな初めての場所に、自分から入るのは緊張してしまう。こういう時は、後ろから付いて行きたいと思えてしまうのだ。
「いらっしゃいませ。空いてるお席にどうぞ」
入った目の前に、タキシードを着た若い女性が、恭しくお辞儀をして迎えてくれた。
こんな格式の高いレストランになどタエは入ったことなどない。ドラマや映画で、服装のラフさに入店を断られるようなシーンを思い出して、タエの心臓はバクバクと早鐘を打ち始めていた。
ユウヤが、すぐに後ろから入ってきて、そっと首の下辺りを押して前に押し出された。
「すんごい格式だね。こんな格好で入っていいの?」
既に入り込んでしまっているのだから、無理ならば入り口の女性が断っているはずなのだが、自分の貧相な格好では、他の客に笑われてしまうかもと思ってしまったりもする。
「店主の趣味だ。気にする必要なんてない。馬鹿だから」
呆れ顔から優しく笑ってユウヤが首を軽く振る。
何だかホッとして、クスリと笑えた。
店の中央まで来て、ユウヤは首を巡らせて客席を見たようだ。ほぼ、満席に近い。
奥のカウンター席近くに数席の空きを見つけ、そこを指差して笑うユウヤは、どことなく昼間の愛想が良くクールな男に戻っているような気がした。
その時になって背中に置かれたユウヤの手が離れた。フッと温かみが去る感覚に、タエは何故だか寂しさを覚えた。
ユウヤの触り方が、労わる様な柔らかいタッチだったからだろうと思うことにした。
「そこに座るってことは、俺に顔を合わせたくないって意味か?」
タエが座って荷物を降ろしたところに野太い声が掛けられた。
自分達に掛けられたのでは無いだろうと思っていたタエは、メニューを探してテーブルの上を眺めていた。
「入り口で、空いてる席にどうぞ、と言われたんだが?」
ユウヤの声が、野太い声に返事をしていると気付いて、慌てて顔を上げた。
『ゴリラが白衣を着てる!!』というのが率直な印象だった。
ゴツイ体格に二メートル近いだろう身長。無精髭にエラの張った四角い顔が野生の生き物のように感じられる。
「そいつは教育不足だったな。悪かった。後でしっかりと教え込んでおくよ。お前の席は、永久予約席で、あそこに確保してある。その両側も同じだ」
ゴリラはカウンターをユウヤに指差してへっへと笑ってみせた。アニメのターザンが実写になれば、こんな風になるのかもしれない。
「いい加減にしろ。あれから何年だよ。お互い、もういい歳なんだから、子供みたいな事すんな」
ユウヤより遥かに年上だろうに、ユウヤはまるで同世代のような口振りだ。オマケにシッシと動物でも追い払うかのような仕草までつける。
ユウヤが座ろうとする椅子をゴリラは引くと、そのまま遠くに滑らせた。これではユウヤは座れない。と、ゴリラはタエに眼を向けて破顔した。というか、笑ったんだと感じた。豪快な表情が、笑いなのか歪んだのか区別がつかない。
「珍しく女の子連れか? 尚のことこっちに来い。話くらい聞いてやる」
「どんな話だよ。答える気なんて無いし、この子に失礼だろ」
「そう言うな。久し振りなんだから、積もる話もある」
「こっちには無いよ。第一、何を話す気か知らないけど、こっちは客なんだぜ」
押し問答というより、漫才の始まりのようでタエには可笑しくて仕方ない。が、このまま客の満員な店で言い合いをさせておくことも出来ない。
笑いを堪えながら、置いた荷物を再び持って立ち上がった。
「いいです。そっち、行きます」
座ったままで言うと、ユウヤはきっとタエを立たせるようなことはしない。それが分かっているからこそ、立ち上がって移動するだけにしてから口にした。
何か言いたげに振り返ったユウヤは、それを見て止まってしまった。コメディ映画の一場面のようで、噴出さなかったことだけが救いだったろう。
「お? 彼女の方が話が分かるじゃねぇか。まったく、男の意地っ張りってのも嫌だねぇ」
ユウヤに対しての嫌味だ。ユウヤは苦々しい顔付きでタエを見ていたが、その表情がタエに向けられたものでなく、ゴリラに対してだと分かるタエは、下を向いて笑いを堪えるのがやっとだった。
カウンターに大人しく並んで座ってから、タエはその向こう側に唖然としてしまった。
「ここって……オープンキッチンにも程がありませんか?」
今、タエが座っているカウンターが厨房施設との境界線なのだが、そこから向こうも見渡せる。厨房での出来事は、そのまま店内の客達にも見渡せてしまうほどのワンフロア状態なのだ。
巨大な対面キッチンと表現すればいいのかも知れないが、あまりにも規模が大きすぎる。
「俺の趣味だ。客の顔も見えない奥で料理したって、客がどんな顔で食ってるんだかも分からん。不味そうなのか旨そうなのかも見られないってんなら、どんな料理を出したって同じだ」
ゴリラがカウンターの対面でガハハと豪快に笑う。
料理人なら誰しもが思う事だと聞いたことがある。でも、それをここまで徹底してしまっている店にタエは来たことが無かった。
ちらりと横目でユウヤを窺って見れば、頬杖を付いて横を向いている。どんな表情かまでは見えないが、仏頂面なのは容易に想像できた。
「メシ喰いに来たんだろ? 何にする?」
タエの反応に気を良くしたのか、ゴリラは笑顔でタエだけに聞いてきた。
「あの…メニューは?」
当然ながら、未だメニューどころか水すら運ばれていない。何かを注文するにしても、メニューを見なければオーダーは出来ないだろう。
「あ? メニュー? 見るのか? 当たり前のもんしか載ってないぞ」
「ここにメニューを求めても、ハンバーグとかステーキとかミックスフライとかしか載ってない。パスタ、サラダ、魚のソテーくらいだ」
ユウヤが、やっとこちらを向いてゴリラの言葉に追説してくれた。が、その表情は、無感動で無表情だ。
ユウヤが、それでも手を伸ばして、カウンターの隅に立て掛けられた二つ折りのメニュー
を取ってタエに渡して開いた。
「ホントだ。こんな幅の狭いメニューで、こんなに繁盛してるんですか?」
「元はいっぱいメニューはあったんだ」
ゴリラが苦笑しながら、カウンターの下に手を突っ込んで一冊の本を出してきた。見た眼で数ページはある。
「総勢二百六十三種類。ページにして十五ページに渡るメニューだ」
ワハハと広げる中身は、パスタだけでも一ページに収まっていなかった。サイドメニューも加われば、それくらいの量になるのかもしれない。
「どうして、それがこんなシンプルになったんです?」
当然の質問にゴリラは、黙ってユウヤを指差した。
「指を指すな! 失礼な」
ゴリラの指を叩き落とそうとしたようだが、見かけによらずゴリラの動きは素早くてユウヤの手は空を切った。
入ってきたクールさなど何処に飛んでしまったのか、今のユウヤはヒネタ子供のようだ。
つい面白くなってしまう。
「どういうことです?」
「こいつな、ここでバイトしてたことがあってよ。そん時にゃ、この店も閑古鳥でな。それをここまでにしちまったのが、何を隠そう、こいつの知恵と腕ってわけだ」
ユウヤの腕と知恵という割には、ゴリラが胸を張って威張る。ユウヤは頭を抱えるようにカウンターに突っ伏してしまった。
こんなユウヤを見るのも楽しい。
「ええっ? なんで、なんで?」
タエの知らない更なる一面が窺えそうで、身を乗り出してゴリラに聞いた。
「それはな…」
「おいおい! いい加減にしろっての! メシ、食わせる気があるのかよ?」
正に秘密の扉を開けようとしたところで、ユウヤの多少キレたような声が間に入った。
「そうだったな。何が喰いたい?」
完全に忘れていたのだろう。ゴリラは大袈裟に両手を叩いて「肉か? パスタか? 魚か? ピッツァか?」と並べ立てる。
「めし!! 任せるから作れよ!」
話し足り無そうな顔で、ゴリラは「う〜む」と腕を組んだが「米だな?」と叫んで、いそいそと料理に取り掛かりだした。
ゴリラが厨房の中で動き始めると、ユウヤがその眼を細くして姿を追っているのが分かった。口元にも薄い笑いが浮かんでいる。
「懐かしそうな眼になってるよ。顔がニヤけてるし」
頬杖を付いてユウヤを見たのは、ちょっとだけ面白くないぞっていう意思表示だ。
これからが良い話になるところだったのを止められた抗議でもある。
素知らぬフリで顔を背けるユウヤが、何だか『聞いて』と言っているような気がした。
「昔をあたしに知られるのって嫌なんだ?」
焦ったように振り返るユウヤに、どんな表情をしていいか分からなかった。
ただ、ユウヤは、聞いたことに嘘をついたりはしないんじゃないかと感じていた。誤魔化すことはあっても、タエに嘘を言うようなことはしない。何故か今日一日を過ごすうちに、そう感じてしまっている。
「知られたくないわけじゃない。昔の自分が嫌いなだけで、そんな自分に会いたくないと思ってるだけだ」
自然と視線が落ちてしまうユウヤを、何だか可哀想に思ってしまうのは失礼だろうか?
昔の自分が嫌いだというユウヤの気持ちを理解するのは、タエにとっては困難だった。自分を嫌いだとか好きだとか、考えたことが無かったこともある。でも、一番の理解者でもある自分が自分を否定するってことは、どんなに嫌ってみても自分と会わないわけにはいかないだけに相当な苦痛なのかもしれない。
ユウヤを見ていることも拒まれているようで、タエは視線を外してしまった。
「昔の自分かぁ。じゃ、今の自分は?」
厨房で器用に動くゴリラを追いながら、横顔にユウヤの視線を感じる。刺さるような感じではない。柔らかく優しい眼差し。
「嫌いじゃない。が、好きでもないかな」
声のトーンが少しだけ明るくなった。『ここで、こういう嘘をつくんだ』
向き合わずに声だけを聞いていると、ユウヤの上辺で造られた言葉のトーンが理解できるような感じがした。
確信などはない。ただ、そう感じただけだ。ユウヤが語る言葉には、どこか薄っすらとした作り笑顔が張り付いているような感じだった。
「ふ〜ん」
無関心な返事になった。
ユウヤの本心を知ろうとは思わない。けれど、変な嘘を言われるくらいなら、何も言ってくれない方がマシなような気がした。
「あれ? 多恵果?」
突然の呼び掛けに、油断していた身体が飛び跳ねた。
聞き覚えのあるちょっと高い声は、タエの本名を呼んでいた。
ゆっくりと振り向いて見た。
派手な赤のワンピースを着込んだ、ロングヘアの女性が、満面の笑みでこちらに走り寄って来るところだ。
「やっぱり多恵果だ」
相変わらずの大人びた美人顔を寄せてきて、自然に身体に触れてくる。
「八重ちゃん…」
大学の専攻は違うが、同じ学校に通う数少ない女性の友人だ。が、タエはこの八重樫が少し苦手だった。
だれかれ構わず、親しみの感情の表れなんだろうが、こうして気安く身体に触れてくる。自分の美貌を理解していないようなところもあって、男性だろうが構わず腕や背中、胸、腰と触りまくる。そのお蔭で勘違いした男連中が、今も学内に相当数存在していることも、きっと八重樫は気付いていないことだろう。
背中に回った手が、横に座った途端に前に廻って胸を触ろうとしてくる。
苦笑しながらそれを軽く払った。不思議そうな顔をする八重樫に、他意は無い事は分かっているのだが、いくら同性といってもあちこちを触られるのは好い気がしない。
「偶然だね? あれあれ? もしかしてデートだった?」
「ち、違うよ! 遊びに…行った帰りだし…」
ユウヤをチラリと覗き込んで、変な勘繰りを入れてくる始末だ。
「初めまして! 多恵果と同じ大学に通ってます『八重樫』っていいます」
身体だけをずらして頭を下げる八重樫だったが、すぐに下から手が伸びてきた。ハッと気付いて、その手を掴んで引き戻した。
チラリと見たユウヤは、八重樫の顔に見惚れているのか、その手のやり取りには気付いてないようだった。ホッと胸を撫で下ろす。
「知ってるよ。『シンフォニー』のミユキちゃんだね?」
「あれ? あたしを知ってるってことは、お客さんでしたっけ?」
大きく眼を見開いて八重樫はユウヤを確かめるように乗り出した。
八重樫は、タエに夜のバイトを紹介した友人でもある。八重樫も『シンフォニー』という店で、既に一年ほど働いている。
タエの働いている『ムーン』が、オーソドックスなスナックとするなら、『シンフォニー』はグランドピアノが店内にある大きめなサパークラブといった感じだろうか。客層は大して変わりはないが、結構騒がしいような店だとタエは記憶している。
昔はきっと活躍していたであろうピアノも、今では調律もされることなく、単なる調度品としてしか役目を果たしていないと聞いた。
「い〜や。君のところのママに聞いてる。大学生のバイトを入れたら、お客が増えたってね。かなりの美人だって聞いてたから、そうじゃないかと思ってね」
優しそうな笑顔でユウヤが答える。
以前のタエならば、その笑顔に違和感など感じなかったろう。けれど、今は違う。
どう見ても造った顔に見えてしまう。自分との初対面の時を思い出してみたが、こんな笑顔だったかは思い出せない。いや、笑顔じゃなかったような気がする。その後に爆笑された覚えはあるが、こんな風に優しい微笑みをくれたような記憶は無かった。
「うわぉ。いい感じの人。多恵果、紹介してよ」
タエになど視線も流さず、八重樫はまたも密かに右手を伸ばしてきた。その手を自然な仕草で引き取って、タエは八重樫を睨み付けた。
ユウヤの表情を確かめてみれば、眼を細めて優しく微笑む見事さだ。この顔が自分に向けられたものだったら、果たして作り笑顔と看破できるだろうか?
八重樫の方は、ぽ〜っとした顔付きで、焦点も定まらないような一目惚れ顔だ。最初の印象がこんな具合ならば、誰も彼もが彼を嫌いになどならないだろう。
「すいません。失礼ですが『大城物産』の来嶋裕也さんではないでしょうか?」
横合いから急に声が掛かった。今度は男の声で、かなり高めの声だ。
ダブルのスーツを着こなす若い男。スーツの色がグレイなのが落ち着いた雰囲気を漂わせ、一見童顔に見える顔立ちを大人の領域に引き上げている効果をもたらしていそうだ。
タエには、ちょっと苦手なエリートっぽい空気を漂わせる。
「そうですが…あなたは?」
隣のユウヤが返事をしたのが、とても驚きだった。
『来嶋 裕也』
初めて本名を知った。そういえば、お互いにキチンとした自己紹介などしたことがない。が、何度かタエはユウヤに苗字を聞いた覚えはある。その度に誤魔化されたりはぐらかされて、結局、教えてもらえなかった。
まさかこんな形で名前を知ろうとは。出来ることならユウヤの口から聞きたかった。
そう思うと何だか腹が立ってきた。腹が立つと言えば、ユウヤの八重樫に向けた笑顔も腹が立つ。そんなことばっかりしているから、誤解して好意を抱く女の人が増えていく。おまけに優しさだけは人一倍あるときては、誤解しない方がどうかしてる。
この男、はっきり言って、腹が立つ。
「失礼。僕は『レッドサークルホテル』グループの北日本支部販売担当の外村といいます」
名乗った男は、素早くユウヤの隣に腰を下ろした。タエとユウヤは、二人の間に挟まれたような形になってしまった。
「真人ちゃん、この人、知ってるの?」
八重樫の声に、ユウヤがこちらを向いた。瞬間、視線が合わさる。
ちょっと眼を見開くような素振りをする。どうやらタエの顔に腹立たしさが浮き出ていたのかもしれない。
「この辺りの業界では有名人ですよね。大城物産の救世主とも呼ばれるくらいだ」
「うわぉ。エリートさんだ。多恵果、凄い人、捕まえちゃった?」
「エリートだなんて失礼だ。上に『超』が付くね。倒産寸前の会社を再生させたばかりか、本州との大型店と提携して販売拡大した挙句、全国展開にまで持ち込んだ男。数百万程度の売り上げを、二年で億単位にまでしたんだ。伝説にもなろうってもんだ」
「すっご〜い。神? 奇跡の人って感じ?」
二人を飛び越えてされる会話は、タエも知らないことばかりだ。
『ほぅほぅ。そういえば、何処にお勤めですかってのも答えてくれてなかったわね?』
ぐっと眼に力が入るのが自分でも感じられた。ユウヤがタエを見詰めたまま、少し身を引いて行く。
恐がっている表情ではないものの、僅かに笑顔が引き攣っているのがわかる。
「す、すみません。こんなナリなんで、名刺を持っていません。ですがレッドサークルは聞き及んでいます」
タエから視線を外そうとするのを、首を前に出して追いかける。顔を背けながらも視線を外したのは最後だった。
これ以上、虐めても可哀想かな? と思ってはみたが、腹立たしいのは変わらない。
「多恵果、多恵果。ちょっと、この人、彼氏?」
ふっと息を抜いたところに八重樫が、身を低くして寄ってきた。声も潜めて他に聞かれないような素振りだ。
「ち、違うわよ! お店のお客さん。今日は海のタワーに連れてってもらったから、お礼に食事くらいと思って…」
満更、嘘ではないが、一度、送り帰されそうになったのを無理やりここまで連れて来たという部分を省いただけだ。
ユウヤはと気になったが、背を向けて外村と名乗った男と、何やら話し込んでいるらしく、こちらを気にしている風でもない。
「そうなの? でも、かなりの良い男って感じじゃん。将来も期待できそうだし、モノにしちゃえば?」
ぐっと拳を突き出す八重樫に、タエはびっくりして眼を丸くした。
「ば、馬鹿なこと言わないでよ。お客さんなのよ。そんなこと出来る訳ないでしょ?」
「ああん? あたしらってバイトでしょ? 別に本職じゃないんだし、今のご時世、大学出だって就職難なんだし、旨く乗れるなら乗っておいて損は無いと思うよ。た・ま・の・こ・し」
ニヤリと笑う顔が、なんとも妖艶な感じがして、同性のタエですらゾクっとする。
「な、何、考えてるのよ! まさか、八重ちゃん、あの人と?」
タエの言葉に、八重樫はチラリと外村を盗み見た。
「あの人ねぇ。確かに外資系のエリートらしいし、気前もいい。顔も悪くないし、野心家で男らしいっちゃぁらしいのよ。でもねぇ『俺様』っぽいし、ナルシストも見え隠れするし、何より、女を遊ぶ道具に思ってそうで、ちょっと踏み込むには勇気がいるんだよね」
苦笑いする八重樫は、肩に吊るされた真新しいバッグを眼で示した。
「ミュウミュウの新作じゃん。……もしかして、買ってもらったの!?」
チロリと短く舌を出す八重樫は、とても意地悪そうな表情だ。美人顔が意地悪い顔をすると、これほどまでに嫌味なものかと感じた。
「冗談で『ミュウミュウのバッグ買ってくれたら、一晩付き合ってあげる』って言ったらさ、昨日の今日なんだよ。びっくりだよね」
「それって、一晩付き合わなきゃならないってことでしょ!?」
「ああん、いいの、いいの。どのみち、近い内に手を付けとこうと思ってたし、キープしとくのは、早いほうが良いしね」
ホホホと笑う顔は、まったく屈託無いようなものだが、その言葉の内容は、タエにしては生臭い感じで、嫌な気分だ。
タエにとっては、外村を『女を遊び道具にしか思ってない男』と呼ぶ八重樫も『男をキープしておく女』という同類項にしか思えない。
「今日、思いっ切りサービスしといて、二度目は断るの。そうすれば、あたしを忘れられなくて離れていくこともないでしょ? もっと、良い男が現われたら、そっちに乗り換えもスムーズだしね」
八重樫の言葉通りに世の中がスムーズなら、世間でニュースになる男女の刃傷沙汰なんて有り得ないことだ。と思ってはみたが、口にすることまではしなかった。きっと、無駄だろう。
と、ユウヤの肘がタエの身体に触れた。意識が後ろに引かれて、二人の会話が僅かに聞き取れる。
「…………来嶋さんだって、ミユキと友達ってことは、そういう仕事してる彼女なんでしょう? あなただって、そう思うでしょう? 遊びには使えても、公式な場に連れて行ける女じゃありませんからね。………………レベルじゃなくなってますしね。……素人みたいな女で遊ぶのも悪くない気がしますよね?」
ぐっと息が詰まる。腹が立つより、呆れて物が言えない。
外村の潜めた声だというのはわかる。だが、それを聞いているユウヤは、どんな顔でどんな返事を返しているのか?
「お待ちどうさん! 餡かけチャーハン、冷静パスタサラダ、エビワンタンのトマトスープだ!!」
突然、カウンターの向こうから大声と共に、幾つかの食器が眼の前に並べられた。
振り仰いで見れば、ゴリラが仁王立ちして笑っていた。
八重樫が、チラリとゴリラを見たが、すぐにタエの耳元に口を寄せてきた。
「この街の夜景って、結構、ムードあるみたいよ。良かったら誘ってみたら? 多恵果が手、付けないなら、あたし、考えちゃうかもよ?」
ストンと椅子から飛び降りて、タエが何か言う前に
「真人ちゃん。食事の邪魔しちゃ悪いから、もう、行こう」
と外村の腕を取った。
今、聞いたことを教えてあげた方が良いかと考えたが、少なからず八重樫は察しているような口振りだった。うまくやり過ごすのだろう。
「わ、わかったよ。それじゃ、来嶋さん。また、お会いしましょう」
「……ええ。そうですね……」
八重樫に引きずられるように立ち上がった外村に、ユウヤが軽く手を上げる。
あれ?っと思ったのは、気のせいではないだろう。どことなく苦笑混じりの、そして歯切れの悪い返事。いつものユウヤならば、ここは愛想良く送り出して、相手の好印象を勝ち取るはずではないだろうか?
カウンターに向き直るユウヤを何だか変に思って見詰めていると、不意にこちらを向いた。
途端にニッと笑った顔は、まるで子供が悪戯を思い付いたような至福の悪魔顔だ。
右手が上がって人差し指が額に触れる。
何をされるのかと不安になったが
「困った顔」
と言って眉の間を吊り上げた。
「ちょ、ちょっと!」
文句のひとつでも言うつもりで手を払い除けたが、ユウヤはクスクスと眼を失くすほど笑いながら、カウンターに背を向けた。
「外村さん!」
意外なほど大きな声が店内に響いた。他人の眼を気にするユウヤに、こんな満席の店内で大声を発するなどタエには信じられなかった。
「あなたに言いたいことが、ひとつありました」
外村と八重樫は、既に出口近くまで達していた。ザワついた店内では、ユウヤが発した声くらい出さなければ聞こえなかったかもしれない。
「なんです?」
外村も口に手を当てて大声で返す。
「僕は、あなたが嫌いです」
店内が一瞬で静まり返った。みんなの視線がユウヤと外村を交互に見ているのもわかる。
言われた外村など、唖然として口を開けたまま、立ち尽くしている。
言ったユウヤはといえば、満面の笑みで如何にも人が良さそうな好青年としか見えない。
一瞬の後、外村は憮然とした表情に一変すると、周りを鋭い目つきで一瞥して、未だに隣で大きく口を開けて驚いている八重樫を引っ張って出口をくぐって行った。
タエは、二人が消える前にカウンターに向き直っていた。眼の前にゴリラが立っていた。
ふぅっと溜め息をついて肘を立て、顔を乗せるとゴリラが頭の上で両手の人差し指を立てて上下にジェスチャーした。鬼の角を連想させる。その後でユウヤを指差す。
つまりは『ユウヤが怒っている』と言いたいのだろう。
ユウヤが振り返った時には、ゴリラは知らぬ顔で突っ立っていた。
タエの顔を見て眉を寄せる。
『もしかして変顔になってる?』と心配したが
「……なんだ?」
とユウヤが聞いてきた。
「いえ、いえ」
つい出た言葉だった。何だか、本当に不思議で読めない男。
「いえ、いえ」
カウンターの向こうから、ゴリラまでが真似して言った。
これには、さすがに噴出してしまいそうになったが、ユウヤは溜め息をついて首を落とした。
つづく