ユウヤ 第一夜
久しぶりに恋愛にチャレンジしてみます。
ちょっと変わった形になりそうですし、一話づつが長いです。
お付き合いしてくださる方が居れば本望ですが。
夜明けには、まだ幾分の猶予があることは計算済みではあった。
ただ、余裕を持ってと考えて自宅を出たのだが、遅れたくない焦りがあったのか、予定よりかなり早い到着になってしまった。
車を駐車場に入れながら、ユウヤは時計を、もう一度確かめた。
やはり予定していた時間より一時間以上早い。溜め息と同時に白線の中に車を止めた。
エンジンを切ろうかとキーに手を掛けたが、思い直してカーオーディオのスイッチを切った。お気に入りの女の子ユニットの曲が、イントロの部分で消えた。ちょっと残念に思えたが、さしたる感慨は無かった。
車の窓を全開にして、ユウヤは顔を出してみた。吐く息が白い帯になって霧散していく。2、3度繰り返して、風が僅かに吹いているのを確かめた後、身震いしながら車の中に引っ込んだ。
これならば、きっと今日は見られるはずだ。そう確信しながら後部座席のカメラケースを助手席に引き寄せた。中には二十年も前のフィルムを使う骨董品カメラが入っている。露出調節がかなり怪しくなってきているが、大した問題ではなかった。このカメラで、この車で、ここに来ることが目的だと言って良いかも知れない。写真を撮ることや、その写真の仕上がりなど、本当はどうでもいいことなのだ。
今年一杯で二十代が終わる。これという特別な感慨があるわけではないが、何だか急かされるように二十代の全てにケジメめいたものを着けておきたいと思ったのが切っ掛けと言えばそうだろう。
今まで十年乗り続けた車も、今月を最後に処分することにしたし、持ってきたカメラも、今日を最後に押入れの奥に仕舞い込むことにしている。
後は、自分の中にある気持ちの整理だな、と苦笑混じりに空を見上げた。満天の星が、駐車場の外灯にも負けずに輝いている。天空を真っ二つにするように天の川が光の帯を見せていた。
これほどゆっくりと星空を見上げたのは、自分でも覚えていないほどに遠い記憶にも思える。そう思いながら星を眼で追った。星座に詳しいわけではないが、幾つかの見覚えある形に辿り着けた。こんなことをしたのも初めてかも知れなかった。
目的の場所まで、後は歩いて十分ほどだ。まだ、幾ばくかの余裕がある。
ユウヤは、少し車のシートを倒して眼を閉じた。眠れるほどの角度にしなかったのは、居眠りでもして大事な時間に遅れることを懸念したからだが、気持ちの昂ぶりが眠ることなど許さないだろうことは分かっていた。
それでも眼を閉じたのは、少しの間で良いから、胸に詰まる想いを吐き出しておきたかったからだ。
彼女と出合ったのは、通い慣れたスナックだった。
二十代も中盤に差し掛かり、仕事もそれなりにこなすことを覚えた。忙しい時期も過ぎれば、単調な毎日が退屈という名前に変化する。定時に始まり定時で終わる。重大なミスでも無ければ、残業などする必要など無く、夜になる手前で暇ということになる。
そんな日々にもなれば、仕事帰りに腹ごしらえをして、ちょいと一杯なんてことは当然の帰結ともいえる陳腐さだ。
けれど、ユウヤにとって夜の繁華街は刺激的だった。それまでが居酒屋程度で、友達や同僚などと語らうくらいだったのが、一人で見も知らないスナックやキャバクラ、バーの入り口を潜る。最初は抵抗があったし、一人でなんて恥ずかしくもあった。しかし、どの店のマスターや女の子も優しく接してくれたし、ショットバーなどは一人の客も多く、気さくに話せる人も多いことに気付かされた。深酔いした客ともめることも無くはない。けれど、そんなのは年に数えるくらいで、大抵は楽しく飲めた。
そんな経験が一年も続くと、段々と馴染みの店が出来たり、好みの女の子が居る店や優遇してくれる店などが出来て、毎晩のように飲み歩くようになっていた。
金銭面で辛くなることもあったが、そこは考えるまでもない。ツケが出来る店が出来たり、給料前には良心的値段で営業してる店を選ぶ。
そんなことが三年も続くと、結局は店が限定されてきて、気付けば数年通う店が残って、落ち着いてしまうものだ。
そんな一軒にマスターが一人きりで朝方まで切り盛りしているスナックがあった。
値段は手頃、カラオケもあるし、テーブル席も六席ほどあって、カウンターには十人ほどが座れる。極々一般的な店だった。魅力といえば、とにかく客が居ないことだった。ユウヤが行く時間には、大抵は誰もいないか、居たとしても一人、二人くらいなものだった。深夜を過ぎると、店を終えた女の子や焼肉屋の店員などが訪れるが、それも多くの数じゃなかった。
ただ、このお客達はカラオケ好きで、正直なところユウヤにとって迷惑な客であった。ユウヤは歌をほとんど歌わない。それよりも店のマスターや客と会話するのが楽しいと言えた。カラオケが始まってしまうと大音量のため隣の席の人間とも話しをするのが困難になってしまうし、間奏や歌い終わりには、お世辞でも拍手をしなくてはならない。
そんな煩わしさが好みじゃないのだった。だから挨拶をして軽く会話をした後、早々に店を出てしまうのがユウヤの飲み方になっていたりもした。
「ユウちゃん。この娘、今日から働いてもらうタエちゃん。大学生でね。二十歳になったばっかりなんだって。こういう商売は初めてだっていうから、粗相があるかも知れないけど、寛大に許してやってくれよな」
やっと春の声が聞こえ始めたような三月初旬。雪解けには、まだかなりの時間が必要だが、それでも夜の空気が凍てつくものからやわらかく変化し出した日。スナック『ムーン』のマスターが、入ってきたユウヤに、そう告げた。
店内に他の客の姿は無く、いつものように静かなBGMが流れているだけだ。いつものようにカウンターに席を取ったユウヤに
「始めまして。よろしくお願いします」
とペコリと頭を下げる女の子は、胸くらいある髪を後ろで束ね、薄い水色のブラウスに下はジーンズという、とても水商売向きとは言えない服装で、ぎこちない笑顔を向けてきた。
「ああ、ユウヤっていいます。よろしく」
飲み屋の女の子と初対面とはいえ自己紹介的な会話をした経験が無いだけに新鮮ではあったが、場違いな雰囲気を作っていることは否めない。
「ほら、タエちゃん。お客さんが来たら、挨拶より先にオシボリ出して差し上げて」
「はい、すいません」
焦ってクルクルその場で廻る女の子に、ユウヤは苦笑した。マスターが痺れを切らしてオシボリを取り出して差し出すのを、珍しそうに眼で追うのにも笑いが込み上げた。
マスターがユウヤのキープしているボトルを取り出して、ロックグラスに氷を入れて注ぐ。カウンターに並べられたコースターの上に置いて、チェイサーのロンググラスに氷と水を注ぎ、その隣にコースターと共に置いた。
「ユウちゃんはロックで飲むから、こうしてチェイサーも付けるんだよ」
そう教えるマスターに
「へぇ〜」
と何度も頷く女の子に、ユウヤは声を出して笑った。笑われたことにはにかむような仕草で下を向く女の子をユウヤは可愛らしく思った。
タエという女の子を、ロックグラスを口にしながらユウヤは観察しだした。
細面な顔立ちは、眉の下辺りで切り揃えた前髪と束ねた後ろ髪にとても良く似合っていた。今時のような茶髪ではなく、本来の黒髪の艶が光る。適度なスキが入ったその髪は、見た目にも清潔そうで、動くたびにふわりと揺れた。少し切れ長の瞳は、綺麗な二重で黒眼が大きい。睫毛は長いとはお世辞にも言えないが、よく動く黒眼に相応しい感じがする。鼻は小さめで、高いわけではないが低いということもない。唇は下がやや厚めでふくよかだ。でも、その唇が笑いの形を作ると、綺麗な三日月を思わせて魅力的だった。
身体つきは、ブラウス自体がたっぷりとした膨らみをもっているので定かではないが、ジーンズはスリムな形で足のラインは見て取れる。そこから想像するに、結構な痩せ型なのかも知れないと予想した。
全体的には大人の女性というには、かなり程遠い印象だ。化粧っ気がまるで無いっていうことも、その一端かもしれない。薄くファンデーションくらいは叩いているのかも知れないが、アイラインだのコンシーラだのは皆無だし、桜色の唇を見る限り、口紅さえしていないのかもしれない。今時、中学生でさえグロスくらいしてるものだが、とユウヤは可笑しくなった。
「タエちゃん。ボ〜っとしてないで、少しご馳走になったらどうだい?」
マスターがチャームという名の小料理を二皿出してきてタエに言った。
「え?」
戸惑うタエに、ユウヤは観察を終えて笑いかけた。
「いやぁ、ごめん。気が利かなかったね。好きな物、飲んでよ。マスターも」
「いや、ありがとう。ほら、タエちゃん。何、飲む?」
マスターはいつものようにユウヤのボトルを手に取って、自分用のグラスに水割りを作って口を付ける。タエの方はといえば、う〜んと悩んでいるようだ。
「あの…ビールがいいんですけど…」
と、おずおずとして言うタエをユウヤは爆笑して手を振った。驚き顔のタエを困り顔で見るマスターが、ユウヤの笑いを尚も誘う。
普段ユウヤが通う店の女の子達は、許しを出したが早いか「いただきまーす」の掛け声と共に、普通では考えられない馬鹿高いウーロン茶やトマトジュースなんかをガバガバ入れたビールや水割りを作り始めるものだ。中には酒に強い娘などがいると、早くボトルを失くさせようとユウヤと同じようにロックで飲むような奴もいる。
そんな普段を考えると、タエの初々しさは飲み屋の女の子という概念さえ失ってしまいそうな程だ。
「いいよ、いいよ。好きに飲んでくれよ」
まだ笑いが消えないユウヤを不思議そうに見ながら、タエはマスターが注いだビールを受け取った。
「あ、あの、えっと、いただきます…って言うんですよね?」
タエの一言に、今度はマスターまでもが爆笑した。
ユウヤが店を訪れたのは、夜の八時を少し回ったくらいの時間だった。
タエは一杯目のビールを飲み終える頃には、白い顔を真っ赤に染めて熱でもあるかのような表情になっていた。どうやら顔に出すぎるタイプのようだ。ユウヤどころかマスターまでが心配して飲まない方がいいのでは? と進言したほどだが、本人はケロっとしたもので「いつものことです」と笑って見せた。
本当かどうか怪しんだが、タエは二杯目からはユウヤのボトルのバーボンを薄い水割りにして飲み出したのを見て、どうやら酒に弱いわけでは無いらしいことを確かめた。
しかしながら、ユウヤは少し戸惑っていた。普通の店なら女の子の方が話題をあれこれと差し出して会話を弾ませるものだが、タエにはそれが出来ない。マスターと話すことは簡単なことだけれども、それだと他に客がいない店内では、タエが二人の会話を黙って聞きながら水割りのグラスを口に運ぶ単純作業に勤しむことになる。自然と飲むペースも速くなる。
これは、いけない状況だとユウヤは感じた。飲み始めた頃に良く陥ったことだが、酒は胃袋に入れても直ぐには酔わない。自分って強いと勘違いする一歩である。飲める飲めるとペースを上げて飲んでいるうちに、いきなりドカンと酔いがくる。まるで地震にでも遭遇したかのような勢いは、後悔しても元に戻ることはない。気分の悪さにトイレから出られなくなるなんて結果が待っていることになるのだ。
ユウヤは少し考えて、話の矛先をタエに向けることにした。マスターは優しい人ではあるが、酒に強い自分が基本にあるためか、そういうことには無頓着なところがある。酒の飲み方にもペースがあるなんて考えたことも無いのかもしれない人だ。
「タエちゃんは、学校で何を勉強してるのかな?」
いきなり過ぎたかなと思える話題の変化だったが、タエは驚いた風もなく
「海洋生物学です」
と答えた。少し酔いが廻っているのかもしれない。
「へぇ。難しそうだね?」
「そうでもないですよ。中学や高校の生物の延長みたいなものですから」
一言、会話が成立してからのタエは饒舌だった。カニだのエビだのの話から始まり、学校でのコンパや部活動、遊びに行く店やら趣味の話、最近ハマリだした温泉巡りなどを滔々と語った。ユウヤは、その合間に程よく相槌を入れ、時には感心してみせたり、感嘆したように頷いて見せたりしてタエの話に聞き入った。
そのお蔭でタエの飲むペースも程よく口を濡らす程度になり、さほど酔ったようにも見えなかった。
深夜の零時を廻るまで、タエは何度かトイレに中座するくらいで話し続けた。ほっと、内心でユウヤは安堵の溜め息を吐いていた。トイレに立つことは、アルコールが程よく体内に入って出ている証拠でもある。ペースさえ崩さなければ、泥酔なんていう末路はないだろう。
その間に客が訪れる事も無く、貸切状態だった店内に、やっと人の声が響いたのは一時を指す頃だった。
「あれ? 見掛けない女の子がいる〜」
と、ほろ酔い加減の声は、何度か飲み交わしたことのある隣のビルの飲み屋の娘だった。続けて二人が入ってくる。向かいの焼肉屋の男店員と斜向かいのカラオケ屋のバイトの男の子だ。この二人もユウヤとは顔馴染みで、この店『ムーン』の常連でもある。
「いらっしゃい。水商売初体験の新人だから、お前達、虐めるなよ」
いい加減な紹介の仕方が、マスターらしいと感じた。マスターにしてみれば、客は客なのだが、意識としては同業者の扱いなのだ。ユウヤとは接し方が違い過ぎる。
ペコリとそれぞれにカウンター席に陣取った三人に頭を下げるタエだったが、マスターはそそくさと奥に下がってチャームの準備に入ってしまった。話の途中だったタエは、頭を下げただけでユウヤに向き直った。眼を丸くしたのはユウヤの方だ。接客のイロハがすっ飛んでいる。
すぐさま立ち上がって
「みんなにオシボリ出して、何を飲むのか聞いて」
と小声で囁き、そのまま何事も無かったようにトイレに向かう。横目でタエの行動を見ることも忘れない。一瞬、はっとした表情はしたが、言われた通りにオシボリを出し始めていた。
他の客には聞こえないように配慮したつもりだったが、夜の商売を熟知している客達である。察していないわけはないのでる。我ながら馬鹿なことだと苦笑いしたが、タエにはわからないだろう。
トイレから戻ると、それぞれに飲み物がきちんと出されており、一通りの自己紹介も済んだようだった。ただ、タエが注いだものか、飲み屋の娘の生ビールがグラスの三分の二ほど泡になっている。それに文句を言うほど野暮な娘ではないが、一気に飲み干して
「あたしが注いでいい?」
と言うが早いか、カウンターの中に入り込んでビールのサーバーを手にした。
座るユウヤは身を屈める合間にタエをチラリと見て
「見てな」
とサーバーを軽く指差して囁いた。
飲み屋の娘も心得たものである。自分の店の娘なら一喝したところだろうが、他店の新人教育がなっていないからといって目くじらを立てることはしない。タエが覗き込むのを待って、傾けたグラスをサーバーの口に当てて、注ぎ始めると共にグラスの傾きを直していく。グラスが満たされる頃には真っ直ぐに立てられたグラスの上、二センチほどが白い泡で覆われ、黄色いビールは底から細かい気泡を昇らせながら完成した姿になった。
綺麗な手本である。タエがそれを出来るかどうかは別にして、正しいやり方は知ったことだろう。
マスターが出てきてからは、タエがそんなことをするチャンスは無くなったが、今度は話し相手が増えたし、カラオケも始まったお蔭で、入力作業にも追われるようになった。拍手したり話をしたりと忙しい雰囲気にユウヤはちょっと寂しい気分になったが、騒がしくなった店内はやっぱりユウヤの趣向とは掛け離れた感じがする。
そろそろかなと、席を立とうかとした時、タエと視線がぶつかった。
「ユウちゃん、もう帰るのかい?」
察したマスターが声を掛けてきた。
「んん〜」
迷ったように考えながら、ユウヤはタエに視線を向けると、真っ赤に染めた相変わらずの顔でユウヤのことを見詰めて一瞬、眼を細めた。それにどんな意味があったのかはユウヤには計り知れなかったが、何だか子犬を捨てて行くような気分になってしまった。
「今日はタエちゃんの初日だし、これから歓迎会でもしようかと思ってたんだけど、ユウちゃんも参加しないかい?」
「え!? これからっすか?」
マスターの誘いにユウヤは驚いた。時刻は既に午前二時を回っている。これからともなれば、完全に朝までのコースになるのは必然だ。明日…もう、今日になっているが、休日なわけではない。平日なのだから、ユウヤもタエも会社や学校がある。普段であるなら、そんな無茶な誘いなど断るところだが。
ユウヤは、もう一度、タエを見た。カラオケ屋の男の子と話している。
「んん〜」
天上を仰ぐようにして迷いながら、もう一度、ユウヤはタエを見た。
結局、ユウヤは誘いを受けて、深夜三時近い居酒屋に入った。
マスターのオゴリが宣言されてのことだから、居残っていた客達が帰ることはなく、総勢六名の歓迎会が催されることになった。
鉄板焼きが出来る居酒屋は、朝六時くらいまで営業していることもあり、それなりに客の数はあった。どの客も夜の勤め人か常連客ばかりである。ユウヤが見知った顔もチラホラと見え、挨拶程度に手を上げる者もいる。
店の奥にある小上がりを勧められたが、ユウヤは入ってすぐ脇にあるちょっと手狭な小上がりを選んで一同を押し込んだ。六人ではくつろいで座ると膝がぶつかり合うような広さしかないが、誰も不平を言わなかった。酔っていたせいもあるのだろう。
海鮮焼きと焼きソバを注文して、飲み物は全員生ビールが配られた。
ユウヤは、さりげなくタエを自分の横に座らせた。タエの背中は小上がりの入り口だった。
「それでは、夜の新人タエちゃんを歓迎してカンパーイ!」
マスターの音頭でジョッキが合わされ、歓迎会が始まった。同時に皿に盛られたエビやカニ、ホタテやイカ、タコに鮭などが運ばれ、大盛りのキャベツに豚肉が申し訳程度乗ったものと麺が運ばれてきて、上座に座ったマスターがお好み焼きで使う金物のヘラを振り回して焼き物が始まった。
モウモウと白い湯気が立ち昇り、海鮮の焼ける独特の香りが充満する。ジュージャーと焼ける音がうるさくて、自然と話す声も大きくなっていた。
口々に今日の客の話や焼きソバの焼き方などを話しているが、ユウヤはタエの耳元に近づいて話し出した。
「いいか、もう少ししたらトイレに立つ振りして帰りな。店の前にタクシーが止まってるはずだから、この金で乗って帰るんだ。決して歩いて帰るようなことするんじゃないぞ。この時間の酔っ払いはタチが悪い。捕まったら何されるかわかんねぇからな。わかったか?」
そっとテーブルの下でタエの手に五千円札を握らせようとしたが、タエは小さく首を振って拒んだ。
『ムーン』を出る時からタエの表情は曇っていた。それはユウヤと同じ気持ちにあることは間違いないことだった。昼間に活動している者には、翌日の心配があるのだ。如何に若いからといっても睡眠時間を削ってまで遊ぶ行為は、結構翌日に響くものだからだ。
歓迎会と言われて断りづらいタエの気持ちもわかるし、初日の緊張感で精神的にも疲れているはずである。有無を言わさずユウヤはタエの手に札を押し込んだ。
「なんだ? ユウちゃん。もう、タエちゃん、口説いてんのか?」
焼肉屋の男店員がモソモソしている二人に眼を留めて冷やかしてきた。
「ああ? 勿論だとも。早い者勝ちだろ」
少し大袈裟にタエの肩に腕を回したが抱くようなことはせず、フリだけで止めるユウヤを薄く笑って見るタエの右頬に小さなエクボが出来た。
もうすぐ焼きソバが出来上がる頃合いを見計らって、ユウヤはタエの脇腹辺りを肘で軽く小突いた。
一度、ハッとしたようにユウヤを見て、タエは二、三度大きく瞬きをした。ちょっとの間に居眠り状態だったのだ。
ユウヤが目線で後ろを指す。軽く頷いて、タエは立ち上がった。
「ん? どうした? タエちゃん」
カラオケ屋の男の子が声を掛けてきた。タエの表情が、戸惑いの色に染まる。
「馬鹿か? 野暮なこと聞くもんじゃないぞ」
すぐさまユウヤが切り返す。
「気にしないで、行け、行け」
しっしっと、まるで犬か猫でも追い払うような仕草でユウヤは促した。
「失礼します」
タエは小上がりから出たものの、トイレだと思われなくてはならないという意識か、荷物のバッグを置いて出てしまった。これでは帰るに帰れない。
どうしようかと迷っているところにユウヤが顔を出した。
「忘れ物」
それだけ言って突き出した手には、タエのバッグが握られていた。タエが黙って受け取ると、ユウヤも黙って引っ込んでしまった。
軽く会釈をして店を出て行くタエだったが、その姿はユウヤには見えるはずもなかった。
「タエちゃん、遅いねぇ」
出て行ったまま戻ってこないのを心配したのか、飲み屋の娘が言い出した。
「そうだな。見てきたらどうだ?」
マスターも心配顔になっている。
さすがに黙っているわけにもいかなくなった。どのみち帰ってしまったタエを呼び戻すことなど不可能なのだから、今更バラしたところでどうということもない。そう結論付けてユウヤは白状した。
「帰らせたよ」
「ええ!?」
一同が声を揃えて驚いた。
「主役が帰ってしまったんかよ?」
「誰の歓迎会なんだっての?」
「ユウちゃんが帰したの?」
口々に責めてるのかどうかという言葉が発せられたが、ユウヤは意に介したことはなかった。所詮は酔っ払いの戯言なのだ。本気で不平を言ってるわけじゃないことは百も承知である。
「学生さんなんだから、朝から授業ってもんがあるでしょ? みんなみたいに昼過ぎまで寝てられる身分じゃないんだから察してやれよ」
言わなくても良い事だと思いながらも言ってしまった。ユウヤも結構な酔い方なのかもしれない。
「あ、そう。んじゃ、ユウちゃんが変わりに付き合ってくれんでしょ? 勝手に帰しちゃったんだから、最後まで居なさいよね」
自分も切りの良い所で帰ろうと考えていたのだが、やっぱり言わなくても良い事を口にした罰だろうか。
この日、ユウヤが眠ることが出来たのは、結局、会社が終わってアパートに辿り着いてからだった。
つづく