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サンフランシスコ・ハネムーン

作者: 杏人

1.

 東洋人を初めて見たのは、まだ11歳の頃だった。あれから10年経った今となっては、当時の記憶なんてロクにあったものではない。それでも、その時初めて会った私と同じくらいの年頃の東洋人の娘が美しかったということだけは覚えている。

 あの時の出会いが影響したのだろう。私は日本語の勉強をするようになった。14の春だった。あの時見た少女が、一体どこの人間かなんてわかりはしなかったが、『仕事』を教えてくれる師の祖国が日本であるらしいと知った時に、日本語を教えて欲しいと願い出たのだ。

 もし、あの娘が日本人だったとして、会えるわけはないのに。そう思いながらも私は着実に日本語を学習し、日常会話くらいなら師と難なくこなせる程度にはなった。

―――

 ある日、仕事の稽古を終えた後、「少しお話しましょう」という師の誘いに乗って、珍しいこともあるなと思いながら、町を歩いた。師は必要以上の会話を好まない人間だと思っていたからだ。

 私の住まい兼、稽古場の廃倉庫を出ると、慣れ親しんだ潮風がそよぐ。草木は穏やかに揺れ、空は青く澄み渡り雲ひとつない。

 倉庫街から延びる大通りに出ると、廃屋とも人家ともつかない何件ものボロ屋に、気まぐれに強まった潮風がぶつかった。錆切ったトタンがゴンゴンと鳴く。人通りはなかった。

 大通りから石砂利だらけの脇道にそれると、ブドウ畑が広がる。畑では、6人の男たちが、ボソボソと話をしながら水やりと害虫の駆除に勤しんでいた。上質なワインに欠かせないブドウだと、この町に越してきたばかりの頃に聞いた。

 師から酒やクスリは止められているので、味の良し悪しに見当はつかないが「潮風と太陽をたっぷり浴びた上質なブドウから作った厳選ワイン!」という宣伝文句を聞いたこともあったかもしれないし、いかにも都会に疲れた富裕層へウケが良さそうだとも思った。

 さんさんと陽が降りてくる中で大きなコートを着込んだ師は「うまくなってきましたねえ」とだけ言った。

 淡々とした声色で、静かに教え子の成長を喜んでいるようにも、厄介者を追い払える日も近いという期待にも聞こえた。私の師は、底知れない、食えない性格の男だった。

 それにしても、うまくなったとは仕事の方かそれとも言語の方か? わからなかったが、とりあえず「ありがとうございます」と礼を言った。

 師は、顔の左半分を真っ白い包帯で覆っている。曰く、幼い頃の火事で顔の半分と肉親を失ったらしい。その特徴を除けば、彼は美形だ。

「そろそろ私は限界でしょう」

 師はそれだけ言った。仕事を続けていられる時間の話だ。別に残念そうではなかった。むしろ、ようやく解放されるという安堵感さえ滲んでいたように思える。これもまた、先程の褒め言葉と似た、どちらとも取りきれない印象を持っていた。

 当然ながら師の引退は、今まで師が請け負ってきた仕事の多くを私が引き継がなければいけないという事でもある。一度仕事を始めれば、もう後戻りは出来ない。私は未だ見習いの身であり、一度たりと仕事を受けた事はないのだ。不意に、今ならまだ後戻りが出来るな、と思ったが無駄な思索だと思い直した。

 流れていく町の風景、建ち並ぶ家々はどれもみんな古びていて、この町を街と呼ぶに足る人影はいつまでも目につかない。ただしんと静まって、家人の帰りを待っているだけのようだ。そんな中をただ私たち二人分の気配が足音一つ立てずに通っていく。どこか寄るアテがあるわけでもない。

 行くアテもなければ会話もまばらな私たちをどこかから見る者が居れば、奇妙と言えば奇妙に思えるかもしれないし、不気味と言えば不気味なのかもしれない。

 そんな事を思うと、存外、例の気まぐれな思い付き、今なら逃げ出せるということが現実離れしていないと感じた。何せ、私が消えたところで気に留める者などどこにもいないのだから。



2.

 ほとんど無言で師と町を歩いた日から、3週間が経った。3週間の間もやはり、無言の時間は多かったが、重要な話があった。今日、私たちの出資者がここへ来るということ。いわゆるボスというやつだ。

 師のアジトの一室。アジトとはいえ、なんのことはない廃屋だ。部屋には竹を編んだだけの椅子が一脚あるのみで他に家具らしい家具はなく、壁紙もなければ窓にガラスもない、そのくせ綺麗に掃除とワックスがけだけはされていて、不気味なほど生活感がなかった。

 ボスと面識のない私はなんとなく動物園の岩山にでも居そうないかめしい猿ヅラを思い浮かべていたが、現れたのは師とは逆に、聞いていた歳、40前半よりいくらか老け込んだ優しげな顔つきの男だった。

 ボスは日本の着物を着て、おそらくこれも日本のものであろう手提げを持っている。

 彼の両隣には姿勢のいい黒スーツがサングラスをつけて、それぞれアタッシュケースを持ち、侍っている。師は、「ボスはあなたの顔を見に来たんですよ」と私に言うとそそくさと外へ行ってしまった。

 竹を編んだだけの椅子にボスが腰を下ろすと、私にも座るよう身振りで促した。だが、椅子は一脚しかないことに気づくと、手を振って撤回を示した。

 なぜだかきまりが悪い気がして、私は自分の背が縮むのを感じた。

「お前さん、日本語わかんのかい?」

 師に学んだ言葉よりボスの言葉は少し癖があったが、理解出来たので「少しですが」と答えた。

「ああー、なんだ、じゃあサエは要らんかったか」

 そういうと黒スーツの片方が「下がっています」と申し出た。サエと言われた黒スーツが女であると気付いたのはその声を聞いてようやくだった。見ればもう一人も女であるようだった。二人が部屋から出ていくより早く、ボスは話を始めた。

「『仕事』の方は、どうだい?」

 ボスは一息置いたが、それ以上は答えを待たず続けた。

「トビはもうダメだ、ありゃ長くもちゃしねえ。早いとこ次が要るんだ、お前さんに働いてもらうのもそう遠くねえだろう」

「トビ?」

 聞き慣れない言葉を聞き返した。

「んん? ああ、そうか、あいつここでも名乗らんのか」

 ボスが一人で納得した。しかし、その言葉と態度を見て私も間も無く理解した。トビとは、師の名前なのだろう。

「トビってのはお前さんのお師匠様よ」

 私が察すると同時にボスが言った。そして、ボスも本当の名前は知らないと言って、名無しじゃあ難儀するからトビと呼んでいると教えてくれた。

「危なっかしい仕事をやるやつのことを、日本じゃトビって呼ぶんだ。つまりお前さんも仕事を始めればトビになるな」

 日本人なりのジョークだったのか、ボスはおかしそうにハッハと笑った。

「で、だ。お前さん、なんか必要なもんはあるかい? 仕事道具でも、食いたいもんでも、女の好みだって聞いてやろう。家族に仕送りがしてえなら金だって多めに包んでやる。手付金ってやつだな」

 つまり、受け取ればもう後には引けない、そういう意味だ。だが、今さら後に引いたところで、私は師から学んだ仕事しか知らない。どうせ逃げるアテもないし逃げようという気も起きたことがない。

「お気遣いありがとうございます」

 ただ、それだけを返した。

「はァ、まったく。殊勝な心掛けだねぇ、まったく。……なんなら少し付き合いな」

 ボスは少し呆れたようで、癖のある喋り方がまた少し澱んだ。

「薬とお酒でなければ、喜んで」

「あぁあぁ、わかってるよ、まったく。そいつもお師匠様の受け売りだろ? 律儀なもんだね、まったく」

 確かに、薬と酒に手を出すなというのは師―――トビからの言い付けだったが、必要なものがないというのは私にとっての事実だった。だが、ボスの口ぶりからすると、トビも必要なものを聞かれても何も答えなかったのだろう。

「おい、エリ! 車出せ!」

 ボスが声を張ると、ドアの向こうから「はい」という声と遠ざかる足音が聞こえた。

「お立ちになられますか?」

 音もなく部屋に入ってきた黒スーツ―――サエがボスに問うた。

「こいつとメシにでも行く。仕事の話もあるしな。サエ、お前は着替えておけ」

「はい」と言い終えるよりも早く、サエはその場でスーツのボタンに手をかけ服を脱ぎ始めた。

 スーツというものはこれほど早く脱げるものだろうか? ジッと彼女が服を脱ぐのを見続ける。内ポケットには拳銃らしき膨らみが見えたのに、ベルトを外す時すら一度も金属音を立てていない。―――プロだ。

「お前さんよ、サエに着替えろって言ったのは確かに俺だが、こいつだってお前さんと歳の頃はそう変わらねえ、まだまだ若い娘っ子なんだ。そんなに見つめちゃかわいそうだろ?」

 ボスが言い終えた頃には下着姿になったサエは、足元のアタッシュケースに手をかける。

私に尻を向けるように腰を折ったのは、おそらくわざとだろう。整った顔立ちも程良い肉付きの肢体もまた、彼女の強力な武器だ。アタッシュケースの中身は白いドレスと化粧ポーチ。ポーチには暗器が忍ばされているに違いない。

―――私は無意識にジャケットに忍ばせてあるカミソリを抜ける体勢を取った。殺気を感じた。



3.

 サエがドレスと一緒にポーチを持ち上げた瞬間、私は『仕事相手』を“見つけた”。

 彼は中国由来の曲剣を手に堂々と入り口からドアを通ってこの部屋へ。

 私は師から学んだ通り、構えすら取らずただ無造作にそして無駄なく、カミソリで首をかき切った。大きな得物を持つ相手には、これが一番いい。研ぎ澄まされた曲剣は床に落ち震え、フオンフオンと音を響かせた。

『仕事相手』は南米のこの蒸し暑さの下で、コートを着込んだ怪しい包帯男だった。

「お見事です」

 包帯男はかすれがちな声で私を賞賛した。まだ息がある。私は包帯男を足蹴にして転倒させ、包帯男の動きを封じるよう馬乗りになった。

 そして、カミソリをグッと押しつけ、気道を完全に切断した。間も無く死ぬだろうし、助けを呼ばれる心配もない。気道を切断する瞬間「もう、思い残すことは」と聞こえた気もしたし、気のせいだったかもしれない。

 私の視界は、少しだけ霞がかったように曇ったが、瞬き一つすると「ポツッ」と呆気の無い音がして血溜まりを揺らし、それっきりだった。

 不意に、へっへっと噛み殺し損なった笑い声が聞こえた。

「期せずして、お前さんの初仕事だったな。よぉく、俺を守ってくれた」

 私は何も言わなかった。仕事を終えた時、なんと返事をすればいいのかは教わったことがない。もし私が日本人だったら、こういった時に気の利いた返事が出来たのだろうか。

 なぜ、この包帯男はボスに襲いかかったのだろうか。……いや、探るのはよしておこう。詮索を控えることは長生きの秘訣だと師に教わっている。

 サエはいつの間にか着替えを終えて、胸元の開いた真っ白いドレスに身を包んでいる。目の前で男が首をかかれたというのに、ドレスには血飛沫ひとつついていない。おそらく、そのように訓練されてきたのだろう。彼女もまた過酷な星の下で生きていると見えた。

「お車の準備が整いました」

 車を出しに行ったもう1人の黒スーツ、エリが半開きのドアから声をかけてきた。

「おう、すぐに行く。……そういえばお前さん、まだ名前を聞いちゃねえな、なんて名前だ?」

 ボスが言った。

「トビ、と言います」

 意外なほどすんなり私はその答えを口に出来た。ボスはまたさっきのようにへっへっと笑って、「上出来だ」と言った。

―――

 私は裏手の井戸で返り血を洗い流し、ジャケットを着変えた。ズボンは血に濡れたままだったが「ヒルにでも噛まれたことにすりゃあいい」と待ちきれないようにボスが言ったのでそのままにした。

 アジトの入り口にはエリの乗るセダンが待っていた。

「お前は助手席だ」

 そう言われて、エリの隣に乗り込んだ。

「私はボスが気に入るような店を知りません」

 何か期待されているのかと思い、シートベルトを片手に慌てて口にした。

「お前にゃだーれも聞いちゃいねえよ」と言いながらボスは悠々と私の真後ろの座席に座った。その隣にサエが座ったのを見るや「エリ、いつものホテルだ」と短い命令をし、葉巻に火をつけ始めた。

「わかりました」とエリは言い、車を出した。私はこのエリという女はあまり好きになれないかもしれない。なんとなくだが、そう感じた。

 ルームミラー越しにサエからの視線が突き刺さる。私をまだ信用していないのだろうか。それとも、私の心を見透かそうとしているのかもしれない。

 だが、生憎と見抜くほどのことを、私は考えていない。ただ仕事をし、ただ糊口をしのぐ。それだけだった。



4.

 エリの運転するセダンは、大きなホテルに到着した。治安とは無関係のこんな田舎町には不釣り合いなほど豪華なところだ。

 そういう手筈だったのか、それともホテル側が気を遣ったのか知れないが、私は流暢な日本語を話す白人のホテルマンに案内され、従業員用のエレベーターを使い、客室へ通された。

 私は十分に警戒していたが、敵意は感じられなかった。

 そして、私のあまりにみすぼらしい私服の代わりに黒いスーツを貸し出された。

「ホテル2階のレストランにて、シモダ様がお待ちです。お召替えが済みましたらお立ち寄りください。お困りの際はどのような些細なことでも構いませんのでフロント内線7番までお電話ください。お客様のお召し物は当ホテルが責任を持ってクリーニングさせていただきます」

 白人のホテルマンはそう言うと深く頭を下げ、退室していった。敬語というもののようだが、私には難しく、半分ほどしか理解出来なかった。

 部屋の内装をチェックする。盗聴器、発信器、カメラ、爆弾、今の時代どこにでも隠すことが出来る。ベッドの下、バスルーム、全てのクローゼットと冷蔵庫、絵画の裏。部屋のパソコンとテレビの電源コードを抜き、蛇口を全開までひねり本当に何も仕込まれていないか確認し終えて、ようやく私は血塗れのズボンと洒落っ気のない服を脱ぎ、貸与されたスーツへと着替え始めた。

 袖を通しながら客室のドアを見やる。三重の多様な鍵がついている。

 なるほど、これだけのセキュリティがなければボスは安心してこの地に滞在出来ないということか。このスジの人間にとっては存外、この町の治安の悪さと釣り合いの取れたホテルというわけだ。

―――

 レストランへ着くと先程のホテルマンがボスの居る席へと案内してくれた。

 ボスは酒を飲んだようで、赤ら顔になっていた。他の席に客は誰もおらず、いわゆる貸切の状態だった。二人の女も一緒だが、酒は口にしていないようだ。

 大きなテーブルの上には既に数々の料理が並んでおり、私の分のコース料理が端まで溜まっていた。

 私が席に着くと、給仕係の女が空いたグラスにワインを注ごうとしたが、ボスはそのグラス口に手を添えながら「こいつには茶か水だ。ティー! ウォーター!」と言った。給仕係は軽く頭を下げつつ無言で下がり、茶と水のどちらもを運んできて、私の前に置いた。

 茶をひと口含んだ。濃過ぎる。

 ボスが「外してくれ」と身振りを交えて言った後、エリが英語で給仕係に伝え直した。

 間も無く従業員はみな退室し始めた。間の悪い小柄なシェフが、焼かれたプレートに盛り合わせた肉料理を運んできたが、そそくさとテーブルに置くと、肉を一切れ取って食い(毒見のつもりだろう)、逃げ遅れたかのように退散していった。

 ボスは目の前に置かれたプレートからチキンをフォークで突き刺し、豪快に口に運んだ。

「お前らも遠慮してないで食え」

 チキンを口に含んだまま、ボスはそう言った。マナーは悪いのだろうが好感の持てる食いっぷりだった。

 私はグラスといくつかの皿を少しずつずらし、テーブルに腕を置ける分だけのスペースを確保した。居心地を確かめる素振りをしながら、ナプキンで刃の覆われた切り分け用のナイフをそっとポケットへ忍ばせる。……得物の出所は無作為な方がいい。

「仕事の話を」

 言って、私はパンを一欠け口にした。テーブルの上の料理で馴染みがあるのはパンくらいだった。

「ああ、そうだったなぁ、まったく」言いながらボスは口の内容物をワインで飲み下し、口元を袖で拭った。

 サエが私の近くに椅子を寄せ、恋人同士のように太ももに触れてきた。彼女は、おそらく自身が最も美しく見える角度を心得ているのだろう。サングラス越しではわからなかったアーモンドアイ、白みの強い肌、艶やかな唇。間近では全てが際立って見えた。

 私が眩惑されたように思えたのか、ボスはフッと鼻を鳴らしてから話を続けた。

「これからお前さんにはサンフランシスコに行ってもらう。で、その写真の男、ジェイク・ワトソンを掃除しといてくれ」

 サエがテーブルクロスの下で、写真を手渡してきた。

「エリを同行させるが、まぁ掃除に関しちゃ素人みたいなもんだ、まったく。あくまで案内役、連絡役だ。エリはこいつと面識があってな、所謂スパイってやつさ。その方がお前さんもやりやすいだろ?」

 エリを見遣ったが、相変わらず黒スーツにサングラスで何を考えているのかはわからない。

「ええ、わかりました。大丈夫です」私はそう返事をした。

「サンフランシスコのビーチに居るってことまでは確定だが、それがどこかは後からエリが確認する。それから、そいつを掃除したら周辺にいる金持ちそうなやつを適当に2人か3人消せ。誰でもいい。リゾート中の金持ちに嫉妬した、突発的な外国人の無差別殺傷事件ってていでやるんだ」

 わざわざそんな目立つことをする必要は感じないが、『仕事屋』にとって、雇い主の意向は絶対だ。少しでも反故にすれば信用を失う。信用を失った仕事屋がどうなるかは、言うまでもない。

「あと、それから、ジェイク・ワトソンってのは偽名かもしれねえ。顔で探せ。まったく。出発は明日、期日は一週間、飛行機のチケットと偽のパスポートはエリから受け取れ」

「はい」

 なんてことはない仕事だと思った。知らない場所で知らない人間を、よく知った手段で処理する、それだけの。

 ボスは「仕事の話は終わりだ」と言うとまた食事を再開し、エリは給仕たちに人払いが済んだことを伝えに行った。

 私も食事に手をつけ始めたが、良い食事というのをしたことがないので、味の良し悪しはわからなかった。

 席に戻ったエリをボスは手招きしてすぐ横に座らせ、ワインを傾けながら彼女の身体を撫で始めた。もしかすると、黒スーツにサングラスというのは、彼女たちの身元を隠す以上に、ボスのフェチズムなのかもしれない。

―――

 食事を終えると、ボスはエリを連れて客室へ上がり、両隣の部屋にそれぞれ私とサエが滞在することになった。




 そして翌朝、ボスとエリは死んだ。



5.

 私とサエがホテルマンに鍵を開けさせた時、ドアチェーンはかかっておらず、ボスとエリはベッドの上で全裸だった。ボスは首を刃物で裂かれ、エリはこめかみを銃で撃たれていた。

 発見からすぐに太っちょの警官がやってきたが、私とサエに関係者かを尋ね、身分の証明さえ要求せず、現場を10分ほど見て回り、ホテルマンに何事かを言いつけるとすぐどこかへ行った。この町の標準的な捜査だ。

 凶器のナイフと拳銃は室内から発見され、痴情のもつれで相打ちになった、そう報道されていると教えてくれたのはドレス姿のサエだった。

 国外で起きた日本人の男女の事件とあり、日本語のニュース記事は既に山ほどネットに出回っている。

 ボスがエリに刺されたあと、拳銃で反撃した。という筋書きなのだろうが……

 私の口から小さなため息が漏れた。首を刺された人間が反撃したとして、相手のこめかみを狙ったりはしない。狙うメリットがない。

 それに、エリは逃げようとしたならベッドの上ではないはずだし、攻撃に成功したからと言ってみすみす撃たれてやる必要もない。

 不自然なことが多過ぎるがこれを真実として、報道機関は動いている。……ニュースを読むに、どうやら幾つかの事実は伏せてあるらしい。

 おそらく、ボスの属した組織の思惑や外交上の問題など、事情はあるのだろうけれど、それにしたってあんまりな茶番だ。

 エリは二重スパイだった。そして、それを誅伐したのはサエだろう。でなければ、今も動きやすい黒スーツを着ているはずだ。

 ボス―――あのスケベオヤジは黒スーツの女二人とお楽しみしようとして、サエに二本目の鍵を渡しでもしたんだろう。それを知らずに行動を起こしたエリは部屋に入ってきた黒スーツのサエに撃たれた。

 そうことがうまくいくとも考えづらかったが、あのスケベオヤジの最期としてはその方が似合いの筋書きだと、そう思った。

 やはり私はあの男を好ましく思っていたようだ。人間らしい欲望への素直さが羨ましかったのだ。

 私は一頻りこの一日のことを考え直し、今度は大きくため息をついた。

 サエが私に代わり口を開いた。「雇い主、居なくなっちゃいましたね」

「私、お仕事なくなりました」

 師であったトビも、雇い主のボスも死に、この町にとって異物でしかない私はなんのアテもなくなった。不法に住処にしてる廃倉庫も時間の問題だ。

 そもそも、ボスの組織はなんだったのか、国家の擁する超法規機関か、巨大なマフィアか、それとももっと別の何かか。私は何も知らないし、知る必要もないと思っていた。

 師には、詮索は控えろと教わった。けれど、こうなってみるといざという時の連絡先くらい知っておくべきだったと思った。サエは何か知っているだろうか。

……しかし、もうどうなってもいいかもしれない。

「トビさん、あなたが笑ったところはじめて見ました。ずっと見てても全然笑わないから表情変わらないのかなって」

 そう言われて、私は自分が笑っていることに気がついた。仕事のため、無自覚なうちに張り詰めていた緊張の糸は、いつの間にか緩み、もつれてしまって、もう一度張るには時間がかかりそうだ。

「久しぶりです。誰かと笑って話すのは」

 きっと、師の前でも笑って話したことはないだろう。

そして、「私もサエさんが笑って話すところ、はじめて見ますよ」と告げると、彼女は「ですね」と言ってまた笑ってみせた。

「トビさんは逃げるアテ、あるんですか?」

「いいえ、私の居場所はこの町にだってないです。これまで『仕事』のためだけに生きてきました」

 しばしの沈黙を置いて、サエは化粧ポーチから、何か取り出した。

「じゃあ、サンフランシスコにバカンス、なんてどうですか?」

 彼女は二枚のチケットを見せ、一際輝いた笑顔ではにかんでみせた。

―――なるほど、やはり彼女の美貌は強力な武器のようだ。緊張の糸をゆるめ、思考力すら奪い去る、それはそれは強力な。

……10年前にも同じ蜜月を見舞われた記憶が蘇って、私は、彼女の手を取った。

お久しぶりです。

久しぶりにせっつかれたので書いてみました。

先に、語感が良かっただけの題名を決めて、それを無理矢理お話として組み上げた物です。

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