本誌鳥は同人誌の卵を産むか?
初投稿です。
「おはよう、鯨木」
「あぁ、海野水雲か」
朝、学校についた私は鯨木倍人に普段通り挨拶をした。
彼は今日発売の『週刊ステップ』というマンガ雑誌を食い入るように眺めている。鯨木の大きな身体と相まって、巨岩が教室に安置されているような迫力があった。
「ちょっと、フルネームで呼ばないでっていつも言ってるでしょ。『海の藻屑』みたいで嫌なんだよね、名前の響きが」
「実のところ、名前の由来は?」
「栄養豊富なモズクのように、内面の豊かな子に育ちますように、だって」
髪をくるくる指に絡ませながら、私は答えた。癖っ毛がうまく整わなかったのが、少し気になる。内面はともかく、少なくとも髪の毛はモズクそっくりに育ってしまった。名前の呪いは恐ろしい。
「そちらこそ、なんで倍人って名前なの? 人の二倍くらい健やかに育って欲しいから、とか?」
「いや、コンピュータの単位のバイトから来てる」
「両親がシステム・エンジニアやってるから」と、顎をかきながら鯨木は答えた。小さめのデータ量が由来なのに、こんなに大きく育ったんだ。
鯨木はその巨躯にもかかわらずオタクだ。しかも、超弩級の。
高校入学時、ラクビー部からの勧誘を受けて、逆にラグビー部を2次元の世界に誘い込んで、部活全員をオタクにしてしまったことは今でも語り草となっている。
さらに、鯨木は同人作家でもある。インプットとアウトプットを両方こなす、凄まじいエネルギーの持ち主だ。
そんな彼は、一部のオタクには畏敬の念を込めてこう呼ばれているーー白鯨と。
「……ハァ、海野水雲。素晴らしいな、マンガというのは」
かく言う鯨木は厳ついあだ名のことはつゆ知らず、恍惚とした溜息をついて漫画の世界を堪能していた。
作品の海に深く潜り込んでいく様は、本当に鯨そっくりだ。
「そういや珍しいね、いつもは同人誌を読んでるのに」
そう、鯨木は普段は作品の着想を得ることと娯楽を兼ねて、朝は同人誌を読んでいることが多いのだ。
「頭がよく回る朝のうちにアイデアを収集するに限る」とは、彼の台詞だ。
「あぁ、最近気になっているキャラクターがいてな……ん、これだ」
慣れた様子でページを捲り、そのキャラがいるマンガを見せてくれた。
「……『ミズイボの乱』?」
鯨木が開いたページにマンガのタイトルが書かれていた。酷いタイトルだ。
「そうだ、このマンガの魚目凧というキャラが個人的に大好きでな」
タイトルが酷けりゃキャラ名まで酷い。よく商業誌に掲載されているな、と思った。
「もしかして、このキャラのためにマンガを読んでるの?」
「無論、そうだ。一流マンガ雑誌である『週刊ステップ』の連載、いつか必ず同人誌になる日がやってくる」
鯨木の弁が徐々に熱を帯びていく。硬く握りしめられた拳は、まるで巌のようだ。
「その時に同人誌を最大限に楽しむにはどうすればいいか。それは、そのキャラがどのような人物なのかを深く理解しておくことだ!」
彼は両腕を広げる。白鯨のあだ名に恥じない力強さで、彼は演説をした。国民が全員オタクならば、彼はいとも簡単に独裁国家を築き上げるだろう。そのようなカリスマが滲み出ていた。
もちろん、それが通用しない相手もいるがーー。
「本誌の設定あってこその同人誌、オリジナル在ってこそのサイドストーリーだ!」
渾身の力で拳を掲げて彼は演説を終えた。クラスのどこからか、小さな拍手が聞こえてきた。ついでに、こちらに向く幾らかの白い視線も感じる。
本人が周囲を気にしない分、そばに居る私が一番恥ずかしい。
「……で、鯨木はこのキャラのどこが好きなの?」
呆れて、私は彼に問いを投げかける。
「魚目凧の魅力は、まずはその外見だな。らせんのように巻かれた髪型がチャームポイント、それに三白眼が組み合ってバランスがいい」
給食のメニューを考える栄養士のように、鯨木は魚目凧の容姿を評した。
「それに加えて、性格はツンデレ。これまでのマンガ人生で一番好みなキャラ付けだ」
鯨木はそう語っているうちに、蒸気機関かと思うほどに息が荒くなっていた。キモッ。
というか、鯨井が言ったそのキャラ付けって、私も持ち合わせてるんですけどーー。
飛び出そうになったその言葉をグッと堪えて、ふと思い出したことを私は口にした。
「確か、『ミズイボの乱』って、もともとが同人誌なんだよね」
瞬間、鯨木に電撃走る。
完全に、彼は固まっていた。あまりのショックからか、目を大きく開いている。いや、目というかむしろ、瞳孔が開いている。電流を流された大間のマグロみたいな表情だ。
「えっ、もしかして知らなかったの?」
「な、な……」
本当か?
なんとか絞り出された声に私がうなづいた途端、鯨井はうなだれた。
演説したり落ち込んだり、朝から忙しいヤツだ。
「もともとは同人誌作家だったのか……完全にノーマークだった」
「それって、そんなに落ち込むほど重要?」
「重要! 超重要だ!!」
声を張り上げて鯨木は抗議した。
「本誌から同人誌、というこれまでの秩序が打ち砕かれたのだ! 本誌と同人誌の間の、長い冷戦が終結したのと同義だ!」
どう考えても本誌の方が迷惑してそうな秩序じゃん。
「これまでは本誌という鶏が同人誌という卵を産むものだと思っていたが、そうか、反対のパターンもあるのか……」
そう言って、鯨木はウンウン唸り出した。
「えー、要は『鶏が先か、卵が先か』みたいな話?」
「いや、死ぬために生きていたのが、生きるために死ぬんだと悟ったような話だ……」
同人誌の話から、そんなに話が重くなることってある?
「そもそも、最近はこういうパターンも増えてきているよ。この作品が結構、先駆者的な感じらしいけど」
「なるほど、だから『コロンブスの卵』というのか」
なにがだよ、とツッコみたくなった。
鯨木は少しの間、手負いの猛獣のように呻いていたが、気を取り直したのかこんな質問をしてきた。
「では、彼女、魚目凧は同人誌ではどのような感じだった……?」
彼は愛する人を看取れなかったような後悔を顔に浮かべている。
そんなに愛されてたのかよ、魚目凧。一周回って羨ましいな。回らなくても羨ましい。
「というか、魚目凧って確か同人誌のときは男の娘だよ」
「グッ!?」
自分のキャラに対する理解と違ったのか、鯨木は胸を押さえてうずくまった。解釈違いによる精神的なショックだ。
耳を澄ませると、「大丈夫……まだ、まだ愛せる……」と地を這うような声が聞こえてきた。うわっ、怖い。
「しかも、魚目凧って最後のページで死ぬよ」
「ウグッ!!」
私の追撃にさらに怯む鯨木。
「ど、どういう死に方で……?」
「……テクノブレイク」
そのまま無言で、彼は倒れた。
流石の白鯨も、そこまでディープな世界には潜り込めなかったようだ。
「うっ、同人誌でも、まさか成人向けだったとは……」
数分が経って、鯨木はゾンビの如く起き上がってきた。精神的ダメージからか、目にクマができていた。見るからに顔色が悪い。
「だが、大丈夫だ。まだ、本誌では生きてる。それに、大元の同人誌と本誌ではストーリー展開が異なる場合も多々あるだろう」
「それが、今回で打ち切りらしいよ、『ミズイボの乱』」
ページを数ページ進めて、「マメ先生の次回作にご期待ください!」の文字列を鯨木に突き出した。
その瞬間、目の前から彼が消える。再び地に伏せていた。
『ミズイボの乱』なんてタイトルで、よく続いた方だと思うけどなぁ。
それにしても、キャラ名にしろペンネームにしろ、作者は皮膚病のお化けにでも取り憑かれてるんだろうか。
53秒。今度の復活は早かった
「本誌では死ぬことすら許されなかったか……」
そう言いながら、空気を入れられたみたいに鯨木は起き上がった。
「まぁ、打ち切りなりに話が綺麗にまとまってたし、いいんじゃないの?」
「そうだな……」
首を縦に振りつつも、やはり不服そうだ。
顎に手を置いて、思考を巡らせているようだった。
「……そうだ! 俺が物語の続きを同人誌で書けばいいじゃないか!」
急に閃いたのか、そんなことを突然に鯨木は言い出した。
「本誌の文脈を離れるのは同人誌の醍醐味! あぁ、これから忙しくなるぞ……!」
カバンを弄ってまっさらな原稿用紙を取り出したと思ったら、すぐに彼はネームを書き始めた。
赤い線が白紙の上で踊る。もともとそこに魚目凧が潜んでいたかのように、彼女の姿が原稿用紙に彫り出されていく。こんな彼でも、絵の実力はホンモノなのだ。
まったく、調子がいいんだから。
時計を見て一限まであまり時間がないことに気づき、鯨木に「がんばれー」と手を振りながら、私はトイレに向かった。
用を足しながら、鯨木のことを考えた。
エネルギッシュで、不器用で、何かにひたむきになれる。そんな彼のことを好きになったのは、いつからだろうか。
私なら、テクノブレイクで死ぬことも、打ち切られることもないのに。
私と共通点が多くて、なのに彼に愛されている魚目凧に、自分が少し嫉妬していることに気づいた。
今の私、暗い顔をしてるんだろうなぁ。こんな表情、彼に見せられないや。
淀んだ気分を切り替えるように、私はズボンのチャックを勢いよく閉め上げた。