2019
オレは布団の上に寝転がりながら、台所で料理をしている夢の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
彼女は初めて立つ台所だと言うのに、何でもテキパキと要領よく動いている。彼女はオレのためにおかゆを作ってくれている最中だ。
だが、今でもなかなか信じられない。カレンダーのモデルが、オレの部屋にいるなんて。
さっき、夢がカレンダーの女性と同一人物だと気づいたとき、きっとオレは幽霊でも見たような顔で、彼女のことを見つめていたに違いない。
しかし、夢ははにかむように笑った。
「私はそのカレンダーの持ち主に尽くすのが使命なんです」
「使命?」
「ええ。物に宿る付喪神や精霊みたいなもの、と言えば、分かり易いでしょうか。ですから、私は厳密には人間ではありません」
そんな、「人間ではありません」なんて説明されても、そう簡単に納得できるわけがないだろう。オレには、とびきりの美人にしか見えない。
「敏松さん。もし、ご迷惑でなければ、私に身の回りのお世話をさせてください。私、何でも致します。お願いです」
畳に三つ指をつくような格好で懇願されて、これを冷徹にあしらえる男がこの世にいるのなら、お目にかかりたいものだ。
かくして、彼女はオレの部屋で働き始めた。
「さあ、敏松さん。おかゆ、出来ましたよ」
夢は寝ているオレのところへ土鍋を運んで来た。上半身を起こしたオレは、褞袍を羽織る。その間に、夢は土鍋から茶碗におかゆをよそった。
正直なところ、オレはおかゆが苦手である。
小さい頃、やはり熱を出したときに母親に作ってもらった記憶があるが、何だか味も素っ気もなく、食感は糊を口にしているようで、あまりの不味さに、ろくすっぽ食べなかった。専門店で食べた中国粥ならいいのだが。
夢が作ったおかゆは、見た目、母親が作っていた物と同じだった。まだ、味見もしないうちから、嫌な記憶を呼び起こす。
「さあ、どうぞ」
そうとは知らない夢は、オレにおかゆを勧めた。熱くないように、自分の口許でフーフーして冷ましてくれる。
しばらく、その可憐な唇にばかり気を取られていたが、レンゲが近づけて来るなり、オレはゲッとなりそうになった。
献身的な彼女の行動に対して、今さら、「おかゆはダメなんだ」とは言えなかった。オレは仕方なく目をつむり、口を大きく開けた。
「あ~ん」
夢はオレの口へおかゆを流し込んだ。こんな赤ちゃんみたいに食べさせてもらうなんて、いったい十何年ぶりだろう――なんてことでも考えて、おかゆの食感を誤魔化そうと努める。
ところが──
「もぐもぐ……んっ!?」
美味しかった。オレの母親が作ったような糊の固まりなんかではなく、口の中でサッとほぐれ、薄口ながらも味が広がったのだ。驚きである。しかも一口食べたことで、何だか食欲が湧いて来たような気がした。
「どうですか?」
夢が尋ねる。オレは表情をほころばせながら、大きくうなずいた。
「美味いよ、夢! こんな美味しいおかゆ、生まれて初めてだ!」
「ホントですか? 良かったぁ、敏松さんに気に入ってもらえて! どんどん食べて、早く元気になってくださいね」
そう言って夢は笑顔を作り、二口目のおかゆをレンゲにすくって勧めてきた。
こうして、オレと夢の同居生活は始まった。
夢は家事全般を何でもこなした。彼女のお蔭で、これまで汚かったアパートの部屋はきれいになり、洗濯物も溜まることがなくなった。
それ以上に、オレが感謝したいのは彼女の作る手料理だ。
今まではコンビニから買って来た弁当やインスタント食品ばかりだったが、夢はオレの好みを知っているかのように、色々な料理を作ってくれた。しかも味はもちろんのこと、栄養のバランスもバッチリである。
一人暮らしから二人暮らしになって、多少、生活費がかさむようにはなったが、夢と一緒にいられさえすれば、オレは他に何も望まなかった。
これまでは、新しい洋服が欲しいだの、何処かへ遊びに行きたいだの、お金を使うことばかり考えていたが、彼女と暮らすようになってから、大学とバイトへ行くとき以外はアパートで過ごすようになり、二人の時間を大切にするようになった。
オレは夢に何もしてやれなかったが、それでも彼女は不平不満を言うことなく、献身的に尽くしてくれた。そんな彼女がとても愛おしかった。
若い男女が同じ屋根の下で寝食を共にすれば、次第に互いの距離も近づいてゆくものだ。
オレたちは自然と深い仲になった。何しろ、部屋にある布団はひとつだけ。オレの風邪が治った元旦の翌日から、肌を合わせ、愛し合うようになった。
こうして、一人暮らしでは決して味わうことが出来なかった楽しい毎日をオレは送るようになった。
さすがは特賞の特製カレンダー。こんな幸運がオレに訪れるなんて。オレは信じてもいなかった神様というものに感謝したくなった。
だが――
その生活にいきなり終わりのときが訪れようとは。
とある夜、食事を終えたオレは、夢に膝枕をしてもらいながら一緒にテレビを見ていた。
そのとき、夢がぽつりと言った。
「敏松さん、今夜でお別れです」
「えっ?」
唐突な言葉に、オレは仰向けの格好になって夢の顔を見上げた。
その表情は今にも泣き出しそうだった。そんな彼女を見るのは初めてである。
オレは起き上がって、夢の肩に手をやった。
「どういうことだい、夢?」
「ごめんなさい。本当は昨日のうちにお知らせしなければと思っていたんですけど……なかなか言い出せなくて……」
「そんなことはいい。でも、どうして? 何で、お別れなんだ?」
「今日は一月三十一日です」
夢の言葉に、オレはカレンダーを見た。夢が写ったカレンダーを。
「私は一月の女……この一月が終われば、敏松さんの元から去らねばなりません」
「そ、そんな――!」
オレは愕然とした。夢がオレの前からいなくなってしまうなんて。
「い、イヤだ! 夢っ、行かないでくれっ!」
オレは懇願した。恥も外聞もなく、涙を流して。
夢も泣いていた。しかし、首を横に振る。
「無理です。これが私の持つ宿命なのです」
オレはおもむろに夢の身体を抱きしめた。彼女を失いたくない。たとえ夢が本当の人間ではなく、カレンダーの付喪神や精霊みたいなものだとしても、そんなことは関係なかった。
――オレは心の底から夢を愛している!
「夢ぇっ!」
「敏松さん! お願いです。今夜はいっぱい私を抱いてください。そして、私のことを忘れないで――」
「忘れるもんか! 絶対に忘れないよ、夢!」
オレはそのまま夢を押し倒し、唇を重ねた。途端に夢が熱い吐息を洩らす。
その夜、オレたち二人はかつてないほど激しく愛し合った――
いつの間に眠ってしまったのだろう。
気がつくと、オレは布団の中で寝ていた。
狭い部屋の中を見渡したが、夢の姿はない。いつもなら台所に立ち、朝食の準備をしている頃だ。
「あぁ……」
行ってしまったのだ。夢は。
オレは寒々とした部屋の真ん中で、しばらくぼんやりとしていた。何をする気も起きない虚無感が、オレを放心状態にする。
独りぼっちに戻ってしまった。あの無味乾燥な毎日に。
一度知ってしまった肌のぬくもりを、もう二度と取り返すことは出来ない。
ようやく布団から立ち上がったのは、それからどれくらいしてからか。
今日はバイトへ行く日だ。そろそろアパートを出ないと遅刻してしまう。
オレはのろのろと洗面所へ向かおうとした。
その視界の片隅に、あのカレンダーが見えた。夢がこちらに向かって微笑んでいるカレンダーが。
オレはそのカレンダーの前に立った。
今日から二月だ。一月は昨日で終わってしまった。
ずっと一月だったら良かったのに。そうすれば、いつまでも夢と一緒にいられたのに。
「くっ……!」
オレはカレンダーの一月分を破り取った。その夢の写真の上に、オレの目から一滴の雫がこぼれ落ちる。
「夢……」
それはオレの涙だった。
オレは泣いた。これほど愛する女との別れが辛いものだとは思わなかった。
「ううっ……くっ……」
そのまま、その場に崩れるようにして、オレはむせび泣いた。
ピンポーン!
そんなとき、玄関のチャイムが鳴った。
オレは構わず、泣き続けた。ところが、訪問者はしつこく玄関のチャイムを鳴らし続ける。
――チクショウ! いったい誰だ、こんなときに!
段々、悲しみは腹立たしさに変わっていった。
何十回目かのチャイムが鳴らされたとき、ようやくオレは玄関へ出て行った。
「しつこいなぁ! 誰だよ!?」
オレは相手も確認せず、怒声を浴びせた。
しかし、その訪問者は、オレの失礼な応対に少しも動じず、むしろ、はにかんだ笑顔を見せて、頭を下げた。
「こんにちは」
そこにいたのは、純白のふわふわしたコートとお揃いの帽子、そして真っ赤なマフラーをした、可愛らしい女の子だった。
特に目を惹いたのは、その肌の白さだ。抜けるような白さとは、彼女みたいな肌の色を表現するのだろう。
何だかオレは既視感を覚えた。そう、あれは一か月前と同じ――
すると彼女はこう名乗った。
「有馬敏松さんですよね? 私の名は “雪” です。今日からお世話になります」
それはカレンダーの二月のページに写っている少女だった。