悪魔
主神の影響力が弱まったことによる影響の一つが、悪魔の出現だ。悪魔は主神に背いたすべての存在とも、かつては主神に仕えていた最も忠実なしもべが主神に逆らった姿ともいわれる。主神の影響が強かったころは地獄の最下層に幽閉されていたが影響力が弱まったことにより下級の悪魔たちは地上に出てきた。
悪魔たちは黒い魔力を人や動物に対し浴びせることで「魔物」とすることができ、そうやって眷族を増やして自分たちの勢力を伸ばそうとしているらしい。
そう言う魔物を倒すことも、冒険者の仕事だ。
今日は魔物を倒す依頼を受けようと決める。
魔物は通常の動物に比べ手ごわいけれど依頼報酬も高く、金策にはうってつけだ。悪魔は滅多に人の町に出てくることがなく、奥深い森か険しい山奥に隠れているといわれる。
そのため、悪魔関係で並の冒険者にまわってくる依頼はほとんどが魔物の討伐だ。悪魔の住処が発見された場合には、ベテラン冒険者や国の兵士が総動員されて討伐隊を編成することになる。
僕はギルド一階にある依頼の紙が貼られている掲示板に行き、魔物関係で丁度いい難易度の依頼がないか探すことにした。
「ゴブリン、ですか……」
ギルドの受付、フィーネさんから依頼状を見せられて、僕は返事を濁した。
僕の秘跡はアウトレンジから獲物を仕留めるには向いている。反面数の多い敵に接近されると弱い。
一発撃つのに最速でも五、六秒かかるからだ。
ゴブリンは小型のオーガで、鼻は鉤鼻、口は耳元まで裂けて牙が覗いており耳はエルフのようにとがりつつも醜悪にねじれている。くすんだ緑色の体色で、旅人や村人から奪った粗末な武器や服を身につけている。
身長や力は人間の子供くらいしかない反面数が多くてすばしっこく、辺境の村の家畜や食料を盗んだり、村人を襲ったりするので冒険者ギルドによく依頼が来る。
集団で動くことが多いゴブリンは僕の秘跡と相性が悪い。
「今動ける人員で、ゴブリンを相手にするランクの人が貴方と他数名くらいしかいないんですよ」
フィーネさんがそう言いながら、胸の前で手を合わせて申し訳なさそうに頭を下げる。ゆるく一本の三つ編みにまとめているブラウンの髪が顔の後ろから横に垂れ下がった。
そう言われると弱い。
人の困った顔を見るのは好きじゃないし、フィーネさんには色々と恩もある。
「数と地形を聞いてからでよければ」
考えた末にそう返事すると、フィーネさんの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「これが、今回の依頼の概要になります」
フィーネさんはそう言って、地図と依頼内容が書かれた書類を見せてくれた。
僕はそれを穴が開くほどじっくりと眺め、状況をできる限りシュミレーションする。書類に目を通している僕を、フィーネさんは期待と懇願の混じった瞳で見つめてくる。
しかし、これでは僕一人では難しそうだ。
今回のゴブリンの推定数は数十匹程度、場所はネルトリンゲン郊外の畑近くの森だ。
見晴らしがよい場所へおびき出し、見つかりにくいように畑の陰に伏せたり民家の陰に潜む。そうやってゴブリンからの発見を困難にしておいてアウトレンジから一匹ずつ確実に仕留めれば可能な数だとは思う。
しかし戦闘に絶対などない。仕留めそこなう、想定より数が多い、天候が悪化するなど不確定要素はいくらでもあり、魔物や盗賊との戦闘前には悲観的に準備しておくのが生き延びるコツだ。
僕が断わりの返事を考えていると、フィーネさんは口元に手を当てて笑った。
「言いにくいことを考えている時の顔ですね」
こうやって、僕が言い出しにくい時には返事を先回りして言ってくれるので口下手な僕にはすごく助かる。
「すみません……」
「安心してください、依頼を断ってもランクが落ちるわけではありませんから。私はこれから他の人を当たってみます。ひょっとしたら、手の空いている人がいるかもしれませんから」
フィーネさんはそう言って、嫌な顔一つせずに手もとの資料に再び目を通し始める。
少し心が痛むけど、しょうがない。
僕は英雄でもなければチートな力の持ち主でもない。
自分に適正な難易度の仕事を受けて、それをこなして食べていかないといけない。
ハンナや孤児院のみんなを護らないといけない。
できる限りは力になってあげたいけれど、無謀な依頼を受けるとかえって迷惑をかけてしまう。
僕が考え込んでいると、ギルドの出入り口から人の気配を感じた。
ギルドの出入り口は薄茶色のレンガを白い漆喰でつなぎ合わせた壁にはめ込まれたように存在する木製の扉。そこに手をかける前にその扉は外側から開かれ、同時に見たこともない形の襟の上着とスカートを身にまとった小柄な女の子が入ってきた。
僕が扉に手をかけようとしていたので、僕の胸のあたりに彼女の頭がぶつかりそうになる。かわせない、そう思い咄嗟に受け止めようとするが、
「す、すみません」
彼女は地面を滑るかのような動きで僕を避けた。
しかも体の重心はぶれることなく、人体の弱点が多く集まる正中線は常に僕から隠した状態を保ったままで。
そのまま彼女は受付に向かい、フィーネさんと話し始める。
ギルド内で見たことはないけれど、彼女も冒険者なのだろうか? 依頼人という可能性もあるけれどあの身のこなしからはその可能性は低そうだ。
彼女はフィーネさんと、受付の机越しに何か話していた。会話の内容までは聞き取れないけれど、フィーネさんが両手を打ち合わせて喜色を浮かべている。
話の内容はどうあれど、僕は依頼は断ったのだから、すぐにギルドを出ていけばいい。
なのに、なぜか後ろ髪を引かれる感触がしてこの場を去ることができない。
黒髪の彼女の後姿を見ていると、なにか縁がありそうな気がする、このまま離れてはいけない気がする。そんな思いに駆られて足が出口に向かわないのだ。
後ろ姿しか見えないけれど、ポニーテールにしたカラスの濡れ羽色の様に真っ黒なストレートヘアーと、左腰に差した、シンプルだけど見たこともない形状の剣が印象に残った。
そのつややかな黒髪は、どこかで見た記憶がある。
話しが終わると、彼女はさっきと同じ重心がぶれない整った歩き方で僕の方へまっすぐ歩いてきた。
だが見たこともない襟の上着の間からかすかに見える二つの膨らみだけは、荒れた波浪に浮かぶ小舟の様に揺れていた。
襟が普通のボタンで止めるタイプではなく、上着の左右を斜めに重ね合わせているような形になっているのでぶれて揺れる部位が良く見えてしまう。
まああれだけ大きければ、ボタンで止める上着では布がはち切れてボタンが弾け飛ぶリスクがあるかもしれない。
リスクは何事においても低くするのが生き残るコツだ。
彼女は僕の目の前に立つと、たわわに実った豊かな二つの果実に手を当てて大きく息を吸い込む。
気を落ち着かせようとしているようだけど、呼吸するたびに果実が揺れて僕のほうが落ち着かない。やがて深呼吸を止め、薔薇の花のような色をした唇を開いた。
「あ、あの!」
彼女は弾かれたように顔を上げると、突然大きな声をあげた。
その声の大きさにギルド内の他のメンバーがびっくりしてこちらのほうを向いたほどだ。
「す、すみません」
彼女は腰を折って頭を下げると、今度は普通の大きさの声で言葉を発する。
「私と一緒に、さっきのゴブリンの依頼を受けませんか?」
その鈴が鳴るような声を聞いて彼女が誰かを思い出した。数日前、鹿を狩った後町中で見かけた子だ。
二人なら、ゴブリン退治もなんとかなるだろうか?