黒髪の少女
僕は宿に戻るため、オレンジ色の屋根の家が点在するネルトリンゲンの町中を歩く。まだら模様の原色やオレンジ一色のブタの置物とすれ違いながら、宿へ向かって歩を進める。初夏の陽気と日差しが疲れた体に心地いい。ネルトリンゲンは夏になると日が長く、春秋ならばとっくに日が沈む時間になっても町のオレンジ色の屋根はまだ高い位置にある太陽の光に照らされ、町のシンボルである聖ゲオルク教会の尖塔が家々に影を下ろしていた。
冒険者ギルドを離れ、平民が多く住む区画に入ると家の前の道を数人の子供たちが走り回っているのが見えた。剣術遊びらしく、皆片手か両手に棒きれを持って打ち合ったり、逃げ回ったりしていた。
僕は運動があまり得意なほうではなく、剣を振るっても剣に振り回されてばかりでギルドに入りたての時に先輩冒険者に完膚なきまでたたきのめされた苦い経験がある。秘跡を授かっていなければ冒険者をとっくに廃業していただろう。
子供同士がそうやって運動しているのを見るとその時の記憶が蘇ってきたので、その場を足早に立ち去ろうとする。
ふと、その中の一人の手の甲に赤ワイン色の聖印が刻まれているのが見えた。
僕と同じ秘跡持ちらしいけど、どんな能力なのだろうか。秘跡持ちは滅多に見かけないので、気になってその子たちの剣術遊びを見守ることにした。
剣術遊びに熱が入り、聖印が刻まれた子が一人から大きく手を打たれる。棒きれを持った方の手を打たれたので、痛みのためか棒きれを取り落とした。
しかしその子が両手を大きく掲げて秘跡の名を呟く。
すると、棒きれが地面から触ってもいないのに浮き始めた。まるで棒きれが鳥になったかのように宙に浮かび、支えもないのにその子の前を護るように止まる。
その様は、他の子たちの驚愕を誘……わなかった。
「ていっ」
別の子が、棒きれが宙に浮いている隙をついてその子の頭を打った。
その子は地面にうずくまってしまい、泣き始める。
「やっぱりか……」
あの子が小さな子供だってこともあるんだろうけど、秘跡はそのほとんどが大したことができないか、今ある技術で代用が効く。僕のモーゼルもマスケット銃とそれを使う兵士が十もあれば代わりが効くし、テューテも数人の人員がいれば問題ない。
秘跡を使えるというだけで崇められる時代では、もうないのだ。
中には国家を支えるほどの大秘跡を持つ人もいるらしいが、そういった人は安全のため厳重に管理されているらしくどこにどの程度いるのかもわからない。
地味な秘跡のためか、その子の様子を見る大人もいなかった…… いや、一人いた。
僕と逆の方向に立ったシスターが、秘跡を使う様子を見て目を輝かせていた。この近くに教会があるわけでもないし、もう日が沈むころなので今日の務めは終わっているはずだ。別の教会に使いに行った帰り、というところだろうか。
小走りにその子に近付き、教会に誘っている。
服が土に汚れるのもかまわずシスターは膝を折って目線の高さをその子に合わせ、熱心に教えを解き始めた。
秘跡は主神から与えられたもの、その力を知ることは、云々。
とても熱心で優しさに満ち溢れ、その子のことをよく考えているのは伝わってくる。伝わってくるんだけど……
その少年に伝わっている様子はない。さっきから手をせわしなげに動かしているし他の子たちの方をちらちらと見ている。
やがて近くの家から夕飯の呼び声が聞こえると同時に、その少年はシスターから逃げていった。
シスターもわかっていたのか、追い掛けたりせず、軽く十字を切って笑顔でその子を見送った。
ふと、血と脂の匂いで嗅覚疲労を起こしかけていた僕の鼻孔を甘い香りがくすぐった。
冒険者ギルドの中にも似たような匂いはあったけれど、もっと化粧の甘ったるい匂いが混じった人工的な甘さだった。
こんな純粋で、鼻につかない甘い香りを嗅いだ事はない。
視界の端に、黒い艶やかな髪をした少女の後ろ姿が見えた。
僕が彼女の風下にいることから考えても、彼女の香りと考えていいだろう。後ろ姿しか見えず、服装も町ゆく人に視界を阻まれて頭部しか見えない。
でも、追いかけたい衝動が沸き起こるほどに綺麗な後ろ姿だった。黒髪が風に吹かれて舞うたびに、黒地に太陽の光が反射して煌めいている。
黒髪からわずかにのぞく真白なうなじは、ぞっとするほど魅力的だった。
僕はせめて彼女の後姿だけでももっと見ていたいと思ったけれど、彼女の姿は雑踏にまぎれて間もなく見えなくなってしまう。
最後に聞こえてきた鈴の鳴るような綺麗な声だけを脳裏にとどめて、宿に戻ることにした。