4.初めての二人の稽古
本日二話目の更新です。
「タエさん?」
「あ、ううん。じゃあさっそくやろうか。最初からいくよ」
「うん」
舞台テストまであと四日しかない。
だが言い換えれば『まだ』四日ある。
であれば急がば回れだ。
わたしの演技は恋愛がからむと途端に下手になる、そう水谷は言った。ならばそういったシーンだけを抽出して特訓すべきなのだろうが、ここはあらためてこの劇を、演じるお夏という役そのものを見直したほうがいい。
そのためにはこの四日間において、トシを介して劇中の人物に感情移入してしまったほうが早いと思っている。演じるのではなく役そのものになりきるのだ。今から恋を理解することはおそらく無理で、それはもう昨日の時点で分かっている。そうなると今のわたしがとれる最善の策とは、たぶんこれだ。
運のいいことに、トシはすごくいい奴だ。この嫌いではないという感情をうまく利用して、疑似的にでも劇中の土方歳三に夢中になってしまいたい。
問題点は一つ、こののほほんとしたトシに鬼のような土方歳三を演じることができるかどうかだ。わたしのフィルターはすでにトシを小動物にしか見せない。こんな奴にツンとして凛としたふるまいをとることができるのだろうか。
だが。
わたしが抱えていた漠然とした不安は杞憂に終わった。
トシは第一声からいい声を発した。
「お前はいったい何者だ。その恰好は只者じゃないな。名を名乗れ」
これにはいい意味で驚かされた。
さすがは姪っ子に厳しく指導されてきただけあって、声だけでなく表情もなかなかいい。演技の素人とは到底思えない。
ふてくされて逃亡した水谷なんて切り捨てて、トシに主役を演じてもらえばいい気がしてくる。きっとトシなら文句を述べることなく、わたしが言うとおりに演じてくれるだろう。
だが問題なのは水谷ではなくわたしだと、そう金子に明言されている手前、やはり稽古を続けるしかない。というか、元々演劇は三度の飯よりも好物で、こうして味わいがいのある人物と演じることができるというのは僥倖だった。
すうっと、意識が内へと向いていく。
(わたしはお夏、現実から幕末にタイムトリップしてしまった女子大生……)
スイッチを右から左に倒すように、瞬時に役者モードに切り替える。
(わたしはお夏だ……!)
――今、わたしは見知らぬ男に厳しく追及されている。
未知の世界に来たばかりで恐怖におののいていたわたしはとっさに逃げようとする。
だが逃亡は失敗に終わった。
後ろから手を掴まれてしまったからだ。
「……って。ねえ、ちゃんと掴んでよ」
一分もたたずに中断。
睨むと、トシは泣きそうな顔になって訴えてきた。
「でもこれ難しいって。走る人の手ってどうやったら掴めるの?」
そんなん適当にやれよ、そう言いたくなるのをぐっとこらえる。
さすがに今朝タイムリープしてきたばかりの人間にそれを言うのは酷だ。
「じゃあ交代しよう。わたしが見本をみせるから」
立ち位置を替え、冒頭の台詞から始める。
「お前はいったい何者だ! その恰好は只者じゃないな、名を名乗れっ……!」
腹に力を込めて一喝すると、トシは逃げるどころか、ぽかんとした。
「……タエさんすごい。僕とは全然違う。本物の役者さんだ」
「そう?」
こんなふうに絶賛されたのは随分久しぶりだ。
高校生以来か。
「うん、ほんとすごい。僕、今まで劇って観たことないんだけどタエさんはすごいよ」
「でしょでしょ?」
このトシの台詞を水谷と金子にも聞かせてやりたい。
「あ、ごめん。次はちゃんとやるからもう一回最初からやってもらってもいい?」
「いいよいいよー。全然いいよー」
ご機嫌なわたしは了承し、また同じセリフを繰り返した。
「お前はいったい何者だ! その恰好は只者じゃないな。名を名乗れ!」
戸惑いながらも逃げるお夏こと、トシ。
それを大股で追いかけて、前後に振る腕の動きを見極めて手を伸ばし――。
ぎゅっとトシの手首を掴んだ。
わたしの手では掴みきれないくらいに太い手首だ。
手のひらの中の体温と固い骨の感触が、なぜか心の琴線に触れた。
「わあ、さすがタエさん」
振り向いたトシは心から感心しているようで、わたしは微小なトゲのようなその違和感にすぐに蓋をした。
「あのね、適当に手を伸ばしてもだめなんだよ。人って走るときには必ず右に左にって腕を動かすでしょ?」
実際に腕を前後に振りながら講釈をする。
「前に出した腕は次には必ず後ろに来るんだけど、後ろに腕が伸びた時に一瞬動きが止まる時があるの、こんなふうに。その瞬間を狙いすまして手を伸ばせばいいんだよ」
「なあるほど」
トシは本当に素直だ。
どんな生活を送ってくればその年齢でそこまで純なままでいられるんだろう。
「じゃあ僕、もう一度やってみていい?」
「いいよ。うまくできたらそのまま次の台詞に移ってね」
「はーい」
立ち位置を元に戻して再開する。
「お前はいったい何者だ! その恰好は只者じゃないな。名を名乗れ!」
さっきよりも声が出ている。
トシに怯え、じりっと後ずさりするわたし。
おもむろに背を向け逃げ出す。
だが逃げることはできない。
がっちりと手首を掴まれたからだ。
「あっ」
急な拘束につんのめり体勢を崩したわたしは足をもつれさせて転びそうになる。
その瞬間――。
トシが握る手に力を込め、ぐいっとわたしを引っ張り上げる。
反動で、わたしはトシの胸にすぽんと収まってしまう。
「……逃げるな。逃げれば新選組がお前を斬る」
耳元でささやく低温には吐息が混じっている。
ぞくぞくっと背筋を何かが駆けあがっていった。
(なんだこれ?)
未体験の感覚に体が小さく震えた。
だがまだ演技中だ。
骨の髄まで沁みこませてある台詞は自然と口から出た。
「いや、離してっ!」
渾身の力を振り絞って暴れる。だが体格の差は大きい。
トシの拘束はまったく緩まない。
「おとなしくするんだ。おとなしく屯所についてくれば悪いようにはしない」
「……本当? ついていけば本当に斬らない?」
小さなスペースを使ってなんとか背後に振り向くと、冷徹な光を浮かべていたトシの瞳が柔らかく細められた。
「ああ。武士は嘘をつかない。俺を信じろ」
信じろ、そう言われた瞬間、体中の力が抜け落ちた。
そんなわたしを腕に抱えながら、トシは労わりの色を宿した瞳でこちらを見つめてくる。
演技は続けられている。
切れ長の瞳は持ち主の感情によって両極端に彩ることができるらしい。どこまでも怖い色にも、どこまでも優しい色にも……。
脚本ではこのまま気を失って土方歳三の胸にもたれかかることになっているのだが、そこまで演技を進めることは――できなかった。
「はい、ここまで!」
無理やり声を発し自力で立ち上がった。
ただし頭の中は疑問符が溢れ返っている、
(なんだこれ?)
トシに背中を向けたままの状態で、頬をぱんっと叩いた。
「タエさん、急にどうしたの?」
そう言うトシの声は素である高いものに戻っている。
だから安心して振り返ることができた。
「いやいや、トシの演技が思った以上によくて、ついはまっちゃった」
素直にそう答えると、トシは照れたように頭を掻いた。
「ううん、僕はやっぱりまだまだだよ」
「そんなことないって。すごくよくて、思わずドキドキしちゃったもん」
胸を抑えて大げさなくらいに表現すると、トシがほっとしたように笑った。
「僕、タエさんの役に立てるみたいだね。よかった」
「じゃあ次は屯所の中での場面をやってみようか」
「ああ、お夏が懲罰部屋に閉じ込められているところからだよね」
そこでトシが眉をしかめて「でもさあ」と言った。
「この獅子組って相当やばい組織だよね。みんなで住んでいる場所に捕縛した奴らを拷問する部屋があるって、僕にはちょっと信じられないよ」
「そ、そうかな? あはは」
笑ってごまかしてはいるが、実際、わたしのバイブルにもそう書いてあった。新選組は捕縛者に対して自ら壮絶な拷問をすることがあった、と。
ちなみに獅子組とはわたしが適当に付けてしまった組の名称で、台詞をノートに書き写してもらっている最中に「し、しし」とどもりながら何かいい名前がないか思案していたら、トシが勝手に獅子組だと勘違いしてくれたのだ。
ちなみに自分が演じている役名は、土方歳三ではなく、久方大五郎だと思い込まされている。
いや、さすがに本人を目の前にして、本人の知らない未来を打ち明けるようなことはできない。元々の脚本もそこまで歴史に忠実なストーリーではなく、あくまでタイムリープと悲恋を題材にしているから、名前さえごまかせば、トシが元いた時代に戻っても特段支障はないと信じている。
「じゃ、懲罰部屋でわたしと大五郎が対峙する場面からいくよ」
「はーい」
声は軽いが、次の瞬間、トシは見事に演じるべき役どころに入り込んだ。
目つきがまったく異なる。
今朝ベッドの上でわたしを睨み付けてきたときとそっくりだ。
まさに懲罰を開始する直前の新選組幹部のそれになりきっている。
思わず唾を飲み込んだ。
(これは……油断しているとわたしが食われてしまう)
本気でやらなくては――こちらがやられる。
柔らかな砂の上に直接正座をし、両の手を膝に乗せ目をつむった。
それから深く息を吸い、細く長く吐く。集中するには呼吸を整えることが重要だ。
トシがゆっくりと歩を進め、わたしの前に立った気配がした。
わたしはゆっくりと目を開ける。
開けた瞬間、よよっと泣き崩れた。
「お願い信じて! わたしはこの時代の人間じゃないの。未来からやってきた普通の女子大生なのよ!」
この部分の台詞は似たような展開の物語では鉄板で、実はこれを口にするたびに興が醒めていた。江戸時代の人間に女子大生なんて言ったって伝わるわけがないっつーの、と。
だが今は違う。
正直に語ることでなんとしてでも信じてもらいたいと願う必死さが、言葉の重みを増すかのようだった。
トシは仁王立ちのまま、わたしの言葉に耳も貸さず、腰の剣を持ち鍔に指をかける。
緩やかだが、トシの所作にはわたしに刃を向ける意味を理解したうえでの殺意が感じられる。
じんわりと鍔が上昇し、鞘との間の微小な隙間に金属特有の輝きが生じた。
自然と次の台詞は口から発せられた。
「あなた嘘つきだわ! わたしのこと斬らないって言ったのに! 武士に二言はないだなんて、それもでたらめだったの?」
指摘が正しいがゆえに、トシは眉をぴくりと動かしたものの剣から手を離す。
トシは本当に演技がうまい。
内心感嘆しつつも、わたしはさらに言い募る。
「あなたは自分のことを信じろって言った! だったらあなたもわたしのことを信じなさいよ!」
「俺も……お前を?」
心底意外そうにつぶやいたトシに、わたしは強くうなずいてみせる。
「そうよ。あなたはわたしを信じるべきだわ」
二人は見つめ合う。
見つめ合うことが刃を交えることと同じであるかのように。
そう台本のト書きにあったように、わたしはトシの痛いくらいの視線を全力で受け止めている。
やがてトシが折れた。
「……お前の言うとおりだ」
言うや、わたしの目の前に胡坐をかいて座る。
「俺は久方大五郎だ。お前の名は?」
「……え?」
「信じ合う者同士、名も知らないではおかしいだろう?」
ほほ笑んでみせるトシ。
その笑顔に、わたしの目は抵抗する間もなく吸い寄せられしまった。
(……なんだこれ?)
またも覚えた違和感。
わたしはやはり衝動的に立ち上がっていた。
「よし、ここまで!」
「ふうー」
脱力したトシは小動物に戻った。
それを横目で見ながら、わたしの脳内は自問自答で混乱の中にいる。
(ここはお互いが好意を抱く大事なシーンなのに、なんでやめちゃったんだわたし!)
自分のことながらも訳が分からない。
分からないなら……確かめるしかない。
「ごめん、このシーンもう一回やっていい?」
「何か僕よくないところあった?」
驚き顔を上げたトシに、もう一度「ごめん」と謝る。
「トシが悪いんじゃないんだ。自分の中で納得できないところがあって」
「僕はもちろんいいよ。タエさんの気の済むまでつきあう」
「ありがとう!」
我ながら現金なほど表情が明るくなった。
トシがやや動揺し視線をそらした。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。じゃ、やろうか」
「お願いしまっす!」
それからわたしとトシは同じシーンを何度も繰り返した。
正座するわたしの前に現れる久方大五郎もとい土方歳三。
泣きながら助けてほしいと縋り付くわたし。
表情を変えることなく刀に手をかける土方歳三。
それを見るや「嘘つき」となじり「わたしを信じろ」と詰め寄るわたし。
ついに頑なな心を溶かした土方歳三。
土方歳三がわたしに対して初めて見せる笑み――。
「うああああっ」
わたしの突然の嬌声に、テイク十五にしてトシが分かりやすく体をびくっとさせ後ろに下がった。
「どど、どうしたの?」
「もう叫ばなきゃやってられん!」
がばっと砂浜の上に大の字で寝転がった。