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3.衝動と高揚

 先日来たばかりの老朽化した二階建てのアパートは、潮風に包まれて今にも崩れ落ちそうな、そんなはかなげな雰囲気を発していた。この辺りは街中から離れていて店は皆無、一軒家もぽつぽつと見える程度で、人の住む地というよりは、未開の離島に足を踏み入れたかのような錯覚すらした。大げさではなく。


 天空には今日も無数の星々がこぼれんばかりに煌いている。なのになぜか水谷は思った。これほどまでに美しい夜空を初めて見た、と。まだ酔いが残っているせいかもしれないが、真実そう思った。


 二階のタエの部屋、窓の向こうには灯りはともされておらず暗かった。どこかにでかけているのか、それとももう寝てしまったのか。


 あの照明を落とした部屋の中で、もしもあの男とタエが共に過ごしていたら……。


 だがこのところのタエの様子を思い返せば、その可能性は限りなくゼロに近い。

 きっともうあの男はいない。


 ためらいつつも、味わい慣れていない恐れに足をすくませながら、水谷は階段を上がっていった。背中に今もうっすらと感じる痺れは金子に加減なく叩かれたからだ。かなり痛かった。きっと赤くなっているだろう。だがその痛みが今、こうして水谷を支えている。


 会いたい。

 会いたい。

 あの人に会いたい。


 こんなふうに相手の状況など無視して行動できる自分がいたことに、水谷は内心驚いていた。だが今は酔いの勢いでも、背中の痛みを利用してでもタエに会いたかった。


 それはタエが水谷の運命の相手だからだ。


 運命という言葉は大げさではない。文字通りタエは水谷の運命を変えた。親に将来を定められ、何物にも夢中になれず、誰にも表面的な薄い感情しか持ちえなかった……それがタエに会う前の水谷だった。


 その舞台を観たのは偶然だった。たまたま演劇コンクールの県大会がその市で開催されていて、たまたま水谷はその前日に同会場で開かれた知人のピアノコンサートに訪れていた。深く椅子に座っていたせいか、ズボンの後ろポケットに入れていたスマートフォンを席の隙間に滑り落としてしまったようで、翌日、連れには先に帰ってもらって、水谷はその会場へと一人足を運んだのだった。


 ピアノコンサートは可もなく不可もなくだった。心を打たれたことがない当時の水谷にとって、それはいつものことだった。技巧的なことしか頭に残っていなかった。だから目的の物を事務室で無事手に入れ帰ろうとしたとき、昨日のステージへと続く重厚な扉が開いていて――中の様子をつい見てしまったのは偶然とも奇跡ともいえる。


 もうそこにはピアノはなかった。

 十数人の高校生が派手な衣装を着て集っていただけだった。

 そういえば会場前に演劇コンクールと書いた看板が出ていたな、と思考をめぐらせたその時。


「ねえ、この音を聴いて!」


 朗らかな表情で中央の女生徒が客席へ、前へ進み出た。

 それと共にはじけるようにテクノ系の音楽が鳴りだした。


「そんなふうに一人でいたって楽しいことなんてないでしょ? ほら、ここには音があるんだよ」


 そう言うや彼女がくるりとターンをした。

 近未来的なピンクとシルバーの短いスカートから伸びる足が、スポットライトを反射して白く光り輝いた。


「一緒に踊ろ?」


 ふらりと、なぜか水谷の体は動いていた。

 舞台上、彼女は白熱の演技を続けている。


「もう怖いことなんてないよ。寂しいことだってない。言葉だってなくたっていいの」


 扉を抜け、最後方の客席に座った水谷の視線は、舞台でひときわ目立つ彼女を食い入るように見つめていた。何者かに操られているかのように。


「君は火星人でわたしたちは地球人。生まれも育ちも全然違うし言葉だって通じない。けどさ、ダンスでならきっと心が伝わるはずだよ?」


 言うや踊り始めた少女に合わせて、同じような衣装を身に着けた少年少女がそろって同じステップを踏み出した。それを薄汚れた黒のマントを身に着けた唯一の少年が舞台の端からじっと見つめている。その少年の方を見て彼女がにこっと笑った。そして同じ表情のまま客席の方へと視線を戻した。


 その視線がまっすぐに水谷の視線とかち合った。


 舞台の明るさに反して闇しかない客席の、しかも最後方に座る自分と目が合うはずなんてない。水谷の頭は理性でもってそう判断した。だが彼女――当時高校三年生のタエは笑みを深めてみせた。はっきりと。


 タエは水谷から視線を逸らすことなく器用に踊り続けた。


「あなたも楽しいことが好きに決まってる、そうでしょ?」


 まるで自分に言われているかのようだった。


 楽しいことが好きに決まっている。

 楽しいことが……好きに決まっている?


(俺は……?)

(俺には何も楽しいと思えるものがないのに……?)


 水谷の全身が急に冷たくなった。

 空調が効きすぎているわけでもないのに、だ。


 舞台上では今もダンスは続けられている。高校の演劇部員が踊るレベルのそこそこの踊り、つまりは取り立ててうまくもない踊りだ。だがそれが水谷の心の奥深く、意識することで初めて姿をあらわした空洞へと入り込んでいった。音楽はしつこく鳴り続き、うなるような低音が水谷を責め、つんざくような高音が水谷の思考を攪拌かくはんした。


 そして……気づけば水谷は彼女に声を掛けられていた。


「ずっと真剣に観てたよね。どこの高校の人?」


 はっとして背筋を正し目線を左右に動かすと、もうステージ上には誰もいなかった。いつの間にか音楽も止んでいた。


「あれ?」


 彼女が何かに気づいた。


「もしかして寝てた?」


 軽くにらまれ、水谷は慌てて「違う」と訂正した。こんなふうに何かに慌てるなんて久しぶりだと思いながら。スマートフォンをなくしてもなんとも思わなかった自分を、連れは「高校生のくせにお前変な奴だよな」と散々なじったのだが。


 近くで見ると彼女の背の高さと顔の小ささ、それに容姿の美しさがはっきりと分かった。だが美しいだけではない何物かに水谷の心が引っかかりを覚えた。そうやって心がためらうという経験も初めてのものだった。


 彼女がふいににやりと笑った。


「あんたさ、明日も必ずここに来なよ」

「え?」


 顔に似合わない言葉遣いや表情もさることながら、その発言は予想外で、水谷はこれまた珍しく驚きを隠せなかった。それを見ていよいよ彼女がにやついた。


「明日の十四時、エントリーナンバー五がうちのH高だからさ。明日はあんたのことを寝かせたりなんかしない。すごくいい舞台にして、絶対に夢中にさせてみせる。それでもし心の底から面白いって思えたらさ、スタンディングオベーションしてくれる?」

「いやでも」


 水谷はここにはコンサートのために来ていただけで、一泊したホテルはすでに引き払い、今日はもう家に戻るだけだった。それに明日は別の用事もある。……もちろんこれもコンサート同様に親がおぜん立てした用事だが。楽しくもなんともない、ただこなすだけの用事だが。


 開きかけた水谷の口に彼女の人差し指が触れた。


「はいはい、黙って言うこと聞きなさい」


 唇に生じたぴりっとした感触に驚き顔を上げると、真っ向から彼女の視線とぶつかった。


「ぜーったいに楽しいからさ。約束する。わたし、あんたが拍手したくなるような演技してみせるから」


 座る自分を見下ろす彼女の瞳がきらきらと輝いていて――。


(そうか、あの日の先輩の瞳のようだから美しいと思うのか)


 階段を上る足を止め、空を見上げ、星々のまぶしさに水谷は目を細めた。


 だが、だからこそ気づかざるを得なかった。

 自分がこれまでにないほど高揚しているということに。

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