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4.恋を理解できない

 その宣告直後からわたしは謹慎生活を送る羽目になった。

 金子曰く、猶予は五日。

 五日後に部の全員の前で公開テストを行い、そこで水谷が認めるようなお夏を演じることができなければ、わたしは主役級から格下げとなるそうだ。


「ふざけんなよ……」


 ぎりぎりと奥歯を鳴らしながらもその足で図書館に向かったわたしは相当素直だと思う。だけどわたしにとって演劇とは命なのだ。演劇命、そう胸元にでかでかと書いているTシャツだって、ださいけどわたしの信念、今ここで生きる意味そのものなのだから。


「今に見てろよ……。恋なんてちょちょいのちょいだからな……」


 やはりまずは恋を知ること、それしかない。恋なんてどこにでも転がっているありふれたものなのだし、保育園児だってできるのだ。ならば役者の名に懸けてこのわたしに理解できないわけがない。


 そう鼻息荒く、クーラーの効いた涼しい図書館の中でわたしはかたっぱしから恋愛小説に手を付けていった。和本、洋本。児童書にライトノベル、果ては教科書でお見かけして以来の純文学まで。驚異の集中力でもって読破していくこと、数十冊。だが夕方にして三桁に手が届くかどうかといったところでようやく気がついた。


 あ、これはだめだな、と。


 いくら読んでも理解できないのだ。


 眠れるお姫様に王子様が恋をする? なんで?

 自分にいじわるばかりする同級生が好き? なんで?

 言葉も通じないのに恋心が芽生える? なんで?


 なんでなんでと、理由が気になって仕方がないのだ。


 するとストーリーに没入できなくなる。それもそうだ。ストーリーの前提条件が理解できないのだから仕方がない。


 こんな自分でも面白いと思えるラブストーリーはないものかと、夜はレンタル漫画を適当に借りてみたりもしたのだが、『なんでこんなつんつんした奴好きになれるんだ』とか『なんで揃いも揃って美形なんだよ』とか、いちいち突っ込みたくなって困った。こうなるともう主人公に自己投影できない。外野から自分勝手にけしかけるどこぞのおばさんにもなれない。


 不特定多数の手垢がついたコミックが急に不快に思えた。


 それらを隅に追いやり、チューペットをくわえチューチュー吸いつつ、わたしはしばらく次にすべきことを考えた。


 と、一つの仮説に行き着いた。


 これまで読み解こうと努力してきたのはあくまで仮想世界における恋だ。

 ということは、わたしが恋を理解できずにいるのは、もしかしたらそれが原因なのかもしれない。

 となるとドラマや映画を観ても効果は期待できないだろう。


 ……ならば生身の人間を通して恋について考察すべきなのか?


 さっそく身近にいる男の顔をあれこれ思い浮かべていく。


 と、いうか。

 一番に思い描いた男は同級生であり照明担当の菊池だった。


 彼はいい。

 うん、いい。


 何がいいって、仕事に真摯に取り組むところ。必要なときに的確なタイミングできっちりライトをあててくれるところなんてすごく好ましい。それにあの腹筋。いやあ、昨日ちらっと見えた腹は眼福だった。引き締まってて堅そうで。一度でいいから触ってみたい。初夏を過ぎたころから菊池は毎日半袖のTシャツを着ていて、むき出しの二の腕の硬く盛り上がった感じもすごくたまらないのだ。


『お前痴女か』


 金子の言葉が思い出され、無意識で頭を振っていた。


 あらためて菊池について考えてみると、ふと気づいたことがある。


 わたしは菊池と大した会話をしたことがない。稽古後、部のみんなと食事や飲み会なんかに行けば普通に接するが、あくまで大勢の中の一人でしかなく、より親密になる機会がこれまでなかったのだ。だから菊池が何が好きで何が嫌いか、そういったこともよく分かっていない。というか、実は顔があまり好みではない。もしあの猿顔が急に迫ってきたら――全力で殴る。


「あと残るは……いないな。うん、いない」


 結論は早かった。


 丸一日無我夢中で行動してきた反動か、悟った瞬間、心にぽっかりと穴が空いた気分になった。わずかな時間、わたしは天井を見上げて茫然とした。現実にもわたしの眼鏡にかなう男は皆無だったのか、と。口にくわえていた空のチューペットの容器がぽろりと畳に落ちた。


 だが瞬時に姿勢を正した。


「……いや、これはまずいんじゃないか。壮絶にまずいぞこれは」


 空想でもだめで、現実でもだめだった。

 それはつまり、わたしの理解できる恋はどこにも存在しないということだ。


 ということは、つまり。


「……このままじゃわたし、二度とヒロインを演じることができないじゃん!」


 声に出すと、もはやそれが確定された未来のように思えてきた。


 まず直近に控えている舞台で、懇切丁寧に演じてきたお夏の役を後輩の鈴村さんに奪われるのがゆるせない。そしてわたしは山南敬助の恋人の妓女と沖田総司が恋する医者の娘と、あと近藤勇のお妾さんと原田左之助の奥さんと永倉新八の娘をやらなくてはいけなくなる。


 こうなったらもう、重要な女たちを一度に演じることができてラッキーくらいに思ってやってみるのもありかも……。そう無理やり思考を操ろうとしてみたが、どうポジティブにとらえようとしてもやはり自分自身を納得させることはできなかった。


 やっぱりわたしが演じたいのはお夏で、ヒロインなのだ。

 どうしてもお夏を演じたい。

 お夏を演じて、舞台の中央でたくさんのスポットライトを浴びたい。


 それに一度ヒロインの座を奪われたが最後、金子が明言したとおり、この先ずっと端役しか与えられなくなる可能性が高い。金子はそういうことを平気でする男だ。


 最悪を想定すると、悪寒で体がぶるっと震えた。


 ――もうこうなったら残る手段はあれしかない。



 *



「ねえ、ほんとうにいいの?」

「うん、いい。やっちゃって」


 心配そうに顔を覗きこむのはわたしの貴重な女友達であるユイだ。わたしの男っぽい、もとい豪快な性格にユイがついてこれるのは、小学生の頃からの幼馴染だからこそだ。真夜中に突然呼び出したというのにこうして来てくれて、ユイには感謝しかない。


 真剣な面持ちでうなずいたわたしに、言い出したら聞かないことをよく知るユイは小さくため息をついた。


「それじゃ……やるよ?」

「どんとこいっ!」


 そう叫んだわたしはベッドに横になっている。脇に座るユイが顔の前に掲げたのは……赤い紐でぶらさがる五円玉だ。


 ユイが紐をつまんで五円玉を振り子のごとくゆらゆらとさせた。わたしの顔の上で、照明ににぶく光る五円玉が同じ間隔で右に左にと動いていく。


「あなたはだんだん眠くなーるー」


 軌道に合わせて、目だけで五円玉の動きに追従する。


「あなたはだんだん眠くなーるー」


 ユイの柔らかな声音が少しずつほどけていく。


「あなたは土方歳三を好きになーるー」


 五円玉が次第にぼやけて見え始めた。


「あなたは土方歳三を好きになーるー」


 黄金色の貨幣が照明の色に溶けて見えなくなってくる。


「あなたは……あれ? タエちゃんもう寝ちゃったの?」


 ものの一分もたたずにこてっと眠りに落ちたわたしを、ユイが呆れたように見やった。


「ほんと、タエちゃんって素直というか単純というか……。これ初めてやった時もおんなじだったよね……」


 同情の目つきでユイが眺めているとも露知らず、わたしは心地いい眠りの中、これで確実に土方歳三を好きになれるぞ、と終始にやにやしていた。


「ねえタエちゃん。この催眠、どうせ明日になったら効果なくなっているんだよ? 意味あるの?」


 当然ユイの指摘もわたしの耳には届かなかった。




 *




「……あなた、歳三さんのことが好きなんですか?」


 顔の見えない誰かがそう言うのが聴こえる。


「うん、もちろん! すんごく大好き!」


 ばっちり催眠にかかっているわたしは力強く肯定した。


「どのくらい好きかって、もうたとえようもないくらい好き! 好き好き!」

「どこが……どこが好きなんですか」

「そりゃあやっぱり鬼みたいなところだよ。決まってるじゃん!」

「鬼?」

「あの冷酷非道な性格だよ。かっこいいじゃん!」

「……そう」


 声の主は少しためらっているかのようだった。声の調子からわたしよりも年下だと思われるその女の子は、「ちょうどいいかもしれない」とつぶやくと、やがて意を決したかのように言った。


「お願いします。歳三さんが京都に行ってしまわないように協力してくれませんか」

「え? いいよいいよー。全然いいよー」


 催眠中は徹夜明けのようにハイになる。元々ポジティブなわたしが高揚すると、ユイいわく、手が付けられない酔っ払いのようで面倒なんだそうだ。


「本当ですか?」

「もちろん!」

「では……そちらで歳三さんのことをしばらく匿ってもらえませんか」

「そのくらい全然オッケー。いいよいいよー。いつでもいいよー」


 手をひらひらと降ると、辺り一面霧がかかっているかのようなぼやけた空間に、少女の姿がゆっくりと浮かび上がってきた。


「あなたなら大丈夫そう……。よかった、いい人が見つかって……」


 着物を着て、髪を高く結い上げて――。

 まるで今取りかかっている舞台の登場人物のようないでたちの女の子の登場に、さすがにわたしの頭も覚醒してきた。


「……あなた誰?」


 なんとかそう尋ねると、女の子の小さな唇が動いた。


「わたしもあなたと同じ……」

「同じ? 同じって?」

「あなたと同じ……歳三さんのことが……」


 言い終わる前に、女の子の姿は薄れていった。


「歳三さんのこと……お頼み申します……」


 そしてそのまま、すうっと白く煙る景色の中に溶けて消えてしまった。


「待って!」


 伸ばした手が掴めるものはなく、むなしく空を切っただけだった。

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