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6.嵐が丘・後半、そして……

 そう決意して後半に臨んだ男であったが、その誓いを反古にしたくなる場面に幾度も見舞われた。


 前半の舞台でも薄々感じていた。

 だがもはや確信に近い。

 水谷は今もタエに惚れている。


 二人が同じ劇団に所属していることからも察するべきだった。そんな偶然あるわけがないのだ。タエを追いかけて水谷が入団したと考えるのが自然だ。


 男の隣に座る女が、ほうとため息をついた。

 見渡せば客の誰もが同じように舞台に見入っていた。


 純粋で一途なエドガーと、天真爛漫で小悪魔なキャサリンとのすれ違いは、見ているこちらが切なくなるほどだった。報われる見込みのないエドガーに客の多くが感情移入している。前世の記憶のある男だけが焦燥感にかられていった。


 そこにヒースクリフが戻ってくる。

 放浪の末に。巨額の富を得て、嵐が丘に。

 リントンの屋敷を訪ねてきたヒースクリフに、新妻のキャサリンは歓喜して飛びつき頬ずりをする。


「ヒースクリフ、あんたはわたしだわ」


 手を取り見つめあう二人。


「わたしはあんたであんたはわたしなの」

「そうだ。俺はお前でお前は俺だ」


 荒々しい抱擁を繰り返し、激しい言葉を掛け合い――。

 最後に二人はキスをする。

 照明が落とされ、ほぼ同時にスポットライトが口づけをする二人だけを照らす。


 数人の客がすすり泣く声がした。

 ようやく再会できた二人に、さっきまでエドガーに同情していたはずの観客は、誰もがものの見事に寝返った。やはり二人こそが運命の恋人なのだ、と。

 ただ一人、男だけはやるせない面持ちで舞台上の二人を見つめていた。


 それからの観客は二人の男と一人の女に振り回され続けた。

 ヒースクリフの激しい愛の表現に興奮し。

 エドガーの苦痛に満ちた様子に胸を締め付けられ。

 そんな二人の間でただただ素直にふるまうキャサリンには、あきれ、怒り、うらやましいと思い、だが同情もし。


 やがて。

 とうとう温厚なエドガーが感情を表に出す。

 キャサリンをきつく抱きしめ、うめくように恋心を訴える。


「僕はね、君さえいればいいんだよ。君さえいればいいんだキャサリン……」

「どうして……?」


 たまらず問い返したキャサリンの表情に、男は演技上のものだけではない不安を感じ取った。

 まるであの夏の四日間が再現されるかのようだった。




 男はあの日、あの夜、公園で言い争う水谷とタエのことを見ている。


 タエを探して、男は見知らぬ土地を半日近く駆けずり回った。必死の形相で走り回る自分を誰もが奇異なものを見るように距離を置いた。今から思うとそれも当然だ。全身黒づくめで長髪のポニーテール、しかも刀を手に持って。警察官を呼ばれなかったことが不思議なくらいだ。


 そして太陽が沈み、空の色が青から橙に、そして群青から黒に染まる頃。

 タエの叫ぶ声が遠くから聞こえた。


『あんたにわたしの何が分かるんだ! あんたみたいな遊びで演劇やってる奴にわたしの何が分かるっていうんだ!』


 続けて男の大声が響いた。


『じゃあ先輩に俺の何が分かるって言うんですか!』


 声のする方へ向かう間も二人は言い争っていた。


『うるさいうるさいっ! うるさいっ……!』

『いい加減にしてください! そうやっていっつも自分自分って、そんなんだから駄目なんですよ!』

『駄目じゃない、駄目なんかじゃない! 水谷のくせに否定するな! わたしたちを否定するな!』

『先輩!』


 水谷という名の意味を思い出し、またタエの振り絞るような声音と男の訴える様子に、男は自分の胸がどうしようもなく騒いだことも覚えている。


 角を曲がり工場に隠れたところに公園が見えると、そこにタエと男がいた。

 男――水谷はタエの両肩を掴み、睨み上げるタエに苦しげな表情を見せていた。

 そう、まさに今、舞台上でキャサリンを見つめるエドガーのように……。


「どうしてあなたはそんなふうにおっしゃるの?」

「君を愛しているからだよ……。君こそが僕の唯一だからだよ……」


 あの夜の水谷はこう言っていた。


『先輩……。人は人と関わらなくちゃ生きていけないんですよ。なんで分かってくれないんですか……』


 そんなことを伝えたいと願う相手がただの知り合いのわけがない。


『演劇っていうのは一人ですることじゃないんですよ。演じる側と観客と、少なくとも二人いないと成り立たないんですよ……』

『そんなこと……分かってる』

『だったら! だったらどうして!』


 その瞬間、あの日の男は動いていた。

 気づけば声を上げ刀の柄に手をかけていた。


 過去の追憶に思いをはせていた男にとって、だからこそ、舞台上で見せたエドガーの動きは突然だった。


 エドガーはキャサリンに一気に顔を近づけた。

 だが驚きに目を見開いたキャサリンと視線を合わせるや、びくりと体を震わせ、動きを止め……そのまま二人はしばらく見つめ合った。


 やがてエドガーは遠くから見てもひどく苦しげな表情になり、そっとその額をキャサリンの肩に載せた。キャサリンは戸惑うように立ち尽くしているだけだ。


 舞台上の男女を通して役者同士の恋の火花を見透かすことができたのは、ただ一人の観客だけだった。



 *



「もうやめてっ……!」


 頭を抱え、髪をかきむしり、キャサリンは体を丸めてうずくまる。

 それを男は客席で耐えるように見つめている。


「やめてやめてやめて! もう嫌だわ! もう嫌! ヒースクリフもエドガーももう嫌! なんで男はわたしを独占しようとするの? わたしは自由でいたいのよ! 自由でいたいだけなの! なぜそれを分かってくださらないのっ?」


 真っ暗な舞台上、そこで演じる三人の役者それぞれにスポットライトがあたっている。中央にキャサリン、その左右にヒースクリフとエドガーだ。


 舞台はクライマックスを迎えている。

 ヒースクリフがキャサリンの右手をとり熱く見つめる。


「それは俺がお前を愛しているからだ」


 エドガーがキャサリンの左手をとりその甲にそっと口づける。


「僕が君のことを愛しているからだ」


 二人にほぼ同じ台詞を言われたことで、キャサリンは絶望の叫び声をあげる。

 その叫び声を――男は真実の声ではないと知っている。


(タエさんはやっぱり変わっていない。僕だけを愛してくれている……!)


 舞台上のキャサリンに幾度もタエ自身を見た。だが演じるタエの姿を見れば、これ以上自分の醜い嫉妬で水谷との仲を疑う必要はなかった。


 タエが自分以外のために演じているのは、あの四日間のことを覚えているからだ。

 あの四日間の二人の想いを形にするためにタエは演じている――。

 それはもはや確信だった。


 幕が下りるや、やがて割れるような拍手が起こり、観客が立ち上がった。

 男もならうように立ち上がると、素直な気持ちで大きな拍手を贈った。



 **



 アンコールの後、男は急いで舞台裏に回りスタッフの一人を捕まえた。


「タエさんに、あの、キャサリンを演じた本庄タエさんに会いたいんです」


 周囲には他にも数人、役者に会いたいと詰め掛けている客がおり、男の要望は突飛でもなかった。男を奥のほうに案内しながらスタッフが言った。


「もしかしたらまだ着替え中かもしれないので、そしたらちょっと待ってもらいますからね」

「はい」


 うなずきながらも男の気はせいていた。

 一歩一歩、歩みを進めるたびに心臓の鼓動が加速度的に速くなっていく。

 この二年と少し、短いようでいて長い探索の時がとうとう終わろうとしていた。

 たどり着いた一室の前でスタッフがドアをノックした。


「タエさんにお客様ですよー」

「はあ?」


 向こうから聞こえてきた声はずいぶん間の抜けた声だった。

 きっとこうして訪ねてくる人間がいるとは思っていなかったのだ。そういう素直な声だった。


 素直で可愛い、僕だけの女性。

 その人が今、ドアの向こうにいる。


「あ、お客さん! 困ります勝手に……!」


 スタッフの制止もきかず、男は無意識でドアを開けていた。


 部屋には突然の侵入者に驚く女がいた。


 最後に見たときと同じ肩の上までのボブカットは汗でぺちゃんこにつぶれている。見開かれた目は太い黒の線で囲っているせいで余計に大きく見える。その目の上はアイスブルーに、頬は熟れた桃よりも濃いピンクに、そして唇は深紅と呼ぶにふさわしい赤で彩られている。しかも身に着けているのは重厚なドレスだ。


 でもこの人こそが捜し求めていた人だった。


「……やっと会えた」


 男は心からの笑みを浮かべていた。


 魂と共に生きるようになって、ようやく笑えた瞬間だった。

おまけ1、終了です。

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