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5.嵐が丘・前半

 **



 ぱっと照明がともされ、舞台の全容が現れる。


 中世の洋風の館内、その時代らしい服に身を包んだ若い男がソファに気だるげに座っている。いかにも傲慢そうな男だ。その横には身なりの汚い老いた男がいて、やや曲がった腰で若い男に問いかける。


「ヒースクリフの旦那、なぜあんたはこの嵐が丘に戻ってきなすった? あんたはロンドンで贅沢きままに暮らせばいいでないですか。それだけ儲けてご立派になって、なぜまたこんな田舎に戻ってきなすった?」


 すると若い男――ヒースクリフは客席の方、まるで窓の向こうの嵐が丘を見やるような目つきになる。


「俺が財を成したのはこの屋敷を買い取るためだ。この屋敷は俺とキャサリンのものだからな」

「ヒースクリフの旦那。キャサリン嬢ちゃんはもう死んじまいましただ。それにキャサリン嬢ちゃんの墓はリントンの土地にありますだ」


 それにヒースクリフが薄く笑う。


「キャサリンはここにいるよ。この屋敷に、嵐が丘に住んでいる」


 舞台の右手から召使いらしき太った女がひっそりと現れる。


「おお、ネリーか」

「ああ! ヒースクリフの坊ちゃん!」

「俺を坊ちゃんと呼ぶのはネリー、お前くらいだよ。なあネリー、ここに座ってくれ。そして俺と思い出話をしようじゃないか」


 ネリーは少しためらうようにエプロンの裾を両手でもんでいるが、やがてヒースクリフの強い目力に根負けしてソファの隅に腰掛ける。

 ヒースクリフが満足そうにうなずくのを、ネリーが上目遣いで見上げる。


「どこから話しましょうか」

「そうだな。では俺とキャサリンが出会った日からにしよう」

「最初からでございますか!」

「そうだ。さいわい俺にもお前にも時間はたっぷりある」


 ネリーが一つため息をつく。


「……あれはずいぶん前でございますわね。キャサリンお嬢さんは八歳、あなた様は十歳でございました」

「そうだ。あれは俺にとって最も幸福な一日だった」

「でもキャサリンお嬢さん、それとリントンのお坊ちゃんにとっては最悪の一日だったってわけですわね」


 皮肉げに言うネリーにかまうことなく、ヒースクリフはより一層遠い目をし客席のほうを眺める。

 そこで舞台が緩やかに暗くなっていく。

 完全に暗くなり、数秒もすると同じ速度で明るさを取り戻していく。

 いつの間にか舞台上にいた三人は消えている。

 代わりに現れたのは二人、若い男と女だ。


 男はいいところの家の人間らしいきっちりとした服を着込み、髪をきれいになでつけている。女はふわふわとしたドレスを身に着け金の巻き毛を赤いリボンで飾っている。どちらも必要以上に幼い身づくろいをしており、子供時代を演じていることは明らかだ。


 女が腕に抱くぬいぐるみにうずめていた顔をぱっとあげる。


「ねえお兄様。早くお父様は帰ってこないかしら。お土産が楽しみだわ」



 *



 顔を見て、声を聴いて。

 その瞬間、雷に打たれたかのような強い衝撃に男は息を失った。

 だがその目は舞台の上から離せない。


 子供らしくなるようにわざと作った高い声も、素顔がわからないほどに厚い化粧をほどこした顔も。

 全然知らない女にしか見えないのに、男にはそれが探し求めていた唯一の女だと分かった。


「お父様、この汚い子供は何? お土産は?」


 舞台上では劇は続けられている。


「まあいいわ。わたしはキャサリン。あなたの名前は?」


 数十メートルと離れていない舞台上、探し求めてきた人が演じている。


「ヒースクリフっていうのね。これからわたしたち仲良くしましょうね」


 手の届かない場所で別の男に向かってにっこりと笑っている。


 男は瞬きするのも忘れて舞台を観続けた。

 その目に涙があふれ、やがてこぼれても、男は拭うこともなく舞台上のヒロインを凝視し続けた。



 *



 場面は変わり、リントンの屋敷にて。


「おまえは誰だ! 僕の屋敷に勝手に入ってきたおまえは誰だ!」


 ぶるぶると震えるキャサリンは、それでも居丈高に叫ぶ若い男――同い年くらいのエドガーをきっと見上げる。


「わたしはキャサリン。キャサリン・アーンショーよ」


 それを聞くや、エドガーの隣にいた若い女――エドガーの妹が兄の腕を掴む。


「お兄様! この人、あの嵐が丘のアーンショーのお嬢様よ!」

「なんだって? 本当か?」


 それにキャサリンがこくりとうなずく。

 うなずき、極度の緊張のせいでふっと気を失う。

 床に崩れ落ちたキャサリンの元にエドガーが駆け寄る。


「キャサリン! 大丈夫かキャサリン!」


 すぐそばで隠れていたヒースクリフがたまらず立ち上がる。


「キャサリン!」

「まあなんて汚い子!」


 エドガーの妹の叫びに召使いが舞台袖からわらわらと現れる。


「そんな汚い子、早く外につまみ出してちょうだい」


 複数人の男に掴まれ連れ去られる直前、ヒースクリフが無理やり振り返る。その視線の先にはキャサリンがいる。そばにはキャサリンの顔を心配そうにのぞき込むエドガーがいる。だがそのエドガーの表情が一転して変わる。二、三度瞬きし、やがて壊れ物でも扱うかのようにそっとキャサリンの頬に触れる。


 エドガーはやはりあの水谷だった。



 *



 キャサリンはリントンの屋敷を頻繁に訪れるようになる。

 それをリントンの兄妹は嬉しそうに出迎える。

 特にエドガーは会うたびにキャサリンを見つめる視線に熱を込めていく。

 そしてキャサリンがリントンの屋敷から戻るたびにヒースクリフは皮肉を言う。


「俺がいなくてそんなに楽しかったか」

「楽しいわよ」


 不機嫌を隠そうとしもない幼馴染にキャサリンは臆面もなく笑ってみせる。


「あっちではおいしいお菓子がいっぱいでるし、それにすごくちやほやしてくれるもの」

「俺と一緒にいるよりも楽しいか」

「なに言ってるの。あなたと一緒にいるときよりも楽しいことなんてないわ」

「だったらなぜ!」

「だから言ったでしょ。おいしいお菓子にちやほやしてくれる人。ここにはないものを求めて何が悪いの」


 純真な瞳に見つめられ、ヒースクリフはぐっと言葉を詰まらせる。

 そんなヒースクリフをしばらくキャサリンは見つめていたが、やがてくるりと背を向ける。


「ねえヒースクリフ」

「なんだ」

「わたし、あなたのことが好きよ。世界で一番好き」

「俺もだ。俺もお前のことが!」

「でもわたしは召使いのあなたとは結婚できないのよ。だからわたしは結婚できる相手がほしいの。お金持ちでかっこよくて優しい人がね」

「……それがリントンの坊ちゃんだというわけか」

「そうよ?」


 悪びれもなくキャサリンは振り向く。


「大丈夫。エドガーはわたしを愛しているわ。愛しているわたしのことを悲しませるようなことなんてしない。だからエドガーはわたしからあなたのことを遠ざけたりなんかしない。きっとよ」


 しばらく黙っていたヒースクリフだったが、やがてはっと笑う。


「分かった。キャサリンが俺だけを愛しているのであればそれでいい」



 *



「ぼ、僕と結婚してくれ、キャサリン」


 緊張のあまり言葉を噛んでしまい、羞恥で頬をほてらせたエドガーに、キャサリンは当然のごとく「いいわよ」と答える。その様はまるで女王のごとく威厳がある。


「ありがとう、ありがとうキャサリン!」


 興奮のあまりエドガーはキャサリンを抱きしめる。


「僕は君を幸せにするよ!」

「それはもちろんだわ。だってそのためにあなたと結婚するんですから」


 エドガーの腕の中、客席に見せるキャサリンの表情はやはり当然といった顔をしている。

 エドガーとキャサリンの婚約を知ったその夜、ヒースクリフは嵐が丘から姿を消す。



 **



 前半が終了し、幕が下りると客席に照明が灯された。


 少しずつざわめきが生じ、大半の客が席を立ち離れていく中、男は今まさに目の前で繰り広げられた奇跡の一つ一つをつぶさに思い起こしていった。


 勝気そうな表情。

 楽しそうな表情。

 少女時代のキャサリンはどれも可愛らしいが、男の覚えているタエとは異なっていた。それでも表情から素振りまで、どれもタエの一部を垣間見るかのようだった。


 多くの客が会場からいなくなったところで男はそっと舞台へと近づいた。幕は下りたままで向こう側は意外なほどしんと静まり返っている。きっと後半も屋敷のセットを使いまわすのだろう。


 この幕のすぐ向こうにタエがいる。

 そう思うと、舞台に飛び乗り幕をめくり上げたい衝動が起こった。

 だが男は耐えた。


「……タエさんは立派な役者さんになったんだね」


 男のつぶやきを聞く者は誰もいない。


「僕はタエさんの舞台を観るよ。タエさんの演じているところをすべて観る。僕はまだ待てる。僕は舞台を観るよ」

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