2.二人は同期した
夏がくるとやけに胸が騒ぐ。
それは毎年のことだった。
梅雨が終わる間際になると、青年は決まったように体調を崩した。高校三年生になってもそれは変わらず、そのたびに当然のことのように青年は熱を出した。
『早く元気になってね。○○がいないと学校つまらないよ☆』
スマートフォンのメッセージは、見れば同じクラス、六月の文化祭をきっかけに告白されて付き合い出した同級生から届いたものだった。青年は最低限の礼儀として『ありがとう』とだけ返事をすると、サイレントモードにした薄い銀色の筐体を枕元に放り投げた。そして深いため息をついた。
(こいつが俺に告白をしたのは、俺が一番手頃な男だったからだ)
(それに俺が了承したのも同じ、こいつが手頃な女だったからだ)
高校入学を皮切りに周囲の女が青年に色目を使ってくるようになった。色目なんて言葉は高校生には不釣り合いかもしれない。だが事実、その視線を受ける当人がそう感じるのだからあながち間違ってはいないだろう。この同級生も同じ穴のムジナだ。
青年という彼氏がいたほうがいいから告白した。
青年という彼氏がいたほうが楽しいから元気になってほしい。
同級生の分かりやすい心情は好ましい。
だが読み解けば心地いいものではない。
(もっと前に、受け取るだけで嬉しくなるような出来事があった気がするのに……)
微熱の頭で青年が思うことはいつも決まっていた。
(もっと些細なことでたまらなく嬉しくなることがあったはずなのに……)
だがどう記憶を探っても思い出せないのもまた常だった。家族や友人との思い出にはない、甘くて切ない味だけが舌の奥のほうに記憶されている。そんな感じだった。
組んだ両手を枕にしてベッドに寝ころび、青年はぼんやりと天井を眺めていた。
*
『これがこの世界に生きる俺なのか』
浮遊する魂は、望んだ時代に現れるやベッドに横たわる青年を見下ろしている。
『今までの俺とは……僕とは全然違う』
目覚めたばかりの魂が望む唯一の願い、唯一の心残りに対して、青年の風貌は絶望を告知するようなものだった。
『これじゃあ、たとえあの人と巡り合えたとしても僕だと分かってもらえないよ……』
背は高いがそれだけの男のようだ。体の線は細く、顔も雰囲気もひどく幼い。子供といっていい。微熱に頬を赤くし、やや早い呼吸にわずかに口を開き……それがまた青年の幼さを強調するかのようだった。
魂はためらった。
だがためらう理由は他にもある。
この世界で肉のある身を得るためには青年に触れさえすればいい。だが自分が青年の肉体に触れれば、青年の中に潜む前世の記憶の封印は解かれる。それらのことを魂は摂理として理解していた。
だから先程から容易に触れることができないでいる。触れなくては魂は己の望みをかなえることはできない。だが触れれば、本来思い出す必要のない記憶を青年に背負わせてしまう。
しかしそれは魂にとっても同じことだった。魂もまた青年が保有するこれまでの生の記憶を共有することとなる。この貧弱な若者の抱える未知の情報には、甘さや喜びだけではなく苦みや痛みもあるはずで、魂が克服できるものかは定かではない。それを無条件で受け入れるということは闇の中を明かりも導きもなしに駆けるようなものだ。
触れた瞬間、どちらかが、または両者が狂い死ぬ可能性だってある。
魂の輪郭が風もないその場で小さく揺れた。
その時。
悲哀の光景が――魂が先ほどこの現世で得たばかりの光景が再現された。
『トシ……トシ……』
うずくまり胸に手を当ててすすり泣き出した女は――。
『もう二度と離れないで。絶対に離れないで……』
魂のゆらぎが止まった。
ふいに横になっていた青年が突如体を起こした。
その目がまっすぐに何もない場所を凝視する。
だが何もないその場所に、青年は一人の女の姿を見ていた。
うつむいた顔はボブカットの髪に隠れてよく見えない。聞いたことのない声、見覚えのない体格、おそらく、いやきっと知らない女だ。
なのに――。
一目見た瞬間、青年の心が震えた。
『ずっと寂しかった……』
「……あなたは?」
『会いたくて触れたくて……たまらなかったんだよ……』
「あなたはだれ?」
『トシいっ……!』
ぎゅっと体を縮めた女の背中が嗚咽で震えだした。
青年はベッドから降りるとうす淡く光る女の元へとにじり寄った。
魂もまた女に寄り添うために近寄った。
『トシに会いたい、会いたいよっ……』
「あなたはだれ? 俺はあなたを知ってる。あなたがまとうその空気を俺は知ってる」
『寂しいよおっ……。一人は寂しいよお……』
「俺はここにいる! 俺はここにいるから!」
『トシい……』
「トシって俺のことだろっ?」
青年は自分でも何を言っているのか分かっていない。
分かってはいないがトシという名が自分のことなのだという確信があった。
魂は青年と自分が共鳴し始めていることを感じた。
『トシに会いたいよお……』
「俺も会いたいっ!」
『トシに触りたいよお……』
「俺も……俺もあなたに触れたい……」
手を伸ばしてもすり抜けてしまう女を相手に、伝わるはずもないのに青年は語り続けた。胸の内に沸き上がった激情は想いを言葉に出すことで強固なものとなっていった。
『トシに抱きしめてもらいたい』
「俺もあなたを抱きしめたい」
『キスしてほしいよ』
「俺もあなたにキスしたい」
『ああ……トシ……』
膝に伏せていた顔をあげた女は、斜め上を見上げて泣き笑いの表情になった。
『なんで大切なものっていくつもあるんだろうね……。たった一つだったらよかったのにね……。そしたらこんなに苦しまなくてもすんだのにね……』
確かに女は笑みを浮かべていた。
なのにその様子はあまりにも切なげだった。
その瞬間――。
青年は望んだ。
この人を救いたいと。
魂は望んだ。
この人を救いたいと。
二つは同じことを望み、それゆえ完全に同期し――。
魂は青年と一体となった。
そうして一人の男となった。