エピローグ3 二人の男、二つの愛
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「キャサリンは今も昔も俺のことしか愛しておらんよ」
ヒースクリフの憐れむような表情は、普段温厚なエドガーを挑発するかのようだ。
結婚して半年、新婚のむつまじい時期に、わが物顔で妊婦の妻にたびたび会いに来るこの男――。
この日の会話がエドガーの忍耐を崩壊させ、これが激動の後半へと続く序章となる。
「キャサリンは……僕の妻だ」
エドガーの苦しげな表情はヒースクリフを愉快にさせただけだった。
「おや? 夫婦であれば愛が保障されるなどと、それはどのご高名な書物に書かれていることかな?」
「君のほうこそ少しは教養を身に着けるべきだろう」
「……もしもキャサリンの腹の子が俺の子だと言ったらどうする?」
貴族が座るにふさわしい豪奢な椅子に座りながらも、この場を支配せんとする野蛮な男を前にして、エドガーの両手は怒りで震えんばかりになっている。それはこの夫婦にとって冗談では済まされない発言だからだ。
エドガーとキャサリン、二人の間にはいつもヒースクリフの存在があった。それでもキャサリンが夫に選んだ男は自分だという自負があり、それこそがヒースクリフに対抗しうるエドガーの唯一の武器だった。
「そのような不貞はありえない。だがもしも事実だとしても……」
稽古の時の倍以上の時間をかけ、水谷の口から続く台詞が発せられた。
「それでもキャサリンは僕の妻だ」
*
ベッドに寝そべりやや膨らんだお腹をなでながら、キャサリンはあらぬ方を見ているエドガーに声を掛ける。
「あなた最近おかしいわ。どうしたの?」
エドガーは笑みを浮かべるやゆっくりと妻に近づく。
ベッドに腰掛けキャサリンの頬をそっとなでる。
その目は愛おしいものを見るようだが、キャサリンを怯えさせる何かがある。
「……なに?」
「夫が妻に触れるのがおかしいかい」
「そんなことないですわ。でも……」
「でも?」
「なんだかあなたらしくないみたい」
「……僕らしいってなにかな」
キャサリンは夫の苦悩の根本には気づいていない。
見たくもないものを見ようとはしないずる賢い女だ。
「きっと疲れていらっしゃるのね。もう寝ましょう」
言うや背を向けたキャサリンを、エドガーは眠ることなく見つめ続ける。
演じるわたし自身は、眠るどころか、背筋に一欠片の氷を落とされたかのように身を固くしていた。
*
妻の不倫の密会の現場、ヒースクリフと抱擁するキャサリンの姿に、エドガーは怒りをあらわにして男の方へと掴みかかる。
「これは僕の妻だっ……!」
「リントンさん。あなたはまだお分かりになっていないようだ」
生粋の貴族らしいエドガーの手は、ヒースクリフの太い腕にあっさりとふり払われる。
ヒースクリフがちらりとキャサリンを見て、キャサリンがそれに笑みで答える。
二人は二人の間にしか成しえない親密な視線を交わす。
「たとえあなたが何をしようとキャサリンは俺の女なのだよ。君には夫という役を得ているだけで満足してもらわねば困るな」
「そうよ」
キャサリンまでもがヒースクリフの側に着く。
「あなたはわたしの夫であるというだけでよろしいんじゃなくて?」
その一言はエドガーの心を壊した。
*
「君が出ていくというのであれば僕は君を殺すっ……!」
顔面を蒼白にし、エドガーは気でも狂ったかのようにキャサリンに宣告する。
それをキャサリンは一笑に付そうとして……できなかった。
「あなた、何を言っているかお分かり?」
「ああ」
「このお腹にはあなたの子がいるんですのよ?」
「分かっている。だが君が僕を愛さないというのであれば……」
ぐっと息をのみ、エドガーが血走った目でキャサリンを見据える。
「子供なんかいらない。僕は愛する君さえいればいいんだ。君さえいれば……それでいいんだ」
言葉を失ったキャサリンをエドガーがきつく抱きしめる。
いつもならばぞんざいに扱える夫に、キャサリンはこの時初めて畏怖を覚える。
「僕はね、君さえいればいいんだよ。君さえいればいいんだ、キャサリン……」
「どうして……?」
たまらずキャサリンは問い返す。
「どうしてあなたはそんなふうにおっしゃるの?」
体を離しキャサリンを見下ろすエドガーの目が見開かれる。
なぜそんなことも分からないのか、と言わんばかりに。
「君を愛しているからだよ……。君こそが僕の唯一だからだよ……」
愛の台詞はエドガーとキャサリンを介してまっすぐにわたしの胸に突き刺さった。
その隙を突くようにエドガーの顔が一気に近づいてきた。
キスされる、と思った。
だが動けなかった。
演出外の水谷の行動はあまりにもこの状況にふさわしかったからだ。
見つめ合った瞬間、エドガーの……水谷の動きが止まった。
水谷はひどく苦しげな表情になると、まるでその顔を隠すようにわたしの肩に載せた。わたしの両腕を掴む水谷の手はしばらく小刻みに震えていたから、わたしもまたキャサリンにふさわしく呆然と立ち尽くした。
*
「もうわたし分からない……誰を愛しているのか分からないわ」
真っ暗な舞台の中央で、スポットライトに照らされるキャサリンは物憂げにうつむいている。
そこにすっと、右手からヒースクリフが現れる。
「キャサリン、お前は俺のことだけを愛していていればいいんだ。昔も今も、そしてこれからもな」
続けて左手からエドガーが現れる。
「分からないなんてことはないはずだ。君は僕の妻だ。僕の愛を受け入れてさえいればいいんだ」
どちらにも答えることができず、キャサリンは視線をさまよわせる。
男たちはそれぞれの想いを言い募っていく。
「あの坊ちゃんは顔と金だけの男だろう? お前の心が求めるているのは俺だ」
「キャサリン、なぜ分かってくれないんだ。僕は君のことを愛しているんだ。君をもっとも純に愛する男は僕だ。お腹の子だって僕と君の愛の形なんだよ」
ヒースクリフが一歩前に進み出る。
「いいや、リントンさん。種は君のものかもしれないが、キャサリンは俺のものだからその子も俺のものだよ」
エドガーも前に出る。
「キャサリンは物ではない! 人間だ!」
はっと、ヒースクリフが鼻で嘲るように笑う。
「御大層なことをおっしゃる。さすがは貴族様ですな。ではキャサリンが人間なのだとしたら、だからこそキャサリンは君の妻という立場だけでは満足できんというわけではないのかね」
「なんだと……?」
「キャサリンは素直と言えば聞こえがいいが強欲なのだよ。だからすべてを手に入れるために君と結婚した、それだけのことだよ。もちろん、愛を乞うのは俺にだけだがね」
「この世でもっとも尊いものは愛だ! そして僕のこの何物にも代え難い愛こそが最上のものだ!」
言い合う二人はこのところずっとで、とうとうキャサリンがたまらないといった様子で叫ぶ。
「もうやめてっ……!」
頭を抱え、髪をかきむしり、キャサリンは体を丸めてうずくまる。
「やめてやめてやめて! もう嫌だわ! もう嫌! ヒースクリフもエドガーももう嫌! なんで男はわたしを独占しようとするの? わたしは自由でいたいのよ! 自由でいたいだけなの! なぜそれを分かってくださらないのっ?」
三人の間に重い沈黙が生じる。
だがそれは束の間のことだ。
ヒースクリフがキャサリンの右手をとり熱く見つめる。
「それは俺がお前を愛しているからだ」
エドガーがキャサリンの左手をとりその甲にそっと口づける。
「僕が君のことを愛しているからだ」
二人にほぼ同じ台詞を言われたことで、キャサリンは絶望の叫び声をあげる。
愛を告白されたというのに、まるで地獄の底に浸かってしまったかのように――。
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