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3.俺にはむりだ

 夏の日が暮れるのは遅い。

 そして稽古は日が暮れるまで続けられた。


 金子は結局一度もわたしの演技にOKを出さず、わたしにつきあい何度も同じ場面を演じさせられた水谷も終いには辟易していた。


「でもしょうがないじゃんよ……」


 みんなと別れて大学を出て、自転車でしゃーっと舗道を走っていく。速度さえあれば夜風はけっこう涼しい。車道を逸れて住宅街に入り込めば、排気ガスから放たれる熱気もなくなり息苦しさは薄れる。むき出しの首筋を向かい風がすり抜けていき、海に近づくにつれ潮の香りが濃くなっていった。するとわたしの気分も比例して浮上していった。嫌なことはいつまでも心にためない、それがわたしの信条だ。


 アパートに着き自転車を停める。向こうのほうからかすかに潮騒の音が聞こえるのはここから海が近いからだ。前輪の上の籠に入れておいた本屋の紙袋を手に取り、さび付いた階段を上がり二階の自室へと入った。


 灯りをつけ、部屋の中央にあるちゃぶ台の上に紙袋を放り投げる。


 帰ったらまずすること、それは決まっている。腹ごしらえだ。台所で手を洗い、レンジで冷凍ご飯を温める。ラップを剥いで熱々のご飯を茶碗に盛り、納豆のパックとキムチと共にお盆に載せて部屋へと戻る。


 座り、まずは納豆をたれと混ぜてご飯の上にかけた。次にキムチを大量にその上に載せる。大豆の粒の茶色とキムチの赤は、真夏の稽古の後でもわたしの食欲を刺激してくれる。だからこの時期は毎晩これを食べることにしている。なんといっても役者は体が資本だからだ。しかも安い。


「いっただっきまーす」


 誰にともなく言い、一気に半分ほどをかっ食らう。食べるのも飲むのも勢いをつけて一気に、というのがわたしの流儀だ。外見に似合わず親父くさいね、とよく言われるが、飲食くらい自分の好きなようにやりたい。こうしないと食べた気がしないのだ。


「さて、と。それじゃあ読んでみるとしますか」


 空腹が落ち着いたところで冷蔵庫から缶ビールを取ってきて、いつものように半分を一気に飲み、それから紙袋に手を伸ばした。


 今日、帰りがけに二冊の文庫本を購入したのだ。


 一冊は泣けると話題沸騰の小説だ。なんでも、死に至る病を抱えた女の子が偶然公園で見かけたバスケ少年に恋をしてしまい、辛い片思いの末少年がどこぞへいなくなってしまうんだそうだ。少年の行き先は別として、このストーリー展開が今演じている作品に似ているような気がして買ってみた。ほら、恋しても報われないところなんてそっくりではないか。それに有名だということはきっと読みやすいはずで、何かしら参考になるかと開いてみたところ……ものの十ページで飽きてしまった。


「……なんなのこれ」


 ぱらぱらと最後までめくってみると、至るところに主人公の女の子が泣く場面がみられた。そして当然クライマックスも大号泣だ。


 誰かが泣いているととたんに冷めてしまうというか、一歩引いてしまいたくなる性分がある。だからこの小説はわたしには根本的に合わなかった。


「ま、いいか。泣くシーンの参考くらいにはなるだろう」


 基本的に前向きな性格でもあるから、そう結論づけて本をぱたんと閉じた。


「で、次はっと」


 こちらはさっきの本よりも薄い。だが普段であればけっして手に取らない、いや取りたくないと思わせる重厚な装丁のものだ。


 タイトルは『新選組』。

 そのものずばりだ。


 帯には『誠の旗の下に集った志士たちの生き様を知れ』とある。キャッチフレーズの暑苦しさはうちの部長、金子に近しいものを感じる。


「じゃあまずは土方歳三について読んでみるか」


 よっこらせ、とあぐらをかいて読み進めるうち、意外にもこれがわたしの嗜好によく合った。


「なになに、豪農の三男坊のくせに武士になろうとしたって? そんなんありなの?」


 出だしから食いついてしまった。


「……ええっ! ちょっと規律に背いたからって仲間に切腹させちゃうの? 厳しすぎない? だから鬼の副長なのかあ。でも鬼っていうよりは閻魔大王だなこりゃ」


「捕まえた人を拷問するっていうのもありえないわー。もとは農民のくせにやることえげつないぞこいつ。いったいどこでそんなん覚えたんだ?」


「享年三十四、函館で戦死? え? この頃ってもう明治なんだ。しかも洋装とか銃とかあるんだ。なに? 蝦夷共和国? 北海道にそんなのがあったの?」


 約二百年前、長い歴史からしたらついさっきのことのような時代に、こういう世界があってこういう人がいたということを、恥ずかしながら今さら知った。


 土方歳三に関する部分だけをざっと読み、残りのビールを飲み干し、わたしは充足感を得て畳の上に気持ちよく寝転がった。


「剣と銃、着物と洋装かあ……。なんだか面白いかも」


 実はわたしは土方歳三どころか新選組についてまったくもって詳しくなかった。そういう人たちがいたというのは知識として知ってはいたけれど、それだけだったのだ。今度演じる舞台でも江戸時代の幕末、京都での出来事しか取り扱わないから、本を読んで初めてこの時代が激動の中にあったことを知ったのだった。新選組とはただの血気盛んな青少年の集団ではないらしい。


 そして土方歳三とは、その時代の移り変わりの真っただ中に常にいた非常に稀有な人物だった。


「いいなあ……。わたしも土方さん相手なら恋できるかも。なんか面白いし」


 自分で発した独り言に、「いや、それはないな。すごすぎてついていけないもん」と否定して、わたしはもう一杯の納豆キムチご飯を腹に収めた。


 

 *



「だからそんなんじゃだめですって!」


 すがりついた胸元、わたしの手を土方歳三がぱしっと払った。


 ――いや、払ったのは水谷だ。


 昨日購入した本を参考に悲し気に眉を寄せていたが、その瞬間、わたしの眉間には怒りによる皺が寄せ集められた。


「水谷、あんた一体どういうつもり」

「どうもこうもないですよ。それはこっちの台詞です」

「はあ?」


 腰に手をあてて睨み付けると、水谷のほうも腕を組んで見下ろしてきた。背が高いとこういう態度をとるだけで威圧感がすごい。わたしも164センチと背が高い方だけど、水谷は生意気にも180センチ後半はある。だけど威勢で負けるようでは先輩業は務まらない。より一層強く睨むと、水谷はぐっと息を飲み込み、ためらいがちに口を開いた。


「俺……もう先輩とは一緒にこの劇はできません」

「わたしに原因を押し付けるな。そんなのあんたの演技力でどうにかしろ」

「でもそんな……そんなぎらぎらした目じゃ、俺に恋しているなんて思えるわけがないでしょう? 俺には……俺には無理だっ!」


 叫ぶや、水谷はかつらをばんっと床に叩きつけ部室から飛び出していった。


 あわてて衣装担当の一人がかつらを拾い、「あわわわ」とかなんとか言いながら埃を払い出した。こつこつとみんなで部費をやりくりして買い集めてきた貴重なかつら、それをぞんざいに扱うとは一時の激高とはいえ許されることではない。


 衣装担当者以外の部員は一同しんと静まりかえっている。水谷はもともと寡黙というか自己主張をあまりしない男で、そんな水谷がこんな大それた発言をして逃亡したというのは誰にとっても予想外だったのだ。


 しかも水谷はこの劇の主役の一人でもある。


 痛い沈黙を打ち破ったのは金子だった。


「……しょうがないな」

「だよねえ、まったく。これだから二年坊は」


 金子に合わせてやれやれといったポーズをとってみせると、当の金子も水谷のようにわたしをじろりと睨んできた。


「……な、なに」


 たじろぐわたしの肩に、ぽん、と金子が手を置いた。


「俺、水谷に同情するわ」

「はあ?」

「お前さ、しばらく来なくていい」

「何馬鹿なこと言ってんの。お夏がいなくちゃ話が始まらないでしょ」

「いい。お夏はしばらく鈴村にやってもらう」


 我が演劇部でわたし以外では唯一の女役者の名前を出され、一瞬血の気が引いたが、すぐに元の虚勢を取り戻した。 


「でも鈴村さんには、山南敬助の恋人の妓女と沖田総司が恋する医者の娘と、それにほら、近藤勇のお妾さんと原田左之助の奥さんと永倉新八の娘っていう大事な役があるじゃない」

「お前がお夏を演じることができないなら、それ全部お前がやるんだ」

「……はあ? 何言ってんの? 正気?」


 反論しながらもすでに分かっていた。

 金子の表情が――いつもと違う。

 普段にやけてばかりいるいかつい顔は真剣だ。


「相手役にあそこまで言わせるお前は役者失格だ。お夏の気持ちが分からないかぎり、俺はお前をお夏には戻さない。……いいや、金輪際お前をヒロインには抜擢しない」


「……えええっ?」


 素っ頓狂なわたしの叫びは、夏休みまっしぐらの人気のない大学構内に響き渡った。

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