エピローグ2 俺の心に火を
それから二年。
わたしはとうとう所属する劇団でヒロインに抜擢された。
作品名は『新訳・嵐が丘』。舞台はイギリス、ヒロインのお嬢様・キャサリンは幼馴染の粗野なヒースクリフを愛しつつもお坊ちゃまのエドガーと結婚し……と、あらすじだけを読んでも相当に波乱万丈な作品だ。原作である『嵐が丘』は文量の多い重厚な小説で、後半ではお互いが別のパートナーとの間に作った子供同士を結婚させてしまったりもする。
だが今度の舞台では前半のいわゆるベタな三角関係に特化し、かつ大胆にアレンジしている。ヒースクリフとエドガー、二人の男から与えられる重すぎる愛にキャサリンが追いつめられ、ついには発狂し叫ぶところでクライマックスになっている。
キャサリンは自分に近しいところがある。生粋のお嬢様だからか、彼女は無邪気で素直で、欲しい物を欲しいと言える女性だ。だからいついかなる時でも幼馴染のことは大切だと公言できるし、生活を満たすためには金持ちの男と結婚できる。
だがわたしとキャサリンは似ているようで違う。
わたしは伝えたいことのすべてを伝えたい人に言えなかった。
そして一生伝えることはできない。
でももしも伝えていたら、わたしはおそらくキャサリンのようになってしまっていただろう。二兎追うものは一兎も得ない。だからわたしはわたし自身とトシのために一兎を選んだ。それだけだ。
それでも――悔恨のような鬱憤を込めて、わたしは長い金髪を振り乱しながらキャサリンを演じた。そうやって役の深層へと踏み込んでいった。
*
初日はいつも緊張する。
だが今日はいつも以上に気合が入っている。
いや、気合ではないか。気迫に満ちている、が正解だろう。なんといってもここに所属して初めてのヒロインなのだから。
定員百五十の客席は観客で埋め尽くされている。立ち見する人も壁際にちらほらと見えている。彼ら彼女らの注目の的となりスポットライトを浴びていると、わたしの中にある獰猛な部分が矢継ぎ早に姿を現していった。心地いい興奮の中、わたしはキャサリンの少女時代、結婚するまでを無事演じきった。天井から降りてくるカーテンが全身を覆い隠すまで、わたしの体はずっと真夏の太陽のように燃えていた。
幕間、嵐のような慌ただしさで衣装を替えた。後半のわたしは人妻となる。そのくせ二人の男に翻弄されて最終的には錯乱するに至るわけだから、現代人には受け入れがたい部分も多々あるだろう。
だがこの嵐が丘の混沌とした愛の世界にはなぜか人を惹きつける魅力がある。それをどれだけ説得力をもって観客に伝えられるかは後半にかかっているといっても過言ではない。そう思うと背筋がぞわぞわとする。ヒロインを演じるがゆえのプレッシャーは胃が痛くなるほどだが、それと比例するほどの大きな期待で胸が膨らむ。
準備を終え舞台の袖に入り、ペットボトルの水を喉を鳴らして飲んでいると、遅れてやってきた水谷が何やら言いたげな表情になった。
水谷は今回はお坊ちゃまのエドガーに扮していて、普段から染めている金に近い茶髪に西洋の服を着ているだけだ。なのに品のある雰囲気を醸し出すことに成功しているのは本人の性格の所以か。舞台の後半はわたしと水谷、新婚の二人が腕を組んで登場するシーンから始まる。疑似とはいえ、こいつと夫婦の役を演じるのは正直こそばゆい。現実世界では絶対にありえない。
その水谷にじっと見つめられ、居心地の悪さは極まった。
「なに? 言いたいことあるならさっさと言いなよ」
ペットボトルから口を離し、ぷはあっと息を継いで手の甲で口元を乱雑に拭うと、水谷が眉をひそめた。
「そんなふうに飲むから。口紅とれちゃってますよ」
「塗り直そうと思ってたからちょうどいいんだっつーの」
思いついたばかりの理由を事実にせんと、傍にあった化粧ポーチを開ける。だが目的の物を探索する指はいつまでたっても目的の物にたどり着けなかった。
「……あれ? あの赤いやつがないぞ。あれれ?」
「これですか?」
なぜか足元にしゃがんだかと思ったら、立ち上がった水谷の手には見慣れた口紅の筐体が握られていた。
「落ちてましたよ。もっと大切にしないと」
「別にいいでしょ」
奪い取り鏡も見ずにつけようとしたところで、水谷の手によって遮られた。
「その赤を鏡なしで塗るのは無謀すぎます」
「でも鏡ないんだからしょうがないじゃん」
ポーチに鏡を入れておかない間抜けさについては水谷は言及することはなかった。ただ、「やってあげます」と言うや、さっと口紅を奪われてしまった。そしてわたしの承諾なしにくるりと真紅のスティックをくり出すと、水谷はわたしの顎に手を添え、指先だけでくっと上に向かせた。かつらの金の巻き毛がわたしの耳元で跳ねた。
幕間で役が抜けきっていないせいか、水谷の常ならぬ強引な行動がやけに愉快に思えた。キャサリンは小悪魔的な性格をしている手におえない女で、実際エドガーにこんなことをされたらこの状況を心から楽しむに違いない。
「ふふ。水谷のくせにできるの?」
「……ほんと、俺のことなんだと思ってるんですか」
困ったような顔をしながらも水谷は無言でわたしの唇に口紅の先で触れてきた。じん……と触れた部分から繊細な感覚が走る。そのまま右に左にと口紅が滑るように動いていく。至近距離で真剣な表情を浮かべる様は、繊細な作業に心から集中している所以だ。
他人に唇を蹂躙されていると思うと、くすぐったさと背徳感で不思議な気分になった。
下唇、それから上唇を塗ってもらったところで、ようやく口を開くことができた。
「水谷はさ、演劇ばかだよね。でもってしつこい」
「前に比べたら随分進歩してますね」
皮肉気に言われたのは大学時代、わたしが水谷のことを『無表情。無感情。何考えているか分からない奴』と評したからだ。
「へえ。意外と根に持つ奴なんだ」
「意外とって……」
普段の生活ではありえないほどに近い距離で、水谷がため息をつき目を伏せた。
ふわっと、吐息が顔にかかった。
「好きな人にそんなふうに言われたら普通ショックを受けるでしょう?」
さりげない台詞は、予期していなかったからこそ胸に響いた。
思わず見返したわたしを水谷がまっすぐに見下ろしてきた。
そっと離された口紅によって、唇が吸い付くようにふるりと揺れた。
だが顎を支える水谷の手は添えられたままで、二人の顔はいまだ近い。
「……本当はこのままキスしたいんですよ?」
わたしは反射的に水谷の手を払っていた。
睨むと、水谷はさらなる強い光をたたえてわたしをきつく見つめ返してきた。
「はっ、舞台の途中で何言ってるの。頭おかしいんじゃない?」
とっさに背を向け、がちゃがちゃと意味もなく化粧ポーチの中身をいじる。必要最低限のものしか入れていないそれを今漁ってみる必要などないのだが、他にこの場を収束させる方法をわたしは見つけられなかった。
「俺、タエさんを好きになってもう十年近いんですよ。おかしくもなりますよ」
「開き直るなっ」
すかさず怒鳴り返したわたしの手はすっかり止まってしまっている。
だが振り向けないでいる。
「タエさんが演じるヒロインと一緒にいると俺の理性の箍は崩れていくんです。俺を弄ぶキャサリンは、まるでタエさんそのもののようだ……」
熱にうかれたかのように語る声は水谷らしくない。
そのことが急に恐ろしく感じた。
「今日もすごくいい舞台になっていますね。タエさんは『あの夏』以来、自分以外の人のために演じている。健気で美しくて……でもそれが俺の心に火をつけるんです。そう、まるでキャサリンに操られる男たちのように……」
背を向けていても水谷の放つ激情の気配はすさまじい。
十年という時間が水谷の内面に恋の病を蔓延させてしまったかのようだった。
「タエさ……」
さらに言い募ろうとした水谷の言葉は、アシスタントの大声で打ち消された。
「そろそろ後半でーす! スタンバってくださーい!」