演じることはやめない
出かけようとしたところでスマホから着信のメロディが鳴った。
『もしもし、タエちゃん?』
「ああ、おはようユイ」
『おはようじゃないよ。それでどうなの?』
「どうなのってなにが」
玄関でスニーカーの靴ひもを縛りながらの適当な話し方は、電話ごしでもユイに伝わっているようだった。
『今日の舞台テストだよ! 大丈夫なの?』
「うん。大丈夫だよ」
自分でも不思議なほどに落ち着いている。
これまでのわたしは、舞台前というと異様に興奮していた。さあやるぞ、さあ見てよ、そう言わんばかりにぎらついていた。ユイいわく、まるで捕食者を前にした肉食獣のように。なのに今はやけに冷静だ。
「ユイ、わたし頑張るよ」
『そ、そう?』
顔が見えない分、わたしの真意を量りかねてユイが動揺している。
それにわたしは思わず小さく笑った。
「あのね。もしも今日合格しなくても、わたしは演じることを絶対にやめないから。どんな役だっていい、ずっとずっと演じる。そうトシと約束したんだ。だからコンクールは絶対に観に来てね」
『タエちゃん……?』
「ごめん、もう行かなくちゃいけないから。またあとで電話する」
少しの悲哀を振り切るように電話を切り、わたしは勢いよく立ち上がった。
ドアを開けた向こう、外はいつものように夏そのものだった。
じりじりと皮膚が焼け付くように暑くて、太陽はまぶしくて。空はいつものように高く澄んでいて、少し湿った空気は潮の香りがして。何もかもが昨日までと同じ夏だった。
*
今日も今日とて蒸し暑い部室にはすでにすべての部員が集まっていた。しかも入室した途端、全員の視線を向けられたものだから少し照れくさくなった。
「おっはよー」
努めていつもどおりに大きく片手をあげて挨拶すると、大半はあからさまにほっとして「おはよ」「おっす」と挨拶を返してくれた。
「タエ先輩!」
たたっと駆け寄ってきたのは鈴村さんだ。
「今日頑張ってくださいね」
純真な瞳で見つめられ、わたしもまた素直に鈴村さんの気持ちを受け止めうなずいてみせた。
「うん、頑張るね」
「先輩」
後ろからのっそりと現れたのは水谷だ。すでに長髪ポニーテールのかつらと着物を身に着け、帯刀までして準備万端だ。ただその表情は幾分か心配げだった。
わたしはにかっと笑ってみせた。
「さ、これから先輩の底力見せてやるからね。覚悟してな」
水谷は一瞬あっけにとられていたが、ややするとふっと顔を綻ばせた。
「はい。俺、先輩のお夏と演じるのを楽しみにしてました」
「へへっ。任せて!」
ピースサインをしてみせると、より一層水谷の顔が和らいだ。
「お、なんか可愛い」
「は?」
「水谷さあ、いっつもそういう顔してればいいじゃん」
「な、何ですか突然」
うっと唸りながら背をそらせた水谷の顔がやや赤らんでいる。
「ほら、そういうふうに笑ったり驚いたりする水谷のほうが可愛げがあっていいよ?」
わたしたちの一部始終を見守っていた部員たちが、これに揃って笑い声をあげた。
「もう、皆さんもやめてくださいよ!」
水谷の抗議は余計にこの場の笑いを増幅させただけだった。
ひとしきり笑い合っていると、金子がいつものタンクトップと鉢巻き姿でわたしの前に現れた。ただしいつも以上にぴっちりとしたタンクトップと、いつも以上にきつくねじった鉢巻だ。それは金子の今日の本気度を証明している。
「じゃ、テスト始めるぞ」
それにわたしは着ていたパーカーをおもむろに脱いでみせた。強く叩いた胸元、Tシャツに縦に大きく書かれているのは当然、『演劇命』の合言葉だ。
「おうよ、どんとこい!」
次話から最終章です。