4.ありがとう……愛している
わたしたちは燃え盛る二対の太陽のようだった。
この宇宙には太陽は一つしかない。
なのにここには同じような二人がいる。
この世に一つの存在が二つあること自体が世界のひずみなのだろう。
だけどわたしはこれを奇跡と呼びたい。
絶対に出会うことのない二人が出会い恋をする、これ以上の奇跡はないだろう。
二対の太陽は溶かし合い、混じり合い、そして一つになった。
二つは離れても一つだった。
たとえ離れても二つは一つだった。
*
水平線の方は夜のベールで覆われたままだが、正反対は薄明るくなってきている。
ちち、と早起きの鳥が囀った。
「そろそろ朝だね……」
「うん……」
トシに背中から包み込まれながら、わたしは座り海を眺めている。
「わたし、実は夜の海が好きで嫌いなんだ」
「好きで嫌い?」
二人の声はややかすれている。昨日丸一日演じ続けて声を出し続けたせいでもあり、その後一晩中起きていたせいでもある。だけど不思議と疲れは感じなかった。トシに触れることでわたしの中に際限なく活力が蘇るから。
「うん。夜の海は底無しのようで怖くなる。そこから何か得体の知れない生き物が現れるんじゃないかって想像しちゃうんだ」
「それでも好きなの?」
「うん……。海の無限とも思える深さがさ、なぜかわたしを無条件で包み込んでくれる温かな存在に思えるときがあるんだよね。どうしてだろうね。でもどっちも同じ海なんだよね……」
今目の前に見える海はそのどちらとも違う。
小さな星のかけらを散りばめたかのように、控えめに水面が輝いている。
「トシもきっとそうだよね。わたしもきっとそう。誰にでもさ、そういういろんな自分がいるんだろうね」
朝と昼と夜と。
この数日でわたしは海のいろんな面を知ることができた。
わたしはわたし自身のいろんな面を知ることができた。
「……わたし、今でも自分を丸ごと好きだとは思えないんだ。だけどトシに好きになってもらえた自分は大好き。トシが触れてくれたところ、体の隅から隅までが愛おしい。トシに愛してもらった自分が誇らしい。そういうのって変かな?」
「変じゃない。誇ればいい。それと僕はタエさんのすべてが好きだよ。それをきっと忘れないで。そうすればタエさんは自分のすべてを受け入れられるようになる」
忘れないで、そう言ったトシの声音にわたしは不穏な空気を察した。
「何それ。まるで今すぐいなくなっちゃうみたいな声だして」
馬鹿言わないで、そう言いながら振り返り、トシの表情を認めたとたん。
「…………そうなの?」
分かってしまった。
潤んだ瞳で、こらえきれない表情でわたしを見つめるトシの様子に――分かってしまった。
「タエさんは僕のこと全部好き?」
「もちろんっ! もちろんだよ!」
間髪入れずに答えると、トシの眉がやや下がった。
「よかった。じゃあ……タエさんのここに僕を置いていっていい?」
とん、と人差し指で心臓の付近を押された。
「初めて会った日に僕が言ったこと覚えている? 僕はここにすべてを置いていきたいって言ったこと……覚えている?」
「お……覚えてる」
触れるトシの人差し指から、何かが体内に流れてくるようだった。
「僕はきっと真の武士、真の男になってみせる。そのためには何でもする。そしてタエさんはここで本物の役者になるんだ。そうやって二人して自分の道を踏み外さなければ……」
トシが笑ってみせた。
「そしたら僕たち、違う世界に生きていても一緒だよね……?」
わたしはたまらずトシに抱きついた。
「一緒だよ。絶対に一緒だよ。だってもうわたしたちの心は繋がっている。わたしとトシは繋がっている。けっして切れない運命の糸で繋がっている!」
「……運命の糸かあ」
はあっとトシがため息をついた。
「本当に……そういうものがあるといいね」
その声には拭いきれない悲しみがしみ込んでいた。
「何言ってるの。トシが言ったんだよ? これは運命の恋で唯一無二の恋だって、そう言ったのはトシだよ?」
「僕は……怖い」
トシがぽつりと言った。
「元いた時代に戻ってタエさんとの絆を失うのがすごく怖いんだ。怖くて怖くてたまらないんだ……」
じゃあここにずっといればいいじゃん。
そう言いたいのをぐっと堪えた。
トシが本当に望んでいる言葉はそうじゃないと分かっているから。
「きっと……きっと大丈夫だよ」
抱きしめる腕に力を込める。
「たとえばさ、もしもトシがあっちに行ってわたしのことを忘れても」
びくりと大きく震えたトシの体を、わたしは柔らかく包み直した。
「わたしは絶対に忘れない。トシのことはここにいるわたしが絶対に忘れない。わたしが忘れない限りこの絆は決して切れない。……わたし、ずっとトシのことを想ってる。トシといつか再会できる時まで、絶対、絶対に忘れないから」
「迷惑じゃない?」
「迷惑じゃない」
「重くは……ない?」
「重いよ、重いに決まってるじゃん」
わたしの涙腺は限界だった。
「わたしたちの絆は運命なんだよ? 重いに決まってるじゃん」
頬にぽたんと涙が落ちたのを感じた。
わたしを抱きしめ、トシもまた涙を流していた。
「ごめん、タエさん一人にこんな重いものを背負わせてしまうなんて。僕はどうしたらいい? どうすればいい?」
「どうもしなくていいんだよ。トシはトシのままでいればいい。トシはきっと真の武士になるために頑張ってくれるでしょ。それが二人の絆を確かめるってことになるんだよ。そうでしょ?」
「ああ……タエさんにはかなわないや」
くすりと笑う声がした。
「そうやって僕のことを信じてくれる人がいる限り、僕は自分の信念を曲げることはないんだと思う。……いいや、絶対に曲げない」
「そうだよ。そして自分のことを信じて。トシはきっとやれる。大丈夫、トシはきっと武士になれる」
トシがそっとわたしの体から離れた。
「……タエさんは僕の未来を知っているんだよね?」
その質問は突然すぎて、表情を隠すこともごまかすこともできなかった。
だけどトシはそんなわたしを見てふわりとほほ笑んだだけだった。
そして泡が儚くはじけるかのように――突然消えた。
「ありがとう……愛している」
言葉一つを残して、トシは幻のようにわたしの前から姿を消した。
アパートの部屋に置きっぱなしだった刀も着物も、トシがいた痕跡はこの世界から跡形もなく消え失せていた。




